初夏の彩り

* 初夏

会津の初夏を彩る花は、何と言っても桐の花だと思っています。
会津とは切っても切れない縁のある「桐」。
かつての栄光は陰をひそめても、まだまだ会津にとってはもっとも身近な木なのであります。
私の姉が生まれたとき、両親は姉のために何本かの桐の苗木を植えました。
時代が変わり、姉の嫁ぐ頃には成長した桐の木で嫁入り道具を製作する風習はすたれてしまいましたが、
裏山にはそのときの桐の木がいまだに成長を続けています。
そして、今年もひそやかに薄紫色の花を咲かせていました。

只見川沿いを走ると、桐の花が途切れることなく私たちの眼を楽しませてくれます。
梅雨前のさわやかな季節に控えめな薄紫の色を添えて、会津の初夏の風景をこころに刻み込んでくれるかのようです。



恋人坂の棚田の上部に、一本の桐の木が五月の空に枝を伸ばしていました。
広々とした棚田に、一本だけ空を目指している桐の木。
どなたが植えたのかは存じませんが、あるいは私の姉の木と同様の小さな物語を秘めているのかもしれませんね。
ともあれ、「恋人坂の一本桐」も飯豊の山塊を背景に小さな花をたくさん咲かせていました。
私は桐の木の下にたたずんで、風に揺れる薄紫を見上げています。

「ああっ、もう夏なんだなあ・・・」
いつの間にか季節の間は過ぎ去っていて、夏のパラソルの下に入っていることに気がつきました。

つばめは棚田の起伏に沿って、波のように飛んでいます。

季節のはざま

長い冬が終わって雪解けのせせらぎに微笑んでいたら、優しい風が吹いて花咲く季節になり、いつの間にか生命の季節「新緑の日々」を迎えていました。

残雪の飯豊山がとても美しい会津喜多方です。
恋人坂の高みから盆地を見下ろすと、そこにはたくさんの水の鏡ができていました。
天を写す水の鏡、そうです今年もたくさんの稲田が植え付けの季節を迎えていました。
丁寧に土が起こされ、水を満たされた稲田が盆地の大半を水鏡に変えています。
ほとんどの水田には頭をちょっとだけ出した稲苗が不安そうに風に揺れていました。
遠く飯豊の山塊には残雪が輝いています。
水鏡の上をつばくろが高く、低く飛び交って、幾千年も繰り返されてきた風景に動きを与えています。
やわらかい風が頬をなぶっていきます。
私は恋人坂の高みに腰を下ろして、眼下の光景に見入っていました。


春から初夏へのはざまの中に、いったいいくつの美しい景色を見つけることができるのでしょうか?


  • 五月の貴公子

川の土手道を行くと、おりしも里桜の花の散り際でした。
はらはらと、はらはらとうす桃色の花びらがあとからあとから絶え間なく降ってきます。
土手の小径は薄いピンクに敷き詰められ、その上を歩く私はまるで王様のよう。
とても豪華な気分でした。
ふと、萩原朔太郎の詩が頭をよぎります。
「若草の上を歩いているとき、私は五月の貴公子である。」
若草の季節を愛した詩人ほどではないのですが、花びらを敷き詰めた小径を歩いていると、
私もおとぎの国の王様になったような、そんな気がして笑みがこぼれてしまいました。
頭上には桜の老木たちが差し出す若葉のトンネルがありました。
きらきらと木漏れ陽がきれいです。
私は生命の季節の中を歩いていきます。
顔を上げて緑の季節を歩いていきます。



  • 小さな庭にて

先日の日曜日、遅い朝に部屋の窓を開けると、とたんに甘い香りが押し寄せてきました。
藤の花です。
我が家の長老、白藤の花が満開の時を迎えていました。
80年以上もこの庭にいきており、
かつては藤棚もあって、小さい私は木登りの練習を重ねた藤の木でもありました。
あまりにも大きくなるので、父が小さくまとめ、格好よく駐車場の上に張り出してあります。
今年もきれいに咲いてくれたなあ・・・
白藤を見上げる父や祖母の姿を思い出します。
日ごろはあることすら忘れている樹木ですが、こうして一年に一度、思わぬ感慨を思い起こさせてくれる花です。
私はしばし、藤の香りにぼんやりとたたずんでいました。


休日の窓を開くれば白藤の 香り満ちたり亡父(ちち)のいた庭

白い日々

tamon-wat2006-01-19

冬とは思えぬ暖かい雨が降り、少しだけ雪を溶かしたかと思っていたら、さすがに寒中の空、瞬く間に厳しい寒さに逆戻り、いつものように雪を降らしています。
もっとも雪降る日々こそ冬らしく思えて、なんだか落ち着くのですから雪国の人のこころは不思議でもあります。
今日も一日中雪が降ったり止んだり。
ときおり青空も顔を出したり、かと思うと横殴りの雪になっていたり。
若松は青空で、塩川から北が雪だったとのこと。
まあ、いつもの気まぐれ雪だわいとスタジオから見ていました。
ところで、1月4日から新生喜多方市ということになっています。
人口58,000人の新喜多方市なのですが、特段変わったことはというと、天気予報で熱塩加納村山都町、・・・なんて言っていたのが、喜多方市北部とか西部とか、なんだかいまだに板につきません。
住民の皆様も戸惑いの様子が見て取れ、落ち着くまではまだ少々時間がかかりそうです。

明日はもう「大寒」です。
一年でもっとも寒い日々なのですが、七十二候では七十候目の「ふきのとう花咲く」ということになり、つまりは立春まであとわずかだということになりますね。
「冬来たりなば春遠からじ」
真っ白な喜多方ですが、こころに余裕をもって厳冬期の毎日を楽しむことといたしましょう。
その気になってまわりを見渡せば、吹雪の止んだあとの静寂さ、一瞬見えた青空、朝日に輝く樹氷、田んぼに積もった雪の風紋、街灯に浮かぶ粉雪、新雪の上の足跡。
そして、降る雪の先に見え出した我が家の暖かい灯り。
みんなみんなこの季節でなくては味わえない風情ですね。
そう、雪を楽しむこと、あなたの得意なことだったのではありませんか?


  「餅花の 枝切りにゆく 雪のなか」

  • マフラー

先日のこと。
久しぶりのスーツに鏡に向かってカシミアのマフラーをまきました。
鏡の中の中年を見つめていたら、だんだんと若やいだ姿になってきて、いつのまにかオレンジ色のはでやかなマフラーをまいている若き日の私が立っていました。

19歳の冬、初めてもらった手編みのマフラー。
黒いオーバーに似合うようにと、あの人が一生懸命編んでくれていた姿が浮かんできます。
「はい、」と渡されたときの嬉しさとか気恥ずかしさとか、いまでも覚えているのは不思議です。
東北とは異なって、東京での生活には大仰すぎるようなマフラーでした。
それでも、
19歳の私は、その派手やかなマフラーを使い続けることが彼女の気持ちにこたえることだと、そう思い込んで一冬を使い続けたのでした。

彼女との歩みは消えてしまいましたが、あのマフラーは捨てきれずに、たぶん今でも押入れの片隅で眠り続けているはずです。
もはや使うことのないマフラーですが、何年かに一度、こうして私の思い出の中によみがえり、首筋ではなくこころをそっと暖めてくれるのです。
派手やかなオレンジ色のマフラーは、何十年も私を暖めてくれる魔法のマフラーなのかもしれません。


  • 腰痛注意報発令中

今朝スタジオにやってきた友人のSさん。
連日の雪かきで身体の節々が痛くてしようが無いとのこと。
無理もない状況です。
聞けばたいていの人が「実は、私も・・・」と痛みを漏らすのです。
重い雪のために腰痛を訴える人の多いこと多いこと。
かくして、雪かきによる腰痛注意報をラジオで報道しようかしらん。
ご自愛を・・・

年の暮れ

tamon-wat2005-12-30

久方ぶりに青空が続きました。
高速道路は県外車の波、波、波。
磐越道に入ると、スキーを積んだ県外車と積んでいない県外車との割合は5:5。
積んでいない車を抜き去るたびに「お帰りなさい」とこころの中で呼びかけていました。
長いトンネルを抜けると、懐かしい故郷の山。
今日の磐梯山は陽に映えてとても美しかったのです。
きっと、たくさんの車のなかでは小さな歓声がいっぱい上がっていたことでしょうね。
そして、今夜あたりから早速懐かしい顔同士で湯気を囲んで楽しいひとときが出現しているはずです。
故郷の山を、幼馴染を、そして懐かしい味を堪能していってください。
真っ白な故郷は変わらずにあなたを迎えることでしょう。


  • しょっぱい塩引き鮭

今夜の食卓に出てきたのは、あの懐かしいしょっぱい塩鮭の切り身でした。
子供のときには「塩引き」といえばこれしかなかったくらい、とってもしょっぱい、塩気の強い塩鮭が普通でした。
塩気は健康に悪いから・・・なんて理屈が大手を振って歩いています。
だけど、子供の頃からなじんだしょっぱさは捨てられません。
ようやく口にできました。
「ううっ、しょっぺえ!」
顔はゆがんでいますが、気持ちは最高です。
「身体に悪い・・・」なんてことはどっかに吹っ飛ばして、夢中で二杯のご飯を食べました。
おまけに、半分残った切り身にお茶を注いで、しょっぱいスープも飲んじゃいました。
これだわい!
小さな幸せはこんなところにもあったのです。
ご馳走様でした!!




  • 過ぎ行く年に

短いようで長い一年という時間。
あなたはどんな一年を過ごしたのでしょうか?
手ごたえのあった時間を過ごした方、
思うようにはいかなくて来るべき新年にあらためて期する方。


私の一年は充実していたと、そう感じています。
いや、
そう思いたいのかな?
嬉しいこともたくさんありました。
悲しいことだって、やっぱりたくさん・・・
ともあれ私のアルバムは一杯になりました。
生きてきたなあと思えるほど。


たくさんの人生の一年が今通り過ぎようとしています。
楽しくとも、悲しくとも、私たちの旅は続いていきます。
この先にいったい何が待っているのでしょうか?
わからないからこそ前へ進めるのかもしれません。
私も、
積み重ねてきたたくさんの一年を土台にして、新しい年を迎えようと思っています。
胸の中で小さく明かりを灯し続けている夢へ向かって、また歩いていこうと思っています。


願わくは、あなたの迎える明日にも燦々たる陽のひかりが差しますことを・・・
こころからお祈りを申し上げて、この年のお別れといたします。


ちょっと早めのおやすみなさい。
そして、
良い年が訪れますように・・・

      中島みゆきヘッドライト・テールライト」を聴きながら

師走の大雪

tamon-wat2005-12-23

北極が呼吸をするたびに日本列島が寒さに震えています。
喜多方の今日現在の積雪は約70CM。
雪には慣れている会津でも驚くような師走の大雪です。
まして雪には不慣れな西国では大混乱もいたしかたなしと、名古屋の積雪23CMのニュースを気の毒に見ていました。
しかし、気の毒なのは西日本の人達だけではなくて、このわが身にもとんでもない「気の毒」状態が襲ってきたのです。
昨日の朝は局への通勤途上、あちこちで車が雪に突っ込んでいるのを目撃しました。
道路と田んぼや畑との境目がまったくわからなくなるための事故です。
雪道に慣れた会津人でもこうなのですから、事故をみるたびに気を引き締めて地吹雪のなかを進みました。
放送の最中もスタジオから雪の暴れる様が見えていました。
見る見るうちに積もっていくのが見えます。
玄関を入ってくる顔はみんながみんなゆがんでいました。
若松から3時間もかかったというスタッフもいて、こりゃ帰りが心配だなあ・・・。
午後4時。
早めに局を出ました。高速道路は当然閉鎖です。
真っ白な一般道をひたすら東へ。磐梯町あたりから猛吹雪です。
猪苗代に入りました。
国道49号に出る道に入った途端、車の列は動かなくなりました。
・・・
・・・
・・・
車も揺れるほどの風雪のなかでどんどんと時間ばかりが過ぎていきます。
私は少しあせりだしました。
ガソリンの残量が気になります。吹雪の中の大渋滞で気をつけなければならないこと。
それはガソリンが十分にあるかどうかです。
生き死にに関わってくる問題です。
向こうに見えているガソリンスタンドまでいったいどのくらいでたどり着けるのでしょうか?
・・・・・・
・・・・・・
・・・・・・
いっこうに動かない車の中で私は明確にあせっていました。
歩いてスタンドまで行こうとも思いました。
でも数百メートルの距離が普通の状態ではありません。
自分の見通しの甘さを後悔していました。
プルプルプル・・
そのとき携帯が音をたてました。
友人からの電話でした。
「いま、どこにいるんだい?雪はどうだい?」
聴きなれた声にすっと落ち着きを取り戻しました。
「いやあ、ひどいわ。郡山へ着くまであと3時間くらいかかるかも・・・」
「そうかい、気をつけて行けよ。」
短い会話で落ち着きを取り戻した私。
ええい、あせってもしかたあるめいとシートを倒して眼をつむりました。
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
数百メートルを3時間。
やっとスタンドに到着です。
長蛇の列でした。
暖かい飲み物をおなかに入れると、やっと元気が出てきました。
ノロノロと動きだした車列は自速30KMくらいで進んでいきます。
中山峠を越え、熱海の街を抜けて、ようやくスムーズに走ることができました。
目的地の郡山に着いたのは何と9時を過ぎていました。
喜多方を出たのは4時でしたから、郡山まで5時間もかかったわけです。
さんざんな目にあいましたが、雪国だからしょうがないかと、ため息をひとつついてあきらめました。
雪のあるなしは大変な差ですが、それを一律に同じ暮らしや経済活動をしようというのがどだい無理な話なのです。
雪国には雪国に似合った暮らしがあります。
自然に従って生きていく大切さをけっして忘れてはいけないと、
雪のなかでも暮らしていける生活スタイルを見つける必要があると、
降り止まぬ雪を見上げてそんなことを考えていました。

いやあ、それにしても疲れましたわい・・・



  • 吹雪の止んだ下三宮です。綿帽子のような屋根になっていました。

番外編 「鞍馬越え」

tamon-wat2005-12-19

NHK大河番組「義経」に触発されてというわけではありませんが、洛北の霊山「鞍馬山」にお参りしてまいりました。
鞍馬山は歴史、文学、芸術、自然の山ですが、とりわけ信仰の山であることご存知のことでしょう。
信仰の中心は「尊天信仰」。
宗派にこだわらぬおおらかさで山内は尊天の活力が満ち満ちているのです。
座禅を組む人、念仏を唱える人、祝詞をあげる人、ヨガをする人・・・。
各人各様に、それぞれが信ずる方法で尊天の霊気をあびています。
私もそんな修行者や観光客に混じって、仁王門から八丁七曲がりの九十九折参道を登り始めました。
多分義経も登った参道だから、尊天の活力を頂くのだから、と自分に言い聞かせて一歩一歩
足を運びました。
たちまち日ごろの不摂生が足を重く感じさせます。
由岐神社あたりでもう汗が出てきました。
高さにしてまだ50mくらいしか登ってはいないのにこの様です。
本殿金堂までの九十九折の道はやたら長く感じていました。
汗を拭き拭き本殿を参拝し、いよいよ背後にそびえる奥の院へと進みます。
実はここからが今回の旅の目的のひとつでもありました。
30年以上も前、若かりし私は本殿まで登ったにもかかわらず、この奥の院までは足を伸ばすことなく、後ろ髪を引かれる思いで「次に来たときには・・・」と思いつつ去った山頂だったのです。
「次に・・・」の機会まで30年の長きを要しました。
今度こそ奥の院に詣で、義経が名残を惜しんだという「背比べ石」に触れ、魔王殿に参拝して貴船口に降りるという念願の「鞍馬越え」に挑戦できます。
うっそうとした老杉の山道を静かに登っていきます。
いつしか苦しさは消え、一種のクライマーズハイの状態になっていました。
息継ぎの水を過ぎ、沈黙のなかを進みます。
木の根道を一歩一歩詰めていくと、突然馬の背に出ました。
貴船道の最高地点でした。
傍らに義経の背比べ石が立っています。
存外小さなその石に掌を当てると、石はひんやりと押し返してきます。
少しの間伝説の名将や「征伐された東北の民」に思いをはせて、私はまた歩き始めました。
今度はすべて下りです。
下りの気楽さもあって、行きかう人に自然と声をかけていました。
「こんにちは」
わかってはいるのです。登りで息を切らしている人は返事をするのも大変なんです。
でも、ごめんなさい。嬉しさについ声を発していました。
魔王殿を過ぎると急勾配の木の根道が続いています。
高度を下げていくと、だんだんと紅葉が現れてきました。
貴船の紅葉です。
笑い始めた膝を気にしながら、ずんずんと下っていきました。
西門を出て橋を渡ると、そこはもう貴船です。
水の神様にご挨拶をして、谷あいを見渡せる東屋に腰を下ろしました。
夏であれば、さぞやにぎわっていることでしょう、眼下の川には有名な川床もなく、静かに加茂川の源流が紅葉を写していました。
私は30年もかかった念願の鞍馬越えを果たし、満足の息を続けていました。
紅葉の向こうに30年前の仲間の姿も浮かんでいます。
やがていつか、
永遠の時の流れに還っていけば、懐かしい人達にも再び逢えるのでしょう。
そんな日が来るまでは、
私も一所懸命に水をかいて、泣き笑いを繰り返していきましょう。
それだって、とても楽しくてしかたがないのです。
生きていること、すばらしいこと、鞍馬の山にあらためて教えていただきました。


  • 写真は貴船から見た鞍馬の山塊です。標高が高いせいか市内よりは紅葉も進んでいました。

番外編 「京都・奈良の旅」 東福寺を歩く

tamon-wat2005-12-14

番外編第二段は、京都を代表する紅葉の名所「東福寺」に足を向けてみました。
東福寺。奈良東大寺興福寺とから一字ずつを頂いてつけられた寺名です。
東山連峰の南の端に位置しますが、交通の便が非常に良いので紅葉の季節には芋洗う観光客でにぎわう名所ですね。
「混む」ということがずっと頭にあったせいか、紅葉時のこの寺に足を向けたこたはありませんでした。
過去何度かの探訪はいずれも青葉の季節でしたが、青葉であってさえも巨大な建造物と調和がとれた美しさで境内で過ごした時間の多さは他所にもひけはとりませんでした。


いよいよ、東福寺の最高の季節に訪れることとなりました。
JR奈良線東福寺駅」(京阪電鉄も同じ駅です。)を出ると、はやくも人の波また波。
午前8時30分だというのにこの人出です。
境内にたどり着くまでに15分くらいはかかったでしょうか。
善男善女が続々と続いていきます。
臥雲橋あたりで、もはや渋滞。この橋から見る通天橋の見事さに誰もが小さな歓声を上げています。日下門から境内に入りました。正面に本堂の大伽藍。
私を圧倒してきます。
大迫力のこの本堂は昭和初期の再建ですが、隣の国宝「三門」に比しても勝るとも劣らない現代建築の精粋を表しています。私の大好きな建築物なのです。
平安末期に創建されたこの巨大な寺院には、その他にも平家六波羅第の遺構を移したとされる六波羅門や室町時代の「東司」(お手洗い)、浴室(蒸し風呂)、わが国最古最大の禅堂など、興味の尽きることはないくらい見るべきものは多いお寺です。


境内を一回りして、ついに錦秋の「通天橋」に向かいました。
ものすごい観光客です。
整理のロープを順に通って、通天橋に通ずる回廊に入りました。
廊下の両側は、もはや真っ赤に染まっています。
楓、楓、楓。
回廊の古色の柱を額縁に、たくさんの楓の木々が微妙に色を変えて華やかな絵画のようです。
たくさんの観光客も気になりません。
私も何枚かこころのシャッターを切っていました。
通天橋です。
洗玉澗と名付けられた渓谷に掛かった「通天橋」。
見渡すかぎりの紅い雲。
なるほど紅い雲の上を、天に向かって歩いているような、そんな気持ちにもなりますね。
緑の季節には味わえない気持ちでした。
橋の中ほどに風景を愛でる観月台のようなふくらみがあります。
通天橋の絶景ポイントです。
ここはもうまさしくトラフィックジャムの中心。
おおきく渦巻いて流れに逆らうわけにはいきません。
定めに身を任せていると、ポッと最前列に出ていました。
絶景です。
なるほど京都随一といわれる景色です。
今年の京都の紅葉は色付きが悪い。いったい誰がいったのでしょう。
眼前には鮮やかな紅の錦絵が広がっていました。
紅の雲の中にわが身を投じてしまいたいような、そんな衝動すら感じていました。
目の前にある夢の世界へ、いつまでも止まっていたい・・・
そんな思いも、背中にかかるたくさんの人の圧力に負けてしまって私はまた定めに身をまかせていました。


満足でした。
続々と押し寄せる観光客の波とすれ違いながら、私は夢のつづきの中にいました。
800年の時間と話をしていたのかもしれません。


駅に着いてハッと我に返りました。
私は「四条京阪」までの切符を手にすると、現実の空間に向かって電車に乗り込みました。



会津に関わりを持つ人の眼で見ると、この東福寺には見逃せない歴史があります。
それは「戊辰戦争」です。
東福寺境内には「戊辰役殉難者慰霊碑」が建っています。
会津人が「戊辰戦争・・・」と見聞きすれば、すなわち敗者としての東軍の立場に立ってのもの。
東福寺境内の「戊辰殉難者・・」にもすぐさま反応してしまいますが、ここの「殉難者」は
残念ながら「西軍」の人々です。
鳥羽伏見の戦いにおいて薩摩・長州を中心とした「西軍」の本陣が置かれたのがここ東福寺です。
ゆえに、会津人はうっちゃりを喰らったように感じてしまうのです。
私も例外ではなく、東福寺は大好きな場所ではありますが、ただこの一点のみ、苦虫をかみつぶしてしまうのです。

やはり、戊辰役の怨念は、会津人や奥羽列藩同盟殉難者、それに西南役の薩摩人とともに、靖国神社に合祀されるまでは続くのだということ、私が断言しておきましょう。



東福寺に限らず、京都では朝が大事です。
早起きをして開門と同時に鑑賞すること。ハイシーズンの鉄則ですぞ!

  • 京都。多聞の美味しいお勧めは・・・

「鍵善義房」の「くずきり」。
寒かろうが暑かろうが、私はいつでもこの店のくずきりをいただきます。
吉野の本葛と黒糖蜜とがかもし出すハーモニー。若かりし頃より京都ではこれと決めています。お店の奥にこぎれいなカフェスタイルの喫茶ができていました。
その昔は四条通りに面したお店の二階で頂いたもんですが、ちょっと洒落ていていいですね。900円。