『犬神家の一族』(1976年版)を観た。

ダークナイト ライジング』に触発されて、マスクマンつながりで(?)
犬神家の一族』(1976年版)を観ました。
・・・少々こじつけですが。

最初に印象的だったのが、タイトルとそれに続いてメインテーマをバックに
映し出される黒地に白文字のテロップ。
デカい明朝体が規則的に不規則に並んで、ときに横書き、ときに縦書き、
果てはL型に、つい次に来る文字配置のデザインを期待して惹きつけられる
斬新なタイポグラフィに、驚きました。
のちに『エヴァンゲリオン』、『古畑任三郎』にも影響を及ぼしたという
この文字のデザインは、一種研究本ともいうべき「市川崑タイポグラフィ
犬神家の一族』の明朝体研究」(小谷充・著)なる本があるほど。
あのタイトル、テロップは市川崑監督が自ら書体まで考えていたそうで、
画家を志し、アニメーターの経験もあるという市川監督ならではの
こだわりなのでしょう。

余談ですが、印刷屋であった我が父にパワーポイントで作成したプレゼン
資料を見せたことがありましたが、「全部が“見出し”で見づらい」と
けちょんけちょんにダメ出しされました。
タイトルや見出しはゴシック体、本文は明朝体、という印刷業界の基本
からすると、見やすいからという理由で全文ゴシック体を用いていた
おいらのプレゼン資料は、なってない、という風に映ったんでしょう。
ゴシック体は力強く明るい反面、使いすぎると一本調子になりやすい。
(画面全体が黒っぽくなってしまう)
明朝体はゴシック体ほどの力強さはなく、繊細さや一種の哀愁がある。

犬神家の一族』では明朝体をデカデカと使うことで、この作品に流れる
おどろおどろしさを上手く表現しているのではないでしょうか。

音楽もよし。
今作に引き続きの角川映画2作目となった『人間の証明』といい、
大野雄二さんの音楽は、これらの作品の世界観を巧みに表現していて、
素晴らしい。

佐清(すけきよ)、この薄情の人たちに仮面をめくっておやり!」
で有名なシーンもやっと見ることができました。
マスクマンにはついドキドキしてしまうのですが(?)、このマスクを
ペリペリとめくる感じ、どこかで・・・と思っていたら、そうだ!
土曜ワイド劇場でやってた、明智小五郎が変装マスクを取るシーン!!
べっとり貼りついてるのをめくると、中から端正なマスクの天地茂さんが
出てくる、アレですよ。
って、アラフォー以上の世代じゃないとわかりませんね。失礼。
いやぁ、幼き頃のトラウマ、もとい、刷り込みってのは実に強力です。

今回見ていて改めて思ったのが、地井武男さんの声。いい声ですね。
すぐに出番がなくなっちゃいましたけど。菊人形の上に鎮座まします
地井さんの顔は、地井さんに見えませんでしたけどね。
声と言えば、石坂浩二さんも聞き取りやすい声でよかったなぁ。

ミスディレクションさせようと事あるごとに猿蔵をちらつかせるのが
ちとあざとい演出に思えてしまいましたが、その他にもちょっと納得
いかない部分がいくつか。
小夜子からプレッシャーをかけられた野々宮珠世が部屋に戻った際、
兵隊さん姿の男がいて、珠世を押しのけて逃走しました。
・・・このシーン、要る?
その直後、佐清(とおぼしき人物)が殴られたとかで気を失い倒れて
・・・このシーンも、要る?
佐智が亡くなった夜、中座のあと琴の練習をする松子の右手人差し指は
傷ひとつなく綺麗な状態でしたけど・・・?
んでまた、あんな見事な瓦屋根にトップライトを作るかねぇ?
青沼静馬が告白するシーン、佐清が存在することを知っているのに
「あんたの大事な佐清さんは、とっくにどっかに消えちまったよ」
と松子にどうして言えたのか? 佐清を殺したのならわかるんだけど。

原作では佐清が頭から湖に突き刺さった、例の格好になることで
“ヨキケス”になって、これで犬神家の家宝である「斧(よき)、
琴(こと)、菊(きく)」が完成で云々という推理になってるんだ
そうですけど、犠牲になったのは佐清じゃないし、逆さまに湖に
投げ落としたのは当の本人だし、家宝の祟りにこじつけてたのは
静馬であって佐清が思いついて実行したとはとても考えにくいし、
この推理部分のカットは正解では。

坂口良子さんがいい味出してましたねぇ。
「生卵」と「食べなさい食べなさい」のくだり、面白かった♪

偶然と呼ぶには都合がよすぎる感もありましたけど、見応えのある
良い作品でした。

『ダークナイト ライジング』を観た。

やっぱり前作が前作だったから、観る前から勝手にハードル上げちゃって
本来なら及第点でも物足りなく感じたりするのかなぁなんて、勝手な期待と予防線を
張りつつ観てきました。

いや、素晴らしかった。
前作『ダークナイト』が観終わって言いようのない絶望感を味わせてくれたのに対し、
今作『ダークナイト ライジング』は爽快感と満足感を与えてくれました。
公開2作目の『スターウォーズ 帝国の逆襲』と公開3作目『同 ジェダイの復讐
(現・ジェダイの帰還)』の鑑賞後感とそれぞれちょっと似てる気がします。
ベントの呼吸マスクも、ダース・ヴェイダーのアレと似てなくもないし。
・・・それにしても後から『ジェダイの“帰還”』って言われても、ピンと来ないよねぇ。

前作は狡猾で最狂なのに自分より力的に、というより体力的に弱いジョーカーに対して
手をこまねいている感があり、それを巧くジョーカーが利用していました。
そこが観終わってなおすっきりしない要因の1つになっていたかも。
「奴には勝たせない」ってバットマンは言っていたけれど、ジョーカーは結局
負けてないんだよなぁって思いがどうしても残ってしまう。
無常感といえばいいのか。これが傑作と評される所以でもあるんでしょう。
それに対して。
今作は、体力的にベントに歯が立たず、完膚なきまでに叩きのめされて、これ以上
どうすればいいんだ!?という圧倒的な絶望感に支配されます。
最終的な決着が、どんでん返しが絡んできたことでいまいちあっさりしすぎている
ようにも思えましたけど、いえば正しいクリアの仕方で、スッキリ!できました。
ヒース・レジャーがあまりにはまり役でしたから、ベント役のトム・ハーディ
やりにくい部分もあったんじゃないかと思ったりしてましたけど、タイプが違うし
良かったと思いましたよ。
ただ・・・やっぱり最後がね、泣かせちゃうと心優しいマイク・ベルナルド
思い出しちゃって、そのへんもあっけない感じになった一因かな、と。
でもまあ最後の終わらせ方も、納得いく結末だったんじゃないでしょうか。
ふと、最終回特集かなんかで流れてた「鉄腕アトム」の最終回を思い出したり。
どうも「自動操縦」にこだわってるなぁと思っていたら、そう来たか!

セリーナ・カイル、“キャットウーマン”のアン・ハサウェイもカッコよかった。
目立ったお色気シーンはなかったけど、盗賊でセクシーなコスチュームを身にまとって
敵も味方も翻弄するあたり、海外実写版・峰不二子といっていいぐらい。
ファッション(?)でやってる、女の子の“ネコ耳”にはなんの興味もないんですけど、
ゴーグルを上げたキャットウーマンのネコ耳に見えるシルエットといい、
バットマンのシルエットといい、どうしてあれにヒーロー感を覚えるのかなぁと
不思議に思ってよくよく考えたら、、
わかりました。幼年期の刷り込みが原因でした。
小さい頃、プロレスラーのタイガーマスクを見て、あのピョコンとしたマスクの耳と
ともに熱狂していたのが刷り込まれてたんですね。。
だから同じマスクマン(?)でもスパイダーマンには感じない訳だ、とひとりで
勝手に納得した次第でした。
そのくらい、初代タイガーマスクインパクトありましたもんね。。
以上、まったくの個人的感想で。

若き警官、のちに刑事のジョン・ブレイク役、ジョセフ・ゴードン=レヴィット
良かったですね。
『リバー・ランズ・スルー・イット』でブラッド・ピットと共演した子役が、
こんな立派にゴッサムシティを守ろうと勇敢に立ち向かう青年になっていたとは!
て、自分がどういう立ち位置なのかよくわかりませんが。
そんなジョセフが尊敬する役者、ゲイリー・オールドマンはじめ、マイケル・ケイン
モーガン・フリーマンといった面々はもう画面の中に居てくれるだけで安心できるし。
ド派手なアクションシーンが目を引きますが、やっぱりストーリー、善と悪と
そして情に、葛藤し決断し突き動かされるところも見所のひとつ。

今回は特に「ザ・バット」なる飛行機(ネーミング、安易すぎ)のおかげで動きが
垂直方向にも広がって、ますます迫力が増してました。
空飛ぶビークル「ザ・バット」にかなり助けられた部分もあった気がします。
ストーリー的にも、画的にも。
いやいや、良いCGでした。・・・と思ったら、CGじゃないんですって!?

w(°Д° )w
これはやっぱり、大画面で観なきゃ!

『おおかみこどもの雨と雪』を観た。

スタッフロールとともに流れるアン・サリーさんの歌声に浸りながら、
あーいい映画だったなぁと反芻しつつ満足してにこやかに映画館を出る、
予定だったのですが。

どーしてもひっかかる、自分の中で納得できていない点が1カ所ありました。
それは、

 花は、韮崎のおじいちゃんの前でなぜに笑ったのか?

気にいらん、なぜ笑う!?と韮崎の菅原文太おじいちゃんに咎められてるのに
ふふふ、ははは♪と笑う花。
あそこだけどうしても違和感があって、あれに至る流れでどっか文脈を見落とし
ちゃったかなぁ?
と思うとなんか気になっちゃって気になっちゃって、

で、
結局2回観ることになってしまいました。
(´・ω・`)ぬぅ

そして、やっぱり見落としてました。
見落としてたというより、最初の10分ぐらいの花と彼の会話がすっぽり
記憶から抜け落ちてました。2回目観たら、ああ、こんな話をしてたねぇって
聞いた覚えがうっすらはあったんだけど。
この前提がなけりゃ花はちょっと、いやかなり“おかしな人”、と思われかねない。


□「笑えばなんとかなる」という父親の教えに救われた

彼と出会った花が名前の由来を聞かれたときに、その話が出てきました。
花が生まれたとき、自然に咲いたコスモスを見て父が思いついた名だと。
父は、悲しいこと、辛いことがあったときにとりあえず笑いなさい、
そうすればどうにかなる、と言っていたこと。
だからそんな父が亡くなった時に笑わなきゃと思い、親戚から不謹慎だと
言われたこと。
やっぱり不謹慎だったかなぁとつぶやく花に、彼がきっぱりと
「不謹慎じゃない」
と言い、それを聞いて花が「よかった」と応える。

自分に命と、花という名前を授けてくれた愛する父の教えを大切に
心に刻んで、そうありたいと強く思っている花の姿勢が、冒頭にさらっと
語られていたのでした。
西原理恵子描く『ぼくんち』のかな子姉ちゃんが言う
「泣いたら誰か助けてくれるんか、笑わんかい」
を思い出しました。
FNS27時間テレビでBEGINが明石家さんまさんを歌った
「笑顔のまんま」もそんな歌詞でした。
これは実際にやるのはなかなか難しいけれど、生きていく上で無敵で最高の
武器なんでしょう、きっと。
おそらくなんらかの理由で母親はおらず、父娘の2人で生きてきただろう
その父が亡くなった場で笑うなんてのは、並大抵の決意でできることじゃない。
でも父の遺言ともいうべきことを必死に守ることが、父への弔いだと感じたの
かもしれません。
何かあったら、何かあったときこそ、笑いなさい。

そんな告白を聞いて即座に、きっぱりと「不謹慎じゃない」と言い切った
彼に対し、花は自分とともにその教えを授けてくれた父の存在までも
受け入れてもらえたと、安心とともに彼に対する信頼も大きくなったのでは。

だから雪降る寒空の中、喫茶店の前で人通りがなくなるまで待たされても
彼に対してにっこりと、笑顔を上げて返したんでしょう。
それは、花がもともとそういう性格で意識せずとも実践できた、ということでは
けっしてないはず。
笑顔を上げるまでのほんの少しの間が彼女の心の動きを物語っているし、
彼を失った失意の中で花が免許証の中の彼に「がんばる」と笑顔で語りかける
シーンは、それでも愛する人との約束を守るんだと心に誓って、必死に
立ち上がろうとする花の弱さと強さを、短いですがきちんと描いています。
ま、そういう意味では花は、強い。

それにしても、彼を失うシーンは惨かったですね。。
おとぎ話のような本作において「オオカミオトコ」は一種のファンタジーですが、
それは“通常”では受け入れがたい存在のメタファーであり、“通常”というのは
そのときの状況によって変わります。
小さなコミュニティにおいては違うコミュニティから来た「よそ者」であり、
それは肌の色の異なる「外国人」であったり、「同和問題」であったり、
生まれてきた子供には何の罪もないのに、戦後間もなく進駐軍兵士との間に
できた子が褐色の肌だったというだけで、ダウン症であったというだけで、
“通常ではない”とされて奇異の目で見られて疎外され、迫害を受けてしまう。
昔、鴻上尚史さんが『恋愛王』というエッセイで、映画『ザ・フライ』を評して
愛する人が蠅男という奇形になっても、貴方は変わらず愛し続けられるか?」
という究極の愛を迫られる映画だと語っていたのを思い出しました。
だからオオカミ姿の彼を花が受け入れ結ばれるシーン、あれはどうしても
細田監督が描きたかった、意味あるシーンだったんだと思います。
観る側にとってはかなり強烈なシーンでしたけどね。

花はある覚悟をもって“オオカミオトコ”の彼を受け入れ、でもそれは例えば
死んでしまえば人としてではなく、ゴミ袋に入れられてゴミ収集車で運ばれる、
“モノ”として扱われ葬り去られる存在なのだということを衝撃的に
嫌というほど思い知らされ叩きのめされる、あのシーン。
ひとたび見つかってしまえば、“通常”のルールから逃れることができない。
ゴミ処理車を前にして、なす術無く雨の中崩れ落ちるしかない花。

オオカミの姿を見られたら抗えない“通常”のルールによって排除されるかも
しれない、だから自然分娩という険しい道を選ぶ訳ですが、、
映画『玄牝(げんぴん)』を見てもなお、まして専門家の立ち会いなしに
自然分娩で出産することが、どのくらい危険で勇気のいることかと思う。
さらに花ひとりで子育てする中で、雪がシリカゲルを口にして嘔吐する
シーン。あれもシビアでせつない。小児科に連れていけばいいのか、
動物病院がいいのか、そもそもオオカミであることがバレたら処分されるかも
しれない、でも今苦しんでいる雪を助けなければ死んでしまうかもしれない。
・・・本来なら大変な場面、でも観た2回とも笑いが起きていて、実際
おいらも笑ってしまいましたけど、でもこれ、本当なら母親にとって
シャレにならない状況ですよね。

そんな状況をかいくぐってくると、親の願いはただひとつ、
「とにかく元気に生きてちょうだい」ということしかなくなるでしょう。
おいらの知り合いも子供の頃小児ぜんそくがひどく、しょっちゅう病院通いしてて
後に親御さんから
「贅沢は言わない、とにかくこの子が元気で生きていてくれればいい」
とただただそれだけを願っていた、と聞いたときは感謝で言葉がなかったよ、、
と語っていました。
だから花に対して「子供のしつけがなってない」なんて感想は、ちと違うんじゃないか。
ただ、2人の子供が無事に大きく育つことを願い、田舎で苦労しながらも
笑顔で乗り切ろうとがんばった花。
その花を見て、捨て置けなくなったのが韮沢のおじいちゃんで、いえば
アルプスの少女ハイジ』のアルムおんじのような、気難しく頑固そうな
韮沢の文太おじいちゃんがどうして花を捨て置けなくなったのか。
最初に会った際に
「なぜ笑っておる?気にいらん!」
笑ってばかりじゃ失敗するぞと言いながら、健気にがんばる花のその笑顔に
惹きつけられたから、でしょう?

韮崎の文太おじいちゃんにおっかなくレクチャーされながら、やがて花は
2つのことに気づいた。
ひとつは、どうして畑を大きく耕さないといけないかということ。
もうひとつは、父が教えてくれた「つらいときでも笑えばなんとかなる」が
韮崎の文太おじいちゃんにも通じたということ。
だから、「気にいらん!なぜ笑っておる!?」と咎められながら、父のいう
ことはやっぱり正しかった、だから韮崎のおじいちゃんもそういいながら
助けてくれたんだ。そのことが嬉しくて感謝の気持ちをこめつつ、
花は笑ったのでしょう。
そう解釈しました。

雨が親元を離れ独り立ちしようと葛藤しているとき、花の顔から笑顔が
消えました。
雨が得体の知れないように思えてくるおそれと、理解しきれないとまどいと、
親としてのさびしさと。
でも親としてまだ何もしてあげてないと感じていたことが、実は親離れまで
無事に見守り育てたこと、それが親としてしてあげられることすべてだと
気づいたのではないでしょうか。
それに気づいたとき、彼との約束を無事に果たすことができたんだと納得して
「しっかり生きて」と伝えられたときにやっと、花は笑顔になれた。

笑顔になれば、どうにかなる。
笑顔を続けていれば、いつか本当に笑える。

それを糧に、夢のような激動の13年を乗り越えた、花のお話でした。
そしてずっとそばにいて見守り続ける、母親の強さを描いた作品でした。


□おおかみかこどもか、雨と雪の選ぶ2つの道

自分はどこから来て、どこに向かえばよいのか。
人間であり、オオカミである雪と雨にとって、自分のアイデンティティーについて
成長する過程の中で選択を求められる、というのもこの作品のテーマの1つです。
父親の彼はどのように折り合いをつけてきたのか。
そしてそもそも折り合いのつくものなのか。
これは日本以外にも国籍を持つ多重国籍者が22歳になるまでに国籍の選択を
迫られる、というのにも似ているかもしれません。

にんげんとオオカミの成長を考慮して、10〜12歳という年齢での子供から
大人への葛藤の設定は、とっても絶妙に思えました。
早すぎるようにも思えるし、ふさわしくも思える。
そして、それ以前の段階で、その子のもとから持っている性質と向き不向きが
あるようにも思えます。
雪は小学校入学の際にオオカミにならないおまじない「おみやげ3つ、たこ3つ」
を面白がって積極的に唱えていました。
でも雨にそのようなシーンはありませんでした。

自分に向いている、好きな道になんの障害もなく進められたらいいけれど、
向いていない、嫌いな部分が邪魔して足を引っ張ったらどう折り合いをつけるか。
雪にとっては宝物である、アオダイショウや小動物の骨や干物には
“普通の女の子はこんなもの欲しがらないんだ!”と気付いて捨て去ることができても、
自分では気づかなかった“ニオイ”を指摘されたら、どうしてよいかわからなく
なってしまった。
女の子が成長する過程で“ニオイ”を異性から指摘される、というとちょっと
微妙すぎる感じもしますが、だからこそ自分をコントロールできずに葛藤し
苦しんだ、というのも絶妙な設定でした。

雪にとって、母親に捨てられ同じようにもがき苦しみながらも隠しておきたい
部分をさらけ出してニッと笑ってみせた草平は、オオカミオトコの彼にとっての
花と実は同じような存在だったかもしれません。
笑って受け入れようとする花だから、彼も正体を告白することができたのかも。
草平にオオカミが好きか尋ねたときに言った花の「私と一緒」というひと言が、
なんとなくつながっているようにも思えます。
雨もそんな相手に巡り会えていたら、いいな。

エンディングに流れる「おかあさんの唄」は、細田監督が作詞をしていて、
この映画を端的にまとめた内容になっています。
映画を見終わった後にこの歌を聴いたら、いろんな場面が思い起こされます。

「もう1回、大丈夫、してぇ」なんて甘えてたくせに、独りで大きくなった
顔しやがって。
なーんて雨のことを思ったりしましたけど、うちの親もそんな風に思って
たんだろうなぁ。
なんてね、ちょっと思ったり。


□風景がとにかく綺麗!

最初に観たとき、実写との合成なのかなって思ったくらい。
とにかく風景が綺麗でリアルで、動きもナチュラルで、これだけでも一見の
価値があると思います。
で、あまりに背景がキレイ過ぎて、キャラクター描写がちょっとチープに
見え過ぎないこともなかった、かな。
専属のスタイリストをつけて衣装を検討したらしいですけど、もう少し
キャラそのものの表現に力を入れてもよかったかも。
でもまあ、難癖つけるとすればそのくらい。

とってもいい作品でした。
とくに最初の10分間を忘れないように集中して観ることをおすすめします!




PS.
 彼がオオカミ姿のまま、花を押し倒す(?)シーンについてレビュー等で
 「獣姦」という言葉でばっさり切り捨てられてるのを見かけます。
 でもそれは読み手に対するインパクトを狙った少々乱暴で安易な、
 表層のみを見た表現のように感じます。
 おいらなんかあれですよ、相手がオオカミさんなんだから花ちゃん、
 うつぶせになってあげないとねぇと親切心で言っていたら、一緒に観に行った
 相方から呆れられましたもん。
 アンタの方が上っ面しか見てないよ、だって。とほほ。
 
 
PS.その2
 教室で草平に対して雪が正体を告白するシーンで、わざわざ窓を開けて
 風を受け、カーテン越しにオオカミに変身してみせてたけど、やっぱり
 オオカミになると獣臭くなるからアレ、エチケットとして窓開けたんじゃね?
 と言ったら、また相方から呆れられました。
 しょーもない見方すぎるそうです。とほほ。

影丸穣也さんが亡くなった。

漫画家、影丸穣也さんがお亡くなりになったそうです。

梶原一騎さん原作「空手バカ一代」の作画などで知られる漫画家の影丸穣也(かげまる・じょうや、本名久保本稔=くぼもと・みのる)さんが4月5日午前9時48分、膵臓がんのため東京都内の自宅で死去していたことが8日、分かった。72歳。大阪市出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は妻ヨシ子(よしこ)さん。公認ファンクラブ主催で後日、しのぶ会を開く。
スポニチ 2012年5月8日)


中学生の頃、近くの大学祭に行って、売られていた古本を偶然手に取ったのが
表紙に芦原英幸が描かれた『空手バカ一代』だった。
影丸譲也(当時)描く、芦原英幸の強さ、カッコ良さ!

初めての昇級昇段審査の翌日、師の見送りに行った際に
「蹴りの速かった奴だろう、ちゃんと覚えとるよ。がんばれよ」
と声をかけて頂いたときのあの嬉しさは、今でも鮮明に覚えてる。
あの漫画の中のヒーローが、いま目の前にいて、しかも声をかけてくれた・・・!!
大勢の見送りの中で自分にだけ声をかけてもらえたんだもの、忘れられる訳がない。

だからおいらにとっての『空手バカ一代』は、影丸版の、芦原英幸だった。

この漫画に出会わなければ、空手に興味を持つことも、まして生前の芦原英幸
出会える機会なんて絶対に、なかった。
影丸先生、ありがとう。

ご冥福をお祈り致します。

クローズド・マジックを間近に体験!

GWのまっただ中、かなり深い時間に大阪は某所の地下に潜入。
そこでは、昔のタモリさんや魔夜峰央さんばりのピッチリ真ん中分けに、くるくる髭を
なぜかペンで描いた方が、マジックをしていました。

てことで、ムッシュ・ピエール店長のお店「バーノンズバー」に行ってきました。

ピエールさんは、テレビで暫定チャンピオンだったふじいあきらさんに挑戦する形で
トーナメントを勝ち上がって、チャンピオンになったのをたまたま見ていて、その
へんちくりんな、もとい、個性的な風貌と、フランス出身設定で「〜ざます」という
お前はイヤミか!的なとーってもユニークなセリフが印象的で、よく覚えていました。
あのテレビ番組ななんてタイトルだったろうなぁ。

とにかくね、ふざけた風貌、もとい、ユニークなキャラと違って、マジックの腕は
すごいんですよ!
Youtubeで探してみたらこんなのがありましたので、見てみてください。

ね、すごいでしょう?
あんなに悪ふざけてたタカさんが、最後には唸らされてましたもんね。

で、実際に目の前で見せていただきましたけど、やっぱり鮮やかでした。
これでも昔、高木重朗さん著書を読んで練習したり、ゆうむはじめさんの本を読んで
がっかりしたりして、少しは齧った口なんですけど、いやぁ〜わかんね。
ピエールさん以外にもサミーさんやローズさん、ランディーさんもテーブルマジック
披露してくださって、そちらもなかなかやるゥ〜!って感じですごかった。
さすがにね、ネタを知ってるのはついつい先回りして手元を注視してしまうから、
・・・って、こんなのはあまりいい客ではないんでしょうけど。あははは(汗。

ということで、本格的なテーブルマジックを見たい方は、ぜひ。

トレビア〜ン♪

『テルマエ・ロマエ』を観た。

意外や意外、といったら失礼かもしれませんけど、イタリアの映画祭「第14回ウディネ・
ファーイースト映画祭」でマイムービーズ賞を受賞したんですって。
ヨーロッパ最大のアジア映画祭らしいですけど、そこで大爆笑だったそうで。
漫画は1巻しか読んでませんけど、あの漫画でどうすれば大爆笑になるのさ・・・!?

じゃあ、ってことで、『テルマエ・ロマエ』を観てきました。

日本でも笑いが起こってました。
ていうか、おいらも笑い声あげてきました。
阿部ちゃんに、レストランでメニュー決めるのにも哲学的な苦悩の表情を浮かべそうな
平たくない顔族然とした顔で「うまっ!」とかやられると、いちいちおかしいんだもの。
前半はタイムスリップして平たい顔族の風呂文化に驚いて、と漫画の1巻目に出てきた
ネタがテンポ良く出てきて、あまりにもテンポ良過ぎてこのまんま最後までいくのか!?
と心配したぐらい。
当たり前ですけど、その都度ルシアス阿部ちゃんが素っ裸で、撮影現場のことを考えたら
それだけでもう笑えてきちゃいました。
ほんま、よーやるわ。
個人的には、タイムスリップ時にどこぞでスタンバっててオペラを歌いあげる、
謎のテノール歌手が良かった。ああいう、どうでもいい遊びの部分って、大好物♪

最初の、銭湯へのタイムスリップで上戸彩さん演じる山越真実なる女性が絡んできて、
映画だからってことで原作者が強引に自分をキャラにねじ込んできたのか(名前的にも)
と思ったら、ちゃんと漫画の4巻目には女性キャラとの絡みがあるんですね。
キャラの名前も、職業の設定も違うみたいですけど。漫画家志望って、また。。

出てくるおじいちゃん達がいい味出してましたよ。
どこかであったことのあるような表情の、いい感じのおじいちゃんだな〜と思って
後で調べてみたら、あの菅登未男さん、「ガキつか」の名キャラ“ピカデリー梅田
でした。今は亡き梅田ピカデリーでこの映画を観られたら最高だったのになぁ。
おじいちゃん、はよ上がらなのぼせるよ!?と思わせちゃう、赤ら顔のいか八朗さんも
良かったなぁ。
竹内力さんが“平たい顔族”ってのがちょっと疑問だったけど。


後半はより古代ローマの史実に踏み込んだ内容で、おそらくは漫画の3巻あたりの
エピソードなんだと思いますけど、戦で疲れ傷ついた兵士を救うために、戦地に陣を
構える山奥にテルマエ(浴場)を作ることに。
いいアイデアじゃないですか。湯治としての日本の温泉の面目躍如ですよ!
それが、できあがったのが・・・
オンドルって。
なんでいちばんのキモのとこで、よその国の文化なの?
別府地獄めぐりみたいな自然湧出の源泉を使っての温泉だっていいじゃん。
地熱を利用したかったら、地面を耕すか砂を持ってくるかして、指宿の砂蒸し風呂
みたいにしたっていいじゃん。
なんでよりよりによって最後の最後で、日本の風呂文化から離れちゃうの?
そこが観ていて、最も納得いかない箇所でした。
なんだよ、オンドルって。
だったらルシウスを日本にタイムスリップさすなっつーの。

ということで前半、ネタ連発のところは面白かったので、見る価値あり!です。
後半は・・・恋愛話的な展開はあってもなくてもいいけど、やっぱりオンドルだなぁ。
あれで台無しになっちゃいました。とってもとっても残念。


『アーティスト』を観た。

ヒューゴの不思議な発明』は、時間のあるときにこそっと独りで観に行って、
その後、連れが観たいというので付き添って、結局2回観てしまいました。
1回観てるのに、初めての顔して観られるかなぁと心配してたら、
おんなじところで、下手に知ってるもんだからもう「来たーッ!」てなもんで、
なんなら余計めに泣いてましたからね。
いやー、人間なんて単純なもんです。
・・・おいらだけ?

栄光を味わった人が華やかな世界から転落して挫折し、長く不遇の時代を経て
もう一度スポットライトを浴びる姿を見たとき、感動を覚えるものなのか。
ヒューゴの不思議な発明』でのジョルジュ・メリエスを見ながらふと、
そう思いました。
あの作品と同じくアカデミー賞5部門で受賞した『アーティスト』もまた、
そんな内容の映画でした。

モノクロでサイレント。上映時間100分。
サイレントだから言葉での細かい説明がなくて、言い方を変えると説明が多過ぎない、
だからストーリーもシンプル。
まあ上記のようなありがちな内容ではあるんだけど、だからこそ見る側の期待した
展開になって、安心して見ていられます。
主役のジャン・デュジャルダンはいかにもその当時の伊達な役者然としていて、
関係ありませんけど横顔、フレディ・マーキューリーみたいなだなぁと思いながら
眺めてました。
相手役のベレニス・ベジョは『ヒューゴの不思議な発明』でのママ・ジャンヌ役の
ヘレン・マックロリーにちょっと似ている顔立ちで、アザナヴィシウス監督の奥様
とのことで、そういう意味でもジョルジュ・メリエスとダブるような、
ダブらないような。

そしてやっぱりアギー君の名演技なくしては語れません!
スピルバーグ監督も大絶賛だったとか。
なんせカンヌ映画祭のパルム・ドッグ賞と、金の首輪賞を受賞してるんですからね。
・・・って、なんじゃらほい。(%)ゞ?

パルム・ドッグ賞
パルム・ドッグ賞は、カンヌ国際映画祭で優秀な演技を披露した犬に贈られる賞。2001年にトビー・ローズによって企画され、以来毎年、批評家たちの選考で選ばれた映画祭で上映された映画の中で優秀な演技を披露した1匹またはグループの実写もしくはアニメーションの犬に "PALM DOG" と記された革の首輪が贈られている。名称は同映画祭の最高賞であるパルム・ドールに由来する。
wikipedia

へえー。
金の首輪賞は今年、犬の情報誌であるDog News Dailyが創設した賞なんですって。

アギー君の、銃声を合図にパタンと横になって撃たれたフリをする演技(芸)が
なければ、この映画は成立しませんもの♪
火事の中、助け運ばれるジョージ・ヴァレンティンの巨体に押しつぶされそうに
なってましたしね。あれはちょっとヒヤッとしました。。


「支えてくれる誰かがいれば、人生はこんなにも輝く」

再び輝けたのは、ペピー・ミラーと、執事(マルコム・マクダウェル )と、
それからアギー君の支えがあったからですが、それともうひとつ、彼を支える
芸があったからでしょう。
その芸は、タップダンス。

おいら自身はタップダンスにそれほど深い思い入れはありませんが、
2003年の年末、「たかじん胸いっぱい」にゲスト出演したビートたけしさんが
たかじんさんからのリクエストでタップダンスを披露したのを思い出しました。
浅草時代の師匠である深見千三郎さんに最初に教わったのがタップダンスだったそう。
今でも毎日稽古を欠かさない、とか。
「オレ芸人だけどよ、芸が無ぇからさって言い出して」とガダルカナル・タカさんが
言ってました。

芸は身を助く。
ジョージ・ヴァレンティンとペピー・ミラーのタップダンスシーン、カッコよかったなぁ。