『クリトン』プラトン

はじめに

『クリトン』は、角川文庫の『弁明』に収録されているのですが、実は一年前に読んでその時にメモを残したまま放置していました。
今さら読みなおすのも何なので、以下その時のメモをそのまま掲載します。あまりまとまってないように思いますが…。

クリトン

死刑判決を受けたソクラテスがクリトンに脱走の提案をされる話。

クリトンがソクラテスの脱走を手助けしようとする理由は、それをやらなければ(クリトンが)大衆から非難されるからだ、という。また、そもそも裁判に発展する過程でそれを阻止する行動に出なかった(?この辺は実はよくわからない)ことも恥ずかしく思っているという。ソクラテスはそのクリトンの自己保身的な部分を指摘することはなく、ただクリトンの誘いを断わるための問答を開始する。


人間どもの思いなしのすべてではなく、そのあるものは重んじなければならぬが、そのあるものはそうでないということ、またすべての人間どものではなくて、ある人間どもはそうしなければならぬが、ある人間どものはそうではない、ということは申し分なく言われていると君には思われないか。

要するに、「識者の意見は重視し、無知な大衆の意見は軽視するものだよね?」とソクラテスはクリトンに問うている。ここはわかる部分もあるが、ちょっと俺にはひっかかる。とくに「体操選手は大衆の賞賛ではなく体操教師の賞賛に喜ぶものだ」という例がピンと来ない。時代性なのか、それとも体操選手の本音はそんなものなのか。いずれにしてもそれが正しいかどうかではなく、「大衆の意見は軽視してもよい」という結論がまず必要とされているのでこうなっているのだろう。で、クリトンはこの「識者重視大衆軽視」に同意する。すると「たった今、大衆の意見を軽視すべきとした君が、大衆からの非難を恐れるのはおかしい」と矛盾を付く。「識者はクリトンがソクラテスを手助けしなくても非難などしないし、大衆が非難したとしてもそれは軽視するものだから問題ない」とソクラテスは言う。

次にソクラテスはクリトンとの間で以前合意した(と思われる)見解を持ち出す。

  • 最も尊重しなければならぬのは生きることではなくて、善く生きることだ
  • 善く生きることと立派に生きることと正しく生きることとは同一である

これを出発点として、脱走することは不正であるので善く生きることにならない、という結論を導き出す。またさらに不正に対して不正をし返すのもいけない、という合意によって、仮に裁判が不正であったとしてもそれに不正で応えるのはいけない、という結論が導き出される。この「不正に対して不正で応えるのはOK?」については面白いテーマで現代でも議論になりそうである。「無法者を裁くのに法に従う必要はない!」のような暴論は現代でも良く聞かれる。

この後は一旦すでに論破したかに思える話を繰り返しているように読めるが「法律が不正であるとしたら、それに従わないのは是か非か」という議論が展開される。なかなか面白い話で、ざっくり言うと「ソクラテスアテナイは社会契約を結んだのだからソクラテスは法律を守るべきなのだ。もしこの法律が気にいらないのであれば、アテナイから出て別の地に行くことがこの70年間可能であったし法律にもそれが書かれている。にもかかわらずそれをしなかった。それがこの法律に合意している証拠である」という話。これは俺たちが日本の法律に対して本当に合意しているのかを考える時にもいいヒントになるだろう。そもそも現代日本で俺たちは、国民になるための資格検査や社会契約を行い自らの意思で選択したのか?という問題だ。この国の法律が気に入らなければ出ていくチャンスはあったのか?という問題だ。が、そこは現時点で論じるのは時期尚早だろう。このブログでルソーの『社会契約論』を論じる時まで待つとしよう。

クリトンにはソクラテスを説得することはできない。それはクリトンに説得力がないからではなく、ソクラテスが最初からクリトンを論破するために会話を行なっているからだし、意地悪く言えば、プラトンがそのように書いているからである。

『プロタゴラス』プラトン

はじめに

ソクラテスソフィストとの対話を読みたい、と思い『プロタゴラス』か『ゴルギアス』どちらにするか迷ったのですが、論客の知名度から言ってプロタゴラスだろうということでこちらにしました。

が、結論から言うとこの著作、ドキュメンタリーとしては良作ですが哲学としては物足りないです。結局『ゴルギアス』も読み始めました。プラトン哲学をちゃんと読みたいのであればそちらの方が面白いと思います。

概要

プロタゴラス』の主要テーマは「徳は教育可能であるか?」です。これはソクラテスソフィスト批判の根幹にかかわる問題です。で、これについてプロタゴラスは「可能である」、ソクラテスは「不可能である」という見解から話を始めます。

途中からソクラテスお得意の「矛盾を突いて揚げ足を取る」手法が炸裂して議論は混乱します。この作品に限らず、プラトンの描くソクラテスはいつも「相手の矛盾を突いたら勝ち」というスタイルで議論を展開しますが、それは相手が完璧ではないことを証明はできても自分が正しいことの証明にはなりません。ここでもこのソクラテスの揚げ足取りによって議論はあらぬ方向へ展開します。

パラドクスの研究であればこれを詳細に読み解くところですが、「徳は教育可能であるか?」について興味を持って読んでいくとこの中盤は退屈です。

そして話は結論に向かうわけですが、ここではプロタゴラスが矛盾を認めた形になります。そのため「徳は教育可能であるか?」というテーマについてはプロタゴラスは「不可能である」に至るわけですが、一方でソクラテスは「可能である」に転向したように見えます。こうして二人の議論は終了します。

教育と洗脳は何が違うのか?

冒頭部ではプロタゴラスに会いに行こうとする若者に注意を促します。要約すると


「君が誰かに金を払って教えを請う場合、それは何を期待しているのか?例えば医者に教えを請う場合には医者になりたいのだろう。彫刻家に教えを請う場合には彫刻家になりたいのだろう。ではソフィストに教えを請う場合には?君はソフィストになりたいのか?」
「違います。」
「ということはソフィストに教えを請うというのは、医者や彫刻家に教えを請うのとは違う性質のものだ。君は専門技術を学ぶのではなく一般教養を学ぶのだ。」
「はい。」
「では、それをプロタゴラスから学ぶのが適当であるかどうか君は判断できるのか?君が魂を彼にゆだねてしまったら、もう判断はできなくなる。」

ソクラテスは技術を教える「教育」に対して、魂にかかわる学識や徳を教える「洗脳」(という言葉は用いていない)が危険であると警鐘を鳴らします。


これが飲食物だったら、卸商人や小売商人からそれを買っても、別の容れものに入れて持ちかえることができるし、飲んだり食べたりしてよいものといけないもの、またその量や時期などについて、識者を呼んできて相談することができる。だから、それを買うのにたいした危険はないわけだ。だが、これが学識となると、別の容れものに入れて持ちさるわけにはいかない。いったん値を支払うと、その学識を直接魂そのおのの中に取り入れて学んだうえで、帰るまでにはすでに、害されるなり益されるなりされてしまっていなければならないのだ。(314-AB)

ソクラテスソフィスト批判は概ね「魂にかかわる教育である」点と「金を払って教えを請う」点の2点に集約されます。しかしソクラテス自身も魂にかかわる教育を行なっているわけです。これに対してはソクラテスが対価を受けとっていないことが自己正当化の論拠になっています(『ソクラテスの弁明』)。しかし「魂にかかわる問題であっても対価を払わらなければ問題ない」という説明は私の読んだ範囲内には見当りません。このあたりから類推するに、ソクラテスソフィスト批判においては論理的な説明はすべて後付けで、基本的には嫉妬やルサンチマンを動機としていると考えてよいのではないかと思います。

だとしても、この「洗脳」に対する警鐘はかなり鋭いと思います。

また「学ぶ」という行為に対して、

  • 医者や彫刻家のような「その道の専門家」から「その人のようになりたい」と思って学ぶ行為
  • 教育者のような「教えることの専門家」から「その人自身が目標ではない」と思って学ぶ行為

の2種類がある、という指摘も重要でしょう。学校教育があたりまえとなった現代では後者を否定するソクラテスの主張は通りにくいでしょうが、それだけに問題提起としては有効だと思います。例えば、この二者を混同するという倒錯が現代にはかなり見られます。「教えることの専門家」から学んで「その人になりたい」と思い「教えることの専門家」になる、ということです。この関係性には専門家が介在しません。現代の教育制度はそういう形で成り立っています。

この現象がさらにエスカレートして、影響を受けるとすぐに「その人になりたい」と思ってしまう現象は各所で見られます。「その人から学ぶことと、その人のようになることは違う」ということについて、今一度きちんと考えた方が良いのではないでしょうか。

徳性は教えることができるのか?

プロタゴラス』の中の議論は言葉の定義があいまいなので、あまり厳密に検証することは重要ではないと思います。例えば「徳」と「徳性」、「徳」と「正義」、「徳」と「学識」は場合によって同じ意味で使われたり、違う意味で使われたりしています。またソクラテスの反論もいまいちクリティカル性に欠けるものが多く細かくとりあげるほどのものでもないと思います。

そこで、ソクラテスよりはプロタゴラスの主張の部分を紹介します。


もし誰かが実際にはそうではないのに、自分がすぐれた笛吹きであるとか。あるいはほかの何らかの技術に関してすぐれているとか主張するならば、人々は嘲笑するか怒るかするだろうし、身内の者はその人のところへ行って、気がへんなのではないかといって叱りつけることだろう。ところが、正義をはじめとして、そのほか国家社会をなすための徳性においては、かりにある人が不正な人間であることを人々が承知していたとしても、もしその人が公衆の前で、自分で自分についてほんとうのことを言うならば、(中略)狂気の沙汰とみなされるのである。そして、人は誰でも、実際にそうであろうがなかろうが、自分を正しい人間であると言わなければならない 323-AB

要約すると


技術については不正を不正であると認めるのが正しい。徳については不正であることを認めないのが正しい。

これはかなりぶっちゃけてますね。「間違っていたらゴメンナサイと言う」を美徳とする日本の文化とはかなり違っていますが、私の経験では(誤解をおそれずに言うと)ギリシアでは現代でもこのように「自分の誤ちは認めず自分は常に正しい」というのを美徳とする傾向にあります。


不正な人々を懲らしめるということはそもそも何を意味するのか(中略)、その目的は未来にあり、懲らしめを受ける当人自身も、その懲罰を目にするほかの者も、二度とふたたび不正をくり返さないようにするためなのである。そしてそう考えている以上。彼は徳というものを、教育可能のものと考えていることになる。とにかく、悪いことをやめさせようと思えばこそ、懲らしめをあたえるのであるから。

これは要約不要ですね。徳は後天的なものであるという証明です。これは懲罰の原則として現代でも通用するものです。ただし死刑についてはこれでは説明できません。

この他にも、プロタゴラスは「優れた人間が優れた教育者であるとは限らない」という説明をソクラテスに対して行ない、「教育する専門家」の可能性について主張をつづけます。これらはどれも非常に明快でソクラテスのひねくれた反論よりもよほど説得力があります。

国語とは何か?

ふと気になった場面。


あらゆる人々が事実上、それぞれの能力に応じて徳を教えているので、とくに誰かが徳の教師であるようには君には見えないからなのだ。それはちょうど君が、ギリシア語をしゃべることを教えるのは誰なのかをさがしてみても、誰ひとりそういう特定の教師はみつからないのと同じことだ。

これは「へぇー、当時はギリシア語を教える人っていなかったんだねー。現代日本なら『国語』教師がいるけどねー。」と思いながら読んでいたんですが、では、そもそも「国語」って何なんでしょう?

ここでは問題提起だけ。

まとめ

この作品はソクラテス前期のものだということで、プラトンの創作度はわりと低いのではないかと思います。それもあってかかなり臨場感があり、まるでテープ起こしして書いたかのようなグダグダ感もあり、楽しく読めました。ただ、最初にも書きましたが論理的な緻密さや哲学的な面白みには欠けると感じました。

前回も書きましたが、プロタゴラス自身の思想はかなり重要で示唆に富むものだったと思われます。にもかかわらずその著作が残っていないのは、アリストテレスが哲学の正史に加えなかったからなのはほとんど間違いないでしょう。そのことがとても残念です。

次回は『ゴルギアス』の予定です。

プロタゴラス断片

はじめに

プラトン著『プロタゴラス』の前に、ソクラテス以前の哲学者 (講談社学術文庫)プロタゴラスの章を読んでみます。

ソクラテス以前の哲学者 (講談社学術文庫)
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プロタゴラスソフィストの中心人物ということもありかなり有名な人物で著作も多数ある(あった)わけですが、残念ながら現存する著作物は一つもなく、ここに全文書ける程度の断片しか残っていないようです。

すぐ後の時代には体系家で収集家のアリストテレスがいるわけですが、彼の収集対象にはプロタゴラスは入っていなかったようです。もちろんアリストテレスプロタゴラスを知らなかったわけはないですし、その頃にすでに著作が失なわれていたとも考えられません。プロタゴラスを始めとするソフィストらはソクラテスプラトンとは対立関係にあったわけで、そのためアリストテレスやその系列の学者によって故意に葬り去られたか、そうでなくても彼らの保管対象から外されたことで消失してしまったのではないか、と思わずにはいられません。

そのプロタゴラスの断片を2つ。

相対主義者としてのプロタゴラス


人間が万物の尺度である。すなわち、そうあるものどもについては、そうあるということの、そうあらぬものどもについては、そうあらぬということの。

とても有名なテキストです。別に難しいことは言ってなくて、


どれが「良い」、どれが「悪い」というのは一概には言えなくて、人によってそれが「良い」であったり「悪い」であったりしますよね。「綺麗/汚い」でも「美味しい/不味い」でも同じです。それを判断しているのは人間で、どう感じるかは人それぞれです。

と、このような話です。現代でもすんなり理解できると思います。しかしこのテキストをもって彼を相対主義者として批判することも可能です。たとえば、相対主義に陥ると「なぜ人を殺してはいけないの?」に答えられなくなったりします。

相対主義って何?」という問いに私が答えるとしたら、「あなたの意見を押しつけることはいけない。考え方は人それぞれ」という考え方、と答えます。これはやや意地悪で否定的な言い方です。もう少し肯定的な説明をするとしたら、「人それぞれ」な事象について「最終判断は各自のものだけど、その判断材料としてその『それぞれ』をお互いに出し合って吟味することには意味があるよね」という考え方、と答えます。これならだいぶ印象は変わるでしょうか。

グローバル化した現代に多様な文化を受け入れるためには相対主義は必要なものです。でもその一方で「これが正しい」と言えない思想というのはあやういし、実効性も低いと言えます。

よく何かの議論の最中に「まあそれは人それぞれだよね」で終わらせてしまう人がいます。それを言ってしまったら議論にならないわけだし、その「人それぞれ」の「それぞれ」を議論しようとしているわけですが、「人それぞれだから議論しても意味ないよ」に持って行って話を終わらせてしまう。私の経験で言うと「人それぞれだからこそ議論しよう」となると実がある結果になり、「人それぞれだからその話をやめようよ」となると不毛な結果になります。

これは私自身の反省からあえて書きますが、相対主義を実用的な場面で持ち出す時には気をつけなければなりません。ある程度自立した見解を持った人同士ではそれはかなり有効ですが、批評的な思考を持っていない人との世間話の中に持ち込むとうまくいきません。「最終判断は各自だけどあえて出し合う」という前提が共有されていないため「結局、結論として何が言いたいのかわからない」とか「私の趣味にとやかく言われたくない」と言われたりします。

このように紀元前400年代に「人間が万物の尺度である」とプロタゴラスが語ったことでスタートした(のかどうかはわかりませんが…)相対主義は、今でも私たちの社会の中に乗り越えられないまま存在しています。

この辺のテーマについては、このブログがこの先ずーっと続いて20世紀のいわゆる「ポストモダン」まで辿り着いたら、また考えたいと思います。

無神論者としてのプロタゴラス


神々については、彼らが存在するということも、存在しないということも、姿形がどのようであるかということも、私は知ることができない。

これをもってプロタゴラス無神論者とするのはどうかと思うし、プロタゴラスを「無神論者として処刑された」とする説も、後にキリスト教的な発想で付け加えられたんじゃないかと邪推してしまいたくなります。いずれにしてもここで言っているのは神の有無なんかではなく、現代の視点で言えば「ただの認識論」です。パルメニデスの「『ある』とは何か?」の延長線上にあるとても重要で貴重な論考ではないかと思うのですが、この断片しか残っていないのが非常に残念です。

まとめ

これらの断片だけを見ても、プロタゴラスが現代でも通用する重要な論考を行なっていたことは間違いないし、それはきっとパラドクスで議論を煙に巻くソクラテスの様子を描いたプラトンの著作よりもよほど哲学的に重要だったのではないか、と思わずにはいられません。「アリストテレスがもっと相対主義的な思考を持っていたら、批判対象の書物も残していたんだろうになあ」と相対主義を肯定しつつこの章を終わりたいと思います。

『ソクラテスの弁明』プラトン

はじめに

いよいよ本題の「ソクラテスの弁明」に入ります。
実はこのブログを書くにあたって何度か通して読んでみたんですが、正直言ってわかるようなわからないような印象でした。というのもここで書かれていることはあまり難しいことではないので理解するのは容易なんですが、現代に暮す俺がこの書物から読み取るべきものがそれで必要十分なのかがよくわからないのです。数千年読まれつづけたものにはもっと恐るべき思想が隠されているのではないか?という過度が期待があったのかもしれません。
そういうわけで、読み残しがないことを確認するために、無謀にも全文要約してみました。要約したから全部理解してる、とは言いません。ただ、要約するために全文章を熟読したのは間違いありません。

要約


1) 私を告訴している人々が言っているのは本当のことではない。私が本当の事を話そう。
2) 私を告訴している人々は大きく分けて2種類に分類される。まずは古くから私を告訴している人達に対しての弁明をしよう。

3) 彼らの私への中傷の主因は喜劇の中に登場する「ソクラテス」にある。それは現実の私ではないのである。
4) 私は人を教育して金銭を要求するようなことは一切していない。私は人を立派にする方法など知らないのだからそんなことはできないのである。
5) 私は実際に、ほんのわずかなことしか知らない。しかし、神は、私以上の知者はいない、と言う。
6) 私は神の言うことが信じられなかったので、私以上の知者を探しあてて神の鼻をあかしてやろうと思った。その結果、世間で知者とよばれる人々になぜか嫌われるようになったのである。
7) 私は、知者を自認する人々の立派な仕事は、どれも知識によるものではなく神懸かりによるものだということに気づいた。
8) そしてある分野に秀でた人は他分野についても知者であるフリをすることにも気づいた。
9) それらのことに気づいた私を、知者を自認する人々は嫌うようになった。そして私はいつのまにか知者と見られるようになった。
10) 私の真似をして、若者たちが知者と呼ばれる人々の「知ったかぶり」を暴きはじめると、被害者たちは私に対して言われのない中傷をはじめたのだ。


11) 次に最近になって私を告訴しはじめたメトレスたちに対する弁明をしよう。彼らは私が青年たちを腐敗させ悪の道に引きずり込んでいると主張している。
12) メトレスは、私だけが人を腐敗させ、それ以外の人々は皆人を良くすると言う。しかし実際はこれとは反対に、限られた人々だけが人を良くすることができ、他の人々は人を堕落させるのだ。
13) もし仮にメトレスの主張どおりに私が他人を悪くしているとしても、それが故意ではないのは明かだ。なぜなら、私がもし誰かを悪人にしたら、私はその人に悪さをされてしまうではないか。わざわざそんなことをするハズがない。
14) また、メトレスは私が「全然神を信仰しない」と主張するが、これは矛盾している。
15) メトレスは私がダイモニアを信仰していることを認めている。もしダイモニアが神であれば私は神を信仰していることになるし、もしダイモニアが神と人間の間に生まれた子であったとしてもそれを信仰するには神の存在を認めなければならないハズだ。
16) 私を有罪にしようとする力は、見えない多数の人々の嫌悪と悪意である。この力はこれまでもこれからも善人を有罪にするものである。私にとっては無罪となることよりもこの力と戦うことの方が重要だ。
17) 私は死を恐れない。なぜなら私は死を知らないからである。知らないものを恐れるのは「知ったかぶり」の一種である。
18) 私は報酬なしに人々に徳を語る者である。これは人間にできることではない。私は言わば神の使いのようなものである。私を有罪とするのであればそれは君たちの方が困るのではないだろうか。
19) 私は個人的な忠告はするが、公な忠告はしない。正義のために戦おうとする者は私人として暮らすべきで、公人として働くべきではない。
20) 私は死を恐れるあまりに正義に背いたりはしないのだ。
21) 私は聞く者がいるのであれば誰であろうと拒まず話をするが、私は誰かの先生になったことなどはないのである。だから誰かが立派な者になろうと悪人になろうと私のおかげでもないし私の責任でもない。
22) そもそも、私の話を聞いた若者やその親が現にここにいるわけだが、彼らは私が悪事を行ったなどと証言していないではないか。
23) 私は無罪になるために演技したりはしない。なぜならそれをしないことが正しいことであり、正しいことを行なうのが国のためだからだ。
24) 無罪になるために、裁判官を説得したりひいきを求めたりするような間違いを犯してはならない。それは神に背くことである。


25) 思ったより有罪票は少なかった。
26) 私が死刑のかわりに別の刑を提案するとすれば、例えばプリュタネイオンでの饗応というのはどうだろうか?
27) アテナイからの追放という案もあるが、しかしアテナイで追放されるに相応しい者は他国でも追放されるべきと考えるべきではなかろうか?
28) いや「他国に行ったら今度は黙って過ごぜ」と言うかもしれないが、私が神に従っている以上それは無理な相談である。よって追放という案は無理である。だから、私からの提案は30ムナの求刑ということにしよう。


29) 私に厚かましさが足りなかったために、私は有罪になった。悪の道で生きるよりは正しい道で死ぬ方を選んだわけだ。
30) 私に有罪票を投じた者たちへ。今後はもっと多くの人々があなた達の問題点を指摘することになるだろう。なぜなら彼らの不満を抑えていた私がいなくなるのだから。あなた達がやるべき事は、人々の口を塞ぐことではなく、優れた人間になることだ。
31) 私に無罪票を投じた人たちへ。あなた達には大事な事を教えよう。私が死ぬことになるこの出来事は実は良い事なのだ。
32) 死とは、完全に存在しなくなるようなものなのか、それとも別の場所での新たなスタートなのか。もし前者であれば、永遠の良き眠りにつけることになるので良い事である。もし後者であれば、永遠の幸福の中で生きることになるのだからこれもまた良い事である。
33) どのみち私は善人なので悪い事にはならないのだ。だから死刑も良い事なはずである。もし私の息子たちが厚かましい人間になったら、どうか彼らを苦しめてやってくれ。それが私の望みだ。では。

メディアは権力である


3) 彼らの私への中傷の主因は喜劇の中に登場する「ソクラテス」にある。それは現実の私ではないのである。
これを現代風に意訳すると

メディアによって報道されている私と実際の私は異なる。メディアの情報を元に私に反感を持たれても困る。
ということですね。大衆がメディアに先導されて自分の「意見」を形成し、誰と戦っているのかわからない戦いに明け暮れてしまうのは、昔も今も変わらないようです。

無知の知」は重要なのか?


8) そしてある分野に秀でた人は他分野についても知者であるフリをすることにも気づいた。
9) それらのことに気づいた私を、知者を自認する人々は嫌うようになった。そして私はいつのまにか知者と見られるようになった。
これは表面的にはわかります。専門家は自分の専門外のことでも知ったかぶるものです。それを嫌悪する気持はわかります。しかしソクラテスは何の為に「専門家は自分の専門外のことをよく知らない」ことを証明しようとしているんでしょう?「専門家が自分の専門外のことをよく知らない」ことを証明したとしてもそれが専門家でないことを証明することにはなりません。しかもソクラテスの問答ではたいてい専門外のことをわざと誘導尋問で引き出してます。その人の知らないことを話題に振って知ったか振りさせ、そして知ったか振りであることを証明し、無知だと笑う。結局はただ揚げ足取りをやってるだけではないのでしょうか?

その揚げ足とりに「無知であることを自覚せよ」というメッセージを読み取るのがソクラテスの読み方なのだとすれば、それはソクラテスの過大評価ではないかと俺は思います。

なぜなら、知ったか振りは現代ギリシア人(アテネ市民?)にも引き継がれているただの性癖だからです。俺はのべ100くらいの外国訪問の中で7〜8回ギリシアに行ったことがあるのですが、他の国の人達とは明かに違うギリシア人特有の頑固さというのを何度も体感しています。例えば、アテネで道を聞くとたいてい丁寧に教えてくれるのですが、自身満々で答えた人の説明が実は間違っていた、こいうことが多々あります。もしその人がラテン系の人であれば「アバウトに答えたんだろうな」という理解になるかと思いますが、ギリシア人の場合はちょっと違っていて、「知らない」というのが恥ずかしいから知っているフリをした、ということなのです。別の例でいうと、「どこから来たの?」「日本だよ」「ああ、いい国だねぇ」「日本の事しってるの?」「もちろんさ」「例えば?」「音楽とか」「どんな音楽知ってる?」「あ…、普段は知ってるんだけど、今は忘れた」のような、あくまで知ってるんだけど答えられない、というポーズを死守するのです。こういうことを書くと俺の偏見だと思うかもしれませんが、自分の経験上はこうですし、この理解がなかったらギリシアでスムーズな行動ができなかったかもしれないと思うこともあるのです。

やや脱線しましたが、そういうわけで「『知ったか振り』なんかするな、堂々と『知らない』と言え!」というメッセージはギリシアではかなり強烈なメッセージであったと想像に難くないですが、俺らがそんなにありがたがるものでもないのではないか、と思うのです。

たいしたメッセージがないとすれば、ソクラテスは「他人の悪癖を指摘して悦に入る」ただのウザい人でしかありません。それを嫌う人が多いのもまたうなずけます。

数の暴力について

では本題です。俺がこの裁判から読むのは「無知の知」でも「なぜ死を選ぶのか」でもありません。「多数決の恐しさ」です。

客観的に見ればこの裁判は「原告=知ったか振りする知識人」と「被告=知ったか振りをあざけ笑う変人」というどちらも鬱陶しい人たちの闘争であるということがわかりました。被告は鬱陶しい(生理的に嫌いである)から揚げ足取りをし、原告は鬱陶しい(邪魔である)から告訴した。鬱陶しさが等価であるならば、やはり批判されるべきは原告でしょう。

世の中には生理的に嫌いであったり邪魔だと感じる人や行為は多々あります。それは人間同士のコミュニケーションの上では避けられない感情でしょう。しかし基本的にはそれはなかなか排除できません。なぜなら好き嫌いは人によるので排除のルールが定められないからです。

ところが、多数決ではこれを排除することができます。より多くの人が嫌う人(もの)は多数決により排除できます。少数の人が好きだと感じるけれども多数の人が嫌いだと感じる人(もの)は、全会一致では排除できませんが、多数決では排除できます。

何の話をしているのかわからない人もいるでしょうか?児童ポルノ法改正の話です。

俺は現行児童ポルノ法については条件付で支持しますが、非実在青少年の描写に制限を設けるという改正案のほとんどには反対です。たしかに俺も非実在青少年の性的描写に嫌悪感を抱くことは多々あります。しかし、それと法律で禁じることとは全く別です。改正に向かう人の感情には「嫌いなものを排除しよう」というソクラテス裁判の原告と同じ数の暴力を感じます。そして多数決そのものの暴力性についても危機感を抱きます。

また、俺は喫煙者ではありませんが、現在の喫煙を禁じる動きについても同様に危機感を感じています。

児童ポルノでは「犯罪助長」、喫煙では「健康被害」が争点となり規制が進行されているわけですが、規制派の原動力になっているのは「嫌いであるから排除しよう」にあると俺は思います。「犯罪助長」も「健康被害」も後付けでしょう。俺はターゲットが何であれ「嫌いなものを法で規制し排除しよう」とする数の暴力には反対です。ただし俺自身が児童ポルノ愛好者でも喫煙者でもない以上、そういう人に同情はしつつも、最前線で戦う立場にはいません。

そういうわけで、『弁明』に読むべきものがあるとすれば、数の暴力という民主主義の問題点を最初に指摘した書物だ、という点にあるのではないか、と俺は思うのです。しかも民主制を支持しているソクラテスによって。民主主義は近代に勝ち取ったものではなく古代ギリシアにすでに存在し、その問題点もまたすでに古代ギリシアで指摘されていた。民主主義下に生きる(と言っても現代日本が民主主義国家として機能しているかどうかについてはここでは留保したいんですが)俺たちにとって、もし今後も民主主義でいくのであれば早急に考えなければならない問題がここにはあるのではないでしょうか。

『エウチュプロン』プラトン

はじめに

前回からだいぶ間があいたのですが、その間何をしていたのかというと、『ソクラテスの弁明』と格闘していたのです。

この本は、たしか高校時代に買ったものです。なので今でも同じ版で売られているのかどうかわかりません。高校生当時これをどう読んだのか、今となってはサッパリ覚えていないのですが、今回はこれを合計6回通読しました。そんなに難しい本なのかというと、実はそんなことありません。文章は平易で難解な表現は特にありませんので、一度読めばだいたい言わんとすることはわかります。ではなぜ何度も読んだのかというと…なぜなんでしょう? 簡単に言うと「一度読んだだけでは手応えがなかったから」もっと言えば「古代ギリシアの哲学には時間をかけたかったから」という感じでしょうか。

ソクラテスプラトン

前回もプラトンの作品を読んだわけですが、あれはどちらかというとパルメニデスを読む延長で読んでいたので、プラトンの作品をプラトンの作品として取り上げるのは今回が実質初めてです。なので根本的な問題をここで論じなければなりません。

そもそも、ここに書かれているのは本当にソクラテスの発言なのか?それともプラトンが自分の考えをソクラテスに言わせているのか?

いろんな解説書などを読んでみたところ研究者のだいたいの見解としては、初期のものはソクラテスの発言をできるだけ忠実に記しているが後期になるとプラトンの主張が多くなってくる、ということのようです。俺の場合そもそもソクラテスは実在したのか?プラトンの創作じゃないのか?ということすら疑問なのですが、そこはほぼ確実に存在したというのが一般的な見解のようです。

そういうわけで、ソクラテスは実在し、初期の著作である『弁明』はほぼソクラテスの発言をそのまま記している、と一応みなすことにします。しかし俺はプラトンの著作をあえて「作品」と呼びます。それはやはり俺がこれらをある程度フィクションだと思っているからです。

エウチュプロン

で、今回は『弁明』…ではなく、同じ本に収録されていた『エウチュプロン』を取りあげます。

『エウチュプロン』は時系列としては『弁明』の直前の話で、裁判を控えているソクラテスが別の裁判の原告となるエウチュプロンと問答する、「敬虔とは何か?」を主題とする作品です。


親が殺人を犯したとする。それを告発するべきかどうか。告発することが敬虔なことであるのか、それとも親を守るのが敬虔なことであるのか。

この時代の倫理観が一般的にどのようであったかがわからないため、エウチュプロンの主張が普通でソクラテスが斬新ななのか、それともその逆なのか、その辺はよくわかりません。ですが、ここに取りあげられている文脈からすれば、現代の日本人の社会的な倫理観と同じく「親であっても殺人行為は許されないのだから告発すべきである」というのが一般的な主張で、あえてそれに反論するソクラテスの発言が斬新である、という前提でプラトンは書いていると考えるのが妥当ではないでしょうか。「ソクラテスは古い時代の人だからおかしなことを言っている」という解釈では読み違ってしまうでしょう。


ところで、ソクラテスが本当に「殺人を犯した場合であっても、親を守ることが敬虔なことである」と考えているのかはよくわかりません。もしかすると、単にエウチュロンの主張に論理矛盾を見付け、そこを論破しただけのことかもしれません。俺が読んでいる限りでは、ソクラテスの問答はこのように相手の論理矛盾を突くことそのものが目的で、彼自身の倫理観や政治的主張などを語ることが目的ではないのではないか、と思えることが多いです。

「敬虔」というイデア

エウチュプロンが「敬虔」と口走ってしまったためソクラテスは「敬虔とは何か?」と問います。そこでエウチュプロンはあれこれと答えますが、ソクラテスの質問への回答にはなりません。これは前回の延長線上で言うと、ソクラテスの質問がクラスに対する質問であったのに対しエウチュプロンがインスタンスで答えた結果です。つまり「果物とは何か?」という質問に対して「りんごやみかんのことです」と答えたわけです。

多神教について

エウチュプロンが質問の意図を理解し「敬虔」というイデアへの解説をこころみます。神に好まれるものが「敬虔」であり神に嫌われるものが「不敬虔」である、と。それに対してソクラテスは「では神々の間で意見がわかれたらどうなるのか?」と問い、エウチュプロンは答えに窮します。ギリシア神話多神教なのでこの場面はもっともな話なのですが、キリスト教徒の人が読むとこの場面はどうなるのでしょうか? 現代であればクリスチャンであっても多神教の存在やある程度の客観的知識はあるでしょうが、歴史的にはこの問答を一神教の論理で理解しようとして苦労した時代もあったのではないでしょうか。あるいは「この時代は多数の神が存在すると思われていたのでこういった矛盾が議論されましたが、現代では神は一つですので『敬虔』の意味は明確ですね。」という説明で終了したのでしょうか。一神教はこの「〜とは何か?」に明確な回答を示すために矛盾しない神が要請され生まれてきたのかもしれません。

『パルメニデス』 プラトン

はじめに


プラトン中期のそれも後の方に書かれた著作です。なので、登場するソクラテスはすでにソクラテスではなく、プラトンイデア論を語るために用意された架空のキャラクターです。また、パルメニデスやゼノンとの対話形式になっていますがそれらの会話もすべてフィクションであると考えるべきでしょう。

俺の場合、時代順に読もうと試みて先日パルメニデスの断片を読んだばかりなので、プラトンイデア論はもちろん未読、まだ解説書レベルでしか理解していません。今回はパルメニデスを追って来たのですが、本来なら他のプラトン著作の後に当った方がいいのかもしれません。しかし書かれた順よりもテーマつながりで読んだ方が面白そうなので、イデア論そのものについての検討はまたあらためるとして、今回はパルメニデス視点で読んでいきたいと思います。

で、プラトンの主著の多くが岩波文庫に収録されている中『パルメニデス』はなぜか文庫化されていません。

それはなぜなのでしょうか? 読んでみたらなんとなくわかりました。後半が冗長すぎて一般向けではないのでしょう。今回俺もこの著作の構成をざっと見て、全部読む必要はないな、と思いました。

ざっくり言うと、以下のような構成になっています。

前半のイデア論の部分はゼノンとパルメニデスの理論に対し、ソクラテスイデア論を導入しようと試みるシーンです。後半(と言っても分量としては8割ほどを占める)はそのソクラテスの議論の大雑把さを指摘するパルメニデスが、哲学演習を実演するという不思議なシーンです。

この延々と続く演習が、文庫向きではないのでしょう。これは一般の読者にとっては苦痛なのではないでしょうか?

このブログは「IT系エンジニアが」と銘打っているのであえてIT用語で解説するならば、この後半部分は、boolean型の引数を3つ持つテスト用関数test()に対して、すべてのパターンのテストを行ないその理論が正しいかどうかを検査しているのです。

//何言語だよ、というつっこみは置いといて
funciton test(bool a, bool b, bool c){
  //テスト内容
  return hoge;
}

print test( true, true, true );
print test( true, true, false );
print test( true, false, true );
print test( true, false, false );
print test( false, true, true );
print test( false, true, false );
print test( false, false, true );
print test( false, false, false );

こんな感じです。これを全部追って行くのはかなり不毛なので、俺はこの後半部は最初の演習1だけ読んでどういうことをやっているのか理解すれば十分だと判断しました。

ゼノンvsソクラテス

このプラトンパルメニデス』の残念なところは、パルメニデスの「存在は一である」やゼノンによるその擁護が具体的にどのような主張であるかがきちんと記されていない点です。ゼノンが著書を朗読しそれに関してソクラテスが質問をする形になっていますが、そのゼノンの著作は現代には残っていないし、元になっているパルメニデスの思想に関しても断片だけでは十分にわかりません。このプラトンが書いたパルメニデスやゼノンの言葉をどれだけ本人たちの言葉ととらえて良いのかすらわからないのに、肝心の主張がソクラテスの質問や反論から類推するしかないというのは非常に残念でなりません。

この冒頭のゼノンの朗読とソクラテスの質問の部分は要約すると


ソクラテス:まわりくどい言い方をしてるけど、君が言ってるのは要するにパルメニデスが言ってることと同じだね?
ゼノン:はい、実はそうです。
ソクラテス:それにオレの理論を組み合わせてみないかい?
ゼノン:・・・。

と、こんな感じです。・・・の部分で弱ったゼノンにパルメニデスが助け船を出してくれるわけですが、それまでに展開されるこのソクラテスのオレ理論がイデア論です。

パルメニデスvsソクラテス

イデア論初心者の俺がこの『パルメニデス』を読解するにあたってイデア論とはだいたいこんなものだろうという理解に使ったのがオブジェクト指向です。ここではオブジェクト指向とは何かという話は省略します。今となってはイデア論よりはオブジェクト指向の方が判ってる人が多いであろうと信じて。

では解説。パルメニデスソクラテスに言います。


「しかしまあそれはそれとして、どうかぼくに次の点を答えてくれたまえ。つまりきみの主張だと、何か形相といったものが存在するときみには思われるというのかね。そしてここ(われわれの周囲)にあるもの、すなわち形相とはちがう他のものは、その形相を分取することによって、その形相がもっている呼称を[自分たちも]もつようになる。・・・」

パルメニデスは「存在は一である」と言っているのですが、ソクラテスは実物の存在と形相の存在があると主張します。しかしソクラテスは「だから存在は一つではない」と主張するのではなく


形相の存在がまず一つあって、それを分有する(部分としての?)実物の存在がある。だから時に多数に見えることがあるものも全体では一つである。

という風に自分の理論でパルメニデスの主張を補強しようとします。ここではパルメニデスの「存在は一である」がどういう意味であるかすらよくわからないので、かなりあてずっぽうに読んでいくしかないんのですが、断片で読んだことを思い出しながら考えると、


ある(存在)とない(非存在)があるのではない、存在のみがある。つまり存在は一である。

ということなのでしょう。そして、きちんとした説明がないので不明ですが、それがなぜか論理的飛躍をおこしてか「私とあなたの2人が存在する」のようなことも否定されているのがこのパルメニデスの主張のようです。ソクラテスは形相の存在を主張し、


私とあなたの2人が存在するのではなく、形相(人間)が存在する。つまり存在は一である。私もあなたも人間という存在を分有しているにすぎない。

の用に考えることで「存在は一である」を否定することなく複数の存在を説明しようとしているようです。しかしパルメニデスは「分有してる以上存在が複数になってしまう。おかしい」とソクラテスの主張を受け入れません。この辺からパルメニデスソクラテスの話が噛み合わなくなります。

ここからはオブジェクト指向を使って説明していきます。わからない人はすみません。

パルメニデスはクラスとインスタンスをごっちゃにして「一つである」と主張しているのに対し、ソクラテスが言っているのはクラスは一つでもインスタンスは複数ありうるんだ、ということです。それをパルメニデスは「複数のものに帆布をかぶせて一つだと言い張っているだけだ」と批判しています。ここでのパルメニデスの例え話は実体(インスタンス)の話から徐々に形相(クラス)の話に移っているようですが境目がはっきりしません。「帆布をかぶせて一つになったものがさらに複数あってそれに帆布をかぶせてもっと大きな一が・・・」のような無限ループは形相(ソクラテスは「それは観念です」と後でつけ加えます)の話であればあまり問題ないように感じます。それはまさにクラスの継承の話です。おおもとにObjectクラスがあって、サブにCreatureクラスがあって、そのサブにAnimalクラスがあって、そのサブにMonkeyクラスがあって、そのサブにApeクラスがって、そのサブにHumanクラスがある。Humanクラスのインスタンスが私とあなた、ということです。つまりオブジェクト指向的にパルメニデスの「存在は一である」を説明すると、


すべてはObjectクラスである。

ということになります。これがソクラテス(に語らせたプラトン)のイデア論的解釈でのパルメニデスの「存在は一である」の理解です。

さらに進めます。パルメニデスいわく


「いまわれわれのうちの誰かが誰かの主人もしくは召使であるとすれば、それは<まさに主人である>ところの主人自体というようなものの召使ではきっとないだろうし、またわれわれのところの主人が<まさに召使である>ところの召使自体の主人であるというようなこともないだろう。そうではなくて、人間の人間に対する関係においてこの両者なのである。・・・」

とあります。これは「召使インスタンスは主人インスタンスの召使なのであって、召使インスタンスが主人クラスの召使であったり、主人インスタンスが召使クラスのインスタンスであったりするわけではない」ということです。これにはソクラテスも同意しますが、つづけてパルメニデスはこう展開します。


「それなら、知識もまた」と言った。「まさに知識であるところの、自体としての知識なら、まさに真であるところの、かの自体としての真についての知識だということになるだろう」

「ところが、われわれのところにある知識となると、これはわれわれのところにある真についての知識ということになるだろう。そしてさらに、われわれのところにある知識というのものは、いずれもそれぞれわれわれのところにある事物のそれぞれの知識であるということになるだろう」

「ところがさて、形相というものは、それ自体としては、きみの同意しているように、われわれの所有とはならないのであり、われわれのところに存在することはできないものなのだ。」

これは「知識クラスは真クラスの知識である」「知識インスタンスは真インスタンスの知識である」「クラスはインスタンスとしては存在しない」といっているわです。その結果


われわれは真の知識を持ちえない。

と言っているわけです。これには「真クラスというのは何ぞや?それは定数だからクラスでもインスタンスでもないのでは?」とか「クラスメソッドってあるよね。」とかオブジェクト指向的にはいろいろ言えるわけですがそれはおいておきましょう。とにかく「われわれは形相の世界の真(神)にはアクセスできないし、知りえない」と言っているわけで、話の筋はだいたい通っているように見えます。

ところがここまで緻密な論理展開をしているパルメニデスが、ここでかなり飛躍してしまいます。


「そうすると、いま神のところに主宰する力と知識との、いま言われたような最高に精確なものがあるとしても、その主宰力はかのもののそれであって、われわれの主宰となるものではけっしてないだろう。また知識にしても、われわれを知るのにも、またわれわれのところにある他の何かを知るのにも用をなさないだろう。いや、そればかりでなく、同様にしてわれわれもわれわれのところにある支配の権力をもってかの神々を支配したり、われわれのところにある知識をもって神々に属することがらの何か一つでも知ったりすることはないのだし、かの神々もまた神々で、同じ論法で行くと、われわれの主宰者となることもなければ、人間のごたごたを知ることもないのだということになる、たとえかれらが神々であるとしてもだね」

これは


われわれは神々のことがわからない。だから、神々はわれわれのことがわからない。

と言ってるわけです。いつのまにか神はクラスで我々はインスタンスということになってしまってますし(神クラスと神インスタンスという話にはなぜかなっていない)、インスタンスがクラスをわからないからクラスがインスタンスをわからない、とは限らないわけですし。

そういうわけで最後の最後に論理展開がおおざっぱになったパルメニデスですが、うやむやになったままなんとなく説得されてしまったソクラテスも持ち帰り検討事項ということで了解してしまいます。

演習

ここからはパルメニデスアリストテレスによる演習がはじまります。これは前述のとおりテクニカルなテストです。内容は省略しますが、読んでいて疲れます。一応テスト1とテスト2は3回読みました。

まとめ

イデア論というのはこのようにインスタンスのことしか考えていなかったところにクラスを導入した、と考えたらわかるのではないでしょうか? ただし、くり返しますが、俺はまだこの本でしかイデア論に触れていないので、非常に間違ったことを書いている可能性はあります。ご了承ください。

で、俺にとってはプラトンよりもパルメニデスのことをもっと知りたいわけですが、この本からはこんな程度かなぁ、と思います。

ピロラオス断片

まだ、この本を読んでいます。

ソクラテス以前の哲学者 (講談社学術文庫)
廣川 洋一
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ヘラクレイトスからさらに時代をさかのぼり、この本に所収されている断片集を最初から読んでみることにしました。そして行き当ったのがピロラオス。これは面白い。簡単に言うならば「お前の言ってることわけわかんねー、でもオモシロイね」という感じです。

あるものはすべて、限定者であるか、あるいは無限者であるか、それとも限定者であるとともに無限者でもあるか、でなければならない。

これはわかります。パルメニデスが批判していた考えの一つです。ですが、

だが、ただ無限者だけであったり、あるいはただ限定者だけであることはできないだろう。

これはどういうことでしょうか? 前に言ってることと総合してみると意味がわかりません。これはきっと煙に巻いているのではなく、訳が悪いわけでもなく、本気でこれで伝わると思って書いているのでしょう。また、

(略)・・・これらのものは、宇宙秩序のうちにしっかり組み込まれるためには、調和によって固く結合される必要があったのだ。
調和(オクターブ 1:2)の大きさは、四度音程(3:4)と五度音程(2:3)とを含む。・・・(略)

自然と調和について語っている中で唐突に「オクターブとは・・・」と語りだすくだりに、ついつい笑ってしまいます。断片だから飛んでいるのではなく、これはこれで一連の文章なのです。この人は間違いなく頭がいい。これは頭が良すぎて凡人に伝えきれていない人の書く文章です。そしてあきらかに理系の文章。哲学と自然科学に区別がなかった時代の古き良き思考です。

ですが、正直言ってる意味は良くわかりません。このあたりをまるごと引用します。


調和(オクターブ 1:2)の大きさは、四度音程(3:4)と五度音程(2:3)とを含む。五度音程は四度音程より一全音(8:9)だけ大きい。というのも、ヒュパテ(E)からメッサ(A)までが四度音程で、メッサからネアタ(E')までが五度音程で、ネアタからトリタ(H)までが四度音程で、トリタからヒュパテまでが五度音程だから。メッサとトリタの間に一全音がある。四度音程は3:4の比をもち、五度音程は2:3の比をもち、調和(オクターブ)は1:2の比をもつ。かくて、調和(オクターブ)は五つの全音と二つの半音からなり、五度音程は三つの全音と一つの半音からなり、四度音程は二つの全音と一つの半音からなる。

訳がおかしいのか原文がこうなっているのかわかりませんが、今の音楽理論から言うと矛盾してます。ググった程度ではこれらのヒュパテとかメッサというような用語の意味が出てきませんでした。その道の専門書を当れば出てくるのかもしれませんが、ここではこのピロラオスの文章と現在の俺の音楽的知識からのみ仮説を立てながら読んでみます。俺はピタゴラスの音階にあまり明るくないのでちょっと誤解しているのかもしれませんが、かみ砕いて検証していきましょう。


調和(オクターブ 1:2)の大きさは、四度音程(3:4)と五度音程(2:3)とを含む。

これはいいですね。単なる命題です。それをこれから証明しようというわけです。ちなみに今の音楽理論でもこの命題は真です。


五度音程は四度音程より一全音(8:9)だけ大きい。

これも命題でしょう。これから証明しようというわけですね。


というのも、ヒュパテ(E)からメッサ(A)までが四度音程で、

ここからが証明開始です。ヒュパテとかメッサというのはよくわかりませんが、()内が正しいとすれば簡単なことです。EとAは四度音程です。ハ長調でいうと「ミとラは四度音程」ってことです。これはOK。


メッサからネアタ(E')までが五度音程で、

さて、ネアタ(E')というのは何でしょう? メッサがAだということを考えると、E'はAの五度上ということでEのオクターブ上のことだと推測されます。しかしEはヒュパテなのにオクターブ上のEはヒュパテじゃなくてネアタというのはよくわかりませんが、これがこの時代の音階なのであれば受け入れるしかありません。数学的な音程と平均律は厳密には一致しないのでその辺でヒュパテと別にネアタというEが存在するのかもしれません。とにかくAの五度上にネアタ(E')という音程があるということです。


ネアタからトリタ(H)までが四度音程で、

さて、そのネアタ(E')の四度上はトリタ(H)である、と来ました。Hは今でいうところのB、ハ長調のシですね。ネアタがEであればその四度上はAであるはずなので、やはりネアタ(E')はヒュパテ(E)とは別音程だということになるでしょう。そして/または、トリタ(H)がHつまり今で言うところのBとは別ものである可能性もあります。トリタが今で言うBところのであれば、その四度下はF#です。そうなるとネアタはF#だということになり、「メッサからネアタ(E')までが五度音程」に矛盾します。つまりネアタ≠E かつ/または トリタ≠今のBということになります。


トリタからヒュパテまでが五度音程だから。

今度はトリタ(H)の五度上がヒュパテ(E)である、と来ました。ヒュパテ(E)は最初に出てきた音程なのでここでは今のEと同じであると考えるしかありません。するとその五度下はAであり、トリタ=Aとなってしまいます。ではトリタ(H)は誤植でトリタ(A)であると仮定して戻ってみると、その四度下であるネアタはEであるということになり、'は何なのかとかヒュパテとどう違うのかはおいておいても、先の四度音程の矛盾が解消されます。

そういうわけで、「トリタ(H)」は誤植で「トリタ(A)」がが正しい、と理解してさらにドレミで書き換えると


E(ミ)からA(ラ)までが四度音程で、A(ラ)からE(ミ)までが五度音程で、E(ミ)からA(ラ)までが四度音程で、A(ラ)からE(ミ)までが五度音程だから。

となります。これは理論的にはすじが通っているのですが、同じことを二度言っているだけなのでちょっとおかしい。で、先の「ネアタ(E)というのはヒュパテ(E)のオクターブ上である」という仮説を復活させて、これに加えて「トリタ(A)というのはメッサ(A)のオクターブ上である」「ネアタ(E)のオクターブ上は再びヒュパテ(E)である」ということにしてみると、以下のようになります。


E(ミ)からA(ラ)までが四度音程で、A(ラ)からオクターブ上のE(ミ)までが五度音程で、オクターブ上のE(ミ)からオクターブ上のA(ラ)までが四度音程で、オクターブ上のA(ラ)からE(ミ)までが五度音程だから。

このように2オクターブで一周する音階だと考えるとスッキリします。しかし次の文ですべてが崩壊します。


メッサとトリタの間に一全音がある。

今の仮説では「トリタ(A)というのはメッサ(A)のオクターブ上である」だったので、「メッサとトリタの間に一全音」はダメです。完全に仮説崩壊です。ここは「メッサ(A)とトリタ(H)の間に一全音がある」の方が筋が通ります。しかし先述の「トリタ(H)からヒュパテ(E)までが五度音程だから」がおかしい以上どちらにしても説明がつきません。

あとは音程を上方向だけでなく下方向にも考えるという方法で矛盾を解消できないでしょうか?たとえば「トリタ(H)からヒュパテ(E)までは五度(下がる)」とか。それなら納得できます。しかしあまりにも強引でしょう。やはりネアタ(E')あたりがキーのような気がします。これ以上はピタゴラス時代の音階に関する文献をあたるか、くわしい人にコメントを貰うしかありません。

最後に残りの部分ですが、


四度音程は3:4の比をもち、五度音程は2:3の比をもち、調和(オクターブ)は1:2の比をもつ。かくて、調和(オクターブ)は五つの全音と二つの半音からなり、五度音程は三つの全音と一つの半音からなり、四度音程は二つの全音と一つの半音からなる。

上記の謎が全部解けたとして、はたしてこういう証明が成り立つんでしょうか?

と、そういうわけで、文体からは非常に引き込まれる何かを感じたものの、その内容は???な感じでいまいち掴めていないピロラオスです。音階問題に進展があればまた話題にのぼることもあるかもしれません。