極私的関大全共闘史  (2)


 「極私的」とは、神津陽著のタイトルを捩ったものだが、書き始める契機は、荒岱介の政治的センスというかナンセンスによる刺激である。荒は、自分が所属していた早稲田の法学部で運動をつくりあげた痕跡は全く無い。早稲田の法学部自治会委員長選挙で、少しは票を集めたそうだが、自分は逮捕拘留中だったと言っている。大口昭彦が議長として活躍した66-6年の学費学館闘争全学共闘会議の闘争も、文学サークルとの関わりがあったとはいえ、いわば助っ人のような関わり方である。それほど、自分の居場所のことに無関心な男が、どれほど、東大全共闘の闘いにコミットできたのか。しかも、それを、自分の自覚的な政治指導者としての活動の出発点であるかのように書いているのはいただけない。
 神津の「極私的」という表現には、そのような無自覚な党派人間に対する批判がある。尤も、関大全共闘について、書かないといけない、という私の思いは、1969年6月20日関大会館封鎖直後にあった。そのような思いを抱いたのは、関大会館封鎖直後の読売新聞の記事である。杜撰な内容を蔑んだような言葉で表現したものであった。尤も、とくに、その新聞の記者あるいは編集部がわれわれに悪意をもっていたわけではない。ちょっと遅れた学校の全共闘が、遅ればせに封鎖したか、という世間風というか通俗的な評価をしただけとも言える。ただ、少し、ありきたりの学園紛争とは違うとも感じたらしい。
 当時の学園闘争、とくに関大の運動を理解する能力も意欲も、当時の新聞社やそのスタッフ一般に、期待できるわけはなかった。
 とくに、1969年の6月末の千里山キャンパスでは、報道陣のカメラのフィルムが何枚も抜き出された。各新聞社のベトナム反戦運動のデモ取材や、とくに大阪市大での産経新聞の取材活動などが、極めて治安当局よりだと認識していたからでもあった。
 また、報道陣が、当時の関大が、どれほど民族派学生による恐怖支配下にあったかを知らなかったことにもよる。後、その69年の初秋に亡くなった同志社の「あの望月すら」(と公安の刑事ですら賛嘆する)、「この学校(関大)はなあ、ちょっと」とお手上げだった関大だった。そんな、関大なんだ、お前ら、正面から気楽に写真をとったりするなよ、と来合わせた大阪市大の学生が怒っていた。関大の学生にも言っていた。おまえとこ、半端やないやろ、ちょっと呑気やぞ。
 報道側も我々の行動に対して理解していなかったし、我々も信頼の持ちようがなかった。正面や横から撮られた写真については、即、感光廃棄を求めるしかなかった。
 同情を寄せる記者もいなかったわけではない。なにくれと気を遣ってくれたのも思い出す。
 面識も何もない、事件として知っているだけだが、朝日ジャーナルの記者として、「赤衛軍」を自称する学生の事件に巻き込まれ、思いもかけない人生を歩むことになった『マイ・バック・ページ』の川本三郎など、数少ない誠実な記者だったのだろう。しかし、Kと同種のうさんくさい連中もまた、無数にいたわけで、それが区別できなかったのかなあ、とも思う。川本は、いかがわしいと思いつつ、ということもあったようである。そういうどこにも行くところを見出しえない、寂しい者たち奴というか、政治的隘路のいかがわしいところに漂う多くの若者がいることも、視野にいれようとしたのだろうか。三田誠広の『僕ってなあに』や庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』から、村上春樹の『ノルウェーの森』もその当時のそのような気分を表しているかも知れない。ただ、私の感覚からして、『赤頭巾ちゃん……』の主人公を典型にして、Kより恵まれているという印象をうける。Kは、日大の学籍を得ていたようだが、そのような「学籍」すら得られない、「ルン・プロ」衆はたしかにいた。
 滝田修は、かつて、そんな、「ルン・プロ」こそを糾合するのだ、と叫んでいた。あれは、京大経済学部助手という自分の身分に対する後ろめたさからの、貧困層へ媚びかと、今にして思う。滝田もお坊ちゃまだったのか。結果は、『共産党宣言』の「旧社会の最下層からうみだされるこの無気力な腐敗物は、ところどころでプロレタリア革命によって運動になげこまれるが…むしろよろこんで反動的陰謀に買収されやすい連中であ」ったようである。
 多くの学生と接触していた筈の滝田修まで、絡まれているのである。Kが、『週刊プレイボーイ』のインタビュー記事で、「我々のバックは、みんなが知っている左翼の大物だ。」などと言っている記事をみて、この連中にも名前を覚えられ乗せられる可能性もあり名前を知られているとすれば滝田修しかいない、と即座に思い、その印象が外れて欲しいと思った。
 この事件は、関大全共闘とは、関係がない。しかし、関大全共闘をめぐって、得たいの知れない、渦がいくつも巻いていたわけで、それは、どこの事件でも言えることである。その渦のいくつかを見ておこうと思ったのも、神津にならって「極私的」とした一つの理由である。


 関大全共闘は、69年の6月20日に、関大当局に全学団交を拒否され、会館封鎖の実力行動をする直前の集会で、結成された。議長は法学部の深海信治だった。副議長として、文学部の今岡とか、社会学部の橋上とか、各学部を代表するものが執行部を構成した。書記長には、法学部の桝谷聡が入った。また経済、商、工の各学部の闘争委員会の代表も執行部を構成した。全共闘の執行部は、各学部の闘争委員会の共闘組織でもあり、微妙に、諸党派の連合ともなっていた。
 従って、各学部で、集会や討論をしているときには、そう気付かないが、封鎖前にも、全くトラブルがなかったわけではないが、会館封鎖を契機に、右翼民族派や応援団体育会と衝突がはじまると、ヘルメットの色が多彩であることに気が付いた。封鎖までは、ヘルメットなどをもっていると、右翼・体育会のテロリンチの餌食のしるしになること必至なので、いわゆる闘争スタイルは取れなかったのである。
 関大文学部の仏文は、どういうわけか、ML派が主流だった。そのグループの雰囲気は、とても堅気とも思えない、独特の雰囲気をもっていた。どうしても、応援団や体育会には、武闘で気後れがするまじめな学生には、やくざ映画のヒーローが持つような安心感をもたらすものであった。親分肌の櫻川、すぐに「いてまおか」とやりかねない矢尻、多くの工事現場を渡りありてきたような風格をもつ満野と、いずれ劣らぬ三者三様の迫力を備えていた。その極道もどきグループが「なんで仏文なんや」、その仏文が「なんでMLなんや」あまり詳しく聞いたことはない。ゴダールの『中国女』を連想しがちだが、関係はない。とにかく、関大の仏文闘争委員会といえば、その極道グループのことだった。変なことに、その極道グループがまた窶師(やつし)、つまりおしゃれなのである。たしかに、世間の極道も窶師だが、仏文の極道も窶師だった。封鎖前の4月、右翼支配下関大前で、吹岡が、「おっ革マルがいるわ」と連中に声をかけた。極道たちと旧革マルの女性がいた。矢尻は、流行のスーツに、当時の流行りの幅広のネクタイに長髪だった。「なんや、お前、その格好は!」という吹岡に、「何言うとんのや、俺は、これでやるんや」と、矢尻は、大上段に構える格好をした。様になっていた。安藤昇型だった。
 当時、やくざ映画としては、鶴田浩二高倉健東映の任侠路線だった。確かに高倉健の殺陣の様式美は典型だ。しかし、本物の愚連隊上がりの極道の安藤昇の殺陣はきれいではない。真上から叩き切るか突き刺す。安藤昇の意外な声の高さの違和感を吹き飛ばす迫力があった。矢尻のしぐさは、それだった。4月の鬱然とした関大にもいろいろ蠢いているものがあった。
 吹岡は、哲学科で知的野心も秘めていた。哲学科で男女を問わず人気があったのはそのせいか。元関大新聞界主筆だった井桁と二人で、右翼体育会に監禁リンチされたときに木刀でうけた傷を額にもっていたが、そのことは、連中の仕業を怒るだけで、恐怖とかは、全く意に介していなかった。空手の心得も、吹岡が放つ法螺の幾分かはあるようだった。

 
 1990(平成2)年3月、『関西大学年史紀要』第7・8合併号は「学園紛争の記録」特集になっている。薗田香融史学科教授と関西大学企画室年史編集課熊博毅氏の労作である。収録されたビラの量とバランス、経緯について書かれた要領を得た文は、薗田教授が、他に類を見ないであろうと自負されるだけのことはある。  
 1970年6月、関大法文D教室で、関大闘争1周年記念集会が開かれた。文学部の今岡が、中核派全学連の副委員長になったりで、中核派主導の集会だった。中核派のほかは、そんな余裕もなかったのかも知れない。
 前の全共闘議長として、元文学部自治会委員長の板倉元朝が登板した。「なんでや、なんでお前なんや」と、議長といえば、深海だとばかり思っていた私は叫んだ。板倉は、69年は、東京拘置所にいた筈だ。68年10/21御堂筋の事件で大阪地裁でも裁判をもっていて、同じように、法学部ブントの安部がやはり一緒に大阪地裁に送られてきていたので、その裁判に二度ほど傍聴に行ったのを覚えている。
 板倉は、空手二段の猛者で、機動隊員に怪我をさせたとかで逮捕起訴されていた。中核派のやつが言っていた。「板倉はなあ、顔がよいやろ、ヘルメットが似合うんやなあ。」髪も伸ばした髭もちょっと茶色っぽく、よく似合った。裁判では、開局間もないFM大阪でDJになりたての恋人のMが、真っ赤なワンピースを着て来ていた。今思うと傍聴席でもよく判るように、ということだったのかと思うが、そのとき、二人は、触れるほど近くで何か言うかしていた。なんであんな赤いドレス着て来とるのか、とも思ったし、あほらしくて、あまり見てもいなかった。それが、1年前の話だ。
 板倉は、にやりと笑って、「すまんなあ、おっさん知らんやろけど、関大全共闘は、68年に出来ていて、そのときに俺が議長になっていたんや」と言うのである。
 あの立て看一つなかったキャンパスにも全共闘があったのか、と思った。かつて関大千里山のキャンパスには、ところどころ、牧場の低い柵程度のものはあったが、基本的に柵などなかった。キャンパスの裏の下宿へ帰る学生も、自分の好みのルートをもっていた。 しかし、68年の後半は、治安はよかったけど、暗くなると、キャンパス周辺は危険だった。応援団か、その筋の学生に遭遇すると、「三派か?」と尋問をうける。少しでも抵抗をみせると、リンチが襲った。そこにも、既に全共闘があったのか?
 私は、69年に、天六にあった二部から、千里山の一部に編入したので、68年のことはよくわからなかった。さきの労作『関西大学年史紀要』(特集 学園紛争の記録)も、68年は全国情況で、関大のことは、69年の1月から始まっている。
 しかし、本当は、68年の初夏から、始まっていたのだ。私が参加したときは、苦汁をなめた後で、人知れぬ経験を積み、決意を秘めた連中がそこにいたことに、少しは鈍感だった。関大前の通りに、いくつかの喫茶店や食べ物やがある。当然に右翼の溜まるところもある。美山が、この喫茶店が、蒼野(失敗した69年1月の社会学部封鎖の首謀者で社青同解放派のキャップだった)が引っ張り込まれ前歯を折られたところだ、と教えてもくれていた。
 68年の初夏に、千里山では、今まで、学友会は、体育会、文化会、学研、各学部自治会などに、予算を欲しい体育会や活動のヘゲモニーが欲しい各党派などが、棲み分けていたのを、応援団、体育会が強引に、全学支配を敢行しようとして、大騒ぎになっていた。当然、応援団、体育会の連中が、そのような大それたことをできるわけがない。関大には、かねてから、民族派サークルや、オカルト系団体があった。それらを束ねるやつが、動きだした。それは、全国ネットワークをもって動くので、視野は大きい。簡単に言うと、関大は、民族派学生団体、日学同の一大拠点になったというわけだ。
 関大で、「三派か?」と言っている体育会系は、単なる、学校の犬の体育会ではなく、全国的学生政治団体の日学同の犬としての体育会だったわけだ。
 関大は、党派の見本市みたいなところだったが、それに対して、後に東京都副知事になる右図が、民族派としてオカルト右翼も巻き込み、応援団体育会や、外部の右翼ルンペンを糾合した大紛争になっていた。
 右翼がリードして、68年は終わっていたのである。関大では。しかし、ややこしいのは、左翼は、学外にも連携をもつ政治党派である。関大では負けながら、全国的な政治活動や、全国の他大学の共闘も平行してやっていた。全く無為に過ごしていたわけではない、種々修行していたのである。
 関大では、68年に他所でしていた学園闘争を、69年に遅ればせにやったわけではなく、他に例をみない政治闘争が行われていたのである。