谷崎潤一郎に学ぶ胸の谷間論

以前「谷崎潤一郎に学ぶ理想の女子高生論」という記事で、陰翳の創りだすエロスについて語ったことがある。

谷崎潤一郎が言っていたのは、照明の暗い部屋で嗜む吸い物のように、光が行き届かない闇や影こそ美しい、ということ。
それと同じことがミニスカ女子高生のパンチラにも言えて、パンモロよりもパンチラ、パンチラよりも「見えそうで見えない」がエロティックである、ということを述べた。


同様に、影が創りだすエロスとして挙げられるのが、胸の谷間である。

胸の谷間とは何だろう?
谷間の本質は、影なのだ。

胸の谷間とは、二つのおっぱいの膨らみの間で光が遮られる部分のこと。
光の当たって可視化される部分でなく、逆に光が当たらなくて不可視な部分にエロスを感じる。
なんとも逆説的である。

美しい絵画を見て感動するのは何故か。絵画を見るからである。
好きな子の乳首が見えて興奮するのは何故か。乳首が見えるからである。

ところが、胸の谷間とは「見える」ことでなく「見えない」ことに興奮する。
実に特殊なエロスであると言えよう。


さて、これまで「影のエロス」について、ミニスカ女子高生と胸の谷間の二つの例を挙げて紹介してきた。
ところが、実はこの二つの「影のエロス」は、全く異なる性質のエロスなのである。

まず、ミニスカ女子高生における「影のエロス」は、「不可視ゆえに創造力を掻き立てられる」こと。
つまり、影になってよく見えないからこそ、パンツが見えそうで見えないけど影がなければ見えてるんじゃないかとか、黒い影に見えるけど実はコレは黒いパンツなんじゃないかとか、そういうエロティックな妄想が捗るのである。
これが、ミニスカ女子高生における「影のエロス」。

一方、胸の谷間における「影のエロス」は、「おっぱいの再認」ということなのだと考えられる。
つまり、谷間があるおかげでそこにおっぱいが存在することを確かめられるのだ。

おっぱいと谷間は互いに随伴的なもの。
おっぱいあるところに谷間あり、谷間あるところにおっぱいあり、である。

実は、おっぱい単体ではそれがおっぱいだと認識するのに不十分であることがある。
特に貧乳のとき。おっぱいの色は周りの皮膚の色と同じだから、おっぱいの皮膚と周りの皮膚との境界線が非常に曖昧である。

ところがそこに谷間があれば、それがおっぱいであることの証明になる。

画家が立体的なモノを描写するとき、何をもって三次元的な広がりを表現するか。
それは、影である。

つまり、影とは立体的な広がりを示すのに必要不可欠な要素。
おっぱいとは起伏を持つ立体である。したがって、おっぱいに影は必要不可欠なのである。

そのため、谷間があるとき我々は安心して「おっぱいが見えている」と信じることができる。

おそらくこのような理由から、胸の谷間の「陰翳」はエロティックなのだ。


谷崎潤一郎が言いたかったのは、もしかしたらこういうことだったのかもしれない。