Hatena::ブログ(Diary)

いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」別館

2017-09-17

自衛隊は電力事業に参入せよ〜ミサイル防衛の将来

北朝鮮ミサイル騒動は、マスコミを賑わす恒例のお祭りと化したようだ。日本政府も悪乗りしすぎで、ここぞとばかりに便乗商法に精を出すという商魂逞しさと意地汚さを露呈した。

ここで大騒ぎしてみてもはじまらないのに、無駄に国民の不安を煽って、米国軍需産業の売上高貢献の為に、軍事費拡大を急ごうという魂胆が丸見えである。


日本政府は陸上型イージスの導入を公言したらしいが、今年の北朝鮮ミサイル迎撃には何一つも役に立たないということを証明しただけである。言葉は悪いが、型落ちのガラクタを大金で買わせようという、あさましい中古品屋の店主のような根性みたいなものだ。


そんなものに投資するくらいなら、未来に賭けた方がまだマシである。数千億円もの無用のガラクタを買おうというのは、狂った基地利権の固守の為であろう。それならば、研究開発費に同額を投ずるべき。


どうせ無駄金に終わるとしても国内防衛費として使った方がよく、ミサイル防衛として大きく2つの分野が有望と考える。一つは、「レールガン」である。もう一つは、「レーザー兵器」である。いずれも米軍の開発が進行しているようであり、非現実的なものとは思わない。
日本でも、リニア鉄道や粒子加速器が開発できているので、素地はあるのではないかと思うがどうだろうか。


まずレールガンについてだが、弾道ミサイル等のブースト段階での撃破を狙う方が有効なのではないかと考え、その破壊手段として挙げたわけである。ICBMは再突入後の速度が速いので迎撃が難しいとされるが、上昇途中であれば困難性は低下するであろう。

第一ロケットの燃焼時間が1分と仮定し、3000m/s程度の速度であれば高度180kmまでの上昇となる。この段階での破壊を想定する。レールガンで高度20〜180kmの間にあるミサイル撃墜を目指す、ということになる。効果の高い弾体の研究とか、射出装置の開発とか、日本でも可能性はあると思う。初速は、早いにこしたことはないし、マッハ7級で撃てるならそれが望ましいだろうが、ブースト段階のミサイル無防備かつ割と遅いし捕捉もそう困難ではないはずで、少々遅くなった(例えばマッハ5)としても効果が期待できるし、直撃弾とは限らず至近をかすめる程度であっても効果があるのでは。衝撃波ミサイル姿勢異常で落下するとかロケット切り離し失敗等の異常発生でも役割を果たせる、という意味です。
また、弾数はそこそこ数を撃てるはずで、イージスシステムよりはマシと思う。


実施の問題点として、射程とエネルギー供給というのがある。
300kmくらいの射程であると、発射後1分以内で捉えられる範囲に、かなり接近する必要がある。そこで、射出装置はタンカーのような大型船に設置する「ガンシップ」型のようなものが必要となろう。


大型船である理由は、大量の電力供給システムが必要だからである。弾数に応じて、発電機なり蓄電設備なりを装備しておく必要があり、原子力船を作るのも難しいなら、タンカーみたいな船でも用意するしかない。


とりあえず大型船を含む艦隊を「ミサイル防衛ユニット」とでも名付けることにしよう。
ガンシップ1隻に対し、護衛艦2隻を組み合わせて、発射地点を射程内に捉えられるよう、日々移動を繰り返す必要があるだろう。ガンシップはレールガンを装備してはいるが通常戦闘には不向きで、航空機からのミサイル攻撃などには脆弱であるかもしれず、護衛艦がまさしく「護衛」役として求められるだろう。


ガンシップ自体は、必ずしも通常戦闘を想定しなくてもよければ、コストはあまり高額とはならないだろう。ミサイル防衛を有効に機能させるには、このユニットを何セットか作る必要がある。
それから、ブースト段階で撃ち漏らしたとしても、再突入後の弾頭に対して、再度迎撃機会はあるかもしれない。予備ユニットも使える。


次に、レーザー兵器であるが、こちらは陸上設置を想定。
高出力レーザーはかなり研究が進んでおり、日本においてもいくつかの研究グループがあり、その一つのチームは世界最高水準の出力を報告していたはず。


迎撃は、より宇宙に近い高高度を想定しており、弾道頂点付近では速度がかなり低くなることから、破壊チャンスがあると考える。
こちらも電力供給が問題点となり、高エネルギー供給システムの構築をどうするか研究が必要である。また、レーザーの屈折で狙った標的にヒットできるかどうか、というのも問題視されよう。


そこで、映画の『シンゴジラ』で見せたゴジラの防御法を参考にしたい。簡単に言うと、レーザー光が一条であるとミサイルにヒットするのが難しいかもしれないが、適当に一斉照射すると当たるかもよ、ということである。竹箒の先、のようなものを想像して欲しい。一条のレーザー光ではなく、箒のようにドバっと何条かのビームを一斉に放出するのである。
普通のレーザーポインターの場合だと、狙いをピタリと一点に当てねばならないが、円形グリッド風に多数の光条を照射すれば、そのうちのどれかはヒットできるのではないか、というものである。ペン型のポインターを20本くらい束ねて円形状にして照射すると、ある広さの範囲に散らばるのでそれを少し振動させると何れかのレーザーが当たるだろう、ということ。


これであれば、レーザーが屈曲して目標とズレが生じたとしても、ミサイルが通過するであろう空間に向かって「面」照射のような感じで撃てば、ヒット率が上がるのでは。ミリ秒オーダーでヒットできれば、ミサイルの故障や一部破壊が生じて正常に機能しなくできるだろう。


ただ、一条にエネルギーを集中するのではなくなるので、いっぺんに多数照射を可能とする「レーザー出力」の確保が難しいということになろう。なので、陸上施設として大型供電設備を確保し、高度が200kmよりも高い領域での撃墜を想定する。
誤差が50メートル内程度まで縮小できれば、竹箒式面照射でヒット可能かと思うがどうだろうか。


このように、ミサイル防衛の将来性を見据えた開発をする場合、どちらにも欠かすことのできないのが、エネルギー供給能力、殊に一時的な大電力供給である。そこで、自衛隊が自国防衛の最優先手段として、発電・給電設備をある程度自前調達するのはどうか、という話である。


例えば、「レールガン」のガンシップの場合、平時であると電力は必要ではないので、持って移動しているだけである。が、常時保持する必要があり、これを数ユニット分用意しなければならない。殆どが洋上での警備警戒行動となるので、できれば「洋上発電基地」のようなものがあると便利である。そこで蓄電も可能、ということにもできる。海洋油田のリグのようなもの、でもいい。発電できて、レールガンの射出に使わないなら、余った電力を民間に供給(売電)して、防衛予算の足しにしてもいい。


陸上のレーザー施設においても同様で、大量電力が一時的に必要になる非常時には民間の電力をも遮断してレーザー施設に電力を集約し、平時には民間に売電できるように余剰分の電力を融通するといったことを検討すべきでは。


そうすると、電力(施設整備含む)事業を自衛隊が自らある規模で実施した方がよい、ということになり、効率的な給電や蓄電方式についての研究は欠かせない、ということになろう。発電による収益が自衛隊自身の費用をカバーするのにも役立つので、自力開発を進めるべきである。


最初はどれほど不格好であろうとも、まずは独自開発・生産ができない限り、何も始まらない。日本製の自動車オートバイだって、最初は笑われていたじゃないか。技術は磨くしかないのである。

2017-08-26

『シン・ゴジラ』私的鑑賞概説〜2

ゴジラ鎌倉から上陸後、多摩川でこれを阻止する作戦―「タバ作戦」が決行されたわけだが、これは福島原発でいえば12日の「1号機のベント」作戦(+電源車到着後の電源繋ぎ込み)だろう。


総理の「命令」があり実行したので、同じである。『シン・ゴジラ』においても作戦失敗となったように、1号機は水素爆発してしまい「1号機のベント」作戦は失敗に終わったのだ。作業員(自衛隊員)たちの現地から退避を余儀なくされたのも同じ。


ゴジラ自衛隊を退け、米軍のB2を落とし、街を破壊したわけだが、多分あれが1号機水素爆発ということであろう。
12日の爆発後、3号機爆発の15日まで少し時間が空いていたのと、ゴジラが一旦活動停止になりしばし小康状態になったのは似ている。
ゴジラの進撃に伴い、電力が切れて街がブラックアウトしてくゆシーンは、輪番(計画停電における都内の夜景と同じだった。


ヤシオリ作戦」の実行過程は、2号機・3号機の冷却を継続し、1号機と4号機使用済み核燃料プールを含めて冷却をするという過程そのものであったろう。

1号機爆発後の高放射線量地域において、作戦遂行に参加するというのは、ゴジラの攻撃による汚染そのもの、ということだ。ホイールローダー瓦礫排除+ポンプ車で冷却というのも、原発事故の時と同じ。


ゴジラに凝固液投入をするも、第一小隊が全滅したわけだが、あれは3号機爆発の経過ということだろう。福島原発では13日以降であっても少しは冷却を実行できていた(1号機には海水注入が、2・3号機はRCICやHPCIが稼働していた)が、「再びゴジラが暴れ出す」=3号機爆発という状況になった。放射性物質は降り注いだが、ここで諦めるわけにはいかない、ということで、そのまま作業を続行した(現実には、自衛隊チヌークが水をかけに行き、現地に残った作業員たちと共に陸自レスキュー隊や機動隊にも放水決死隊の出動が命ぜられた)。


福島原発のとりあえずの冷却体制が実現できたということで収束をみたのと、ゴジラの活動停止は等しく描かれたわけである。
実施されたゴジラを倒すそれぞれの方法は、現時点の人類が可能なことの集大成だった。「現実対虚構」の意味とは、そういう点にもあるだろう。


また、映画中には、字幕で人物名や装備名などがいちいち表示されるわけだが、これは「全てに名がある」ということを示している。


先に挙げた12年7月の記事で書いたが、「名もなき英雄たち」は、現実にはぞれぞれに名があるのは当たり前で、単に国民は誰も彼らのことを殆ど知ることがない、というだけである。東電の吉田所長とか東京都レスキュー隊長は、記者会見等で名前も存在も知られたが、その他大勢の方々については知られることがなかったわけである。


けれども、福島原発事故に関わった全ての人々には、名前や所属や何らかの属性があった、普通の人々のはずなんだ。一人ひとりの名は、確かにあるんだということ。


事故を収束に向かわせたのは、現場力であり大勢の技術者たちの技術力なんだ、と。

12年12月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/b098d5bb95aae35232fccada6363e61d


また、任務を遂行したのは、死をも覚悟した人々であり、気合いなくしては日本を救うことなどできなかったであろう、と。

14年6月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/6c0aaf17dd49c566ade7f39a6044a797




シン・ゴジラ』が意識的に「特定の人々」に向けて作られたであろうと思うのは、いわゆる「オタク」向けという印象を受けるからだ。これは、悪い意味ではなく、むしろ敬意を払っているとか、感謝に値するということである。


オタク」という名称が定着するのは、「タク八郎」のような人が登場するようになって以降かもしれないが(個人の感想です)、存在自体はずっと以前からあったわけである(そして、その存在はどちらかと言えば、薄気味悪く気持悪い変人、的な捉え方だった)。

特に、特撮マニアというジャンルはアニメ時代が来るより古くからあり、ゴジラシリーズのマニア(今ではオタというかもしれない)とか、仮面ライダーシリーズの人とか、ウルトラマン系の人とか、割と細かく区分されていたのではないかな。少年とかの子供なら分かるが、いい歳をした大の大人が「ウルトラマンかよ」的なネガティブな見方が一般的だったように思う。


ビデオのない時代で、再上映とかくらいしか情報入手手段がなく、それでも古い雑誌等文献(笑、と呼ぶのが相応しいか別として)を漁ったり、互いの知識を交換したりして、更なる専門知識を深めるとか、マニア同士しか通じない話が沢山あったものと思う。誰よりも何でも知っている人は、「神」として仲間内で崇められていたことだろう。
(そういうのは、多分映画でも同じで、寅さんシリーズのマニアとかは普通の人が全然知らないことでも色々と知っている、みたいなものです)


オタクが社会で認知されるより以前から存在してきたマニア諸君、そういう人々への敬意が、『シン・ゴジラ』には盛り込まれているということだ。

分野では、
・怪獣ゴジラオタク
鉄道オタク
アニメオタク
エヴァンゲリヲンオタク
・ミリタリーオタク
といった具合である。


鉄オタは、ゴジラにやられてしまう路線・電車とか、ヤシオリ作戦での電車攻撃の大活躍ぶりとか、狂喜乱舞だったのでは?
自衛隊の装備とか攻撃とかも、ミリオタの心を刺戟するものだったのでは。


それに、音楽の使い方が大変上手くできており、エヴァンゲリヲンを彷彿とさせるシーンもそれなりに入れていた(例えば、複合機をズラリと並べる、ラップトップや無線機を並べるといった、斉一性を示すシーン)。ヤシマ作戦になぞらえたかのような「ヤシオリ作戦」。くすぐってくれるじゃないか、と。

初代ゴジラへのリスペクトは、音楽に最大限に表現されていたように思う。お約束の「銀座和光ビルを破壊」もそうか。
何より、映像・表現したいシーンと素晴らしいマッチング(元ネタ映像との対比)で、オタク心に響いたのではなかろうかと。


巨神兵の「なぎ払え!」』(ゴジラ放射線流攻撃)を見せたのも、オタクへの敬意であろう。80年代のアニメ復活を支えたナウシカ、数年前の庵野監督の特撮巨神兵」などを見たことがあれば、ああそうだなって思うだろうから。



ネットが発達して、情報や知識入手は昔に比べて簡単になったし、DVDもあるから作品を何度も観返してみることもできるようになったし、作品を理解するのは便利・容易になったと思う。


昔のマニアの人達は、もの凄い努力、苦労、労力を払っていたのだな、と思う。だからこそ、その集中力は、凄かったんだなと思う。上映1回で、かなりの情報収集をしなけりゃならないし、記憶せねばならんので。
そうか、集中し過ぎて興奮気味なので、封切り後の映画館では、鼻息とかが「くふー、ふしゅるー」ってなってて、余計に気味悪い人物にしか見えないものね。独りでブツブツと小声で何か言ってたりとか。
専門分野(自分の好き・得意なマニア領域)について質問されたりすると興奮してしまうので、喋る前の呼吸が深くて荒く、早口になりがち(しかも嬉しさのあまり何処となく勝ち誇った感じ)なので、一層気持ち悪く見えてしまうのかも。


話が逸れたが、昔の「不遇のオタク」時代からすれば、今は随分とオタクへの抵抗感は薄れたし、ネガティブな評価も減ったし、女子にさえ浸透するようになったし、時代は変わったなと思う。
私は、ずっとオタクとは無関係であり、何かのマニアでもなかったので、そういう世界はあまり知りませんが、一部に垣間見ることはあったような気がする。


シン・ゴジラ』は、過去から連綿と続いてきたオタクたちを肯定する作品として、生み出されたのかもしれない。


それと、ゴジラが破壊するのは東京なのだが、高放射線量地域とされたのが、日本の中枢たるこれぞニッポンという、千代田区界隈(映画中だと国会議事堂霞が関銀座、赤坂など)で、そこが焼き尽くされたというのは権威の象徴をぶちのめす描写神罰というか地獄の業火、みたいなものということです。
政官財の権威中枢に対する異議の暗喩、とでもみるのでしょうか。


ちょっと難点というか、気になった点も書いておこう。
凝固剤の投与だが、あれはまるでカラ井戸にジャアジャアと流し込むように入れるだけで、それが血中(体液中)に吸収されるであろうという決め付けには疑問の余地がある。経口投与というのにどれくらい効果があるか、ということである。

恐らく「核兵器や海洋投棄された放射性物質」の残骸等を「食べた」と思しき形跡から、「経口摂取は可能」という判断だったものと思うが、「何かを食った」というのと「液体をゴクゴク飲む」というのは、違いがあると思う。

ゴジラ転倒後、口に流し込んだとて、それが人間で言う「嚥下」されるかどうかは、判断が難しいのでは?
もっと問題になるのは、第一小隊による投与後に動きが鈍ってから、もっと「凝固させよう」ということなら、嚥下行為そのものが停止されるのでは、と不安に思うのでは?

けれども、口にジャンジャン流し込んだら全量吸収されてしまい、それが体液中に溶け込んでゴジラ冷温停止となる、というのは、こちらにとって都合のよい解釈ではある。人間だって、気絶してて倒れている人に、口から水でも輸液でも流し込んだとしても、零れるばかりで殆ど入っていかないよね。粘膜からの吸収があるとて、流し込み速度と量からすれば比べ物にはならない。もっと違う投与経路か効果発現を考えるべきだったが、福島原発事故での「ポンプ車と注水」という舞台装置(制約・条件)の必要性からこうなった、という事情も分からないではない。



本作は、ゴジラ映画という「壮大な虚構」なのだけれども、まるで本物のように描き切るという挑戦(実験的?)があったわけだ。
ゴジラ退治の手段が「現実(人間の力)」という以外にも、『シン・ゴジラ』という映画(=虚構)と現実世界の本物との比較(リアリティ追求の対決)という面もあるかもしれない。


海外の人からすると、この映画のよい所は、日本人的な面を知るには良い教材になり得る、ということかもしれない。予備知識なしで、この映画を楽しめるかというと外国人には結構難しいかも。ああ、日本人でも子供とかはちょっと良く分からない部分はあっても、気にしなければ普通の娯楽映画として楽しめないわけではないか。


観る人によって、様々な解釈が出てくるというのが本作の魅力だろう。
もっと繰り返し鑑賞してみると、見落としてたり気付いてない部分とか、まだまだ出てくると思うので、『シン・ゴジラオタクには話の種が尽きない映画なんだろう。


種々の解説なり評価論が出されるなら、そのこと自体に大きな価値があるという素晴らしい映画なのだ。

2017-08-25

『シン・ゴジラ』私的鑑賞概説

昨年の大ヒット作と言われたゴジラだったが、やっと先日レンタルで観ることができた。
で、今月はブログ記事を書いてなかったし、何となく個人的感想などをまとめてみようかな、ということで、夏休みの宿題的感想文を少々。


物語は、誰もが思い浮かべるように、東日本大震災であり殊に福島原発事故をモデルにしたもので、恐らく「事情通」であればあるほど、よく描かれていると感嘆するであろう作品だと思う。


シン・ゴジラ』の最大の魅力は、「決まったヒーロー」が存在しないという点にある。ウルトラマンでもスーパーマンでもいいのだが、そういった「怪獣モノ」「ヒーローモノ」にあるような超人的英雄が事件を解決するのではなしに、ごく普通の「人間の力(叡智)」だけでゴジラを倒すということに価値が置かれている。人智を超えた(都合のよい)非現実的存在と、それによる解決法を拒否するということからこの映画は作られている、ということなのであろう。


また、日本の「特定の人々」が受ける印象と、例えば海外の人々とか日本国内でもあまり関心・関係の薄い人々が受ける印象というのはガラリと異なるのではないか。多分、「特定の人々」に向けて一生懸命に頑張った映画なのではないか。そのような映画の割には、大ヒットだったようなので、大健闘を讃えられてもよいと思う。

「特定の人々」にとって共感性が高くとも、一般大衆ウケするかというのは何とも言い難いし、一回観たくらいでは難しいというか難解という面もあるだろう。その点、今回はレンタルだったので、何度か見直しできて良かった。


初回は妻と一緒に観てたのだが、妻は「よく分からない、悪くはないのかもしれないけど、何が面白いのかもよく分からない」ということだった。まあ主婦にとっては、そうなんだろうね…

私からすると、物語進行は「事故調査報告書」のようになっているのだな、と古い記憶が喚起されたわけである。


以前に、国会事故調の報告書を読んで、思わず涙したという告白を書いたことがある。

12年7月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/e86e7ca57d08ea20637c249807fcc20a

(再掲)

151ページからの、数十ページは、涙なくしては読めなかった。
福島原発の、あの恐るべき状況の中で、現場の人々が苦闘する姿が脳裏に浮かび上がるたびに、その勇気と覚悟を思い、嗚咽が漏れた。
彼らがいなかったら、日本は本当にどうなっていたか分からない。

死の恐怖と戦いながら、決死の作業を遂行したのは、名もなき英雄たちだ。
東電の高給取りのエリート社員ではない、下請の協力企業と呼ばれる最前線の戦士たちだ。
1号機が爆発した後も、作業を続けねばならなかったことを思うと、胸が締め付けられた。


=========


私と同じ報告書を読んでも、多分圧倒的大多数の人々は「何がそんなに?」と思うに違いない。あの事故報告書には、「感動の物語」とか感涙を誘うような記述というのが、どこにも明確には書かれていないから、だ。


けれども、淡々とした記述の中に「命懸けで戦う人々」は確かに存在しているのだ、ということ。それが感じとれる人には、きっと分かってもらえるだろう。『シン・ゴジラ』では、まさにこれを描き出したのだな、と思えた。


参考:
11年4月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/a3e4e9f02a1084041653ff400dc1184b



ゴジラが最初に蒲田に上陸し被害をもたらしたが、福島原発事故でいえば政府の対応が定まらず1号機の格納容器の圧力が高まった状態、既に燃料溶融で圧力容器が貫通していた時であろう。
まさしく「3.11」、その日だった。ゴジラが川を上ってくる様は、津波被害のさまと似ているのだ。車列をかき分けて進撃するのも同様。
総理の現地視察も同じ(翌日)だった。


政府が事態をよく把握できぬまま、事件が進展してゆく様子もよく描けており、政府の会議席上で官房長官が「会議中止、テレビつけて」といってゴジラの尻尾映像を見て、初めて深刻さ(ゴジラの存在)を知るというのも福島原発事故(1号機水素爆発の時)と同じだった。ゴジラの進化とは、原発事故の進展そのものであった。

当初、ネット上で不正確な情報が拡散してゆく様もやはり同じであり、「メルトダウン危機」が人々の噂に上っていった(11日夜)のと「怪物ゴジラ)の存在」のネット情報という対比だった。


日本人っぽさを示す描写として、ゴジラの初回襲撃を受けた翌日なのに、電車は日常とほぼ同じく運行し、子供達は登校したり会社に通勤する、というシーンが意図的に置かれていた。確かに、大震災の翌日、3月12日には人々の行動はそうだったのだ。大きな被害を受けた直後でも、何故か人々は日常と同じ行動・動作をとろうとする、という不思議な部分というか、国民性?のようなものを敢えて入れたのではないかな、と。


ゴジラに対し最初の攻撃機会(コブラ4機)を迎えたが、あれは恐らく「ベント」の実施を抽象化したものではないかな。
1号機の格納容器を破壊から救うには、ウェットベントが実施不可能だったのなら、ドライベントであろうとも早急に実施した方がマシだったのだが(後の水素爆発で建屋ごと吹き飛ぶよりはいい)、その機を逃したということであろう。何故なら、住民の避難が済んでいなかったから、である。
ドライベントを行えば、放射性物質大気中に放出されるのは明らか=国民(住民)に被害をもたらす、という点で、『シン・ゴジラ』で言う「国民に銃弾を向けることはできない」というのと同じなのだ。


そして、「最初の機会」を逃したら、更なる大被害が待ち受けていた。

(ただ現実には、理解してもらうのが非常に難しい。治療せず手をこまぬいていたら患者が死ぬ、という時、治療をすれば○○という危険があり後遺障害が残るので被害は不可避と医者が知っていても、患者や家族はそれが理解できない。治療せずに放置して患者が死んだ結果を見れば、「ホラ、やっぱり障害が残ったとしても治療した方がよく、死ぬよりはマシだったのでは?」ということの意味が分かるだろうが、死なない限りはその比較が分からないだろう。死んでなくて、後遺障害だけ見せられたら、「死ぬよりは〜しておけばよかった」ということが理解(実感)できないので、少々の犠牲を払ったとしても最悪の結果を回避する為には実行した方がよい、ということが分からないということである。)


 (つづく)

2017-07-22

無能エリート気取りが支配する国、日本

アベノミクスをぶち上げた時、「わっしょい、わっしょい」と手放しで大絶賛していた者たちを憶えているだろうか?


いとも簡単にデフレ脱却ができるかのような大宣伝効果は、当初にはあったのかもしれないが、現状では大勢が見放しているであろう。
黒田日銀とて同じ。出足はそこそこだったが、慢心と油断以外の何物でもなかったということが、現在では誰の目にも明らかとなったのではないか?


早期増税で回復の兆しをあっさりと潰しただけではなく、「何が必要か」「どうすればよいか」という評価も次善策も何ら打ち出せない政府は、単に「自らの失敗」を認めなたくない、認めぬよう見て見ぬふりをしている、という稚拙な態度になっているだけである。


これほどの失敗例を目の当たりにしてでさえ、経団連経済同友会をはじめとする大企業経営者たちは「さっさと消費税増税をしろ」の大合唱を続けているというのも、余りに滑稽であり、なるほどこうした連中が経済界を牛耳っているので今の日本のような惨状となっているのだな、ということがよく分かるだろう。


日本のエリート層―政治家、高級官僚大企業トップ、マスコミやネットを賑わす識者たち、学者(主に経済学)は、筆舌に尽くし難い能力不足と反省のなさと学習能力欠如であるとしか思えない。
その上、政策決定には圧倒的な権限・権力の大きさと影響力の大きさを備えているが、謙虚さは全く備えていない。

その成果が、この20年である(笑)。


もう4年経とうとしているが、お忘れのようなので、警告を再掲しようか?

13年10月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/f85561cf30aca58da732150d38c02358

政権発足直後の3月時点から警告したが、愚か者たちには警句は届かないのだよ。

15年9月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/4ce500be71ce45add18a673e655545b9


まあ、無能にはいくら忠告しても無駄だろうけどね。だって、学習能力が欠如しているんだもの。
消費税増税せよ、みたいな思想ってのは、企業経営者あたりになると、どこから仕入れるんだね?銀座のクラブやキャバクラあたりとか?
彼らに入れ知恵する輩というのが、どこら辺なのかが知りたいわ。彼らのクソ知識培養装置は、一体全体どこにあるのか?
感染後の連中をいくら攻撃しようとも、それを生み出す装置そのものがどこにあるのかを探知しないと、同じことの繰り返しだな。覚醒剤中毒者の末端使用者をいくら摘発してもイタチごっこであり、製造元なり密売組織元締めを探し出して撲滅しない限り、クソ知恵を偉そうに語り日本経済どん底へ落とす愚か者たちの量産は防げない。


少し話が逸れるが、ネット上で軽く話題になっていたのが「お局を蔑んでいた人物が年をとってお局になった」的な話ね。ドラマのセリフではないが、「女が若さを武器にして年配者を攻撃したり蔑んでいると、あっという間に自分自身が同じ立場になるという悪夢を味わう」(?かなり不正確だが、そんなような感じ)というのを体現していたわけね。
10年ひと昔、なんてことを言いますが、20歳女性もあっという間に30歳になってしまうわけです。35歳未満と以上では、生涯未婚率に開きがありますので、時間との勝負ということになりましょうか。
次から次へと来る「若い女性」に対する需要は旺盛ですが、出産適齢期を過ぎた女性に対する男性側需要は、着実に減退するものと思われますので、まあできれば「真実の愛」を早めに発見できると良いですね(ニッコリ)。


で、話を戻そう。拙ブログでは、この十数年余、同じようなことを繰り返し訴えてきたわけですが、何らの役には立ってこなかったわけです。12年前って、一回りですから(笑)。

05年10月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/4ee2e6f5d86220bd0f7addd473a342c7

(一部再掲)

医療介護の需要は今後も大幅に減少したりはしない。人口比で65歳以上が今の20%くらいから30%超になっていく過程では、2400万人から3600万人に増加していく。疾病率が多少は減少したとしても(予防効果などで)、病気の人が半分以下などには直ぐになったりしない。つまり、同じ病気になる実人数が普通に言えば1.5倍となるけれども、うまく予防できて発病を2割削減できたとしても、1.2倍に増加する。例えば脳血管障害患者(所謂脳卒中とか)が現在毎年30万人ずつ発病(全くのいい加減な数字ですから。実情は知りませんから)だとすると、3600万人時代には今と同じに行けば年45万人に増えるが予防がうまく行って9万人減らせたとしても36万人は発病することになるのである。この36万人に対する治療やケアなどが不必要になるわけではなく、現在の医療サービス、例えば看護師1人当たりの受け持ち患者数が限界である時、必ず看護師の増員が必要となるのです。介護にしても、如何に効率化を図るといったって、1人の職員が一定限度以上のサービスを物理的に担当出来ないということです。ケアマネージャーだって、受け持ちを1人で千人とかには出来ない、ということです。結局そこには人員配置が必要になるということを言っているのですよ。


その時に、専門職の1人当たり単価の高い人員(例えば医師看護師薬剤師、・・・)を全部に今と同様に配置するよりも、専門性はやや劣るが単価の低い人員を配置する方が有利だ、ということを言っているのです。前にも書きましたが、専門性によって仕事の壁が作られている、これを少し弾力化して人件費抑制に作用させた方が、事故も防げるようになるかもしれないし、サービス自体は向上するかもしれないですよ、ということを言っているんです。予算の関係で総額をキャップ制にして抑制したからといって、医療サービスの総量自体を大幅に減少させられるというものでもないでしょう、と言っているんですよ。


医療介護への予算を削減すればそこへの雇用も減らせるし、生産性の低い労働集約的産業に人口減少で貴重となるであろう人的資源を配分するべきではない、と主張するのであれば、それなりの適正化策を出せと言いたい。いっそ、全国の均等な計画的配置に変えることにしたまえ。人口当たりで担当ゾーンを設定して、圏外には受診できないようにして全医療関係従事者の仕事量を均等化するんですね。それをやっても、一人当たり仕事量にはバラツキがあるけれど、でも最大の限界仕事量に最も近づけるかもしれんぞ?


前に書いたが、団塊世代引退などで、これから10年で700万人以上退職するから空きは出来る。次の10年で500万人が労働人口(15〜65歳)から減る。この時に、どれ位の需要があるか、だな。被用者保険に加入しているのは、現在でも高々4千数百万人くらいだろう。非正規雇用者などが高齢就業者に置き換わっていけば、正規の雇用は条件がよくなるかもしれないが、女性が就業を続ける環境さえ整えば、空きが大幅に増えるということもないのではないか。2025年頃では、ざっと言うと総人口1億2100万人で、うち65歳以上が3470万人くらい、15〜65歳が7230万人だ。現在仕事をしているのは、6400万人くらい。15〜22歳のうち学校に行く人もかなり多いので、その分ざっと800万人を引くと6230万人となるな。男女比が半分で女性の就業率が7割とする、女性労働者数が2180万人、男性3115万人の合計約5300万人となる。他に22歳以下の就業者が約3割とすると240万人だから、合計5540万人となる。65歳以上の2割が就業すると約690万人となって、合計6230万人ということになりますね。これは90年頃とか05年の第一4半期の就業者数と大体同じくらいだ。つまり過剰雇用感が大体解消されていく、女性は大体働く、という時代に入ることになるでしょうね。


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この12年は、無為に過ぎたようなものだ。無能が日本の政策決定を担い続けてきたから、である。

現在の就業者数に占める医療介護分野は、12年前の想定通りに増加したんですよね?
また、就業者数の将来推計をざっと書いたりもしたのだが、例えば現在の65歳以上就業者数は、700万人超でしたっけ?(予想以上に就業しないと食べていけないという人が多いのかもしれんな。)


それから、10年前の記事。
07年3月
http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/09453153801036b2b9d396c6014da2fa

(再掲)

政策面からは、医療費抑制策だけに固執していることが明らかであるが、これも大きな誤りであると改めて言っておきたい。今後の日本のサービス価格を押し上げるのは、健康・医療分野、そして教育分野なのだ。これが「非製造業」における成長分野の2本柱である。製造業は競争激化や相対的に安価な製品供給が進むので、新興国がとって変わるだろう。しかし、サービス分野は代替が困難な面があるため、成長が期待できるのだ。それ故、営利企業群が虎視眈々と狙っているのがこの2つの分野であり、「規制緩和」と称して参入し利益を貪ろうとしているのである。純粋に営利目的が存在理由ともいえる企業がこういう分野を手がけると、とんでもない結果が生まれそうではある。

医療分野での「生産性が低い」というのは、価格統制が厳しすぎる結果にすぎず、本来的にはもっと価格が上昇しなければならないはずである。医療全部のコストで考えると、安すぎるのである。製造業では技術革新などや競争によって従来1000円でしか作れなかったモノが、中国とか安い海外工場で作ったりすれば100円で作れる、ということが起こるのである。収入が同じであれば、定型的な消費財が安く手に入るのであるから、これまでモノに使っていた1000円が100円で済むのであるから、残り900円を他に投入するのは当たり前なのである。だが、それが理解できない経済界の人々や行政府にいる政治家や政策立案者たちが多いのである。財価格が相対的に低下していく中であれば、経済成長に伴って教育費や医療費といった財以外のサービスの相対的割合が増大するのは当たり前なのである(笑)。

大学教授の給料がべら棒に高いのは、教授の能力が高く職業固有の絶対的生産性が高いからではない(笑)。ただ単に、授業料が値上がりしただけだ。教育サービスの価格が高くなったのは、技術革新でも何でもない。むしろ、質的には劣化しているかもしれないが、他の消費財価格が相対的に低下した為に、教育に投入できる資金の割合が多くなっただけだろう。職業固有の生産性向上になんて全く貢献していないのが、教授である。


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当時、あまりに酷い言説をばら撒く経済学教授どもに対し、抱いていた気持ちは今と何ら変わっておらず、「想定通り!」と思うだけだわ。

07年6月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/869d46495802d5c3b8e25cfb790a02f6

(再掲)

根本的な誤りは、成長分野への資金配分をわざと減らしていることであると思う。以前から何度も書いているが、国内需要は非製造業であるサービスの比重が高いので、その分野での成長というのが必要なのである。サービスのうち、人的サービスに依存する分野というのは、主として健康・医療と教育があるのであり、「成長分野の2本柱」と書いたのである。こういう分野での付加価値とは、主に「買い手の時間」のようなコストから相対的に決まってくるものなのではないかと思っている。こうした成長分野への資金配分を歪めることによって、日本全体の成長を押し下げているのである。

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要するに、日本の政治中枢にいる学者が愚か、官僚政治家も愚者の言説に乗るだけの無能ばかり、ということですかね。


バカの拡大再生産に、一体全体、何の意義が?
更なるバカがエリートと目される層にもっと蔓延るようになり、「経済一流、政治三流」と呼ばれた時代から、「政治は独裁国家北朝鮮)以下、経済は三流以下」に、そして、学術さえもが「五流以下」へと転落したんだ。


日本の研究環境は、今後低落する一方となるだろう。何故なら、上に立つ学者の異様な劣化が進行している部門が増大しているから、である。学内勢力においても、劣化野郎が権限を持ち蔓延るようになってしまえば、管理権限でもって「まともな人物」が育つ環境が破壊されるのだ。
クソ学者こそが結託し、中央勢力と結んだりして集団化し、学内の決定権を奪われてしまうことで、クズとクソ学者の再生産体制が構築されるのだよ。クソ上司がクズの部下を引き上げる、すると上の方が全部クソとクズで凝り固まる、の図だ。


参考:

08年12月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/98c6469927dd600664891e14bf5e5a7d

2017-06-27

国家戦略特区諮問会議・民間議員の独善的暴論

アベ総理が窮地に追い込まれて、遂には「全国どこでも自由に大学」宣言を出すに至ったらしい。加計学園だ、1校だ、と文言などを責め立てられたので、じゃあ限定はしないことにするから、と。そうすれば、特区諮問会議や安倍総理の責任逃れができるとでも思っているのかね。


安倍政権が直ぐに前言をひっくり返す、という傾向があることは、前にも指摘しておいた。

5月21日>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/8b4f7b08c1247ac54f22b08e1fe13b71

(再掲)

安倍政権は、過去との分断を掲げる政府であり、「全部ひっくり返す、なかったことにしたい」という態度・考えがうかがわれ、憲法議論においても、何の断りもなく「これまでの政府見解は覆すことにする」と宣言して終わる、みたいなものである。


そういう点からすると、革命的政権である、ということなのかもしれない。昨日言ったことも覆す、そういうタイプなのである。どこにも、まともな理屈もなけりゃ、説明もない。繰り返すのは、「何ら問題ない」という答弁だけである。
これを暴走政権、それとも独裁政権と呼んだとしても、不思議でも何でもない。




アベ総理だけじゃなく、特区諮問会議の誰一人、まともな説明なんぞ出来てはいないでしょうに。まずは、その説明をしてからだろうね。

高橋洋一が矢鱈と高評価しているらしい、民間議員たちの緊急弁解記者会見の模様がアップされていたので、読んでみましたよ。
案の定、「石破4条件」を満たしていることの説明を誰もできなかったわけね。爆笑ものだね、特区諮問会議の面々は。

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc/pdf/170613youshi.pdf


発言内容については、後で述べるとして、大雑把な論点として、八田達夫高橋洋一なんかが言う、「そもそも規制している告示があるのが悪いんだ」論について、反論しておく。


文科省側から見た意見としては、既に拙ブログ記事で述べたので省略するが、基本的には「平成15年小泉内閣時代、竹中平蔵が大臣でアベが幹事長だった時代に作られた、文部科学省告示第45号」があるから、である。また、平成17年中教審答申による中期計画に基づく政策決定であったものと思われる。


6月13日>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/055d3bb2d8faae2403f24bc01220d7df


なので、文科省としては、告示が悪いんだと責められたとて、それは小泉内閣閣議決定が悪かったんだ、としか言いようがなく、じゃあ竹中平蔵は反対して閣議で異議をぶってみるとか、署名を拒否する(郵政民営化法案の際、島村農水大臣は署名を拒否して、大臣を更迭されたぜ?)ことくらいはできたでしょうに。

当時、竹中自身が、文科省告示第45号にのうのうと署名し認めておきながら、今は知りませんってのもどうかと思いますね。卑怯者のやり口である。
竹中らの「構造改革規制緩和派」が旗振り役で、大学の設置認可を大幅に緩和しろ、となったでしょう?それ故、大学院とかも増えたし、法科大学院も続々出来たし、何と言っても目玉は「株式会社立」大学の認可だったでしょう?

それまでは、学校法人とか限定的だったものが、株式会社にも大学を自由に作らせろ、そんな規制があるから悪いんだってことで法改正をやったはずですよね?
で、その規制緩和の恩恵は、どこにどのような効果をもたらしたのでしょうか?自由に設置できるようにすることが、本当に国民にとってプラスだったとでも?

潰れた大学だってあるんじゃないですかね?
ある意味、補助金泥棒みたいなもんじゃないですか?本当に、粗製濫造大学みたいなのが増える必要があったのでしょうか?
昨今では、無駄に増えすぎた大学を「統廃合するなり、特色出すなり、どうにか処分をつけろ」と求められたりしてませんでしたか?


誰でも自由に大学を設置できるようにすること、これは、本当に必要な政策だったのですか?
法科大学院や、株式会社立の大学の惨憺たる結果は、どう見ますかね?


まあ、当時には、そういう「誰でも自由に大学設置」っていう、規制緩和の攻勢が続いていたので、主に医療系が「抵抗勢力として」破壊的な大学新設自由化に歯止めをかけたい、ということで、厚生族(当時には既に厚労省になっていたけど、旧区分ということで)に働きかけて、かつては「審査の内規的条件」(閣議決定)だったものを、(審査基準の)明文化するという趨勢によって、「文科省告示」に格上げとなったのでしょうね、恐らくは。


何でも自由化の波が医学教育にも襲ってくるかも、そういう危惧が誠実な教育・医療界の人々にはあった、ということでしょう。拙ブログでは、インチキ大学をゴロゴロ作る風潮には反対であり、告示の中身を知ったのは実は加計学園問題以降だったが、必要なものだったと考える。規制なしでは、補助金詐欺みたいな、教育ビジネスが蔓延るのを防げないわ。臨床教育なんかも、そう簡単にできるとは到底思えないし。


「規制の文科省告示が悪い」論を言うなら、八田達夫はこれまで寝てたのか、という新たな問題が生じる。

それは国際医療福祉大学医学部設置に関する問題だ。八田達夫は、特区民間議員として、その決定過程には存在してきたのだろう?ならば、どうして、当初から「文科省告示第45号を撤廃せよ」と主張しなかった?


医学部新設問題で「自由に作らせろ」と主張して、告示撤廃論を演説したら良かったでしょうに。何故、告示そのものの撤廃を言わないのだね?
で、加計学園問題が発覚して、批判に晒されたら「全部自由にしろと言ってきた」と。告示が悪いんだ、と。調子良すぎ。


前にも提示したが、医学部設置の場合には、文科省を交えた「3省合意文書」が作成されたわけ。獣医学部の場合にも、文科省は同様の手続きを踏むべきだと申し入れたが、拒否されたでしょ?そこがおかしいわけよ。


http://www.iuhw.ac.jp/about/medicine/pdf/2015.09.17a.pdf

国家戦略特別区域における医学部新設に関する方針』と内閣府文科省厚労省と所管省が合意を交わしているのだよ。加計学園にも同じくやれば良かったでしょう?

出来ない理由、というのがあったんじゃありませんか?
それは、国際医療福祉大学医学部の場合には、講義のほぼ全部を英語でやるとか、海外医師招聘だけじゃなく、患者も日本人以外の外国人を想定しているとか、要するに海外医療機関と同等の施設を目指すといった、日本の「大学病院」という枠組みとは別の、特徴的な大学を作ったから、でしょう?


しかし、今治市加計学園の場合には、当初から四国の「地域の獣医師不足」を掲げてスタートしていたので、日本のどこにもない誰もやってない「獣医師養成」なんて、架空の夢物語的であって、具体的な構想なんて浮かばなかったのでしょうね。だから、文科省農水省を交えて交渉ってなったら、到底合意など得られそうもない、ということで、特区諮問会議で強引に突き進めばいいとなったわけだな。

そこそこ頭の回る人間であれば、全くのバカでもあるまいし、諮問会議に呼ばれる程度の脳味噌があれば、いちいち総理が力説せんでも「誰でもゴールは理解できる」はずですよ?(笑)


さて、告示撤廃論を言う人間ならば、医学部設置の前にその論議を詰めておくべきものだし、特区でどういう内閣府告示が出されたかというのは、知らないはずがないのですよ。


医学部設置の場合には、文科省告示第45号の規制にかからないようにする為の措置は、告示で行われた。


文部科学省関係国家戦略特別区域法第二十六条に規定する政令等規制事業に係る告示の特例に関する措置を定める件
内閣府文部科学省 告示第一号  平成二十七年十一月十二日)

第二十六条の規定に基づき、文部科学省関係国家戦略特別区域法第二十六条に規定する政令等規制事業に係る告示の特例に関する措置を定める件を次のように定める。


国家戦略特別区域法(以下「法」という。)第七条の国家戦略特別区域会議が、法第八条第二項第二号に規定する特定事業として、平成二十九年度に開設する医師の養成に係る大学の設置(法第二条第一項に規定する国家戦略特別区域における医師の養成に係る大学の設置をいい、「国家戦略特別区域における医学部新設に関する方針」(平成二十七年七月三十一日内閣府文部科学省厚生労働省決定)に従い、国際的な医療人材の育成のため、一校に限り学校教育法(昭和二十二年法律第二十六号)第四条第一項の認可を申請されるものに限る。)を定めた区域計画(法第八条第一項に規定する区域計画をいう。)について、内閣総理大臣認定申請し、その認定を受けたときは、当該認定の日以後は、当該大学の設置に係る学校教育法四条第一項の認可の申請の審査に関しては、大学、大学院短期大学及び高等専門学校の設置等に係る認可の基準(平成十五年文部科学省告示第四十五号)第一条第四号の規定は、適用しない。



非常に長くごちゃごちゃと書かれており、読み辛いですが、重要部分だけ取り出すと、

「(国家戦略特区の)特定事業として、医師養成に係る大学(=医学部)の設置を定めた区域計画について、総理認定申請し、その認定をうけたときは、文科省告示第45号4号規定(=医学部設置規制の告示)を適用しない」ということです。特区認定医学部新設が可能になりますよ、という意味になります。

これには条件が付けられており、それが、

国家戦略特別区域における医学部新設に関する方針」(平成二十七年七月三十一日内閣府文部科学省厚生労働省決定)に従い、
国際的な医療人材の育成のため、一校に限る

というものです。先に示した「3省合意」が限定理由として明示されている、というわけです。



これが、加計学園の場合には、どうなっていたか?

告示の内容はこちら>http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc/dai27/sankou4.pdf


上記の告示を第1項とし、第2項に追加という形式がとられました。中身は、


2  法第七条の国家戦略特別区域会議が、法第八条第二項第二号に規定する特定事業として、平成三十年度に開設する獣医師の養成に係る大学の設置(法第二条第一項に規定する国家戦略特別区域における獣医師の養成に係る大学の設置をいい、国家戦略特区における追加の規制改革事項について」(平成二十八年十一月九日国家戦略特別区域諮問会議決定)に従い、一校に限り学校教育法四条第一項の認可を申請されるものに限る。)を定めた区域計画について、内閣総理大臣認定申請し、その認定を受けたときは、当該認定の日以後は、当該大学の設置に係る同項の認可の申請の審査に関しては、大学、大学院短期大学及び高等専門学校の設置等に係る認可の基準第一条第四号の規定は、適用しない。


となっており、見た目は殆ど同じです。当然に違っているのは、「医師の養成」ではなく「獣医師の養成」ですが、先の3省合意文書とは違う根拠が書かれているわけです。


医学部の場合には3省合意文書の決定が基本でしたが、今回は何故か「平成二十八年十一月九日国家戦略特別区域諮問会議決定」なのですね。前のは3大臣の合意、ということで決定文書だったものが、今回は「特区諮問会議」決定が来ている、と。3大臣の決定と同等の価値ってことを言うものでしょうかねえ?
諮問機関がここまで偉らくなった、と(笑)。


因みに、特区諮問会議決定のタイトル『国家戦略特区における追加の規制改革事項について』という文書は、同じ名称の文書が何十本もあるものなのですよ。非常に大事な「岩盤規制突破の告示を出すんだ」ってことなら、医学部設置の時みたいに特別のタイトルの文書でも作れば良かったのに、平凡な同名文書が多数あるものと同じくしておいた、というわけですね。「木を隠すなら、森」ってのはアニメなんかの鉄則らしいですが、それを地で行くものなのでしょうか。


要するに、元の文科省告示第45号が異常なんだ、ってことなら、告示まるごと撤廃するという議論をまずは出せよという話だし、獣医学部設置の場合の告示改正にしても、どこかインチキ臭いわけでして、「1校に限り」の文言は獣医学部の場合でも瓜二つってことで、真似するのに都合が良かったというだけではないですかねえ。




次は、記者会見での八田達夫の発言を見てみよう。


○記者 4条件についてお伺いしたいのですが、加計学園計画というのは4条件を満たしていると思われますか。

八田議員 当然思いますし、それは3大臣が満たしていると納得されたわけですね。

○記者 その根拠議員の皆さん、どのようにお考えなのかと。つまり、国会審議を見ていても明確なエビデンス的なものは示されない中で、実際満たされているのかどうかというのはまだ疑問符がついたままだと思うのです。

八田議員 まず、条件というのは元来つけるべきではないのですが、閣議決定でついたわけですね。それに対して3大臣が納得されたわけですね。私どもはもともと全部やりたいわけですから。

○記者 そういう議論ではなくて、その4つについてどういう形で満たしているのかという御認識をお聞きしているのです。

八田議員 それは当然全部満たしているわけで、向こうが満たしていないのならば満たしていないと言うべきです。私どもはもともと全部やりたいわけですから。

○記者 つまり、先生方はどのように満たしているのか具体的に御存じないということですか。

八田議員 基本的に説明責任は、そういう規制をつくっている農水省文科省の側にあると思います。そちらがオーケーと言ったら、それでオーケーだと思います。

○記者 どのようにそれが満たされたかというのは御存じなのでしょうか。

八田議員 もちろん知っていますけれども、これにはいろいろな判断がありますね。それが当該の大臣がオーケーであると言っているのに、我々がそれはだめですと言うわけはないではないですか。しかも、我々は全部通したい側なのですから。


記者に問い詰められても、答えられず。

八田達夫は、満たしていることは知っている、と断言(笑)。しかし、記者には教えない、と。どうせ言えないから、でしょ?違うなら、学者だもの、即答しているだろ。

しかも、文科省農水省に答えさせろ、って、条件を決めたのも所管しているのも内閣府なんだが。行政の基本を知らない連中が、何故こんなに暴論をぶちまけることが許されるのだろうか。


答えられるわけがないんですよ。だって、獣医学部でしかできない、創薬最先端研究なんて、特に決まったものがあるわけではありませんから。しかも、右も左も分からないひよっこ学生よりも、百戦錬磨の腕に覚えのある研究者を集めた研究機関の方が、研究分野においては圧倒的に優れているのは、ほぼ疑う余地がない。

国際レベルの研究云々を言うなら、ぽっと出の新設獣医学部なんぞ作るより、理研とか既存大学や研究機関を支援した方がずっと良い結果を得られるだろうね。


何でもかんでも、都合が悪くなると、挙証責任は、文科省農水省にある、って、官僚に押しつけて、自分たちは全くの責任逃れ。
獣医師の需給は無関係だって攻撃したのは、民間議員の方だったろ。検疫職員を増加するというのも、全然違うって言ったでしょ?

自由に設置させろ、って妄言を言えるとすれば、それは国や公共団体等から、補助金等を一切もらわずに運営する、完全自立の民営型の学校だけじゃないの?税金をガバガバ飲み込んでおいて、何を言ってるんだか。


それに、たとえ4条件の適合性が八田達夫説の「文科省農水省説明責任がある」ってなったとしても、特区が自ら言った『獣医師が新たに取り組むべき分野における具体的需要に対応するための獣医学部』の適合性は、国家戦略特区側に説明責任挙証責任があるんだよ。


1月4日>http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc/pdf/bessi_hiroshima.280104.pdf


公募したんだから、これに適合したとされるのが、加計学園であることは確実。文科省が適合性を審査したわけではないぜ?
ならば、「新たな分野」というものの具体的な中身、それには「具体的需要」とやらが存在しており、それはどういう水準のものなのか、具体的数値なり需要見通しなりを説明出来ない限り、加計学園が合格したかどうか、誰にも分からないでしょう?

そこそこ「何らかの基準」ってのがあって、それに「到達してますね、だから公募に合格ですね」って、なるはずですよ?
だから、その審査した時の基準というものが、どういった内容のもので、合格してますねって判断したエビデンスを聞いておるのですわ。


それを、国家戦略特区諮問会議の連中も、内閣府の連中も、アベ内閣も、閣僚なり総理なり、誰一人として返答できてないのは、異常ですねオカシイですね、って話なんだわ。


医学部新設の場合なら、3省合意文書があるので、交渉結果も中身も具体的な新設大学の特徴なんかも、大体は掴めるでしょう?
文科省の方で言った言わないだの、いやいや厚労省がどうのとか、揉めないのは、文書の形で公表されておるかでしょう?何故、医学部設置はできたのに、獣医学部の場合には、これが全くないのか?って話なんですよ。


まあ、隠すべき理由というものが存在しておれば、必死でこコソコソとやりますわな。
それを実現させるべく、便利な手駒として用意されている人材というのも、分からないではありませんから。


これまで判明している情報からすると、まあ、真っ黒黒すけですわな。
ロクに説明もできないのに、よくぞまあ緊急記者会見なんぞやったもんですな。記者諸君の頑張りのお陰でした。よくぞここまで追い込んでくれました。有難うございます。


インチキを通したんですわ。
医学部と同じく、最低限の手続きを踏んでおけば、こんなことにはなってなかったであろうはずが、もうね、ボロボロですわな。諮問会議連中への眼差しってのは、ハハ―ン、となりますよ。


そこそこ知能があって、弁が立てば、口でならいくらでも言い逃れなんて、できますからね。詐欺師を見てごらんなさいな。書類とか物証がないと、口で勝てる人間なんぞ、そう多くはないですからね。


ちょっと一言:

昨日、本家の方にブログ記事をアップしたんだが、さすがに監視班はしつこいようだね。

前回の緊急会見は13日夜、あの時もブログ記事を書いた直後だったでしょう?

で、今回も、偶然の一致で、再び夜のやたらと遅い時間帯に記者会見となったわけね。拙ブログが、国家戦略特区諮問会議の批判を書いたら、直ちに弁解の会見をやっているかのようだけど。

まあ、いいか。
そっちが途中経過を読めるというのは百も承知なので、別に痛くもないわけですがね。想定の範囲内ってやつですな。