機能としての政治・文学

少し前に『日本SF精神史』という本を読んだのですが、その中に、尾崎行雄加藤弘之のような教科書に名前の載っている有名な政治家・啓蒙思想家が明治時代はSF小説家だった、という話が書いてありました。別に読者を楽しませるのが目的なのではなく、小説を書くことが彼らにとっての政治活動だったのです。これは一見すると昭和のプロレタリア文学と同じようなことをしているようですけど、「政治」という確固とした領域に読者を動員することを目指すプロレタリア文学(その意味で文学はプレ政治である)と明治の政治小説とでは、文学と政治の関係が大きく異なっているように思われます。

政治小説の多くは、政治的理想を主張するばかりで、近代的な文学観からすれば稚拙な作品だったといわれている。しかし実際に政治小説を読んだ印象をいえば、そこには「文学」と「政治」という二者択一が、そもそもはじめから存在していない。
――長山靖生『日本SF精神史』54頁――

「文学と政治」、「思想と文学」、「学問と政治」などなど色々言い換えられますが、そういった二項対立が明治期には存在していなかった、というわけです。どういうことでしょうか?プロレタリア作家にとっては文学が手段で、政治が目的でした。現代の学者は学問という手段を通して政治が良くなったらいいな、と考えています。逆でも成立しますね。文学はそれ自体が目的で、何を書くかは手段でしかない、という風に。こういう二項対立的な見方というのは分かりやすいですし、だからこそ大正期から現在までその見方がずっと続いているわけです。
しかし、1960年前後に歴史学では石母田正が、文学では竹内好が、それぞれ「学問と政治」「文学と政治」は対立するものではない、ということを主張しはじめます。これはある意味、明治の政治小説の伝統を復活させようとする試みであったと言えるでしょう。ここでは竹内の言い分を紹介してみます。

日本では、政治と文学という問題の立て方が、平林初之輔以来の、歴史的な課題になっている。おそらく世界中に、こんな形で問題を出してくる文学は、ほかにないだろう。そこでは、政治が目的化されている。……近代文学にとっては、政治は、文学がそこから自分を引き出してくる場だ。文学が社会的に開放された形であれば、場の問題が価値の問題と混同されて文学の内部にもちこまれるはずがない。文学者が文学の問題について発言することが同時に政治的な発言でありうる。
――竹内好「中国文学の政治性」『竹内好セレクション1』159頁――

ここで私たちは、竹内好の文学の政治性についての理解と丸山真男のそれとの間に驚くべき一致を見出すであろう。彼ら二人が文学の本源性の問題について論じる場合、たとえ文学がどのような位置にあるにせよ、その位置はまず何よりも機能的なものでなれけばならず、実体的なものではないということだ。これこそ竹内が『魯迅』の中で繰り返し強調した文学は行為であるということの真意である。
――孫歌『竹内好という問い』88〜89頁――

要するに竹内は、文学や政治を抽象的な観念としてみるのではなく、機能として捉えるべきだと主張しているわけです。機能は当然「実践」を離れて存在することはできません。文学という概念がいかに純粋であったとしても、それが社会に流通する過程でさまざまな政治的意味を持つかもしれない。それが文学の「機能」です。
さまざまな思想、政治の概念。これらを外国から輸入して、そのまま日本に当てはめようとするのは、思想や政治が目的化され、それが本来は日本の現実に適合させる「実践」を通して洗練されるべき「機能」であることが忘れられているからだ、と竹内は主張します。

竹内は日本の戦前のプロレタリア文学に存在した最大の問題は「近代主義」の問題であると考えていたようだ。竹内から見れば、日本プロレタリア文学ははじめから「思想輸入」の道を歩んだのであって、そのインターナショナリズムと階級理論からは、日本の民族主義問題がすっぽり抜け落ちていたのである。一方、プロレタリア文学理論において繰り返し強調された「民族独立」の中の「民族」というのも、先験的な概念であって、自然な生活感情の内容を含むものではなかった。こうして、日本のプロレタリア文学は西洋とロシアの眼差しを借りて自国の「階級問題」を眺めたのであり、そのため、のちにファシズムイデオロギーへと発展した民族主義と対決したり、それを改造したりするまでに至らなかった。
――同上、97頁――

竹内や石母田の試みは結局、文学と政治、政治と学問の不可分性を強調するあまり「性急な政治主義」に陥ったとして批判されることになるわけですが、それでもなお我々が学ぶべき点は多いように思われます。例えば小説から政治的な意味を過度に読み取ろうとする人に対して「お前は小説を純粋に読んでいない」みたいな批判をする人がよくいますけど(社会反映論批判とか)、竹内的な観点から言えばそれは的をはずした批判であり、同時に「政治的な読み」もまた政治が目的、小説は手段という二項対立に陥っている、という風に言えます。
プラトンの『ソクラテスの弁明』を文学と哲学のどちらかに振り分けることはできないでしょうし、『オイディプス王』を哲学のテクストとして読んでも誰も変だとは思わない。ガダマーが言うように先入観なしで読めるのが古典の古典たる所以なのでしょうが、近代の作品に接したときそれが出来なくなってしまうのは何故か、ということを考えてみる必要があるでしょう。