歴史の物語り論−「開かれた未来」からの歴史認識の可能性について

1980年代のドイツで起こった「歴史家論争」の渦中、感傷的な筆致によって第二次大戦中のドイツ軍との心情的同一化、ひいては彼らの行った歴史的事実の正当化を試みたアンドレス・ヒルグルーバーに対し、ユルゲン・ハーバーマスは以下のような批判を加えた。 

「人は、当惑して次のような疑問を抱くであろう。ヒルグルーバーは、何ゆえに1986年の歴史家に、40年の歳月を経た時点から振り返ることを試みさせないのか、すなわち、どのみち自らをそこから引き離すことはできない自分自身のパースペクティブを引き受けさせないのか、と。さらに言えば、現在から振り返るパースペクティブには、直接その場、その時に居合わせた当事者たちとの選択的な認識を関係づけ、互いに比較考量し、あとから生まれた者の知識でもって補足することができるという解釈学的な利点がある。しかしながら、ヒルグルーバーは、このようなほとんど「正常な」と言いたくなるような視覚から歴史を記述しようとはしないのである。なぜなら、もしそうした場合には、「殲滅戦争のモラル」が不可避的に問題になるであろうから。そして彼は、この問題を度外視し続けようとする」
(ユルゲン・ハーバーマス「一種の代替補償」)

一連の議論においては、装飾的かつ抽象的な文章によって強引にナチスの犯罪を相対化しようとした側、つまりハーバーマスの論敵が劣勢であったことは間違いない。しかし、ナチスドイツの犯した罪をいつまでも引き受けることにうんざりしていた大多数のドイツ国民からは、彼らの言説が一定以上の支持をもって迎え入れられたのもまた事実であった。
日本においても1996年に「新しい歴史教科書をつくる会」が結成され、歴史教科書から「従軍慰安婦」の記述の削除を求めるなど、第二次大戦中の日本軍の行動を正当化する動きがみられるようになっている。彼らの描く歴史像に関しては既に多くの批判が寄せられているし、今後もその歴史像がスタンダードになることはないだろうが、無視できない勢力として不気味な存在感を放っている。


こういった歴史問題における個々の論点について、ここで取り上げることはしないでおく。今回取り上げるのは、過去の歴史を相対化し、その中から国民の誇りを培養する上で都合のよい歴史像を選択しようとする「自由主義史観」に立つ人々に共通する、「歴史は物語である」という態度である。西尾幹二の「歴史は科学ではない。……(中略)……だから民族によってそれぞれ異なっても当然である。国の数だけ歴史があっても少しも不思議ではない」という発言は、その最たるものだろう。
ハーバーマスも上記の論文で書いているように「解釈やアプローチの多元主義が一般化」するに伴い、「任意に構成された前史というサーチライトによって現在を照らし出し、そこで選び出されたもののなかから都合のよい歴史像を選びだすことができる、という考え」が一部の歴史家の間に生まれた。その考えに「歴史は物語である」という概念が利用されることになったわけだが、しかし、本来の意味での「歴史の物語り論」とは、「どの民族もが例外なく持っている自国の正史」などという概念を粉砕するために生み出されたアンチテーゼであったことを忘れてはならないだろう。
よってこの記事では、一般的な意味での「歴史は物語である」という考えを批判しながら、本来の意味での「歴史の物語り論」のもつ理論的射程について考えてみたい。なお、この記事では「物語」を「story」、「物語り」を「narrative」つまり動詞的概念として表記することを断っておく。


「歴史の物語り論」の提唱者のひとりであるアーサー・ダントーは「物語り(narrative)」を次のように定義している。
「物語りとはある出来事を別のものと一緒にし、またある出来事を関連性に欠けるとして除外するような、出来事に負荷された構造である」
つまり、歴史を物語ることには、必然的にその前後の出来事との関連性を指摘することが含まれる、ということである。例えば「1603年に江戸幕府が開かれた」という記述について考えてみよう。まず、この記述には前提として、1602年以前には江戸幕府が存在していなかったという事実が存在している。さらに、1602年以前には存在していなかった江戸幕府が誕生するという「変化の説明」が、やはりそこには含まれている。
こうした歴史記述の特性をより一層明確にするため、ダントーは「物語り文」という概念を導入した。例えば「江戸幕府を開いた徳川家康は1543年に生まれた」という記述があったとする。この記述は「徳川家康江戸幕府を開いた」と「徳川家康は1543年に生まれた」というふたつの内容を持っている。当たり前のことではあるが、これは歴史が「物語る」ことによってしか記述できないということを考える上で重要なことである。
試しに、こうした「物語る行為」とは別に、「神の視点」によって歴史的事実がひとつひとつ記録されていると想像してみよう。もしアカシック・レコードがあったとしたら、でも構わない。
まず、1543年の記録にアクセスしてみた場合、この時点では江戸幕府は開かれていないので「徳川家康江戸幕府を開いた」と記述することは出来ないだろう。同じ理由で「徳川家康は1543年に生まれた」という記述もやはり不可能である。後に「徳川家康」と名乗る人物が1543年に生まれたのは事実だが、生まれたのは「竹千代」であり、「徳川家康」と名乗るのはずっと後のことだ。
こう考えてみると、一見すると理想的に思える「神の視点」による歴史記述が、実は歴史記述の名に値しないものであることがはっきりするだろう。歴史記述とは、過去を振り返った瞬間から立ち上がってくるものであり、また、別の出来事の関連性において歴史家が意味づけしていくことが必要とされるのである。
このような歴史の「物語り」的特質は、一般に「歴史修正主義者」と呼ばれる人々によって恣意的に解釈され、悪用されてきた。
それに対して素朴な実証主義を対置させることは、彼らの歴史記述の妥当性を問う上で重要なことではあるけれども、一方では現代歴史学に対する反動であるとも言える。繰り返し過去を振り返り、現代からの問題意識に基づいて過去に意味づけしていくことこそが、例えば従来は商行為として省みられることのなかった従軍慰安婦を「性暴力」として捉えなおすことを可能にしたのである。


以上の点を踏まえ、「歴史」とフィクションを区別するものとは何かについて考えてみたい。
第1に、それはまず歴史の全体において整合性を有することであると言える。フィクションの場合はそのフィクションの内部において整合性が取れていれば問題ないが、歴史においては、共同体の外部との接続についても考える必要があるだろう。共同体の内部だけで完結した歴史というのは存在しない、ということを踏まえれば、「国の数だけ歴史がある」という考えについての問題も見えてくる。
第2に、描き出された歴史像は合理的に受容することが可能なものであるかが問題とされる。具体的には「現在」と歴史学の対象となる「過去」とが無理なく接続されるか、そしてその「過去」が何らかの痕跡に基づいているかが重要なポイントとなるだろう。誤解の無いように書いておくが、何らかの痕跡に基づいていることが重要とは言っても、それは直接史料にその存在が記されているものだけではなく、複数の史料の組み合わせによって理論的にその存在が導き出されるものも含まれている。
少ないようだが、この2点が歴史をフィクションと区別するために守るべき最低限の「規則」である。


おそらく、次のような疑問を抱く読者もいるだろう。筆者(tukinoha)の考える「歴史」とは、ある統一された歴史像、世界において普遍的に通用する(人類史的な)歴史像を前提としたものではないか、はたしてそんなものが存在するのだろうか、と。こうした疑問に由来する歴史家自身のアイロニカルな態度は、「国の数だけ歴史がある」という考えにとってひとつの根拠ともなった。
現在の国民国家が国民に「のみ」共有される過去を基盤としている以上、こうした考えを否定することにはある種の困難が付きまとう。そこであえて、過去ではなく未来に共通の目標を設定し、そこに向かって収束していくものとして過去を体系化するというプログラムを提唱したのが、18世紀の哲学者カントである。彼は国民国家連合体が成立する未来を仮定し、そこに向かっていくものとして民族共同体の解体を促した。
もちろん、このプログラムには批判すされるべき点が多々あるだろう。「統一された歴史像」がマルクス主義史観の変奏になる可能性、あるいは地域史の独自性に対して盲目になること、などなど。しかし、閉鎖的な歴史観に由来する民族同士による紛争が頻発する現代社会を「世界史的問題」として捉えるならば、改めてその意義を考えてみることも必要だろう。


こうした点を踏まえ、最後にもう一度ドイツの「歴史家論争」を振り返ってみよう。この論争に関する主要な論文を収めた『過ぎ去ろうとしない過去―ナチズムとドイツ歴史家論争』の巻末に付された三島憲一氏の「解説」では、歴史家論争について次のようにまとめている。

第三帝国産業革命以降の恒常的な社会的解体と混乱に対する反応の一つとし、またアウシュヴィッツは伝来の反ユダヤ主義に由来するというよりも、ロシアのボルシェビキ革命への反動、そのコピーであると考え、またそうした悲劇は人類の歴史において生じざるを得ない運命的なものであると唱え、最後には結局西側の資本主義と所有ブルジョアジーによって維持されているデモクラシーを(欺瞞的に)擁護する、というのが例えばノルテの戦略である。それに対してハーバーマスも西側のデモクラシーを擁護するが、それは資本主義と所有ブルジョアジーの利害を守るためではない。もちろん、たえず批判の対象であった管理型社会主義のためでもない。いまだ形を知らない、しかし可能であるとされる変化のためである。しかし、その変化は民主的な議論と非暴力による普遍主義的思考の拡大を通じる以外にはありえない、とされる」
(三島憲一「解説−ドイツ歴史家論争の背景」)

歴史学の営みにおいて大切なことは、「過去」を基盤とした共同体思考に寄りかかることだけではなく(それが必要とされることもあるだろうが)、現在、そして時には未来から「過去」を問い直していくことであるという事実を、上記の引用分は端的に表している。
歴史は「いまだ形を知らない、しかし可能であるとされる変化」に向かって開かれていることは改めて強調しておきたい。