モノノケサミット

熱帯夜、昨夜の寿町は、練乳入りのベトナムコーヒーのような、ねっとりとした空気の層が夜の底に沈殿してた。そこに汗(たっぷりと!)、アルコール、路上で焼かれている食べ物などが、剥き出しの人間の匂いが混じり合う。
宴。ソウルフラワーのステージ。被災地を大いに盛り上げたという歌はここでも歓迎される。「夜霧よ今夜もありがとう」のコール&レスポンス。「おいらの船は三百屯」、「釜が崎人情」といった僕には初めて聴く曲も、ローカル住民は身体を揺すり歌う。「荒れ地にて」、では以前ここで観たボガンボスの曲、「憧れの地」へ、を思い出してウルっときてしまった。
辺野古から、高江から、祝島から、福島から、寿から歌は自由を目指す。心の中で握り拳。

宮城県石巻市雄勝

4月28日から5月2日まで、2泊5日(車中泊2日)で、再び宮城県に行ってきました。NGOの募集に参加した前回と違って、今回は5人だけ、個人の集まりでの被災地への炊きだしでした。自分の未熟さゆえに上手くいかなかったことも多分にあるのですが、ここでは行程を中心に、簡潔に記していきます。
4月28日の朝に東京を出発し、積み込みなど18時間をかけて宮城県石巻に到着。それも午前2時だったので、テントを張る気力、体力ともなく、大学の駐車場で車中泊。29日、朝になって芝生にテントを張り、ブルーシートを敷いて炊きだし第一食の下準備を始めるものの、連休中は駐車場が使えないということを知り、ここを拠点とすることをあきらめ、再びすべてを車に積み込み、炊きだし場所である雄勝に向かう。
雄勝は同じ石巻市ではあるけど、市街地から2時間近く離れている。北上川沿いを走るのはほとんどが自衛隊の特殊車両ばかり。橋が途中で落ちている。亀裂、凹凸のある悪路の手本のような道で、時速は20キロ台しか出せない。約2時間後、雄勝総合支所に到着。
2週間前に日和山山頂からの光景で、「全壊」地区は見たはずだったけど、その中を車で走って感じるものとは、こちらに向かってくる強度がぜんぜん違う。津波が破壊し尽くした、圧倒的な光景の中にいて感じるのは、自然への畏怖。恐怖で震える。喉がからからになる緊張感を持って、初の炊きだしへ。
炊きだし場所である雄勝総合支所とは、この地区の災害対策本部のような役目をしているところらしい。鉄筋コンクリート3階建ての建物も3階まで被害を受けていて中は使えず、駐車場にプレハブを建てて、そこで役割を機能させている。僕らの初炊きだしは、避難所ではなくこの支所や周辺で瓦礫撤去などで働く人たちへのものとなった。 最初の献立は、鶏肉とさつまいもの炊き込みご飯と、けんちん汁
材料は石巻の大学グラウンドで仕込みをしてきたので、あとは炊飯器で炊く、寸胴鍋で煮る、という行程のみ。だが、ここでは水、電気、ガスがない。水はポリタンクで約60リットルを運んだ。ガスはプロパンガスを10キロ2本を東京から持ってきた。野球のホームベースより一回り大きなガスコンロを、プロパンガスに繋ぎ、点火し、水を入れた寸胴鍋を温め始める。炊飯器にトラブルがあり、急遽、これもガスコンロに鍋をかける。
途中雨が降り始め、庁舎の軒先に場を移動しながらの炊事。その間に大鍋で湯を沸かし、それを使ってほうれん草のおひたしも一品追加。慌ただしくも、着実に「食事提供」へものごとは進んでいく。17時に提供予定のはずが、約30分遅れた。でも、初めて、見ず知らずの人たちにご飯を作って提供することができた。
今回、炊きだし場所は、この雄勝地区で被災者支援をしているNPO「トモノテ」にコーディネイトしてもらっている。炊きだし現場でも彼らに手伝ってもらった。さて、今夜の寝床。石巻専修大学は駐車場が使えないという。それにここから2時間もかかる。「トモノテ」がベースキャンプを張っている場所はここから一時間半、水も使えるという。そちらに行くことにした。鍋や什器をふたたびハイエースに積み込み、20時前、「トモノテ」が先導する車で、雄勝を走り出す。
闇の中のこのドライブ(僕は助手席に座っていただけだが)は、約3時間続いた。地割れした路面、まわりは瓦礫に埋もれ、闇もあって人気がしない牡鹿半島をひたすら南へ(海岸線が入り組んでいて、やたらと細かいカーブがある)、暗闇の奥底へ分け入っていくような道。正直に言うと、生きた心地がしなかった。牡鹿半島南端、鮎川のキャンプ地に着いたときは、テントを張るか、また車中泊をするか、5人で話し合いがされたぐらいの疲労困憊ぶりだった。
テントを選択。初めて見るような満天の星空の下、僕らはそそくさとテントを3つ張り、コーヒーを湧かして飲むと素早く寝袋に入った。
牡鹿半島の南端で目覚め。すばやく朝食を食べ、テントを畳み、キャンプ地(どうやら学校か何かの施設の、テニスコート横の芝生に僕らはテントを張ったらしい)にある水場の近くにブルーシートを敷き、この日の炊きだしの仕込みを始める。
献立は、さんまの缶詰の炊き込みご飯と、キャベツと油揚げの味噌汁。お米を研いだり、炊き込みご飯の中に入れる野菜を切ったり。この水場のすぐ横にある野球場に、自衛隊の輸送ヘリ(食料など支援物資を下ろす)がこれから発着するらしく、11時までにここを出るように促される。帯広から駐屯しているという彼らからデニッシュパンをいただいた。
今日夕方の炊きだしの場所は、昨日の雄勝総合支所の近く、森林公園の避難所。少し時間があったので、石巻市内に行こうと(あわよくば先日再開したあの果物屋さんを再訪したかった)、早めに出発する。夜中に走ってきた道は、昼間でも相当に怖い。信じがたい津波の威力を、途切れることなく目の当たりにする。途中で、市内まで戻る時間が足りないと気づき、文明の象徴、イオン・ショッピングセンター(東石巻店)に立ち寄り、翌日の炊きだしの材料などを買い込む。イオンといえば、同じ石巻の店は震災後、一週間避難所と化したらしい。その記事を読んでいただけに感慨深い。
女川、雄勝の光景は僕らを無口にさせる。徹底的で、無慈悲な破壊。
避難所のある森林公園は名前の通り森の中にあり、津波の被災を免れている。水も出るらしい。こういった情報は、訪れてみないとわからない。いい方向へのミスインフォ。また、「キャンプ場」の標識もあったので、「今晩ここにテントを張っていいでしょうか?」と申し出てみたところ、快く許可してもらえた。翌日昼もここで炊きだしなのだから、こんなに便利なことはない。もうあの道を通って牡鹿半島を往復することもない。
炊きだしは上手くいった、と思う。すべて僕以外のメンバーの手順、手際の良さのおかげ。
この日、特筆すべきことは、この森林公園の管理人さんとの会話にあった。僕らに、「テントだと底冷えするから、キャンプ場の奥にあるバーベキュー用のキャビンを使ったら?」というありがたいお言葉。案内していただいたキャビンには、入り口などオープン部分をブルーシートで被い、内部に6人用の大きなテントが5つ張ってあった。
あの日、300人がこの森林公園に避難してきて、そのなかの子どもや女性たちがこのキャビンの中で入り、寒さをしのいだという。キャビンとキャンプ場の間には、キャンプファイアーができる円形のスペースがあった。「ここでいろんなものを燃やして、みんなであったまったんだよ」……そんな日々が一週間続いたという。僕ら、顔を合わせられなかったけどたぶんみんな、管理人さんの話を聞きながら、涙を流してたんだと思う。
その夜はキャビンの中でずっと原発の話をしていた。胸がいっぱいだった僕はほとんどしゃべれなかった。
このまま翌3日目、5月1日のことも書きます。3日目の炊きだしは、同じく森林公園で昼に。献立は、きのこの炊き込みご飯と、鶏団子汁。Mくん指揮による鶏団子汁は、味噌味が続く中で目先を変えて塩味、しかも大根おろしが入り、餡でとじるということでちょっとした料亭っぽい料理でした。
無事に3日間の炊きだしが終了し、荷物を積み込み、帰路へ。
東京へ到着し、レンタカーを返したのは5月2日朝8時でした。
不安と無力感(あと自然への畏怖もだ)が常についてまわったこの旅の考察は、気持ちが整理できたときにいつか。(続くかも)
宮城県雄勝の光景は、「37 frames」をご参考に。僕らがいたときの写真ではないけれど、こういう場所に僕らはいました。

前述の果物屋さんの場合は、「泥出し」というよりは、もうクリーンアップの、最後の段階だった。僕らはまず、棚の上や床に乾いてこびりついた泥(灰色)をタワシでこすり落とした。次に、店の前まで運んだ散水車からのホースを店内に伸ばし、水をいたるところに流し、それから床の泥を洗い流す。津波の高さは1メートルを越えていた。壁のタイルの目地をさらにタワシでこすり、仕上げに何度も雑巾で拭き上げていく。最後に、壊れた壁をビニールシートで覆った。
(写真は、「37 frames」より)
別の日に担当した飲食店は、あの津波以来、いちども手がつけられていない店舗だった。そこは漆黒の泥で覆われた異世界だった。ありえない角度に傾いた業務用冷蔵庫が入り口をふさぎ、中にはガラス、食器、什器、家具などがめちゃくちゃに放り出されて、泥の中に埋まっていた。一ヶ月たって、このような状態であることに、被害の大きさと、(たっくさんの)人手の必要性を痛感する。オーナーと家族だけだったら手がつけられない!
作業は店内にあふれるあらゆるものをまず外に運び出すことから始まった。
僕はこの日、ヘッドライトを忘れたので(窓もふさがれているので、灯りがないと何も見えない闇だ)、チームの数人が店の奥から運び出したものを、ワンブロックほど離れた瓦礫置き場まで一輪車で持っていく役目だった。泥の詰まった土嚢袋(重い)、泥をふくんだ畳(重い)、割れた食器、割れてない食器、さまざまなものを運んだ。
作業は当然、一日では終わらずに、翌日、別のチームに引き継がれ、泥出しされていった。

一週間

(写真は、「37 frames」より)

4月8日から16日まで、宮城県石巻でボランティアしました。
ボランティアたちは石巻専修大学の校庭、陸上トラックの外側の芝生にテントを張っています。複数のNGONPO、個人参加の人たち。その数、100張り以上。ボランティアのための炊き出しがある日もあったし、ボランティアのためのマッサージ・テント、美容師がボランティアで髪を切るテントもありました。日本だけでなく海外からも多くの人が来ていました。
僕が参加したNGOではボランティアの作業は、「泥出し」「キッチン(炊事)」「デリバリー(炊き出し)」「倉庫仕分け」の4種に分かれます。1チーム5人が基本単位で、泥出しなどは1エリアに3チーム(15人)など。特に強いリクエストがない限り、一週間、同じ種類の作業をします。
個人参加の場合は、同じく石巻専修大学に設置されている「石巻ボランティアセンター」で登録→マッチングとなるはずです。僕は一週間、ずっと「泥出し」でした。
基本的な日々のスケジュールは、朝8時に集合、全体ミーティング、ラジオ体操などを済ませ、9時頃、車で市内へ出発。市内清掃の拠点となる「あいプラザ石巻」で、スコップ、デッキブラシ、一輪車などを用意して(借りられる)、指示(依頼)のあった場所へ徒歩で移動。津波被害を受けた家や、汚れた通りの泥をかき出したり、水で流したり、泥を含んだ畳や家財道具を片付けたり、午後4時まで作業します。作業時はヘルメット+ゴーグル+マスク+レインウエア+厚手のビニール手袋+長靴を装備。作業終了前には川沿いの作業用の給水所(飲料水ではない)で道具を洗います。
昼食は「あいプラザ」の駐車場でとります。毎日、南米ベネズエラから贈られた不思議な形をしたバケット(真ん中に穴があいている)と、ウルグアイのコンビーフがお昼に出ました。南米の国々からは救援物資の他に、大使やメディアたちの視察、取材も、僕らが作業している期間にいくつかありました。
作業終了後は再び車でキャンプ地の石巻専修大学へ。夕方5時ぐらいに到着すると後は自由時間です(チームリーダーは、毎日ミーティングがあります)。食糧、水、テントなどは各自持参です。
石巻の状況は、報道や、前述の「37 frames」のサイトをごらんください。
ボランティアの経験がなくて、チームの足手まといにならないだろうか。被災地の邪魔にならないだろうか、という危惧は強くありました。昔テレビで見た「サバイバー」だったら初日にでも帰されそうなヘタレだし。でも、実際に体験してみると、泥出しは重労働ではあるものの、できることは確実にあるし、なにより「人手は無限に必要」です。それに5人組というチームの存在が大きいです。ひとりじゃできなかった。
最近、読んだ坂口恭平の言葉、〈技術はないかもしれないが、心配は無用。本当は技術がないのではなく、経験がないだけだ。自分の身体を使って体験を重ねると、必要な技術はいくらでも進歩するのが、人間というものだ。〉が響きます。一週間で「進歩」したかどうかはともかく。
重要なことは、被災地への人的援助は今後も継続的に必要だということです。
トップの写真は、4月11日に泥出し、掃除をした果物屋さんが、翌日開店したときの写真。津波被害を受けたあと、この通りの商店では初の営業再開になりました。再開記念に、サンマを店頭で焼き無料配布しました(果物屋さんなのに!)。僕は店のそばでその告知をしています。

石巻へ


上の映像は、僕らより二週間前に出発したチームの現地活動映像。装備を考えたり、向こうでの活動を知るために、この映像は何度もチェックしました。映像や写真にはいろんなヒントが詰め込まれています。

4月8日、先日の説明会が行なわれた都内のNGO事務所の前から、大型のバス4台で、夜、21時30分に石巻に向けて出発。荷物は、リュックふたつまでと事前通告があったけど、バックパック+キャリーケースという組み合わせの人も多い。7泊8日分の食糧、水、テントなどを持っていくのだ。登山、縦走の経験もない僕にとっては、この期間に必要な荷物を見極めるのにかなり悩んだ。
【住】
・テント(2人用を1人で使用)
・ブルーシート(テントの下に敷くもの)
・銀マット+エアマット(夜間の寒さ対策で2重に)
・シェラフ(3シーズン用しか持ってなかったので、それを)
・エマージェンシーシート(夜間、寒いときに身体に巻き付けるため)
→昼間と同じ格好で就寝。ダウンジャケットも着たままでした。夜間は気温は0度近くまで下がり、毎朝4時前には寒さで目が覚め、朝陽が出るまではシュラフの中で震えていました。銀マットの下には現地でもらった段ボールを敷いていましたが、段ボールで床一面を覆ったテントもありました。現地NGOから毛布を一枚借りました。
【食】
パンやアルファ米、餅、棒ラーメン、レトルト食品、カロリーメイト、水などを3食×7日+@分。毎食事、持参したガスストーブでお湯を沸かして粉末スープや、スティック状になったブレンディを飲み、身体を暖めました。前半はパン中心。後半、カビが生えてしまったけど干し芋はいいおやつになりました。
【衣】
気候と作業内容を考えて用意を。僕は下着の着替えは二回しかしなかった。上下が別になってるカッパ(レインウエア)は作業時に必ず着ますし、泥だらけになります。作業時のフル装備は、ヘルメット(現地で借りる)、ゴーグル(砂塵が舞っています)、マスク(必携)、レインウエア、長靴(必携。僕は普通の靴は持たずに、集合時から長靴でした)。
これらの荷物で、35リットルと30リットルのリュックをふたつ、それに水タンク(8リットル)でした。

説明会

災害ボランティアの説明会に行ったのは3月30日。地震直後からボランティアに行きたい気持ちはありました。3月19日には、浦安市での泥かきボランティアにも参加しました。
インターネットの告知で知って、都内にあるそのNGOの事務所にこの夜集まったのは約250人。同日、報道で入っていたNHKテレビによると、20代から60代までの男女。外国人も10数人いて、会場の隅では英語の同時通訳が行われていました。
このNGOが活動しているのは宮城県石巻市。その現状と活動が説明されました。「ボランティアは時期尚早という意見もあるが、それは受け入れ先がない場合。現地での人手は無限に必要」とのこと。
現地でのボランティア・リーダーと電話をつなぎながら、スムーズに、しかし、強烈な現地情報が説明されていきます。現地リーダーは、阪神大震災以来、チリ地震スマトラ地震など国内外の災害で救援活動をしてきた人で、今回も3月17日から現地入り。このNGOのボランティア、第一陣も3月23日に50人が現地入りしています。僕らは4月8日出発の第三陣となります。 現地でしている活動は主に、炊き出し(一日1000食)と泥かき。避難所に避難している人たちに、物資は届きはじめた。でも、避難所に入らずに、被災した家や車でそのまま暮らしている人たちへの援助物資、食事の供給が難しい。温かい食事を地震以来取れていない人もいる。そういう人たちへの炊き出し、デリバリーをしている。避難所に入らずに車で寝泊まりするいうのは、家を失い、唯一の財産である車を盗られないために、そこで暮らしているとのこと。
炊き出しの他にもうひとつの主な仕事は、泥かき。津波により泥が入り込んだ老人ホーム、学校などから泥の撤去最近の例に挙げていたが、こういう人手が必要なことがボランティアにしかできないこと。他のことは、ガソリン不足が解消すれば、被災者自身が車で動きまわれるようになるので、状況も変わってくる、と。状況は日々変わるが、こらからも確実に必要なのが泥かき。
なんども強調されていたのは、「人手は無限に必要」ということ。なぜ「ボランティアが時期尚早」と言われたかというと、バラバラに現地に入ると被災者との約束が果たせない。だけど受け入れ先とニーズがあっていけば、泥かきなど、無限の人手が必要なことができる。 ボランティアの受け入れ先は「社会福祉協議会」。僕は今回初めて知りましたが、全国にあり、災害ボランティアの受け入れはすべてここで行うとのこと。ただ、今回の震災が特殊なことは、社会福祉協議会自体も被災してしまったこと。宮城県では現在4市町村だけが、県外のボランティアの受け入れをしていて、石巻市はそのひとつ。このNGO石巻以外で活動をしていないのは、「やらない」のではなくて、石巻の惨状にここで行うのがせいいっぱいだから。しかし、一週間ごとに送り込むボランティアの規模は順次拡大していっている。
現地の説明も終わり、今回のボランティア募集が、主に泥かきなこと。それが重労働なので、「15キロ以上のものが持てる人」。「1日8時間以上、1週間作業が続けられる人」、「20歳以上」、という条件が提示され、それに合う人が会場に残り、5分休憩後、オリエンテーションに進む。
説明会からオリエンテーションまでの5分の休憩時、結果的にシンキングタイムとなったこの時間で、自分の想像力を全速で回転させる。まわりを見ながら、自分に問いながら、「行く」ことを決める。マラソンのスタートラインに立ったときと気持ちが似てる。屈伸しながら自分のスペックを総点検し、周囲のランナー、天候、風向き、などあらゆる情報を処理してる。自分は、大丈夫なのか。不安はある。
マンガ『岳』の主人公みたいな、山岳救助のプロ、みたいな人だけが残ってるというわけではなかった。これもマラソンのスタートラインと同じ。老若男女、いる。「4月3日に20歳になるんですが、いいですか?」と質問する男の子がいた。スタッフから「ぜんぜん、だいじょうぶです!」との返答。緊張がほぐれて、笑顔になった。
「参加希望人数を知りたいので周囲の5人で一組になり、その中の代表が手をあげてください。数えます」ということでぱっと5人になる。計測方法、速い。約130人が残ってる(説明会は250人ぐらい参加)。
「現地での活動は、5人のグループ単位になります。いま集まってもらった5人がそのグループです」。えー! 僕のグループは、46歳女性、41歳男性、僕、30歳男性、25歳男性の5人。「5分で自己紹介してください」。名前だけメモをとっていく。「リーダーを決めてください。決め方はお任せします」。急速に5人組のコミュニティができていく。僕らの中では41歳Tさんが立候補により代表に。このグループリーダーが、連絡役になる。
「10分間でテントなど持ち物について話し合ってください。出発日まで集まれるのは今日だけです」。急いで、グループ内の連絡先をお互いメモし、装備を確認する。
ボランティアは自分のための全ての食料、水を持参し、泊まる場所はこれも持参したテントになる。自己完結の鉄則。「食料は米の人、パンの人と分担して持ってくる」のか、否、「食べ物は活力の基本なので自分が好きなものを持ってくるほうがいい」など、素早い論議がいくつか。ストーブ(料理用)をどうするか、水はひとりどのぐらい必要か、などなど。タイムアップ。これで解散。さて。