85 明王院五重塔(広島県福山市)

明王院五重塔広島県福山市

 国宝の五重塔で京都・奈良以外では、最も古い塔が、この明王院五重塔である。
 明王院五重塔は、南北朝時代の貞和4年(1348年)、当時の住持によって一文勧進の小資を募って造られた。純粋の和様でよく整った外観と雄大な手法によって、南北朝時代を代表する建築の一つとして国宝に指定された。
 その初層内部には、さながら浄土の世界を写すように柱や壁前面にわたって、極彩色で真言八祖行状図や三十六尊像、龍・雲・飛天・花鳥などが描かれ、仏教絵画の研究者たちの大きな関心を集めてきた。また、心柱を2層目から立てる五重塔としては、最初の例である。
 今は、芦田川の河畔の小高い丘の中腹にあるが、その昔は、瀬戸内海の入り江が開け、この寺の前は、天然の良港であったという。沖を行く船からも、朱塗りの塔は行路を示すようによく見えたという。
 この明王院の直下で門前町として栄え、塔建立に浄財を寄進した草戸千軒の住民たちは、江戸時代の大洪水により、一夜のうちに飲まれてしまった。今では、往時を偲ぶものはなにもないが、福山市では、日本のポンペイ「草戸千軒町遺跡」として保存を図り、市の博物館に、発掘品を展示している。
 明王院から芦田川を下り、瀬戸内を南へと回りこむと、鞆の浦へ出る。
 鞆の浦といえば、「対潮楼」。江戸時代を通じて朝鮮通信使の常宿とされた。座敷から見る仙酔島、ここからの眺めが絶景といわれ、通信使は、この景観を「日東第一形勝」と賞賛した。多くの通信使が漢詩や書をあらわし、これを鑑賞するため、多くの文人墨客が訪れたという。また、筝の名曲、「春の海」は、鞆の浦を舞台にした曲として知られている。
 この鞆の浦の静観寺門前に山中鹿之助首塚がある。
 戦国時代、尼子氏は中国地方に一大勢力を築いた戦国大名であったが、毛利元就によって滅ばされる。尼子家の復興に命を懸けた山中鹿之助が、「願わくば我に七難八苦を与え給え」と三日月に祈るその姿を、テレビのない時代、ラジオから流れる講談に、その情景を眼前に浮かべ涙し、その活躍に手に汗を握った。
 主家復興ならず、毛利に捕われた鹿之助は、毛利輝元の命により、護送途上、備中の高梁川阿井の渡しで殺される。首級は、備中松山城に送られ、毛利輝元により首実検が行われる。その後、毛利氏の庇護の下、鞆の浦に幕府を置いていた15代将軍足利義昭の首実験のため鞆御所に送られる。首実検後、地元の人々により、手厚く葬られた。今でも、静観寺では毎年7月17日に「首塚祭り」を行い、供養をしている。なお、胴塚は、岡山県高梁市の阿井の渡し場にある。
 戦後生まれの団塊の世代である私たちは、学校帰りには、5円のコロッケを買い食いし、近所の子供たちが集まっては陣取りやカンケリ、かくれんぼ、狭い路地での三角ベースに興じ、家に帰っては、サクマのドロップのハッカを取り合って兄弟げんか。貸本屋から借りてきた「カムイ伝」や「サスケ」、「忍者武芸帳 影丸」などを夢中になって読む。夕食は、ラジオから流れる講談や浪曲、連続ドラマを聞きながら、親と一緒になって涙する。
 今、山中鹿之助真田十勇士寛永馬術といっても、若い人たちは知らない、すべて忘れられた物語である。