『心脳問題』における「政治(的)」という概念の用法


[MB]=拙著(『心脳問題』)について contractioさん(id:contractio)から提示していただいた疑問について考えるスレです。


http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20040702
http://d.hatena.ne.jp/contractio/20040703#1088783072


contractioさんからさらなるコメントをいただきました。ありがとうございます。

(略)
【A】「社会のなかで脳科学がどのように機能するか」ということを考える
という課題設定を、

【B】「政治的」な視点(が欠かせない)
という表現と結び合わせるときに生じている(ように私には思われる)、その「飛躍」、これである。

つまり、もっとも簡単かつベタに問いを定式化すれば、問いたいのは、

課題【A】に対して、「政治的」という形容詞を付し(たくなっ)たのは、どうしてか

ex. 「哲学的」でも「宗教的」でも「道徳的」でも「倫理的」でも「規範的」でも「公共的」でも「経済的」でも「法的」でも「科学的」でも「科学論的」でも(中略)なく、どうして「政治的」、なのか。


contractioさんが問おうとしていることがうっすらと見えてきたような気がしました。が、まだ理解できたとはいえない状況です(スミマセン)*1


「政治的」という形容詞を付したくなった理由は、ことのほか単純でした。contractioさんのまとめをお借りしてあいだを補うと、こうなります。


【A】「社会のなかで脳科学がどのように機能するか」ということを考える


【A'】このとき社会と脳科学のあいだで起こりうることは、ひとり脳科学内部の問題にとどまらず「ある範囲の人びと全員を拘束してしまうような事柄を決めること」であるだろう


【A''】ところで橋爪さんはそのようことを「政治」と呼んでいた。この「政治」という言葉の用法は筆者も同意するところなので、本書でも毎回「ある範囲の人びと全員を拘束してしまうような事柄を決めること」と記すかわりに短く「政治的」と記すことにしよう


【B】「政治的」な視点(が欠かせない)――と記す


ただし、こう補ったあとでもやはり、それではなぜ「ある範囲の人びと全員を拘束してしまうような事柄を決めること」をほかならぬ「政治」と呼ぶのか(いかなる理由で橋爪さんの定義に同意するのか?)、という問題は残り続けるかと思います。


このような意味において、たしかに本書における「政治」という概念はウルトラに使われているというわけですね。


逆に考えると、では「ある範囲の人びと全員を拘束してしまうような事柄を決めること」という事態をある言葉で名指すとき、その言葉の選択についてどのような理由が述べられたなら、contractioさんによる疑問を回避することができるだろうか?


ひとつは、その選択が十分説得的であるほどに検討を加えること*2。もうひとつは、他にありうる選択肢がなぜこの文脈で適切ではないかを明示すること、などがあるでしょうか。


ここからふたたびひるがえると、それにしても「政治」という言葉には、諸学や諸現場においてすでにさまざまな使い方(意味づけ)の伝統があるゆえに、ことさら「政治」という言葉を選択するからにはそれなりの理由の提示が必要――というかそうしないと、なぜ「政治」という言葉を使う必要があるのかがわからないままになる――だ、ということでしょうか。


contractioさんが書いてくださったメモ(http://d.hatena.ne.jp/contractio/20040703#1088783072)を拝読しながら、以上のようなことを考えました。例によって問題は解決せず、その場で足踏みをするようなことになりました (^-^;

*1:ひょっとしたらそれは、小生が社会システム論的な思考のスタイルに疎いこととなにか関係があるのではないか、という気もしてきました。あくまで気がしているだけですけれど。

*2:といっても程度問題になってしまいますが。

一台のプリンターがあれば


使っているプリンターが故障した。


相棒とのミーティングに出かける寸前につくっておいたメモをプリントしようとしたら、プリンターはふつうに印刷しているふりをするのに印字されない。ぬぬ?


インクがないのだろうか、とインク・カートリッジをかえるも症状はかわらず。これはどうやらプリントヘッドが寿命になったらしい。


#というか、必要な印刷物を当日出かける寸前に印刷するのをやめなくては。でもたいていの場合直前まで手をいれているのだから仕方がない。って誰にエクスキューズしてるんだ。


ではというので、プリントヘッドを入手しに電器店へ出向く。


探すことしばし。目的のブツがあった。価格は約9000円。書物が9000円ならたじろがないが、プリンターの消耗品が9000円というのにはたじろいでしまうワタシ。だってフレイザー金枝篇』(国書刊行会)が一分冊買えてしまうではないか(ピエール・ベール著作集は無理だとしても)。


与太はともかく。数年前なら迷わず購入したところだが、昨今プリンターは安いのである。見よ、売り場には10000円で買えてしまうプリンターまである始末だ。


さらに。あと5000円も出せば、スキャナー/コピー機能つきのプリンタ(しかも各種メディアをさすスロットまで備わっている)も手にはいる。なぜかくもプリンターは安いのか? と問いたい。


ちなみに今使っているプリンターはまだプリンターとスキャナーが分離していた時代の代物で、印刷するよりほかに能はない。


くはは、と迷うこと五秒。スキャナー/コピー機能つきマシンを買うことに決定した。


ちかくにいた店員氏に機能の不明点を確認し、疑問を解消したところで支払い、受け取り、持ち帰った。


もうこれからは図書館で借りた資料を家でコピーできるんである。持ち歩きたくない巨大で重たい本も、読みたいところだけコピーすればいいんである。アジビラや地下出版も自由自在なんである。どんな文書でもおもいのままである。


それに比べたら多少、造型が甘いのは気にならない。バリなどは自分できれいにけずりとればいい。デザインが多少おかしいのも目をつぶろう(そもそもまともなデザインのプリンターが存在しないのだし)。


ヨリス・イヴェンスヴェトナム戦争を取材したドキュメンタリー映画のなかで、地下にもぐったヴェトナムの戦士たちが、破壊した米軍戦闘機からとれる部品を使ってつくられた印刷機を廻している場面が思い出される。「こうした部品があれば印刷機をつくることができます。印刷機が一台あれば、新聞をすり、人々におこりつつあることを知らせることができます」


がぜんやる気がわいてきたのである。



文芸誌の最新号を入手しようと出先の自由ヶ丘で書店にはいる。が、文芸誌は売り切れなのかほとんど見当たらない。しかたがないのでほかの本を買うことにする。ただしへろへろなのでちくま文庫ちくま学芸文庫平凡社ライブラリー、白水uブックスともに一冊ずつにする(残りは今度元気なときに)。どの叢書も読みたい本ばかりだ。


ジム・クレイス『死んでいる』渡辺佐智江訳、白水uブックス148、白水社、2004/07、amazon.co.jp


ホメーロスの諸神讚歌』沓掛良彦訳、ちくま学芸文庫、筑摩書房、2004/07、amazon.co.jp


高橋悠治高橋悠治/コレクション1970年代』平凡社ライブラリー平凡社、、amazon.co.jp