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やまももも に やまもとひろき

2012-02-22

銀座ギャラリー巡り、大森





銀座ギャラリー巡り。ギャラリー58武井文展。随分几帳面な絵である。田中敦子のような形態で、ゆるい筈なのだが、そう感じられる。絵の具の塗り方が非常に神経質な感じ。感覚はいいところが多く感じられるのだけれどまだまだスケールが小さく底が浅くも感じられてしまう。じぶんの中の「地図」を表現して居るとのこと。どこまで「のびしろ」があるか。感覚的にも知的にも。ギャラリー秋山祐徳太子氏が居て、現代美術常設展の招待券をいただく。



ギャラリー小柳。ヘレン・ファン・ミーネ。犬と兎と人間の肖像。人間と動物を併置している面白さと云うわけか。大判でしっかり撮って居るのだろうが構図もアイデアも私には何故だかいまいち魅力的には感じられなかった。背後に何か深い思想が感じられるわけでもないし、上手いのだろうが、特になにかそれ以上と云うふうでもなさそうだ。



INAXギャラリー、堂東由佳展。http://inax.lixil.co.jp/gallery/contemporary/detail/d_002054.html

模様が只管連なっている版画。ギャラリーの真ん中にテーブルをいくつも置いて、水平に版画を並べるのは面白い。併し肝心の版画がいまいち。ただし、壁に同じような模様を使った版画が二枚程度掛けてあるのだが、そちらは断然魅力的。僅かな構図の差異が成功と失敗の差でもあろうが、おおきな違いはガラスの額縁に入って居ること。ガラスを介在させることで版画特有の生々しさ(盛り上がり)が抑えられて、非常に緊張感のあるものに変わって居ることに気づく。私は基本的に版画と云う形態が好きではない。ペンや鉛筆で描いてあるのは、ある意味紙に彫ると云うような行為の堅牢性が感じられて心地よいのだけれど、版画の場合はどうも紙の表面にインクが乗っかっているだけで紙に喰い込んでいない、ふわふわしている感じがいやなのだ。鍍金のような頼りなさであるし、まるで中身がないように思ってしまう。ところがガラスを介在すると堅牢性が付与されて、とたんに魅力的な表情に変貌して居たのである。

(但し、ガラスの額縁に入って居る四枚組の作品もあったのだけれど、それは全然良くなかったのでガラス云々以前の問題がやはり当然大きい事も確か)



銀座七丁目に出て資生堂ギャラリー。第6回shiseido art egg  鎌田友介展。http://www.shiseido.co.jp/gallery/exhibition/

紹介文によると、「鎌田友介は、3次元の現実世界を解体し、2次元に作り替え再び3次元空間に構成することで知覚のゆがみをつくりだすインスタレーション作品を展開しているアーティストです」とのこと。

作品は、≪3次元の物質である木枠を壊す(折る)ことで、壁面に2次元パースペクティヴを出現させた作品≫と、≪使用済みのアルミサッシの窓枠約130枚を使って、多次元的な視点を同時に知覚できる空間をつくることを試み≫ている作品、の二つである。後者の作品はギャラリー空間をフルに使って圧倒的な物量なのだが、まさにこれこそ「演劇性」が強く生々しくて魅力的ではない。パースペクティヴの面白さが使用済みアルミサッシの非常に強いもの性によって台無しになってしまっているのであった。前者の作品のほうが圧倒的に魅力的である(前者では木枠が折れて居ると云う表情の強さが無理なく魅力となっている)。

そして驚いたのが、ポートフォリオ。≪使用済みのアルミサッシの窓枠約130枚を使って、多次元的な視点を同時に知覚できる空間をつくることを試み≫に似た作品群を、写真に撮ってそこに載せてあるのだが、この写真がどの作品よりも圧倒的に魅力的だし、このコンセプトの不思議さがいちばん引き出されていた。

要するに、大空間に色々に構成してみたもの自体を作品にするのではなくて、それを写真に撮ったものを「作品」にしたほうが、ものの圧倒的な強さに邪魔されることなく「パースペクティヴ」の魅力や「知覚のゆがみ」が十全に引き出され、凄く面白くなるだろうにと思った。




銀座7丁目から新橋まで歩き、そこから京浜東北線に乗って大森へ手提げ袋を取りに行く。松村書店のおばさんはとてもいい表情をして手提げ袋を渡してくれた。白川由美似の(昔ではなく今の)、おおらかで魅力的な方である。その後大森の上島珈琲店にてケーキセットを頼み、論文校正をやる。

夜、中野に出てベローチェで読書。中野から荻窪まで写真を撮りながら帰宅。






購入

『芸術の設計』見る/作ることのアプリケーション 岡崎乾二郎編著 フィルムアート

『庭のたのしみ』西洋の庭園二千年 アンヌ・スコット−ジェイムズ著 オズバード・ランカスター絵 横山正+増田能子共訳 鹿島出版会

『夜の文学』 文学空間04 2007 風濤社

輪廻の暦』 萩原葉子 講談社文芸文庫

リヴァイアサン近代国家の思想と歴史 長尾龍一 講談社学術文庫 





2012-02-21

春。ジャカランダの黄葉と、手提げ袋の発見




・絵画教室のブログ更新。

http://yamanonono.exblog.jp/



・本格的にジャカランダの黄葉が進む。一応は南国の植物と云う事で家の中に入れているのでもしかしたら落葉しないかもしれないと思っていたが、ちゃんと時期になると黄葉することが解る。

昼。外に出ると、全く寒くなく心地よい陽気であり、刻々と春が近づいていることが感じられる。ベローチェに行き、大森の松村書店に電話。

あった!!!あったのだ。手提げ袋が!!!ほんとうに、ほんとうによかった。本を失う、知的な「喪失」と云うものがどんなことか、改めて思い知った。そればかりでなく宮川と阿部の情のこもった誠実な往復書簡に涙した直後だけに、尚更ショックは大きかったのである。

あったときいたときはどれだけ嬉しかったか。まるで合格発表をきくような面持ちであったし、純粋に悦びが爆発した。同時にじぶんが今何を希求して居るかが改めてクリアになったような気がする。


調子が戻り、図書館に本を返却したり買い物に出たり洗濯物をしたりと、精力的に動く。下井草図書館岡崎乾二郎の『ルネサンス 経験の条件』を再び借りた後、下井草の「大慶」で味噌ラーメンを食す。『ルネサンス 経験の条件』は昔斜め読みしたが、今一度読むと矢張りとても新鮮に、ぐっと魅力的に迫って来る。今、このような「知」を切実に希求して居るのだろう。


夜、グバイドゥーリナチェロ練習曲等≪高橋悠治リアルタイム―1 グバイドゥーリナ≫(高橋悠治指揮)、マデルナの≪オーボエ協奏曲(全三曲)≫(ホリガ―)、アルボス≪樹≫、フェルドマン≪ピアノ弦楽四重奏≫を続けて聴く。ブログの編集等。

疲れてきたので、三宅榛名高橋悠治の、≪いちめん菜の花≫を聴く。なつかしい音の響きながらもこの感情の起伏が大きい曲集を聴くと、反対に落ち着く。いいドラマを観てちょっと泣けてしまう時のような気分になる。





2012-02-20

大森、大森、大森






・日曜日、風景画教室。駒込旧古河庭園へ。ジョサイア・コンドルの設計ではこれが一番好きだ。今回は外側からスケッチ。みればみるほと良い建物。旧岩崎邸や三菱一号館より断然良い。フランス式の庭園はあまり好きではないが、ここの薔薇園は素敵である。シンメトリーな構図なのに、不思議と硬い感じはしない。スケッチの後駒込近くの日本料理屋で御馳走になる。


その後上野毛多摩美のデザイン科卒業制作展を観に行く。去年教えた学生に会い、久闊を叙す。「おお!先生っ」とすごく嬉しそうに声をかけてくれるのは、たいへん有りがたい。



夕方、金曜日にオープニングパーティーが有ったのにも拘わらず行かれなかった、水田紗弥子企画≪入る旅人 出る旅人≫vol.1ろばの道、を観に行く。上野毛から池上まで東急線で移動。池上から只管歩く。大田区、然も池上と云う土地は初めてで、非常にアウェイな気持ちで、歩けば歩くほど不安になる。「ほんとうにやっているのだろうか?」住所だけを頼りに歩きに歩き、迷いに迷い、ついに辿りつく。会場は≪DOROTHY VACANCE≫と云うサイケな洋服や小物を扱うショップ&ギャラリーhttp://dorothyvacanceshop.blogspot.com/ 

実質的には松本力と云うひとの個展であった。非常に物語性の強い作家で、夢だか現実だか判らないようなところでいきている、獏のようなひと。ちょうどその日インタビュー企画があったので、それを聴いて、そんな感じでぼちぼち他のアーティストとも交流を深めつつ、帰る。水田氏ともゆっくり話すことが出来、面白そうな感性のキュレーターなのではないかと思う。≪入る旅人 出る旅人≫vol.2ろばの空間、も観に行こうと思う。帰りは池上ではなく大森駅から荻窪まで・・・と、ふと気が付くとコートを着て居ないではないか!何とコートを会場に忘れて来てしまったのだった。何故こんなに寒いのにも拘わらずコートを着るのを忘れてしまったかと云うと、風景画教室のために異常なくらい厚着をしていたからだ。仕方ないので次の日に取りにいくことにする。





・月曜日。朝、机の前に積み重ねてあった本の山が本格的に崩落した。このような大規模な崩落ぶりは東日本大震災以来。なんとかパソコンやカメラが無事でよかった。昼、カーネーションを観てから、再びコートをとりに大森へ。ふたたび≪DOROTHY VACANCE≫。オーナーのGが居て、ゆっくり話をすることができて良かった。昔、ほんの少し関わった画廊で一緒に働いていたことがあったのをGが憶えて居てくれて、久方ぶりの再会でもあるのだ。一時間くらい話しただろうか。話題が盛り上がってきたところで私は南行徳の仕事まで行かねばならぬので、お店を後にする。途中写真を撮りながら大森駅まで歩く。その途に古本屋があり、そこで『[日本の作曲家たち]戦後から真の戦後的未来へ』(秋山邦晴)の下巻が四百円で売っていて、喜んで買う。

大森駅着。無事電車に乗ったところでまたもや忘れ物をしたことに気づく。宮川淳の『美術とその言説』、阿部良雄の『絵画が偉大であった時代』、それに勤めて居る大学に出す作品論文の三点が入って居た手提げ袋を失くしたのに気付いたのだ。慌ててGに電話してみるが、今度は店にはないようだ。併し南行徳の仕事に間に合わないので、取り敢えず南行徳に向かわなければならない。


七時半。無事仕事を終えて、またもや大森へ。先程歩いて来た道をまた戻る。途中警察で紛失届を出し、駅でも相談するが、目当てのものは出てこない。ただ、徹底的に捜し歩いたので、少し気がまぎれる。残る可能性は、途中で立ち寄った古本屋である。明日にならないと店が開かないため、今日のところは諦める。

宮川淳阿部良雄の得難い友情の結実の往復書簡をはじめ、ボードレールクールベ、近代、モダニズム、ひいては美術全般にわたって深く思索するのにまたとない良著を失くしたのはあまりに哀しい。泣きたくなる気分だ。明日あることを願いつつ。



真夜中。ama2k46が送ってくれたモートン・フェルドマンの《ピアノ弦楽四重奏》を、照明を落として聴く。心が落ち着く。






・購入

『日本の作曲家たち』戦後から真の戦後的な未来(下) 秋山邦晴 音楽之友社

杉浦康平装丁が素晴らしい。







2012-02-18

二十五年経つ過去、七年で忘却した知識



・友人知人たちが創った「ゲーム創作カタパルト」。 

http://www.gamecatapult.com/

これは素晴らしい。実現したのはすごいことだ。ひとつの凄い試みが本格的に始まった。教育と云うのも、(カルチャー)サロンと云うのも、この形態が、これからのおおきなおおきな可能性になるのではないかと感じる。




・今日は祖母の命日。もう亡くなってから二十五年目になるのか。二十六年目か。

天皇が心臓を手術、無事成功したと云う。日大医学部出身の医者が抜擢されたと云う。ふと、昭和天皇の、毎日の吐血量や体温を報道するニュースを思い浮かべる。

副職。夜は餃子満州

ベローチェにて宮川淳阿部良雄との往復書簡を読む。『美術史とその言説』と『絵画が偉大であった時代』に所収のもの。『絵画が偉大であった時代』の方には、宮川が亡くなってからの阿部の書簡がある。今橋映子の『異都小景日本人のパリ』と『絵画の準備を』の関連したところをぽちぽち併読しながら。『異都小景日本人のパリ』はもう一回しっかり読み直したいところだ(この本はしっかり線を引きながら読んでおけばよかった)。

帰宅後何気なく本棚から『反美学ポストモダンの諸相』を抜き出してみたら、そんなにきちんと読んだ思い出がないのに、最初から最後まで線を引きながら読んでいるじぶんが居て吃驚した。線を引いているところをみても思い出せない。書き込みをみると、七年くらい前に読んだらしい。

最近、読みなおしてみると昔ピンと来なかったり、判らなかったり、忘れてしまって居たものが、物凄く魅力的な問題としてじぶんに迫って来ることがおおい。まるで初めて読んだように、感動することが多い。



・普段授業等で絵画教室の生徒さんや学生にいつも教えて居るような知識や技術が、あらためて「こういうことなのか!」と云うように、実感をもって深く「理解」することがある。今日も、<イメージ(イマージュ)>と云う問題で、「ああ、そうなのか!」と思うところあり。





・金曜日、sm下高井戸で待ち合わせ、昼飯は老舗の釜めし屋で食す。その後府中市美術館で行われている≪石子順造的世界 美術発・マンガ経由・キッチュ行 ≫を観る。思いがけず岡崎和郎氏の作品があり、感動する。赤瀬川原平が書いた(描いた)「石子順造的世界」のタイトル文字の原画が飾ってあって、少し前に西田博至展に出した作品と何だかだぶるところがあって興味深かった。別にその作品は「なぞっている」わけではないし、コンセプトは全く違うのだけれど。

食品サンプルが大量に飾ってあって、たいへん魅力である。あの食品サンプルの魅力と云うのは何なのであろうか・・・たぶん、ピザラーメンなどの流動的な形態をそっくりに仕上げてあるのが堪らなく魅力的なのだろう。あのテロテロした質感なのにも拘わらず、そっくりなところとかも。キッチュでリアル。でかい風呂絵も飾ってあって、その技法も魅力的。単純に描き方の参考になるところも少なくない。多層構造仕上げ、ざっくりした明暗。マネ的とも云えてしまえるような単純化。福田美蘭パロディ的作品よりも迫真をもって迫って来る。風呂絵の、「ほんもの」の迫力がある。職人の大量生産的で限りなくシステマティックな仕上げの筈なのに本物がよいと思えてしまう。これを美術館の光の下で観るのも、いいのかもしれないけれども。

ただ食品サンプル等は、個人のコレクターから借りてきたのだろうけれど、所有者が「個人」としか書いていないのが残念。石子順造が集めたものなのか、ゆかりの人が石子の理論に沿って集めたものなのか、石子と何も関係ない人から美術館の人が集めてきたのかはっきりしないものがおおいのが痛い。

美術展の企画としては、判りやすさを追求したのか「現代美術/漫画/キッチュ」と云うように単純に分け過ぎてしまって居て、何となく割り切れ過ぎていて拡がりがない展示のような気がする。その割には石子順造の年表すらないのはなお中途半端。惜しいと云えば惜しい。

夜は千歳烏山焼き鳥屋で呑む。最後はハーブティ(カモミール)。





・購入

『日本植民地探訪』 大江志乃夫 新潮選書

『もう一つの維新史』 外山幹夫 新潮選書

ヘーゲル精神現象学」入門』[新版] 加藤尚武編 有斐閣選書





2012-02-16

散髪




・昼前に起きて、ブランチを食べながらカーネーションを観る。グッと泣けて来る描写。東京で上手くいかない直子をきつく叱らない。激しく本気であるのがひしひしとわかるからだ。プライドを気遣う。友人(モデルは賢三)の「鉄くず」のオブジェも判らないけれど、本気だと云うのを感じられる、糸子。若いひとのファッションはもう判らない、併し外国語のようなものだと。意味は判らないけれど、それは、「感じられる」のだ。東京の下宿で、直子とその友人たちにお寿司などを気前よく振る舞う糸子。確実に祖母の方に移行していく。

午後、ベローチェで読書。散髪に行く。髪を染める。暫く金欠のため染めなかったが、矢張り染めると全然違う。ぱっと明るく爽やかに、押し付けがましくなく、重たくなくなるのが判る。

美容院に異常に指圧が上手い人が居て、今日はその人にあたって、やっぱりすごく上手かった。

夜、雪が降って来る。どうも寒いなと思って外に出たら雪が音もなく降り出していた。なんだか落ち着かない気持ちになって、阿部良雄の本を買いに吉祥寺高円寺あたりまで自転車で漕ごうかと思ったけれども、結局荻窪駅まで出て、ふらふらしてささま書店にて、阿部良雄の『絵画が偉大であった時代』を購入。

家に帰って早速読もうと思うのだが何だかそわそわして気ばかり焦って、何も実行できない。読みたい、制作したい、あれもしなければこれもしなければと云う、気ばかり焦って何もできない症候群が発動する。気が付けばもう六日も家計簿を付けて居なかったので付けて、気が付けば机や床の上が散らばって居たので片付ける。少しすっきりして何か心が落ち着く。


・非日常が専門であり、基本非日常の生活を送って居るのだと自覚することが必要であろう。教師や講師と云う職業も、基本的には非日常のひとたち(生産とは直接関係ない人たち)を多く教えるのであるからして、やはり非日常的なほうに近い職業なのではないか。会社や一般社会と呼ばれるところではやはりないと思う。



・購入

『絵画が偉大であった時代』 阿部良雄 小沢書店

『奇妙な本棚』 伴田良輔 ちくま文庫

『木下順庵評伝』 木下一雄著 国書刊行会

『錦里文集』 木下順庵著 木下一雄校訳 国書刊行会





2012-02-15

教室、しらべもの





西鎌倉絵画教室。帰りケーキセットを御馳走になる。夜新宿に出て水山で海老天ぶっかけうどん。その後ベローチェで勉強。帰宅。『絵画の準備を!』『美術史とその言説』『シュルレアリスム美術を語るために』、そしてama2k46に送ってもらった『美術手帖96/2月号』のコピー等、併読しながら。明日阿部良雄の本を是非買わなければならない。



・購入

・CD

[ディーリアス] Paris・Irmelin-Prelude・Eventyr`Fennimore&Gerda`-Intermezzo Over the Hills and Far Away ビーチャム卿、ロンドンフィル

[リゲティ] ピアノ練習曲他 PIERRE-LAURENT AIMARD,PIANO

・本

『三匹の蟹』大庭みな子 講談社文芸文庫

『火をそのままにしておくと―消せなくなる』トルストイ民話集 小沼文彦訳 女子パウロ

内村鑑三文明評論集』(1,2) 山本七平編 講談社学術文庫







写真と≪詩人の血≫




・昨日深夜、ジャン・コクトー詩人の血≫を観る。全てに於いて徴候的な事柄を体現している。不条理、不安、欲望・・・人間の意識下に眠るものたちが表に出る。表と裏が逆になる。実態あるものが透明になり、偶像は人間に、人間は偶像になり、偶像は破壊されると人間は偶像になる。個体は砕けて砂になり、砂になった個体は人間を蔽って偶像にしてしまう。覘き穴で色んな状況を垣間見る。それにしても何故覘き穴?鍵穴?劇がほんとうに、ほんとうは劇に。鏡の世界は現実になる。


・そう云えば昨日の≪砂の女≫、エチオピアに行ったときに観たラリベラの石窟寺院を想い出してしまったのだ。



・写真に関して云うと、シャッターを二千分の一で切ろうとと六十秒間で切ろうと、要するに時間が流れて居るものを撮るのである。そこに流れている移ろいを切り取るのである。継時的なのである。だからだぶっていたって全然おかしくはない。寧ろリアルにすら見える。瞬間なんて既成概念はもう一度解体してみるべき。




2012-02-14

写真と≪砂の女≫





・写真を並べるときは、一枚抜かすかどうかだけで全然違ってきてしまう。ただの混乱になってしまうことなく、画像たちがどう流動的に蠢き連関できるかなのだ。ただ一枚だけ違って居てもなんだか雑に見えたり頼りなく見えたりしてしまう。また、どんなにみても、並べた瞬間は、判らないものだったりもする。調子悪いときはやはりいまいちである。

今日は比較的調子よく並べられたが、最初に並べたものをあとでみたら、なんとなく雑な感じに思う。そうしたら二枚目がどうも全体を雑にしてしまっていることに気づき、削除したらすっきりした。相互に程よい繋がりを示しつつ、ひとつひとつの写真の輪郭がしっかりしてきたように思う。そのまえの「日常写真」も思い切って六枚減らしてみたら、じぶんのなかでしっくりきた。なるべく最初とは変えたくないのだけれど。


・≪砂の女≫(勅使河原宏監督)を観る。安部公房原作脚本、音楽武満徹、デザイン粟津潔岸田今日子が一番初めに出てきたときはなにか違和感があったが、あのびくついた表情があらわれたらもう、砂の女にしかみえなくなってきてしまう。確かに「三十前後」と若いのに「ばあさん」なんて呼ばれて違和感なく、奇妙な魅力をみせるのは岸田をおいてだれが適役なのだろうかと思う。(ただ、私のなかの砂の女は、もう少しふくよかで比較的丸い、目はひとめで終始上目遣いと云うイメージであった。)原作を読み返したばかりだけに、省略変形されている部分が気になることもあったが、全体をみれば気にならないか。

それにしても、私が思い描いていた『砂の女』に、あの小屋の外観や砂の上の村人たちなどは殆どぴったり当て嵌まり吃驚する。まさにあの角度で、ああいう風に想像しながら読んでいたのだから!それはやはり安部公房の描写が非常に視覚的にも優れているということなのだろう。

ただやはりあれは、もちろん原作ありきの映画であって、あれを観ないほうが原作の様々なイメージを限定されないのでいいのかなとも思う。映画化するのであれば、寧ろ安部自らが脚本をやらない、思い切った意訳の≪砂の女≫を見てみたいきがする。







メモ




・狂気を、如何にじぶんが狂気に陥らず、併し狂気のままであることを統御できるか。


密教顕教かといったら私が求めているのはやはり密教的であるだろうなと思う。空海最澄と云ったらやはり空海である。やはり密教が最奥の妙であるのだ。唯空海的な体系のようにあまりにも隈なく柔らかい部分まで統御してしまうのは、かえって閉じたものになりうる。なにか欠けている、ずれている部分を残す必要があるのかもしれない。のちに天台宗比叡山仏教総合大学として栄えのちに多様な新仏教が生まれでたのも、最澄と云う開祖自身の資質や、最澄が持ち込んだ知識や文献が何か決定的に「未完成」だったからと云うものが大きいだろう。空海の、限りなく宇宙的で全能的であるのに、閉じた構造と云うのは、何かしら考えさせられるところだ。


・じぶんの中のアポロン的要素とデュオニュソス的要素を束ねるのは、結局デュオニュソスを極限まで極めるアポロンなのである。結局、どんなかたちであれ、徹底的な統御されていなければほんとうの狂気に陥ってしまうのだ。写真の場合は、機械が「徹底的な統御」を担保する。狂気に限りなく近い処から理性的な処まで幅を存分に拡げた中で遊ぶことができる。酒を呑み過ぎて狂うそれは、狂気がただただもれてしまうので注意しなければならない。酒に呑まれていると云うのは、デュオニュソスを統御し得て居ないと云う事だ。


・写真を撮るときは対象を暴力的にまで「主観的」なイメージに落とし込み、ある部分を徹底的に切り捨てることで強い引き裂かれた断片が生じる。それを徹底的に再構成する。併しその再構成であれ、如何に狂気のままでありつつ統御できるかが、ミソだと思っている。

・・・併し対象を此処までもかと思うまで冷たく扱っているのだ。冷たく扱うところと残すところの限りない執着?・・・

如何に既成概念の儘ではない、併し「生」の部分が露出して自律的に回りだすか。それをじぶんが外から「構築」するのではなく、中からあぶりだされてきたものを、如何に自律して回りだすように産助できるかであろう。


・ジャンルから抜き出た表現、思考。ずれをもった、不安定であるし不完全であるのに、無視しえないもの。そのなかで回り続ける狂気。セザンヌマティス





2012-02-13

本当だか妄想だか





・日曜、実家。月曜、南行徳。『絵画の準備を!』を線を引きながらゆっくり読む。日曜日夜、『美術手帖1968年12月号を読む。マルセル・デュシャンの死、瀧口修造の「急速な鎮魂曲」死に対する詩。須磨現代彫刻展の詳細。大賞は飯田義国。関根伸夫「位相―大地」は朝日新聞社賞。他には宇佐美圭司や若林奮等が賞。関根のことに関しては殆ど批評されていない。凄く注目されたのだろうか?39頁目の画廊新設欄に「フタバ画廊」。夜、『夜想』13号シュルレアリスム所収バタイユ「その日その日」(岡谷公二訳)を読む。夜、アントニオ・マネッティの『ブルネッレスキ伝―付グラッソ物語―』を読む。グラッソ物語は興味深い。自分とは何なのだろうか?いったい誰なのか。月曜日、≪去年マリエンバードで≫を観る。本当にあったのだろうか?いったい何がほんとうなのか?そうといえばそうなって、鏡の世界、バロックの世界。≪シルビアのいる街で≫とネガとポジ・・・土曜、メールが来る。何が本当なのか親友なのか恋人なのか元彼女なのか親友の恋人なのかなんなのかかんなのか。本気で云ってるんだこのひと。知覚のあやふやと鏡、概念の交錯・・・他のひととの想い出。野毛いわしもずく酢と梅酒の定食を食した後、手を繋ぎながら野毛から桜木町馬車道を通って新港パークへと赴きそこに停泊中だったあけぼの丸を暫く眺め真っ黒な海を眺め続ける。遠くにはベイブリッチ。真っ黒な海からあけぼの丸はあまりにも明るいライトを三灯ともしながら世界旅行へ船出する。先ずはフィリピン香港、タイ、スリランカインド、マダカスカル、喜望峰・・・ひとりはキャベツ畑に、ひとりは画廊に勤める。

ものはいいよう、儚いゆらめき、実は虚の海に漂い侵食され変形する。





2012-02-11

金曜、土曜





・土曜副職。金曜、KHと荻窪で会う。ジョナサンでパフェを食べる。荻窪から阿佐ヶ谷まで歩き、阿佐ヶ谷の坐和民で呑む。一時間ほどカラオケ


・極端から極端。



・購入

マルセル・デュシャン』絵画唯名論をめぐって ティエリー・ド・デューヴ著 鎌田博夫訳 法政大学出版会

『作画三昧』―青邨文集― 前田青邨 新潮社

毛沢東の思想』[〜一九四九年/一九四九〜七六年] シュラム著 北村稔訳 蒼蒼社





2012-02-09

陰惨





・メールを返信し終わって、読書。写真。深夜、≪スリーピングビューティー≫を観る。バルデュスの世界?何だか陰惨な感じの映画。ほんとうに睡眠薬で眠っているかの手のだらけかたとか、人形みたいな感じとか。うーん。暗い映画だ。川端が原作らしいけれど。うーん。怖いな、無防備って。今日、そういえば本でそんなことを書いてあったばっかりだな。