大戦中の昭和15年に近衛文麿らが中心となり結成された公事結社。当時の全政党が解散し合流した。公事結社のため政治活動は行えず、国会内では別働隊の翼賛議員同盟が結成された。しかしすべての議員がこの会派に所属していた訳ではなく、既存の会派は温存された。
昭和17年の総選挙において、国策に忠実な議員が選出されるべく、翼賛政治体制協議会が結成され、協議会が中心となって予め候補者を選考・推薦し、推薦を受けた候補者は有利に選挙を戦うこととなった。しかし選挙妨害などの不利な状況下でも非推薦候補85名が当選を果たした。
選挙後、大政翼賛会推薦議員による会派翼賛政治会が結成され、以後の独裁的議会体制を翼賛政治と呼ばれる。
1945年3月に護国同志会と改名、6月に本土決戦に備えた国民義勇隊となり同会は発展的解消した。
よくナチスと比較されるが、その組織体制は極めて軟弱で、軍部とその取り巻きの主導権争いに翻弄される存在であった。