遠くの空で雷が鳴った。けれど、ここ糸島の海辺はまだ、雨は降っていない。 「降るかな」ぽつりと常連客が言った。 「降りそうですね」マスターの五十嵐あゆむは、グラスを拭きながら微笑んだ。 静かな夜だった。しんのすけはカウンターの隅で丸くなり、時折しっぽだけぱたぱたと動かしている。 「……俺さ、若いころは料理人になりたかったんだよ」唐突に常連客が話し始めた。 「へえ」あゆむは手を止めず、けれどちゃんと耳を傾ける。 「親父に反対されてな。真面目に働けって。結局、普通にサラリーマンやった」常連客は、バーボンのグラスを揺らした。「それでも、今になって、たまに思うんだ。もし、あのとき違う道を選んでたらって」…