チベット

チベット

(地理)
ちべっと

三省堂提供「大辞林 第二版」より

チベット [Tibet]
中国の南西部にある自治区。ヒマラヤ山脈と崑崙(こんろん)山脈との間にある。

歴史

中国の歴史書にも漢代より「羌」、「氐」の名でチベット系と思われる民族の記述がみられる。7世紀のソンツェンガンポにより諸部族が統一された(吐蕃王朝)。8世紀ティソンデツェン王の時代に仏教が国教化。しかし、9世紀半ばごろには群雄割拠状態となり、仏教も衰退した。十三世紀にはサキャ派(紅帽派)のパスパ(1235(39)〜80)がフビライの信任を得て国師となりチベット仏教はモンゴル帝国、元朝の国教となった。14世紀末にツォンカパによりゲルク派が創始され、モンゴル系民族オイラートのグシハン朝の支配下、1642年ゲルク派の最高位ダライ・ラマ5世によるチベット統一が確立した。しかし、1720年には清朝のラサ侵攻を受け、その後、駐蔵大臣が設置されることとなった。ただし、ダライ・ラマの聖俗における権威と支配は認められた。

1904年にイギリス軍がラサに侵入し、ダライ・ラマ13世は一時モンゴルに亡命、ロシアの援助を希望したがかなえられなかった。1906年には英清条約でチベットにおける清の宗主権が確認されたが、情勢は安定しなかった。1908年、ダライ・ラマはラサに帰還したが、1910年の清軍の侵攻とともにインドに亡命。辛亥革命で清軍が撤退した後に再びラサに帰還した。また、辛亥革命の混乱期にイギリスの力を背景にチベット独立を宣言する。1914年、イギリスはシムラ会議でチベットの主権を認めたが、中国は否認。1925年に親中国的なパンチェン・ラマがダライ・ラマと対立し、中国に亡命。1933年、ダライ・ラマ13世が死亡。中国政府は14世の転生を確認、同時に政府代表をラサに駐在させる。1939年、パンチェン・ラマ死亡。

1949年、中華人民共和国成立。1951年に人民解放軍がラサ進駐。「チベット平和解放に関する17条協議」締結。1954年、ダライ・ラマ14世とパンチェン・ラマ10世が第1回全国人民代表大会に出席。「17条協議」ではチベットでの社会主義改革は強制しないことになっていたが、アムド、カム地方(東チベット、中国側では青海省、四川・雲南省とみなす)では改革が強行されたため、反共産党・反漢族感情が強まり、武装蜂起が頻発する。1959年にはラサで大規模な「反乱」が勃発するが、人民解放軍によりチベット人の殺害・寺院の破壊をともない、「鎮圧」される。ダライ・ラマはインドに亡命した。

「反乱」の鎮圧後、ウ・ツァン地方(中央チベット)でも「民主改革」の名の下、土地改革や奴隷解放が行われる一方、寺院の厳格な管理が行われるようになった。

1966年からの文化大革命では民族を「ブルジョア的存在」と規定していたため、少数民族の被害は悲惨なものになった。チベットでは「反乱」のときに運良く残った寺院や文化財も徹底的に破壊され、僧侶、旧貴族を始めとするチベット人も殺害・虐待された。

文革後の1980年に行われた「チベット工作座談会」では従来の共産党のチベット政策が批判され、チベットの実情に即した政策をとることと民族文化の尊重が確認されたが、89年にも大規模なデモが発生し、流血の事態に発展している。このような衝突は以後も散発しており、状況の改善はなかなか見られない。現在までに数十万人の住人が虐殺されたとされる。

一方、1959年、インドのダラムサラではチベット亡命政府が発足。60年代以来、政府の民主化が進んでいるが、ダライ・ラマの親政を望む声も一部に存在する。対中国関係について、ダライ・ラマの公式的な立場は「独立ではなく高度の自治」の要求であるが、チベット青年会議(TYC)など、完全な独立を主張するグループも存在する。

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