ではでは、予告通り1281年弘安の役後の元についてさっくり見て行きます。 弘安の役後、鎌倉幕府は「元からの脅威を取り除くため、やはり高麗へ侵攻せねば!」と考えますが、そんなことを言われても、遠征となれば軍の中心になるはずの九州の御家人のライフはすでにゼロですから、この計画は中止になります。 加えて、鎌倉幕府は合議制(乱?変?梶原景時参照)だったのですが、外敵の侵攻という非常時に、合議制では素早い対応ができないので、将軍時宗とごく近い側近のみで決議するという専断政治を行っていました。あくまで非常時体制だったのですが、これによって北条得宗家の執事的な立場である内管領が権力を持ち、権力が偏ることへの…