映画監督/1905年〜1984年
1929年マキノプロ入社。マキノ正博(雅広)の助監督を務める。
1934年、市川右太衛門プロ第二部の『弓矢八幡剣』で監督デビュー。
マキノ・トーキー、東宝京都撮影所、中華電影を経て、戦後は新東宝を中心に活動。『東海道四谷怪談』(1959)、『地獄』(1960)を頂点とする傑作群を生み出し、「怪談映画の巨匠」として海外のファンにもその名を知られる。
新東宝倒産後は、『プレイガール』や『怪談シリーズ』などテレビ映画で活躍するが、1982年にATGの1,000万円映画『怪異談・生きてゐる小平次』を監督し、77歳で初めてキネマ旬報ベストテン10位に入選した。