日本の江戸時代中期の1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した飢饉。江戸四大飢饉の1つで、江戸時代最悪の飢饉であった。悪天候や冷害、岩木山や浅間山の噴火などによる農作物の不作による飢饉であった。また、1783年のアイスランドのラキ火山の噴火などが原因とされる世界的な異常気象も飢饉の原因の1つとされている。
序章 「灰色の空と甘藷の光」 気候異変と社会不安――飢饉の幕開け 「冷害と噴火」 「打ちこわしと社会不安」 青木昆陽と『蕃藷考』――救荒作物の普及者 「江戸での試作と全国展開」 「幕府の救荒施策」 藩政の現場――仙台藩における実践 「中井家文書に記された対策」 「施策の成果と限界」 民間備荒録――庶民と医師の知恵 「建部清庵の救荒書」 「飢饉期での活用」 終章 供養碑に刻まれた甘藷の徳 まず結論をひと言で申し上げますと、天明の大飢饉(天明2〈1782〉年〜天明8〈1788〉年)で米が壊滅的な凶作に陥った東北を中心とする広域社会を、さつまいもという救荒作物が部分的ながら確かに支えました。浅間山噴…
序章 「未曾有の凶歳」とその規模 一次史料が語る「人肉食」の実相 「後見草」に残る屍肉売買 八戸藩の「片股を貸してほしい」乞い 津軽圏の日記と旅日記 帳簿が示す死者急増の現場 飢饉拡大の要因――「やませ」と火山灰の連鎖 行政・社会の対応と倫理の狭間 幕府「御救普請」と救済の試み 藩令とモラル判断の葛藤 結語 倫理の崩壊と学び 序章 「未曾有の凶歳」とその規模 天明2(1782)年から1788(天明8)年に至る**天明の大飢饉**は、日本近世最大の飢饉として知られています。東北では**浅間山噴火**(天明3〔1783〕年)などの天災が重なり、餓死者は推計30万~50万人、関連死も含めると100万…
天明の大飢饉──冷害と噴火が招いた未曽有の危機 冷害と浅間山噴火の凄まじさ 一次史料に浮かぶ農村の窮状 足立村と下若柳村の記録 餓死の実情を伝える過去帳 幕府と諸藩の飢饉対策 田沼意次政権の応急措置 松平定信による備荒体制の整備 都市に広がる“打ちこわし”の騒擾 飢饉が残した制度と文化的遺産 備荒知識の蓄積 歴史人口学への寄与 おわりに――教訓を未来へ 天明の大飢饉──冷害と噴火が招いた未曽有の危機 天明の大飢饉は、天明2(1782)年から天明8(1788)年にかけて続いた日本近世における最大級の飢饉です。東北を中心に冷害が頻発し、さらに天明3(1783)年の浅間山噴火による火山灰と太陽光遮断…
はじめに――「米価高騰」はいつも社会を映す鏡 戦国末期から江戸初期――石高と米価の誕生 太閤検地と米価の基準化 関ヶ原後の暫定高騰 江戸中〜後期――堂島米会所と三大飢饉 享保期――米会所の誕生と初の価格政策 天明期――冷害と噴火が招いた米価パニック 天保期――長期不況と米価スパイク 近代以降――消費社会と米価の政治化 大正7(1918)年――大正米騒動 昭和恐慌と米価暴落 戦時・占領期――食糧管理制度の成立 おわりに――米価に映る国家と生活 はじめに――「米価高騰」はいつも社会を映す鏡 日本では古来、米が歳入の基準であり庶民の主食でもあったため、米価が急騰すると統治体制や生活に直ちに影響が及び…
序章「天明の大飢饉」と伊能忠敬――危機に立ち上がった地方リーダー 背景――「浅間山噴火」と米価の乱高下 浅間山の噴火と冷夏 政策と市場の歪み 飢餓の規模 佐原の名主・忠敬の救済策 先見の米買い付け 施粥と資金援助 地域統率者としての評価 一次史料で読み解く伊能家の奮闘 伊能家文書・施粥帳 測量日記に残る回想 政府公文書と成果地図 飢饉がもたらした転機と地域経済 破産寸前からの立て直し 地域社会への還元 測量へとつながる経験 結び――危機が育んだ「共有資源」の思想 序章「天明の大飢饉」と伊能忠敬――危機に立ち上がった地方リーダー 天明年間、特に天明3(1783)年から8(1788)年にかけての飢…
序章「飢えが歴史を動かす――二つの18世紀末危機」 「天明の大飢饉」の実像――浅間山噴火から米価暴騰へ 「会津日記」にみる惨状 米価高騰と「打ちこわし」 フランス革命前夜――「パン価格」と群衆暴動 1788年凶作とパンの値段 Réveillon暴動とcahiers de doléances 比較――気候変動が引き起こす社会不安 気候トリガー 社会不安の連鎖 結語「飢饉と革命の交差点」 序章「飢えが歴史を動かす――二つの18世紀末危機」 18世紀後半、**天明の大飢饉**(天明2〈1782〉年〜天明8〈1788〉年)は日本全土を襲い、特に天明3(1783)年の**浅間山噴火**による冷害によって…
背景―「天明の大飢饉」の輪郭 自然要因―空と大地がもたらした脅威 浅間山噴火と日射不足 冷害・虫害・洪水の連鎖 社会要因―政治と経済の脆弱性 田沼政権と備蓄の欠落 米価高騰と都市の動揺 一次史料が語る現実 藤四郎日記―農村の日常崩壊 凶荒図録―絵図が映す惨状 疫病と人口減 まとめ―歴史が示す備えの要諦 背景―「天明の大飢饉」の輪郭 天明の大飢饉(天明2〈1782〉年〜天明8〈1788〉年頃)は東北・関東を中心に数十万人規模の餓死者を出したと推定されています。 [oai_citation:0‡ja.wikipedia.org](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%…
序章 凶兆、天と経済を揺らす 田沼改革と米経済のひずみ 重商主義の光と影 買米令の副作用 飢饉が藩と町を襲う 史料が描く飢餓の実相 疫病と人口減 御救小屋と幕府の救済策 最後のセーフティネット 不足する施策と暴動 田沼政権の終焉と寛政の改革 終章 天災か、人災か 参考文献 天明の大飢饉(天明2〈1782〉年〜天明8〈1788〉年)は冷害と浅間山噴火が引き金となり、数十万人規模の餓死者を出しました。飢餓を拡大させた背景には老中 田沼意次 の重商主義政策と米流通の偏在があり、救済策として設けられた御救小屋や町人暴動打ちこわしに象徴される社会不安が政局を揺るがしました。以下では一次史料(『後見草』な…
広瀬川に架かる橋に「広瀬橋」があります 昔は「長(永)町橋」と言ったこともあったようです さて、北に向かって広瀬橋わたるとすぐそばに桃源院があります 写真は桃源院山門の下部分 珍しいですよね 珍しい山門 現在ここの住所は河原町となっていますが、昔は新河原町といって仙台城下ではありませんでした ※河原町は城下でした 天保・天明飢饉の時にはこの辺りに施粥所が設けられ、在郷から一日3000人も集まってきたそうです たくさんの方が飢えで亡くなりました そんな方を弔うため、叢塚(くさむらつか)が建てられました 仙台市内には3基建てられています そしてその1基がここ桃源院にあります 山門を入ってすぐ右側に…
その年最初の「庚申」(かのえさる) の日のことを 「初庚申」(はつこうしん) と言います。 この日は「帝釈天」の最初の縁日で、 各地の「帝釈天」を祀る寺や「庚申堂」は 悪疫除去・亡霊鎮護を祈る参詣者で 賑わいます。 祭神としては、仏教では「帝釈天」や 「青面金剛」(しょうめんこんごう)、 神道では「猿田彦」を祀りしています。 www.linderabell.com 大阪・四天王寺の「庚申堂」 柴又帝釈天の「初庚申」 大阪・四天王寺の「庚申堂」 大阪・四天王寺の境外にある「庚申堂」は、 「青面金剛童子」(しょうめんこんごうどうじ) を祀る 諸国「庚申」の本寺とされ、 60日に一度、年に6度の庚申…