・57年(漢暦建武中元2.1.?) 倭の奴国(もしくは倭奴国)が後漢に朝賀使を送った。倭人の使者は自らを大夫と名乗った。奴国は漢光武帝,劉秀より印綬を賜った。(『後漢書』光武帝紀,東夷伝 倭,『後漢紀』光武帝紀) ※日本列島内での水田耕作の発展によって農耕共同体は拡大したことで、集団内外の利害関係が生じ、それらの調停を行ったのが、奴国の王である大首長と首長集団であったと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。 ※奴国の王都は、須玖岡本遺跡であると考えられる。奴国王は君主一族とは隔絶した形式で埋葬されており、周囲に墓が築かれていない。そのため奴国王は卓越した権力を有していたと考えられる(…