登山家、冒険家、1942年生まれ、兵庫県出身、明治大学卒 1970年に世界で初めての5大陸の最高峰登頂者となる。 1984年に世界初のマッキンリー冬期単独登頂成功後に消息を絶つ。 国民栄誉賞受賞。
とうとう最終日の9日目になってしまった。 今日は京都府の舞鶴辺りから高速道路で帰宅予定。 そこまでは適当に走るだけ。そして今日も朝からドライブインを目指します。
「青春を山に賭けて」 「青春を山に賭けて」植村直己 大学時代に登山を始めてから、1970年に世界で初めて五大陸の最高峰すべてを踏破するまでを振り返った自伝。 この本を読んで、鳥取市からそんなに遠くない兵庫県北部の旧日高町(現豊岡市)出身だと知った。 それに加え、故郷を「山陰の田舎」と表現しているので、一気に親近感がわいた。 ほぼ登山のことしか書いてないが、ところどころに女性との思い出のエピソードが出てくる。 青春していて、興味深い。 たとえば、モンブランに登る資金稼ぎのため、米国カリフォルニアでブドウ収穫のアルバイトをしていた頃。 一緒にアルバイトしていて、親しくなったメキシコ人の若い娘のこと…
「ナショナル ジオグラフィック 2003年3月号 特集エベレスト初登頂50周年」 「ナショナル ジオグラフィック 2003年3月号 特集エベレスト初登頂50周年」 いろいろ興味深い話があった。 1953年に初登頂したヒラリーとテンジンは英国隊の第2次アタックチーム。 3日前に同じ英国隊の別の2人が、頂上まであと90mに迫りながら、酸素ボンベの不調で引き返していた。 日本人初登頂は1970年の植村直己と松浦輝夫。 あとちょっとで頂上というところで、先頭を歩いていた植村が年長の松浦に先頭を譲ろうとし、結局、2人が肩を組んで登ったのだとか。 夢枕獏の「神々の山嶺」を読んで、1924年に初登頂の謎を残…
先日テレビを見ていて、冒険家の大場満郎さんの言葉が響きました。 その言葉は、「自分の気持ちに正直に生きてください」です。 言葉を伝えるときの大場さんの表情が、力強くて心の底から湧き出てきた感がとても強烈でズシンと心に伝わってきました。 大場さんは、1999年に南北両極の単独横断徒歩横断を世界で初めて成し遂げた冒険家です。その功績により植村直己冒険賞を受賞しています。 農家の長男として生まれてた大場さんは、農家の後継ぎとなることを期待されていました。しかし彼はどうしても冒険をして暮らすと譲らず、家族会議の結果勘当されました(アマゾン川6000キロを筏で下るという計画を立てた時に家族会議が開かれた…
キャリア教育の参考にはならないかもしれませんが、 植村直己 - Wikipedia 【公式】植村直己冒険館 | 見て・触れて・体験するミュージアム | 豊岡市 | 兵庫県 という登山家の職業観を紹介します。 型破りの青春を語り尽くした巨篇『青春を山に賭けて』植村直己 | 文春文庫 (2008年新装版) P161「忘れ得ぬ人々」の最後、1968年元旦日記 (引用者注:アメリカ→フランス→ヒマラヤ登山→アルプス登山→キリマンジャロ登山→フランスと遍歴したあとで、南米登山を決意) 「この最後の旅が終わった後、オレは日本でどのような生活の道を選ぶか。これこそわが生涯を決める大きな年だ。今のオレにこれと…
あらすじは、グリーンランドのシオラパルクに滞在し、3000キロの犬橇単独行を成し得た植村直己は、久しぶりに東京に戻って来た。彼は駅の階段で偶然出逢った女性と馴染みの店で再会した。そして数日後、その女性野崎公子に自分の著書をプレゼントする。それを読みながら、これまでの植村の人生を知る公子。明治大学山岳部で落ちこぼれだった植村は、卒業後4万円だけ持って、横浜より移民船で渡米した。だが、労働ビザが無いため、不法労働で国外追放され、フランスのシャモニーに渡る。そこで働きながらヒマラヤのゴジュンバ・カンII隆明大隊に参加、同峰初登頂に成功した。その時団体登頂は合わないと感じた彼は、その後、モンブラン、マ…
あきらめないこと、
気が狂いそうな単調さに耐えぬき、
明治大学教授、齋藤孝さんの著書「『深みのある人』がやっていること」(朝日新書 2023年)を拝読しました。冒険家、植村直己さんの顔写真のことから始まり、その笑顔を見て彼こそが「深みのある人」だと述べられています。 フードですっぽりと覆った中に、日焼けまたは凍傷で黒くただれた顔。そこが厳しい環境下であることは、すぐわかります。しかしその表情は満面の笑顔で、充実感と幸福感にあふれている。 年齢を重ねるにつれ、体力や記憶力が低下したり、ITの急速な発展について行けなくなったりします。けれども、加齢によって得難いものが得られる、それが「深み」だと、著者は説きます。 最近、「タイパ(タイム・パフォーマン…
自分の足跡を残したい。