千利休と楢柴肩衝【豊臣秀吉編】 千利休は堺衆のひとりで元々は商人であり茶人。 信長に重用され茶湯政道を確立した頃に茶頭としてその頭角を表す。 信長が本能寺の変で斃れると天下人となった秀吉に仕えるようになる。 信長と同様秀吉にも重用された。 「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)」と言われるほど豊臣政権下で影響力を強めてゆく。 茶頭であるが政治顧問のようなポジションであったと思われる。 そして天下人となった豊臣秀吉の手には天下三肩衝が揃っていた。 信長の政治方針を引き継いだ秀吉は信長同様茶湯を推奨する。 しかし秀吉と利休の茶湯に対する考え方は相反するものだった。 派手好きの秀吉に対し…