茶人 幼名:与四郎 正親町天皇より千姓を許されて、千宗易を名乗る。 天正13年、禁中小御所での茶会にて天皇に茶を献じ、利休居士の号を贈られ千利休となる。 珠光、紹鴎に学び草庵の侘び茶を大成、 天下一の茶道名人として全国にその名を馳せる。
天正19年2月28日、秀吉の命により切腹 辞世 「人世七十 力圍希咄 吾這宝剣 祖仏と共に殺す 堤ぐる我が得具足の1つ太刀 今この時ぞ天に抛」
本日2月28日は「利休忌」、日本の茶道史に燦然と輝く千利休(せん の りきゅう)の命日です。1591年(天正19年)のこの日、70年の生涯を閉じた茶聖の足跡と精神を振り返ってみましょう。 茶の湯の革命児・千利休 1522年(大永2年)、和泉国・堺の豊かな商家に生を受けた一人の男児がいました。幼名を田中与四郎と名付けられたこの子は、後に日本の美意識と文化に革命をもたらす偉大な茶人となります。 利休という名前、実はこれは本名ではありません!驚くべきことに、この広く知られた名は1585年(天正13年)に正親町天皇から与えられた居士号なのです。町人身分では宮中の茶会に参加できないため、特別に授けられた…
マンガ日本の歴史 27桃山文化と朝鮮侵略石ノ森章太郎中央公論社1992年1月5日 初版印刷1992年1月20日 初版発行 『マンガ日本の歴史 26 関白秀吉の検地と刀狩』の続き。 megureca.hatenablog.com 26巻では、 本能寺の変で死んだ信長の敵討ちをした秀吉が、 家康と対立しつつも天下をとりにいく。27巻では、その時代に文化と海外にまで触手を伸ばした秀吉の動き。 目次序章 北野大茶会 第一章 秀吉と利休第二章 文禄の役 第一次朝鮮侵略第三章 方広寺の完成と大破第四章 醍醐の花見 秀吉の作った贅沢三昧といえば、大坂城と聚楽第(じゅらくてい)。 1587年 (天正15年) …
備前焼の肩衝茶入。天正十五年(1587)の九州陣の際に千利休が筑前箱崎で催した茶会で用いられた。高級な白地金襴の仕覆に入れられており、袋ばかりが立派ということが銘の由来とされる。 袋ハカリナホトニト有也 参考文献 袋ハカリナホトニト有也 博多の豪商神屋宗湛の茶会記『宗湛日記』によれば、天正十五年(1587)六月十四日昼、千利休は筑前箱崎の燈籠堂で茶会を開き、神屋宗湛、島井宗室、長谷川宗仁が参加した。『宗湛日記』にはこの時の茶会について、以下のように記されている。 フカ三テウ、カヤフキ、カベ(壁)モ青カヤ、新釜ウハクチカナ風爐、小坂ナク、疊ノ上ニソノマヽ、上座ノ柱ニ高麗筒ニシテ花生テ、ヤクモノ花…
一重切の竹花入。高さ33.4センチメートル、太さ10.6センチメートル。茶人千利休が羽柴秀吉の小田原遠征に従軍した際に伊豆韮山の竹で作ったとされる。表に大きな割れ目(干割れ)がある。 韮山竹の花入 参考文献 韮山竹の花入 「園城寺」の銘がつけられた一重切の竹花入については、元禄十四年(1701)に出版された茶書『茶話指月集』に来歴と逸話が記されている。『茶話指月集』は、千宗旦(千利休の孫)の弟子藤村庸軒が語った内容を、彼の女婿である久須美疎安が筆記してまとめたもの。 『茶話指月集』には「園城寺」の筒(竹筒の花入)について以下のように記されている。 この筒 韮山竹、小田原帰陣の時、千の少庵へ土産…
昭和60年ごろ、大学の学生研究室で後輩のハチヤ君とお茶を飲んで話していた。 ハ「う~ん・・・涼しくなってくると、 やっぱり温かい緑茶っていいですよねぇ・・・」 私「そうだね、だけどまぁ・・・ お茶がいいっていうことになるのも、それだけ若くなくなってきた ってことかもね?」 ハ「はは・・・そんなこと言ったら身も蓋もないじゃないですか? あ、そうだ思いだした。 先々週の日曜日、京都大徳寺で『曝凉展』があったのを知ってます?」 私「ばくりょう・・てん?・・・ なにそれ・・・爆発でもする地点のこと?」 ハ「ちがいますよぉ・・・もぉ・・・ 涼しい空気に曝すっていう意味で・・・こう書くんですよ。 ま、簡単…
茶道、または日本の伝統的な「茶の湯」は、単なるお茶を飲む行為を超えた深い文化的意義を持つ芸術形式です。 このブログ記事では、茶道の歴史的起源、精神的背景、そしてその美学的な道具について掘り下げていきます。 茶道の起源:茶の湯の始まりと発展 茶道の起源は、中国から日本へと茶が伝わった奈良時代まで遡ることができますが、今日私たちが知る形の茶道が確立されたのは室町時代に入ってからです。 特に、禅宗の僧侶たちによって茶の文化が取り入れられ、精神性と瞑想の一環として発展しました。 その後、千利休によってさらに形式と哲学が洗練され、侘び寂びという美意識とともに、日本独自の文化として確立しました。 茶道の精…
平安末期から鎌倉初期の歌人藤原定家が、古来の歌人の歌を一首ずつ色紙形に書いたもの。名称は京都小倉山の山荘の障子に貼ったという伝承にちなむ。戦国期の武野紹鴎が茶の湯に用いて以降、床の掛物として珍重された。 嵯峨中院の障子の色紙形 武野紹鴎と藤原定家 千利休への継承 定家色紙の歌 定家の「悪筆」 参考文献 嵯峨中院の障子の色紙形 藤原定家の日記『明月記』文暦二年(1234)五月二十七日条に、色紙作成の依頼があったことがみえる。 予、本より文字を書く事を知らず、嵯峨中院の障子の色紙形、ことさらに予書くべきの由、彼の入道懇切なり、極めて見苦しき事といへども、なまじひに筆を染めて之を送る、古来の人の歌お…
★★★★☆ あらすじ 織田信長に引き続き豊臣秀吉の側近となった茶人・千利休だったが、次第に秀吉との間に溝が生じ始める。135分。 www.youtube.com 感想 千利休と豊臣秀吉の変化していく関係を描いた物語だ。まず衣装や茶室のセット、小道具などが見事でそれだけで見ごたえがある。なんでもわざわざ美術館から借りてきた本物の茶器などを使って撮影したらしい。 国宝・重文の茶室 作者:中村 昌生 世界文化社 Amazon まだ信長が存命で、秀吉が天下人になる前から物語は始まる。最初から利休は秀吉を「こいつセンスねーな」と呆れ、秀吉は利休を「こいつすごいな」と感心している。だが両者ともそれを胸の内…
日本文化の三道の中のひとつが『茶道』。みなさんは『茶道』をなんて読みますか?「さどう」それとも「ちゃどう」ですか。実はどちらも正解なのです。表千家では「さどう」といい、裏千家では「ちゃどう」といいます。武者小路ではどっちでもいいそうです。私がこのことを知ったのは中学生の時です。同級生のモブ女子『茶道』を「ちゃどう」と言っていて「”さどう”でしょ」と誰かに指摘されたところ「裏千家では”ちゃどう”っていうんだよ」と教えてくれました。実はそのモブ女子のお母さんがお茶の先生で彼女の家は『茶道教室』だったのです。私もそれまではずっと「さどう」だと思っていたので目から鱗でした。それから彼女は【裏千家さん】…
一条真也です。たった一字に深い意味を秘めている文字は、世界でも漢字だけです。そこには、人のこころを豊かにする言霊が宿っています。その意味を知れば、さらに、こころは豊かになるでしょう。今回の「こころの一字」は、「道」です。 『礼道の「かたち」』(PHP研究所) 日本人は「道」が好きです。茶道に華道、書道に歌道、剣道や柔道といった武道はもちろん、双葉山は相撲道を、松下幸之助は経営道を提唱しました。父である当社の名誉会長は、礼法を礼道に高めたいという志を持っています。「道」の反対語を『反対語辞典』でひくと「路地」とあります。路地とは行き止まるものであり、道は終わりなきものなのです。 「道」はもともと…