伊予の豪族、考霊天皇−伊予皇子を祖とする越智氏の末裔といわれている。
源平合戦、承久の乱、南北朝、応仁の乱と数々の戦乱の荒波の中生き残ってきたが、ついに四国征伐で歴史より消え去る。
河野通清(?-1181)父が源頼義四男の子ということで以仁王の綸旨を受けて挙兵するも敗死する。*1
河野通信(1155-1223)、承久の乱にて宮方につき、江刺に配流。
河野通久(?-?)通信五男、母は北条政子妹、そのため承久の乱の際、幕府軍につき命脈を保つ。
河野通継(?-?)
河野通有(1250-1311)元寇の際、弘安の役で活躍。
河野通盛(通治)(-1364)元弘の乱の際、鎌倉幕府のつき一時家督を一族の得能通綱の奪われる。南北朝期は一貫して武家方につき、室町幕府より周防守護、伊予守護にまで任ぜられる。後に出家する。
河野通朝(-1364)細川氏との合戦で戦死。
河野通尭(通直)(-1379)細川氏との合戦で戦死。
河野通義(-1394)京にて病死。
河野通之(-1415)通義弟(予州家)。細川氏との和睦の際、細川頼之の養子となる。後合戦にて戦死。
河野通久(-1435)通義嫡男。大内氏との合戦で戦死。
河野通直(刑部少輔-1500)
河野通宣(-1519)
河野通直(弾正少弼-1572)嫡子なく、家督を娘婿の村上通康に譲ろうとするが家臣の反乱にあって出家する。
河野通政(晴通)(-1543)予州家、通義の孫の孫の子、家督を譲られるがすぐ病没する。
河野通宣(-1581)通政弟、家督を庶子ではなく一族より養子をとり譲る。
河野通直(-1588)秀吉の四国征伐に下り、竹原にて没する。
河野通軌(?-?)旧家臣団が毛利家より貰い受け擁立した養子。
*1:源頼義四男なんていなし、年数が開き過ぎてるんですけど。