彫刻家。号は萩原碌山。明治12年長野県南安曇郡東穂高村矢原に生まれる。
明治27年、東穂高禁酒会に入会し、相馬愛蔵・井口喜源治らの強い影響を受け、キリスト教に志向する。
明治30年、相馬良(黒光)の家で初めて油絵「亀戸風景」(長尾杢太郎作)を見る。
明治32年 20才 2月、初めて井口喜源らと上京。巌本善治を訪問し、植村正久らの説教を聞く。画家になろうと志し10月厳本善治氏を頼って上京。明治女学校の校地内に住む。画塾不同舎に入り、小山正太郎に学ぶ。
明治34年、渡米を決意して洗礼を受け、3月横浜を出帆しニューヨークへ直行する。9月、フェアチャイルド家の学僕となる。10月、アート・スチューデンツ・リグに入学する。
明治36年、10月渡仏、パリで中村不折に会う。脱竜窟と自ら名づけた屋根裏の小部屋に住み、アカデミー・ジュリアンに通学する。
明治37年、サロン・ナショナル・デ・ボザールでロダンの「考える人」を見て深く感動、彫刻への志向強まる。帰米し、アート・スチューデンツ・リーグにはいり彫刻のためのデッサンをする。
明治38年、人道的立場から日露戦争を批判する。このころ柳敬助、白滝幾之助を知る。
明治39年、9月再び渡仏。オランダにてパッチと再会後パリに着き、アカデミー・ジュリアンの彫刻部にはいる。五来欣造・斉藤与里・本多功らと親しくなる。碌山の号を用いはじめる。
明治40年、ウォルター・パッチとロダンを訪ねる。ジュリアンの校内コンクールでたびたび受賞。「女の胴」「坑夫」などを制作。ブールデルに会う。帰国のため年末パリを出発、帰路イタリア、ギリシャ、エジプトに立ち寄り、おもに古美術を見る。
明治41年、太平洋画会に属し、新宿にアトリエを建てる。相馬黒光との精神的愛染に苦しむ。
明治42年、「デスペア」「北条虎吉像」「戸張孤雁像」「香爐」「労働者」「爺」「小児の首」「宮内氏像」などを制作する。第三回文展に「北条虎吉像」「労働者」出品する。
明治43年、「銀盤」「女」を制作する。柳敬助の画室を設計監督する。4月20日の夜、新宿中村屋で吐血。22日朝満30歳5ヶ月で永眠する。 生家の墓地に埋葬される。