李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃。
尊号は孝慈元聖正化合天、諡号は明成太皇后なので、孝慈元聖正化合天明成太皇后となる。韓国では明成皇后、中国では 朝鮮王后(閔氏)または明成皇后と呼ぶ。ただし李氏朝鮮は閔妃死亡時(1895年)、大韓帝国(1897年建国)にまだ移行しておらず、閔妃は皇后になっていない。(1851年10月19日 - 1895年10月8日)
開花と主権守護運動 興宣大院君の政策 19世紀半ば朝鮮社会は、内には勢道政治に抵抗する民衆勢力が成長し、外には日本と西洋列強が侵略してきた。 高宗の即位(1863)によって政治的実権を掌握した興宣大院君は王朝の危機を克服し、失墜した王権を回復しようとした。すなわち、能力中心の人材登用、景福宮の再建、備辺司廃止、議政府と三軍府の機能回復、『大典会通』の編纂などによって王権を強化した。また、朋党の根拠地と認識されてきた書院を47ヵ所だけを残して撤廃すると同時に、農民蜂起の原因と目された三政を改革して国家財政を拡充し、民生を安定させようと努力した。 興宣大院君は丙寅洋擾(1866)と辛末洋擾(187…
明治期の日本が犯した犯罪に「閔妃暗殺事件」がある。乙未事変ともいう。1895年のことだ。他の国の皇后を暗殺したのだから主権侵害どころの話しではない、恐るべき暴力の発動と狂気の沙汰といって間違いはない。 首謀者の一人は三浦梧楼。その実行犯の一人である禹範善(ウ・ボムソン)がここでの気になる存在だ。 彼は間違いなく朝鮮の未来を案ずる愛国者であったには違いない。日本方式で洋化を目指す開明派だったこの人物は事件後、日本に亡命する。そして、日本人女性、酒井ナカと結婚し、帰化する。 1903年呉に新居をかまえたその日に、高永根・魯允明によって刺殺された。もちろん、彼らの動機は閔妃殺害の恨みをはらすためであ…