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高師直

(一般)
こうのもろなお

1. 生没年?〜観応2(1352)年2月26日(旧暦)
室町幕府初代執事。姓は高階、官職は三河守→武蔵権守→武蔵守となる。
父は高師重。弟に高師泰。子に高武蔵五郎師夏など。

高氏は足利氏の鎌倉時代以来の根本被官で、当時から足利氏の家政一般取り仕切る立場にあったと思われる。
建武政権においては、雑訴決断所・武者所の職員を務め、建武政権内で公的な役職に就かなかった足利尊氏の代官的な役割を果たしたと考えられている。

室町幕府が開かれた後は初代執事として活動する。
建武5(1338)年、北畠顕家が陸奥より攻め上ってきた時には、これと戦い石清水八幡宮を炎上させるなどの損害を出しつつも、和泉国石津(現大阪府堺市)で敗死させた。
貞和4(1348)年、楠正行が吉野から攻めてきた際にも、これと戦い河内国四条畷(現大阪府四條畷市)で討ち取るなど数々の戦果を挙げた。
この時、余勢をかって南朝の本拠地である吉野に攻め入り、吉野蔵王堂や後村上天皇の行宮を焼き払うなど、神仏を恐れない振る舞いに出ることも多かった。

こうした経緯からか『太平記』などでは粗暴な人物と描かれることも多い。『太平記』では石見守護塩冶高貞の妻に横恋慕し、高貞が石見国へ下向するとこれを討つといった話が載せられており、江戸時代の『仮名手本忠臣蔵』の元ネタになった。

幕府内部では足利尊氏が握っていた恩賞権に関して、実務者として担当していた。それだけでなく、裁判を行う引付方の頭人を勤めるなど実務家としての側面も有している。


二度の軍功を挙げることによって、高師直の幕府内部における地位は向上し、次第に尊氏弟の直義と対立するようになる。

貞和5(1349)年閏6月15日、師直は執事職を罷免される。
それに対して師直側では同年8月13日、尊氏邸を軍勢で取り囲み直義の引退を要求、これにより直義は政務を辞す。
そして観応元(1350)年になると対立は本格化する。直義は南朝に降伏し、反撃を開始。
翌観応2(1351)年2月26日、摂津国武庫川付近で高師直を始め高一族は多数殺害される。


2.人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」の登場人物。吉良上野介がモデル。

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