生年1796.12.22(寛政8.11.24)、没年1873.10. 3(明治 6)
江戸幕末の幕臣。渋川六蔵(渋川敬直)、後藤三右衛門と共に水野の三羽烏として天保の改革を推進した。取締の厳しさから、妖怪(耀甲斐)と恐れられた。
大学頭林述斎の三男(四男という史料もある)。旗本鳥居家へ養子に入る。通称耀蔵。名は忠耀。官は甲斐守。
頭脳明敏で、儒学にも造詣があり行動力、事務能力に長け、その限りでは有能な官吏であった。しかし性格は陰険で、出世欲と同時に嫉妬心が異常に強かったようである。しかも洋学は日本を滅ぼすと信じて疑わない狂信的な保守主義者であった。
1836(天保 7)年 御徒頭から西の丸目付となる。
1837(天保 8)年 大塩平八郎の乱。その後の処理で、老中水野忠邦の信任を得る。
1838(天保 9)年 目付となる。蛮社の獄(1839年)で洋学を弾圧などを行う。
1841(天保12)年 天保の改革。鳥居は江戸南町奉行に抜擢される。なお、当時の北町奉行が遠山金四郎景元。
1843(天保14)年 印旛沼の開墾を担当、勘定奉行勝手方。
1844(天保15)年 失脚(水野や仲間の裏切り等による)して翌弘化2年、全財産没収のうえ丸亀藩にお預け処分となる*1 *2。
1868(明治元)年10月 丸亀を出発するも「自分は将軍家によって配流されたのであるから将軍家からの赦免の文書が来ないと駄目だ」と言って容易に動かず、丸亀藩を困らせたという。
1870(明治3)年 郷里の駿府(現在の静岡市)に移住、明治5年東京に戻る。
1873(明治 6)年 没。享年78。