後白河院と寺社勢力(124)遁世僧(45)法然(18)平重衡の授

 一の谷の合戦で生け捕りされた平重衡東大寺興福寺の伽藍を灰燼に帰した咎により南都の大衆に引き渡され処刑される運命にあったが、せめて死の前に煩悩を払いたいと出家を望む。しかし「頼朝に対面した後ならば」と後白河院に却下され、出家が望めないならせめて後世の事などを託したいと黒谷の法然のもとに使いをやる。

 その法然を前にして重衡は、
「南都の伽藍を悉く焼亡させた事は偏に重衡一人の所業と人々が申している事はお聞き及びでしようが、私は全くそのような指示を与えた事もなければ父・清盛が望んだことではありません。ただ伽藍には多くの悪僧が籠もっており、そのなかの悪意のある悪僧か私の手下の兵かは存じませんが、ある者の放った火が折からの強風に煽られてあのような事態を招いてしまいました。しかし、いかなる事態も総大将の私の罪として無間地獄の底に沈む覚悟でおりますが、せめて迷いの境地から出離したいと出家を望むも許されず、上人にお目にかかれたこの機会にせめて戒を授けていただく事はできましょうか」
と、切々と心情を吐露する。

 重衡の言葉を涙ながらに聞いた法然は、剃刀を重衡の額に当てて髪を形ばかりそり落として戒を授け、その夜は一晩中浄土の荘厳や様々な法門について語った。

 法然法話を受けた重衡は「気分の晴れ晴れとする善知識(※1)かな」と感激し、父・清盛から譲り受け秘蔵していた宋朝渡来の『松風』の銘のある硯(※2)を「これを上人のお目近くに置いて頂き、私を思い出して後世を弔って下さい」と法然に差し出すと、法然は硯を懐にして涙ながらに退出した。


(法然上人と対面する平重衡法然上人絵伝』より)

 物見高い群衆の見守る中、木津川河畔の処刑場に引き出された重衡は、いまわの際に仏像一体を所望し、守護の武士が近くの寺から手にした阿弥陀仏を拝して念仏を声高く唱え潔く首をのべて斬られる。

 煩悩から解き放たれ誇り高く往生に臨んだ重衡のありさまは、処刑を遂行した武士のみならず、それまで口々に重衡の悪行を非難していた物見高い群集の涙をさそったと『平家物語』は伝えている。

 「驕れる者は者は久しからずや」と平家一族の驕りを徹底的に描いた『平家物語』であるが、殊、南都焼亡に関しては、東大寺興福寺を拠点に悪行の限りを尽くしてこの事態を招いた南都の悪僧達が、勝者から一転して敗者に転じて捕われの身となった平重衡だけに責任を負わせ自らの罪業にに口を拭っている事への非難を込めて、平家物語の作者たち(※3)が重衡に身の正当性を述べさせるために、平重衡の授戒の場を設定したのではないかと私は思っている。

 当時は興福寺別当のみならず、東大寺別当も横暴の限りを尽くす大衆を制御する力を失っており、ましてや、南都大衆の猛り狂った強訴を恐れて重衡の出家の望みを却下せざるを得なかった後白河院源頼朝の心情を斟酌するなら、ここで重衡の後世を託されて戒を授けられるのは法然しかいなかったであろう。

 それでも南都大衆が直接に平重衡を処刑しなかったのは、そうすればどれほど激しい非難が押し寄せるかを苦慮した東大寺興福寺別当や高僧たちが息巻く大衆を説得したからであり、南都の別当たちは重衡の処刑を守護大名の手に委ねたのである。


(※1)善知識:知識ある高徳の僧。転じて人を仏道に導く師僧。

(※2)『松風』の銘のある硯:この硯は平清盛宋朝の帝に大量の砂金を献上した返礼として贈られたもので、その後は法然から証空に受け継がれ、証空が当麻曼荼羅具を再興した縁で現在も当麻寺奥の院に現物が伝えられている。但し銘については平家物語の諸本、盛衰記、法然上人絵伝などではまちまちのようだ。

(※3)『平家物語』の作者たち:信濃前司・藤原行長平家物語の作者とする『徒然草』の説が最有力である。その根拠として、5年に亘る治承・寿永の内乱状態の全過程を把握しえたのは都の王朝貴族のみであり、藤原行長を中心とする中級貴族が公家日記を資料として物語の骨格を編纂し、その後は語り継ぐ過程を通して多くの琵琶法師たちの見聞が加わったようだ。
 その場合、藤原行長が『愚管抄』の作者で天台座主を4度勤めた慈円の文化サロンのメンバーであった事は平家物語の基調に大きな影響を与えていると思われる。 


参考文献は以下の通り

『新潮日本古典集成 平家物語 下』 新潮社

天神信仰と中世初期の文化・思想』 河音能平  文理閣