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山の作曲家の日記

2016-06-29 聴いている音楽のメモ

2016-06-27 クラシック音楽における多様性について

なぜ、私がクラシック音楽のレパートリーが狭い範囲の限られた名曲に限られていることを厳しく批判するかというと、そこに文化の多様性、価値観の多様性、美意識の多様性、感情の多様性の不足が生まれるからだ。例えば、モーツァルトブラームスなどばかり弾いていたピアニストに、ブラジルインドネシアの曲が弾けるだろうか?これは単にテクニックの問題というより、感情の解釈の想像力の問題といった方が良いかもしれない。そこでレパートリーから欠落するということは、そういう多様性に出会う機会が失われ、大切な文化が気づかれないまま埋没するということなのだ。

2015-11-15 すべての宗教者へ

神の名を騙った暴力行為は、神への最大の侮辱行為である。

自分の考えを、神の意志だと詐称することは、神の他に勝手に自分の神を作る行為である。これは本物の神の他に、勝手に自分で神を作って思うように語らせるという行為であるから神への最大の背信行為である。これを、キリスト教徒イスラム教徒ユダヤ教徒神道もやってきた。 全て神に反する行為である。

2015-09-13 ベートーヴェン

ベートーヴェンっていい人だと思う。「さあ、みんな、この先で方向転換するぞ、せ〜の ほい」という音楽の運びがある。

ベートーヴェンって、曲を組み立てる時に、アンサンブル全体のベクトルを揃えて一気に変えるので、全体として大きな動きになりますね。「全員 上へ登れ、てっぺんついたら、全員たちどまってから、一斉に飛びおりて、下についたら右を向け!」みたいにマスゲームになっている。

弱音でとことん引きつけておいて、どかんとやる。それも、王道のおどかしかたで、くるぞくるぞと期待させてお約束のびっくりが決まると満足という仕掛け。

一方、フランセは、それぞれのパートがいろいろな方向の話をしていてものすごく一人一人は賑やかで活発だけど全体としてはシチュエーションは大きく変わらないので井戸端会議がずっと続いているようなかしましさ。

ベートーヴェンとフランセとコダーイの弦楽3重奏を、桂教会のキオスクコンサートで聴いた。

2015-09-12 左手のピアノの作曲

左手のピアノ曲の演奏にもし右手を使ったら楽に弾けるのかどうか。

左手のピアノ曲の作曲は、親指が右の高い音を叩き、小指が低い音にくる、左手の指の配置を前提にした書法なので、右手の指の配置で弾くと、作曲家が考えているのと違う指使いで弾く結果になります。左手の親指で弾く音を、右手の小指で弾くときれいに鳴りません。試しに両手の曲の左手パートを右手で弾いてみたら弾きにくいことがわかると思う。 ある両手のピアニストの方に右手の使用のを許可しましたが、結局、左手で弾いたほうがきれいに鳴るし弾きやすいので、結局は本番では左手で弾いておられました。押さえられる和音も左手と右手で変わりますので、左手では弾けるのに右手では演奏困難という箇所もでてきます。

左手のピアノ曲の作曲は無伴奏チェロの作曲に似ています。バッハ無伴奏チェロの高音部をヴァイオリンに割り振ってデュオにしたら、一つのパートで音域が広い動きという効果が消えますね。左手のピアノ曲を両手にわりふると、左手が広大な音域を動くことによる運動の幅広さ、広がり、振幅の大きさという特質が失われる。

チェロ独奏を、チェロ2台に分けて演奏しても響きや音楽の流れが変わる。左手のピアノと両手のピアノでは、モノは同じピアノの鍵盤でも違う響きかたをする楽器になります。音楽では、前後関係が重要だ。

左手のピアノと両手のピアノは実質、別の楽器のようなもの。

左手だけで弾くのと両手で弾くのとでは、音質や共鳴が変わる。左手が低音から高音部へあがってたどり着く音と、右手で弾かれる音はフレーズの中で位置付けが異なります。ペダルの使い方も違ってきますから、音質や共鳴も変わります。鍵盤を両手で押さえての持続と、ペダルを使っての持続で違いがでてきます。左手で弾くのと右手に受け渡して弾くのでは運動や共鳴が異なるので音質が変わる。

私の曲の場合、左手で弾くことを前提にした書法なので、右手で弾いても効果が変わらない箇所はあるとは思いますが、かなりの部分は右手ではものすごく弾きづらいと思います。

左手ならではのピアニズムを掘り起こしていない、左手特有の運動性に基づいていない、どちらで弾いても違いのでない、単に片手で弾ける音数にしたパッセージの場合は、右左どちらで弾いても大差ないと思いますが、左手を前提に発想されている曲なら、右手に分けて弾く音楽的メリットはほとんど無いかと思います。