2010-12-31 連絡事項

こちらは気が向いたときしか、更新しません。
御用のある方は、下記のほうへお願いします。
http://plaza.rakuten.co.jp/kngti/
最近は、こちらメモや覚書ふうになってます。
あと悪口とか
追記:2008/5/22
どうも、しゃれが通じない「まじめ○○」の人がいるようなので、
本館との使い分けについて書き留めておきます。
なので、コメント欄でのやりとりや特定の相手を意識した論争文などは
こちらに書きます。
また、楽天の方はすでに一定のブログスタイルが出来上がっているので、
それに合わないと判断したような文もこちらに書きます。
本当の「嘘つき」は、人前で「わたしは嘘つきです」などとは
けっして言わないものです。
そういうことで、よろしく
追記の追記(2009/5/11)
うっとうしいので、以後ここへのコメントは受け付けません。
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2010-04-22 「内心の自由」ってなんなんだ?

http://d.hatena.ne.jp/kutabirehateko/20100421/Second_Rape
一般的なものであれ、特定の人間に対するものであれ、人間の様々な行為や行動に対する批判的な言及は、人間の意識、つまりはその内面に対する問いかけを伴わざるを得ない。いささか型にはまったものが多いとはいえ、「差別」はいけない、「いじめ」はよくない、というような、よくある一般的な啓蒙だってそう。人間の意識=内面への問いかけを伴わない批判など、なんの現実的な変革ももたらさない、無力な批判にすぎない。
たとえば、アメリカでの黒人差別に反対し抗議した人らの活動は、なによりも、そのような差別を当たり前のもの、自明のこととしていた人らの意識=内面への問いかけを伴うものであったはず。そして、そのような批判を多くの人が正当なものとして受け入れた結果、現在では、少なくとも、公然たる「人種差別」は非難されるものという合意が社会的に成立したということだ。
もちろん、だからといって個々人の「差別」意識までが解消されたとは言えまい。だから、「差別」は正当と思っている者がいまなおいたとして、非難を受けたり、社会的不利益を被りたくなければ、それは「内心」にしまっておけ、と呼びかけるのには、一応の合理性はある。だが、だからといって、人の心の中にしまわれている、そのような「差別」意識への問いかけが無用となるわけではないし、ましてや禁止されるわけでもない。
そもそも人の「内面」そのものが罰せられないのは、「内面」が「内面」に留まっている限りでは、他者の内面など、神様か超能力者でもない限り、誰にもわからないからだ。どんな絶対的権力者にだって、分からないものなど罰しようも裁きようもないのは、当たり前の話にすぎない。
だから、そこで「『内心の自由』は保証されている」などと言い出すことは、ほとんど無意味な戯言か、でなければ、そのような言葉を盾にとって、ただ他者の声に耳をふさぎ、「あーあー、聞こえない」状態に閉じこもることを、自ら正当化しているにすぎない。
言葉を含めて、人間の表現行為とは、他人の心のドアをノックすることだ。人間は、言葉を含めた表現によって、互いに影響し影響される。それは当たり前のことであり、人間の「コミュニケーション」とは、もともとそういうものだ。そこで「『内心の自由』は保証されている」などと言い出すことは、ただの無意味な冗言にすぎない。
むろん、そこでの「コミュニケーション」のありようはひとつの問題である。ずかずかと、他人の内面に踏み込もうとすれば、非難されることもあるだろう。だが、それは、なにも他人の心のドアを無理やりこじ開けて、ひとりひとりの「内心」を検閲してまわろうという話と同じではない。そうだというのなら、「差別はやめましょう!」というような、ありふれた一般的なキャンペーンだって、他人の「内心」の検閲であり侵害だという話になる。
それでもなお、「内心の自由」は保証されるべきだというなら、それは結局のところ、他人の「心」への働きかけ、言い換えるなら、政治的社会的な言論はもちろん、あらゆるおたがいの「コミュニケーション」そのものを禁圧すべきだということになるだろう。むろん、そんなことは誰も望むまいし、そもそも不可能なことでもある。
論理的に言うならば、保証する者とは、保証される者より上位の優越者でなければならない。国家や政治的権力が、「表現の自由」だの「結社の自由」だのを保証できるのは、裏返して言うならば、国家にはその気になれば、そういった自由を規制し、あるいは蹂躙するだけの現実的な力があるからでもある。それは、むろん歴史が証明している。
「内心の自由」は保証されているというならば、そのような保証を与えてくれる者は、いったいどこにいるのだろうか。もしいるとすれば、それこそ、人間の隠された「内心」もすべてお見通しという神様以外にありえないということになる。
そもそも、他者に自分の自由を保証してほしいというのは、自分の自由に関する生殺与奪の権を、その他者に預けるということとほとんど同義なのではあるまいか。人間の「内心の自由」などというものは、そのような他者から保証を受けられるようなものではない。
y_arim
例の件に関して言うならば、「我々を放っておいてくれ」という拒絶の意思表示として「内心の自由」という言葉を提示している人もいそうだと思った。
もっと根源的には、政治や社会へのコミットメントの忌避(趣味人としてのオタクは、一般人よりもこの傾向は強いのではないか)という問題も出てきそう。前にチラッとブコメで書いたけど、例の件、個人の趣味と見なされているがゆえに政治や社会とは関係ないもの(あるいはフィクションであるがゆえに『現実の』公共性とは関係ないもの)というコンセンサスが広く共有されている気がする。
PledgeCrew
そうでしょうね。確かに、積極的な規制論者の中には「オタク」を狙い撃ちにしているかのような人もいるし、「オタク」とか「オタク」文化に対する偏見が社会にあるのも事実なんで、「放っておいてくれ」という拒絶は一応理解できます。
私は別に「非社会的」であることが悪いことだとは思わないし、「社会的意識」とか「政治的意識」だとかに目覚めることが、それほど偉いことだと思ってるわけでもありません。ただ、好き嫌いに関わらず、人間は「社会」の中に放り込まれ巻き込まれている。そのことは、一方的な「拒絶」の身振りだけで否定できるものではないでしょう。
個人的嗜好というものは、本来は私的なものなのでしょうが、現代ではそれも「社会化」されており、製作から宣伝・流通、消費まで、社会的過程の中に巻き込まれている。そもそも「欲望」自体も社会的に生産されています。そういう状況の中では、個人の趣味だから「現実の」公共性とはまったく無関係というわけにはいかないでしょうね。
PledgeCrew
>id:nagonagu
長くなりそうなので、こちらでお返事
「保証」か「保障」かってのは、ややこしいですね。
そもそも、この言葉を使ってる人らが、どこまでその違いを意識しているかも不明なので。
ただ、一般的に言うなら、国家や社会は、個人の思想・良心、あるいは思想・宗教の自由といった「内面の自由」を保障すべきということは、個々人の内心は尊重されるべきであり、強制的な内心の告白や踏み絵を迫るような行為は行うべきではないということですね。
そういう意味であれば、「我々の社会がそれを「保障」するのも自明」ということに同意します。それはつまり、yellowbellさんが仰ってるように、憲法の人権規定は「国家権力の強制力に対する担保」ということであり、国家はそういう問題に介入しないということです。
憲法の規定がどこまで及ぶかはややこしい問題ですが、国家やその他の公的組織ではなくとも、個人に対してなんらかの権力を行使しうる組織は、当然そのような行為を行うべきではないでしょう。政治団体とか宗教団体とかになると、また話がややこしくなりますが。
nagonagu
かつさん、ブコメへの応答。ありがとうございます。
“保証などされていない”と“保障などされていない”は明らかに違うので、気をつけたいですね。前者については、かつさんの言うとおりだと思うのですが、後者のごとく言い募り国家権力の規制を呼び込む行為には、私は徹頭徹尾、懐疑的でありたいと思っています。前者のごとき愚かな強弁もまた、規制を呼び込む。頭が痛い話です。
全然余談ですが、「保険」と「保健」とか、同音異義で問題になる言語も少なくありませんね。ここ数十年の新自由主義的潮流で「公共性」はずいぶん劣化したような気がします。憲法12条の規定をおろそかにしてはいけないですね。
tikani_nemuru_M
ブコメにも書いたけれど、対公権力の問題としては「内心の自由」は自明。
>
それでもなお、「内心の自由」は保証されるべきだというなら、それは結局のところ、他人の「心」への働きかけ、言い換えるなら、政治的社会的な言論はもちろん、あらゆるおたがいの「コミュニケーション」そのものを禁圧すべきだということになるだろう。むろん、そんなことは誰も望むまいし、そもそも不可能なことでもある。
<
このロジックは、陵辱表現などへの対抗言論の肯定を意味することはもちろんだけど、陵辱表現の流通そのものも否定できないということになりませんか? いや、最近は僕もそう考えつつあるのだけれど。
力のある表現とは他者の内心に踏み込むものであり、表現の自由とは互いの内面に踏み込んだり踏み込まれたりするものでしょう。それがいやなら表現行為など行うべきではない。
自分たちは「表現の自由」をうたいながら、「内心の自由」によって自分を防衛しようとするどうしようもない欺瞞はこの問題でさんざん見てきました。
PledgeCrew
なごさん、地下に眠るMさん、どうも
もともと憲法とは公権力の行使を規制するのが大きな目的のひとつなわけで、そこで規定されている種々の自由とは、私人によるそういった権利の行使に国家は介入しませんよ、という宣言以上ではありませんね。それ以上に、その自由を「保証」する義務までは直接負わないし、ましてや「内心の自由」など、どんな権力にも「保証」しうるものではない。
そのへんで、いろいろな無理解とか誤解とかが重なって、「内心の自由」は保証されている、みたいなへんてこなことを言う人もいたりするのでしょう。
ただ、そうはいっても、文字が読め、言葉が理解できる限り、いくら自分の「内心の自由」を盾にとっても、なんらかのものは伝わる。とりあえず、そう思っておく以外にしょうがないのでしょうか。たしかに、ひとが作った「心の壁」というものはなかなか頑丈なもので、ラッパのひと吹きで壊れるというものでもないですが。
流通を規制するとすれば、根拠としては「公共の福祉」か「他者危害」ということになるでしょうね。都が言っていた「青少年の健全育成」とか、刑法の「猥褻物」とかは前者でしょうが、たしかにこれは抽象的で、線引きが恣意的になりやすいという問題があります。
当然ながら、一般的な検閲は憲法違反なわけで、規制するとすれば、可能な限りの基準の明確化と運用の透明性、実効的な異議申し立て手続きの確保とかが、条件になるでしょう。そのへん、とりわけ執行権を拘束する市民の力がそもそも弱く、法的規制とかがいったん成立すると、そのまま権力への丸投げ状態になりかねない、という懸念もありますね。
具体的な法の運用というものは、つねに利害関係者間での綱引きの中にあります。そのための場所が、ちゃんと成立し機能しているかどうかがそもそもの問題なのでしょう。それがとうてい十分とは言えないところに、現状に問題は感じながらも、強制力を伴う規制そのものには慎重にならざるを得ないという立場があるというところでしょうか。
2010-02-15 議論の作法、あるいは「論点ずらし」ということについて

http://blog.livedoor.jp/jabberwock555/archives/51607219.html
http://blog.livedoor.jp/jabberwock555/archives/51612134.html
http://taraxacum.seesaa.net/article/131535144.html#comment
世界の中の事象というものは、いずれも複雑に構成されており、様々な側面を持っている。だから、ある問題についての論を批判するさいに、そこで抜け落ちている重要な視点や論点を指摘し、そこから相手を批判することは、それ自体として議論の作法に反することではない。そもそも、論点の客観的な軽重ということに限らず、同じ問題でも、人によって、どこに関心をもつか、どこを重視するかが異なるのはよくあることだ。個人の問題意識というものは、みな同じではない。
したがって、ある論を批判するさいに、その対象である論者と同じ土俵に、本意ではない場合もあるがことさらに乗ってみせて、その矛盾や誤りをつくか、それとも相手の土俵に乗らず、土俵そのものを引っくり返すかは、そのときどきの事情によるのであり、必ずしも相手の問題設定そのものに捉われる必要はない。そこで相手が論じていないことを勝手に持ち出したからといって、それがそのまま悪質な「論点ずらし」や「印象操作」を意味するわけではない。
しかし、場合によっては、相手の議論がそもそも一定の流れや枠組みの中にあり、その関係において、問題の特定の側面しか扱われていないということもある。特定の議論において、論じる対象のすべての側面を論じるなんてことは、どんな場合にも無理なのであり、本来ならば、その問題に関するきわめて重要な論点であっても、そういった行論の関係上、採り上げられていなかったにすぎないということもある。
そのような場合に、あたかも、お前は一番大事なこの点を無視している、これを無視しているのは、そのことに関心がないからに違いないかのように弁ずるならば、それはただの「言いがかり」であり、「論点ずらし」による「印象操作」でしかない。むろん、そのような「論点ずらし」が生ずる原因は、誤読や誤解、思い込み、なんらかの強迫的意識など様々であり、そのすべてが意図的で悪質な「印象操作」だとは限らないが。
jabberwock555
ごぶさたしてます。トラックバック、どうも。
特定の一例に関して言えば、かの人物が何を目的に、錯乱したケンカを私に売ってきたのか、いまなおわからないわけですが
(ま、なんかむしゃくしゃすることがあり、特定人物を罵倒したい気持ちが暴発しちゃった、という程度のくだらない理由でしょうが)
「やらかしちゃったこと」は(『大変な人たち!』に共感されたり、賞賛されたりしたことも含めて)自分自身で引き受けることになるのは、当然のことです。
PledgeCrew
こちらこそごぶさたしてます。
件の人の、「国保」取り上げに少しでも責任がある者は候補者として認められないという主張は、個人的な信条としては十分に理解できます。しかし、そもそも個人の信条などというレベルの話は私はしていません。それに、そういう個人の良心や信条といったレベルだけで政治が語れるのなら、誰も苦労はしません。
そもそも、それなら最初からそれだけを言えばよかったことで、あの流れの中で前言を撤回もせずに、最後になって、後出しじゃんけんのようにあのようなことを言い出すのは、まったく筋の違う話にしかすぎません。
自分の支持する党を擁護するのも、その宣伝をするのもとりあえずは人の自由ですが、まるで「貧困」問題に関心があるのは、自党とその支持者たちだけだと言わんばかりの態度については、笑止としか言いようがありません。
taraxacum_off
言及とトラックバック、ありがとうございます。
わたしがゆゆしく思うのは、「論点ずらし」「印象操作」が、
かなり効を奏していて、くだんのかたの言うことに
賛同するかたが多い(多かった?)、ということでしょうか。
選挙については、投票したい人に投票すればいいと、
わたしは思うし、そんなことを議論はしてないんだけどね...
でも、賛同者もふくめて、どういうわけか、
だれに投票するかのお話を、やりたがりますね。
彼らはなぜ、投票行為に話題をシフトさせたがるのかは、
わたしは、いくらか興味がありますが。
PledgeCrew
まあ、あちらが自分の記事で書いてることは、それだけ取り出せばひじょうに高潔な感情の発露であり、それ自体としては非の打ち所はありませんからね。前後の脈絡さえなければ、私も拍手ぐらいはしてもかまわないところです。
しかし、この間の彼の一連の言動をよくよく見れば、その一義的な関心が党の名誉と、時代遅れの馬鹿げた党の無謬神話を守ることでしかないのは、十分に明らかだと思います。
ジャバさんに対する物言いに如実に表れていた、党に対して批判的なことを言う者は「反共」主義者だと言わんばかりの態度は、ほとんど失笑ものです。いったい、いつの時代の話なのかと思ってしまいました。
党への批判的な言及を見つけると、やれ「反共」攻撃だ! とばかりに頭に血がのぼってしまうのには、党勢が思ったほど伸びないことへのあせりがあるのかもしれません。しかし、その最大の原因は、愚劣な「反共」攻撃などではなく、戦後60年間の党自身の行動にあるのは自明なことでしょう。ぽっと出の支持者や党員ならいざ知らず、そのくらいのことは彼だって分かっているはずだと思うのですけどね。
taraxacum_off
それで、わたしが、その「反共主義者」と見られてるのね...
じつは、ずっと前から、わたしはマークされていたらしく、
都知事選の議論のような機会を、うかがっていたみたいです。
彼にとって、「反共主義者」とみなされる人物は、
このようにリアリティを持って危険なものらしいです。
2010-01-25 ブコメへの補足(大幅に加筆)

http://d.hatena.ne.jp/toled/20100124/p1
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/toled/20100124/p1
PledgeCrew [在特会][支持する] 「非暴力」を旗印にした戦略家気取りのブコメには反吐がでる。問題は逮捕された少年を見捨てるかどうか。司法判断など関係ない。在特会の言うように彼が帰国子弟であるなら、彼にとってこれはただのゲームではない
一定の状況の中で、結果としてある行為をおこした者について、そこに一定の正当性を認め、そちらの側に立つということを表明したからといって、それはただちにそのような行為そのものを礼賛し、他の者にも同様の行為をとるよう呼びかけることを意味するわけではない。上の記事を読む限り、toledさんが言っているのもそういうことではあるまい。
もしも、そのような理屈が成り立つのなら、刑事裁判において冤罪ではない明確な「真犯人」であるところの被告人を弁護し、裁判官に対して事件の背景を考慮した情状酌量を求める行為もまた、同様にそのような犯罪を賞賛し呼びかける「非道徳的行為」として非難すべきということになる。しかし、そのような論理は、刑事裁判における弁護そのものを否定することにほとんど等しい。
人質をとって旅館に立てこもった金嬉老の裁判を支援した人たちは、そのことで、他の在日朝鮮人らにも同様の事件をおこすように扇動したとして非難されるべきだったのか? 支援者らは、実際にそのようなことを意図していたのか? いうまでもなく、彼が行った行為は明確な「犯罪」である。だが、だからといって彼を支援することまで非難するのは、とんだお門違い。それとこれとは別の話だ。
親や配偶者からの日常的な虐待や暴力に耐えかねて、やむをえずなんらかの事件を起こした者を弁護し支援したからといって、それがただちに同様の虐待に苦しむ他の者らに対して、同じような行為を推奨し呼びかけることになるのか?
あるいは、貧困によって犯罪に走った者に同情し支援することは、そのような「犯罪行為」を誘発するものとして禁じられるべきなのか? それとも、そういった人々を弁護したり支援したりする者らは、なにか言うたびにいちいち「彼の行った行為は許しがたいものですが」などと前置きし、弁解しなければいけないのか?
司法判断がどうであれ、個々人は自らの責任でどちらに立つか判断すればよいだけのこと。それとこれとは関係ない。「司法判断」がどうのという論は、たんに自己の良心と責任を捜査機関だの裁判所だのというたかだか一国家機関に預けているにすぎない。警察等による法的判断の結果がどうであれ、それによって少年らを擁護することまで一様に非難されたり、禁止されたりする筋合いはない。
mojimojiさんが言うとおり、「toledに賛成するかどうかはともかく、toled批判の水準」はあまりにも低すぎる。「少年らの側に立つ」という元記事の言葉をつかまえて、「暴力」容認だの「テロ」容認だのと騒いでいる連中は、あまりに頭が悪すぎる。「暴力反対」を錦の御旗にして逮捕された少年を見捨てるようなら、そんな者は最初から味方ではない。
本人になんの落ち度もない明々白々な「冤罪者」でなければ、被逮捕者や容疑者、被告人への弁護や支援をいっさい行なってはならないなんて、馬鹿な話はない。お上に逆らってはならなかった江戸時代ならいざ知らず、少なくとも現代の日本では。その程度のことも分からぬ者は、もう一度中学の「公民」から勉強しなおすべし。
2010-01-20 「一種の」という表現について

PledgeCrew [こりゃだめだ] 「自己ルール」て言ったって、他人に関わるもので他人に表明したのであれば一種の片務契約でしょ。それじゃ自分は平気で約束を破る人間だと公言するのと同じですわな*1
tari-G [これはすごい][ウキャキャキャキャ] 「他人が聴くことが可能な場所でしゃべったら独り言ではない!」…と(笑)つまり、独り言を言うには、周りを見回し人やマイクが無いことを確認してから言わないと、片務契約が成立しちゃうらしい(笑)(笑)(笑) *2
自己ルール云々や片務契約云々って、言ってみれば水伝並みのトンデモなので、そこに気付く気配がない以上、もはや救いようがないというのが、正直、客観的な状況だと思う。
by tari-G 2010-01-19 22:53:43*3
ところで、「一種の」という表現は、たとえば次のように使う。
- 外交とは一種の戦争である。
- 恋愛とは一種の病気である。
こういった表現に対して、それは「外交」と「戦争」の違いを無視するものだとか、「恋愛」を癌や結核のような本物の病気と同一視するものだと解釈するものがいれば、ふつう、まともな日本語読解力を持っているとはみなされないだろう。
この場合、「一種の」とは両者に共通する性質をとりあげただけの、比喩表現の一種にすぎない。それにしても、口を開けば開くほど自ら墓穴を掘りまくる人というのは、よほど「客観的な状況」を見る能力に欠けているのだろう。まるで、撤退時期を見失って自滅したどこかの国の軍隊のようだ。
残念ですね。
上のイカフライはわたしの偽者です。
しかし、いうことは同じですが。
せめてネット上でも大家の風を装って
書斎でパイプって空想をおいたいものですな。
とくに歳をとるとね。
子どものままごとじゃなくて、
爺さんの爺ごとなんちゃって。
でわ、福田さんのおことば。
せいぜい、がんばってください。
あ? なんですって?
自意識のかけらじゃなく、爺意識のかけらだって。
こりゃどうも。あははは。
フライが集まってる場所はここでつか。
PledgeCrewさんて二重人格だったんでつね。
IPアドレスが同一なので同一人のようですね。
エビフライは違うようですが、出先か別のPCからの書き込みなのでしょうか。
とりあえず、ご自分の年齢も考えた方がいいですよ。
うん十年もの人生の苦労の果てがこれでは、他人事とはいえ悲しいですね。
うん十年もの人生の苦労の果てが、低劣なブクマコメントを付けて憂さを晴らすという行為に結びついているわけですね。
はじめまして、そして今晩は。
つかぬ事をお聞きしますが、私にIDコールしましたか?
削除したにせよ、こちらには内容が届いているわけで、一言あっても良かったのでは。
コールについては半分同意ということでしょうか。
感想を言えば、「らしくねえな」、ということです。
この件については今後、言うつもりもないし聞くつもりもないので、これで終わりにします。
失礼します。
あなたをIDコールした覚えはいっさいありません。
したがって、削除した覚えもありません。
それでは
たびたびすみません。
上記コメント、了解した。
はてなの回答をもう一度読んだところ、ちょっと?というところあり
再度問合せをしています。
回答があったら自分のところで報告するようにします。
お手数をかけます。