津田敏秀『医学者は公害事件で何をしてきたのか』

 疫学の基本的な知識を学びながら、水俣病事件をはじめとする「公害」事件で「医者」を筆頭に「学者」が何をやってきたのかを実名をあげて検証する作業。その構図はある意味わかり切ったことだったとは言え、それが具体的にここまで逐一明らかにされると、ちょっと言葉を失うところがある、って黙ってちゃだめなわけですが。
 水俣病の経緯について少しでも知るとすぐに思いつく疑問は、魚がヤバイということはかなり早い段階で分かってたんだからその段階で魚を食べさせるのをやめればいいのに、なんでそれからも原因物質の究明云々とかやらねばならなかったんだろう?食生活と発症が結びついているのだから、水俣病の認定なんてわりと簡単な問題じゃなかろうか、ニセ患者なんて話まで出たりして、なんであれだけ認定問題が長びきもめてしまうんだろう?で、もう少し馴れてくるとその基本的なことに目がいかなくなってしまったりもするのだが、実際の事件の展開もある意味ではそのようなものであったといってよい。
 そうした津田さんが戻ろうとするのは、まさに最初は誰もが思いつくであろうそのシンプルな場所であり、そのシンプルな場所から考えていこうとすることが疫学の基本であるということだ*1。「因果関係を学問と一致させ、現場の被害の実相と学問とを一致させる。それが疫学である」(41頁)。
 たとえば、食中毒を考えた場合、同じ弁当を食べた人のすべてが下痢をするわけでもない、また、食中毒の有無とは関係なく下痢になってしまう人だっていたかもしれない。でも、まず知ることができるのは実際に同じ弁当を食べて下痢をしたひとだ。この場合の弁当を「原因食品」といい、その弁当に含まれるウィルスなんなりを「病因物質」という。
 じゃあ、食中毒の対策は原因食品が分かった時点で始めるべきか、病因物質が分かった時点で始めるべきか?言うまでもない、原因食品だ。だって、その食品を食べるのをやめれば食中毒は回避できるのだ。それをいちいち病因物質の究明なんてやってたらその間に食中毒が拡がってしまう。これは誰だって分かることだ。「すでに触れてきたように、前例から考えても常識から考えても分かるが、食品衛生法を適用する際に、病因物質の判明は必要条件ではない。もし病因物質の判明を必要条件としてしまうと、水俣病事件のような未知の病因物質による食中毒事件の際に、たとえ原因食品もしくは原因施設が明かで対策可能であっても、対策がとれなくなってしまうからだ」(52頁)。
 じゃあ、その水俣病事件において、特定が急がれたのは何か?「水俣病の公式発見」は細川一医師が保健所に届け出た1956年5月1日だとされているが、1956年11月3日に熊本大学が、当初、伝染病と疑われた奇病は一種の中毒症によるものであり、水俣湾産の魚介類に摂取によるものであるとする中間報告を出している。これについては食中毒事件としての届け出はなされないままだったのだが、熊本県が遅まきながら食品衛生法に適用に踏み出したところ、1957年9月11日に厚生省公衆衛生局長からストップがかかり、食品衛生法の適用も見送られる。
 そして、中毒を引き起こしているのはマンガンか、有機水銀か、はたまた海中爆薬、それとも有毒アミンか、つまり、病因物質(原因物質)の特定があたかも問題であるかのように議論のディスクールが組み換えられてしまったのだ。そのために多大な寄与をしたのが「医学者」たちだった。ちなみに、厚生省が病因物質を特定する答申を出したのが1959年11月、政府による公害認定がなされたのが1968年9月26日だ。さらに確認しておけば、病因物質を特定したのちは、その有機水銀チッソ水俣工場から排出されたものかどうか、チッソが捨てているのは無機水銀なのにそれがどうやって有機水銀になるのか、そのメカニズムが問題にされていった。
 さて、いずれにせよ、そうすると水俣病を疑われる人は、水俣産の魚を大量に食した人であるということになる。その範囲は日常生活を調べていけば、それなりに特定できるはずだ。じゃあ水俣病(暴露有症者)の認定はどのようになされたのか?
 水俣病の病因物質の特定は、1959年3月に熊大の武内忠男教授(病理学)が水俣病の症状がハンター・ラッセル症候群(運動失調、構音障害、求心性視野狭窄を主要な症状とする)に酷似していることを発表したところから大きく展開するのだが、この例は、イギリスの有機水銀農薬工場の労働者が職場で有機水銀に暴露されることにより起こった中毒であった。他方、これは原田正純先生がよく強調することだが、水俣病はただの有機水銀中毒ではなくて、チッソの工場が排出した有機水銀が魚に蓄積し、それを摂取した人間に発生する有機水銀中毒が水俣病だ。つまり、暴露の経緯はもちろん期間や量等々も工場でのそれとは同じではないし、また暴露有症者それぞれをとってみても多様だ。これは、たとえば、胎児性の水俣病患者の存在を考えてみるだけでもわかることだ。
 ということは、症状がどのように展開するかについては、そのすべてがハンター・ラッセル症候群と合致するとは限らないかもしれないということになるし、どのようなかたちで症状が展開するかを明らかにしようとするのであれば、暴露有症者の特異性を経年変化を含めて追跡していくしかないということになるだろう。
 当初、水俣病患者の認定のために採用された判断条件は、その採用時期から昭和46年判断条件と呼ばれるものなのだが、基本的にはハンター・ラッセル症候群の延長にあるものといってよい。ただし、認定にあたっては「有機水銀の経口摂取」が認められ、いずれか一つでも該当する症状があればそれを水俣病と認めようとする点でより広い判断基準を打ち出したものでもあった。これは水俣病の症状特定の当座の手がかりとしてハンター・ラッセル症候群を利用するしかなかったというのであれば、その時点では、それなりに穏当なものであったように思えるし、少なくとも、その後改訂される昭和52年判断条件と比べるのであれば、間違いなくそのように言える。津田さんも「この昭和46年判断条件の方が、通常の食中毒事件における食中毒患者数を数え上げる際の暴露有症者数に近い」と述べている。
 ところが、その後判断条件は見直され、昭和52年判断条件と呼ばれる判断条件が採用されることになる。国側はこの二つの条件のあいだに違いはないと主張してきたのだが、二つの条件を読み比べれば、46年判断条件では「経口摂取」に加えて個別に一つでも症状が特定できれば水俣病と認定されたものが、52年判断条件では「症状の組み合わせ」を要件とするようになったことが分かる。しかも、この52年判断条件に合致するにもかかわらず認定されていない人が大量に存在するのだという。
 何よりもそれをよく物語っているのは以下の指摘だ。

「そして患者に関する議論において何よりも重要なのは、感覚障害があるかないかということに関しては、実は被告・国側の判断と原告・患者側の主張にはほとんど差がないということである。つまり、原告患者に感覚障害があるという判断は、被告・国側においても認定審査会のデータにより同様に認められている。もちろんここで言う感覚障害とは「左右そろった四肢末端に有意な感覚障害」もしくは「全身性の感覚障害」のことを指す。この点で、彼ら未認定患者は症状のある患者である。そして、水俣湾産もしくは不知火海産の汚染された魚介類を多食した経歴を持っている。感覚障害がある患者が水俣湾地域周辺の湾岸部で住民のどれくらいを占めているかというと、10パーセントから50パーセントであり、「何割」というレベルで存在する。そしてこの感覚障害がある人たちの大多数が、水俣病患者として国や県には認定されていない。一方、汚染された魚と無縁な地域では、住民のどれくらいがそのような症状を持っているのかというと、およぎ二桁は少ない0.2パーセント(高齢者のみ)とか0.09パーセント(一般人口において)しか存在しない(78頁)。

 そして、ここで活躍したのも「医学者」だ。当時、医学者のあいだでは「水俣病は特異的疾患」だと認識されてきたという。つまり、水俣病には固有の症状があるってことだ。ところが、津田さんが指摘するように、「水俣病」というのは「病因論的病名」なのだ。「病因論的病名」というのは、コレラ結核のような病原菌の名前が入ってる病名であり、「症候論的病名」は、がんとかうつとか胃炎とか病名から症状が想像できるようなもの。二つの関係は、胃炎にはいろんな原因がありうるから、その背後にいくつもの「病因論的病名」が考えられるといったことを思い浮かべると分かりやすい。
 水俣病は、すでに確認したように、そして原田先生も強調するように、有機水銀による食中毒事件であったわけだから、病因物質の特定以降それは「病因論的病名」なのである。だから、疾患としてどのような「症候論的病名」が多発してくるかは暴露有症者を追跡して明らかにされるような問題であった。だが、水俣病関連でも大量の厚生科研費がばらまかれてきたのにそれでもってまともな疫学的調査が行われた形跡はない。他方、認定審査会は、当初の水俣病の重症患者のイメージを所与として、重症患者のみが水俣病患者であるかのように、「感覚障害のみの出現は実証されていない」といった具合に患者を切り捨ててきた。「水俣病は公害事件であるので、申請者の症状と暴露との因果関係が検討されるべきだったのに、神経内科の「診断」の問題となってしまった」のである(89頁)。
 しかし、病因物質の特定にせよ、水俣病は特異的疾患があるにせよ、問題の構図は二つともよく似ているよね。つまり、メカニズムの解明と称して一種の形而上学的な議論に夢中になって、実際に起こっていることには目が向かなくなってしまっている。必要なのは二つのあいだの行ったり来たりのはずなのに。
 だけど、こんなやり方いつまでも通るわけがない。さすがに裁判では負けるわけだ。1985年の福岡高等裁判所の判決では、昭和52年判断条件が厳格すぎると言われてしまう。そうすると、そのつじつま合わせに動員されるのが「医学者」を始めとする「専門家」だ。なかでも、斉藤恒『新潟水俣病』から引かれている次のような椿発言があらためて気になった*2。ちなみに椿忠雄医師は新潟水俣病では症状の特定に寄与した人だ*3。「斉藤君、君のいうことはわかる、それは今まで認定されているよりもっとピラミッドの底辺まで認定しろということだろう。しかし、そうなったら昭和電工や国はやって行けるだろうか?」(107頁)。医者とか弁護士というのはプロフェッションと言われるわけで、その仕事には特別の使命が帯びると見なされてきたわけだが*4、偉くなるといろいろ余計なものを背負ちゃうのかな。まあ、M・ムーアの『シッコ』なんかを見てるとプロフェッションって考え方は過去のものになりつつあるのかしらと慨嘆せざるをえないところもあるわけですが*5

医学者は公害事件で何をしてきたのか

医学者は公害事件で何をしてきたのか

 

*1:疫学そのものについてはこちらの本をどうぞ。

市民のための疫学入門―医学ニュースから環境裁判まで

市民のための疫学入門―医学ニュースから環境裁判まで

*2:

新潟水俣病

新潟水俣病

*3:このあたりはこれなんかを読むとよく分かる。http://tmnh.jp/m1/02.pdf

*4:たとえば、こんな感じで。http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20070912/p1

*5:http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20070911/p2