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○●○ このブログはネタバレが基本です。あらかじめご了承下さい。 ○●○

2011-03-22

『DEARDROPS』那倉怜司 : 大人みたいな子供、子供みたいな大人

| 21:49 | 『DEARDROPS』那倉怜司 : 大人みたいな子供、子供みたいな大人を含むブックマーク 『DEARDROPS』那倉怜司 : 大人みたいな子供、子供みたいな大人のブックマークコメント

 音楽を、「神との戦い」の道具には堕さないこと。つまりは、そう位置付けてもいいのだろう。

DEARDROPS

DEARDROPS

 本作はおそらく、”そこまででもない”作品の一つだ。あるいは『けいおん!』ブームで市場に音楽モノを受け入れる土壌が形成され*1瀬戸口廉也という図抜けた才能が音楽に纏わるいくつかの傑作を書いた。そんないくつかの符号が組み合わさり、ロック中年な業界人に一作の「音楽モノエロゲー」を企画する機会が訪れた、その産物、というような。最も冷たく、忌憚の無い物言いをすれば、きっと本作は”それ以上の何か”ではない凡百に過ぎないのかもしれない。

 それでも、プレイして本当に良かった、と心から思える。だから、そのことについて書く。

「どんな人の心からでも、音楽は生まれる。そしてそれは、きっとその人の心を慰める。そういうものを人は生み出すんだから」

 ストーリラインをざっとなぞれば、それはきっと音楽モノの、とりわけ「ロック音楽モノ」としてのテンプレートの範囲内に収まる*2

 クラシックの世界でバイオリニストとして成功を収めた青年、菅沼翔一が、暴力事件を起こして業界から転落、幼馴染の父親の経営するライブハウスでアルバイトをしながら、仲間と出会い、ロックバンドとしての再起を始める。バンドはずっと続くかもしれないし、己の過去ともう一度向き合い、クラシックの世界に戻るのかもしれない。メンバーとなるヒロイン毎にルートはそのように分岐するし、ヒロインが事故死して主人公の下に灰色の世界が広がったりはしない。

それでは、特筆すべきは何か。それが、本作における「音楽」の取り扱い、それも『キラ☆キラ』との比較において、になると思う。少なくとも、ぼくはそう感じた。

 瀬戸口作品において、「音楽」は何度も重要なモチーフとなる。あるいは『CARNIVAL』における篭もった体育倉庫で外界をシャットアウトする支え、あるいは『SWAN SONG』における神や世界の不条理を巡る戦いの象徴めいたもの、またあるいは『キラ☆キラ』における、そんな全てをひっくるめて託すことの出来るもの、であるのかもしれない。

 そこでは「音楽」は何かの象徴や物語のモチーフであり、「それを託すのが、なぜ”音楽”なのか?」はあまり厳密には問われない。結集と解散を繰り返す人間集団はオーケストラになぞらえられ、その成否が世界や神と自己との関係を体現するものとしてピアノが弾かれ、「モテるかも」との動機を交えつつ魅力に惹かれ漠然と始まり。

 それが、何故、「音楽」なのか? この意味において、厳密には「音楽は芸術の象徴」辺りに止まる。『キラ☆キラ』千絵ルートを思い出して欲しい。夢うつつの鹿之助が視た「人の中にあるキラキラした何かと繋がるもの」には、絵筆もサッカーボールも並んでいた。目が視えなくなった画家でも良かったのかもしれない、人間集団ならサッカーチームでも良かったのかもしれない、対戦競技では違うとするなら、あるいは集団ダンスでも*3

DEARDROPS』では、何故、「音楽」なのか? 答えはどうしようもなく簡潔で、明快だ。

 あのとき、1人ホールで歌っていたお母さんの姿を思い出す。

 すごく幸せそうに歌っていた姿を。

 そうだよね。

 歌うことは幸せなこと。

 それを忘れそうになってたよ。

 それは「音楽が好きだから」。

 それ以上でも以下でもなく、それ以外の何ものでもない。好きだから、音楽。ただそれだけであった。

 進路の問題が問われる。大場弥生ルートのことだ。「音楽が好きだから」どうやってそれと関わっていけばいいのかを悩み、充分な技量を持ちつつも、それだけで全てを覆してしまえる「天才」ではない弥生は、自分の身の振り方を悩まずにはいられない*4

 競争の問題が問われる。これは桜井かなでルート。「音楽が好きだから」歌うのだとしても、それを商品として売り出すためには、違う問題が生じる。それは「好きだから」やっているはずのものに、その行為そのものではない「目的」を差し挟んで「手段」とすることについての問題でもあり、「好きだから」こそ、人よりも抜きん出てそれに関わりたいという愛執の問題でもある*5

 そこでは「音楽そのものが何処かに辿り着いているか否か」という一種抽象的な問題は重要視されず、「音楽そのものに対してどのように振舞うか」という周縁の事項こそが焦点となる認識がある。喉が潰れたら潰れたなりに歌うのだろう、腕が折れたら折れたなりに弾くのだろう。目指す場所に辿り着けない不満は生じるかもしれないが、そこに絶望の予感はない。音楽は、その成否をもって「神と戦う」ための道具とはなっていない*6

「音楽は苦行じゃない。人の心を救うものだ」

 かなでルート以上の本命であろう芳谷律穂ルートにおいて、そのスタンスは目立たない形で確固たるものとなる。

 翔一の父は「金」に価値を見出して音楽を信じないが「借金してバイオリンを買い取る」という二人の言葉にはその覚悟を認める。ロック界の大御所レオは「オレの顔が立たない」というだけの理由で音楽的に高く評価したDEARDROPSを「政治的妨害」の対象として方向転換する*7。TV局のオカケンは関係各所との兼ね合いからDEARDROPSへの表立った援助を諦めるし、それを再開するのは「賭け」に出るだけの勝算が見出せた段階だ。

「音楽」は、あくまでも「それだけで世界を引っくり返す異能力*8」としては扱われない。そこにある「音楽」という行為を取り巻いて、あくまでも「人間の戦い」が行われる。「音楽」は「自分」を守るための*9武器や防具ではなく、「音楽」を守るために「自分」がそれら外界と上手く付き合って戦わねばならない*10。堅実な、ともすれば物語的刺激に欠ける「大人」のリアリティである。

 本作はアンチ『キラ☆キラ』だ。それも”あの傑作と肩を並べられるから”ではなく、”あの傑作と肩を並べられないことを含めて”である。

 キャラはそんなに立ってないし、文章はやや冗長で、物語も劇的な展開やエネルギーを処理し切ることで生まれる熱を帯びてなどいない。「一言コメント」みたいに一人ひとり順繰りにセリフを言わせるやや間延びした掛け合い*11に、大事なシーンも平板かつ均質に書いたり、セリフで全部喋ったりする。極めつけ、ヒロインの歌で台風からは晴れ間まで覗く*12

キラ☆キラ』と比較すれば、子供みたいなお話。さて、それでも、「子供」は一体どちらだろうか?

 瀬戸口廉也の筆力を思い出すとき、この作品は一見すると子供だましのように薄っぺらに映る。ぼくも初めはそう感じ、長らくプレイを中断していた。けれど終わってみれば、本作の語る「音楽」への愛敬と距離感に比して、『キラ☆キラ』の語ることの、子供が虚空へ向かって駄々を捏ねているだけに思える一瞬があった*13。たぶん、どちらも、嘘ではない。

 何を求めて、音楽へと向き合うのか。「何のために」が欠けているこの物語を、「動機が薄っぺら」「葛藤が存在しない」と切り捨ててもいい。けれど同時に、「何かのために、”音楽が上手くいっている状態”を求めて演奏すること」は、音楽そのものを、”自分の外部”として志向するものではないのかもしれない。

 小さく言い、律穂が戻っていく。

 俺は、ケースを開けてその楽器と対面する。

 宝箱を開いたみたいに、キラキラとした光がこぼれ出す。

 このバイオリンは、こんなに美しい楽器だったろうか?

 過去の暗い記憶を引きずって、いつのまにかこの楽器まで、なにか恐ろしいもののように感じてしまっていた。

 だけどそんなことはまったくなかった。

 恐ろしいと感じていたのは、ただ自分の中にあったおどろおどろしい気持ちをバイオリンに映じていただけだ。

 この楽器は、はじめて手にしたときと一寸違わず美しい。

 はじめてこのバイオリンと対面したときのことを思い出す。

 あのときも、宝箱を開けたときのようにキラキラした光がこぼれ出し、こんなきれいなものが俺のものになるなんてと、うれしくてたまらなかった。

 うれしくて、時間があれば1日中でもずっと弾いていた。

 弾いていないときも、ただ手に取り、触れ、とにかくその存在を感じていたかった。

 そんな、はじめての気持ちを思い出した。

 俺は今、このバイオリンと、再び出会ったのかもしれない。

 “自分”を侵し捻じ曲げようとしてくる”外界”の不条理に立ち向かうための「音楽」とは異なる、”自分”を捻じ曲げ”外界”の不条理と渡り合いながらでも求める「音楽」。

 この”そこまででもない”作品には、そんな、彼の描けなかったものが確かに込められている。*14 *15

*1:企画の決定権を握る人たちが「そう認識する」ことが”土壌の形成”かもしれないですけれど。

*2:食パン咥えてぶつかって、転校生と「あー! お前は朝の!」じゃないですが、”そこから捻って”各作品となるように、テンプレそのものはイメージの産物です。

*3:当然、変えてしまえば違うものになるので、これらは例示のための暴論に過ぎませんが。

*4:結論も、「やっぱり好き!」であって、自分なりの関わり方にたいする”覚悟を決める”話だったと思います。シャープに纏まっていて面白かったです。

*5:だから、ヨハンと翔一の問題が最もクローズアップされるルートとなっている、はず。

*6:瀬戸口さんは本質主義的だなぁ、とこの辺りでいつも思います。また、”天”に手が届いているか否かを問題にする彼自身の作品が、傍からは”何かに届いている一線を越えた傑作”に映ることで、「そもそも問題にしている”天”など実在しているのか?」には後退させない力を宿していること、も面白いと考えます。

*7:また、「ロック界の大御所」なんて神話的存在を持ち出してこられる所に、この作品の”微妙さ”と”強さ”があるようにも思います。

*8:『SWAN SONG』終盤「ぼくのピアノは凄いんだ」ってやつです。

*9:あるいは世界や神、”天”に手を届かせるための。

*10:作中、ハッピーエンドに辿り着くには「神」や「運命」さえも味方につけなければならない、とかなり明示的に語られる。

*11:各キャラに均等に出番を割り振る、なのかはともかく、特に序中盤、これが結構テンポの問題を生んでいたような……。

*12:この実にあっけらかんとした予定調和ぶりが、『キラ☆キラ』を連想”させない”。

*13:というか『SWAN SONG』の方ですね。勿論、あれが神掛かった傑作だから、それに取り込まれないよう、"外部"へと視線を向けたがっている側面も強いです。

*14:【エントリ末、長文注の法則】あまり触れられなかった同根の問題として「かなで/律穂ルートの差異」があります。それは、”業界内”へと入っていったかなでと対照的に律穂は何をしたのか?という点です。終わりにレオが「完敗」を認めたように、あの産廃野外フェスは、かなでルートの”業界内”に対し、”業界外”の音楽を実現してみせた、「新しい形」を結実してみせた、というもののはずで。これは音楽に限った話ではないと思うのですが、まず強い衝動や動機があるのに、その実現をフォーマットが「しがらみ」となって抑え付けてしまっている場合があります。律穂にとっては「業界慣習」「市場原理」「序列」等々がこれにあたるものの、しかしこの時、それらの「予め作られた形」は、”既得権益”という悪習であると同時に、それを築き上げてきた人々の努力の結晶でもあります。そうした状況において「それには則らないが利用だけはさせろ」ではタダ乗りにあたります。だからこそ、産廃場という”フロンティア”にゴミ拾いとファンネットワークによって「新しい形」を0から構築するまでに至ったルート終盤、レオも「失敗するところを見に来た」以上の手出しはしないわけです。「ギョーカイでのし上がってくぜ」的な順応型の動機ではなく、「私の音楽がやりたい」的な無形の衝動型の動機が先にあり、それを自己証明した結果/形として、”業界外”の産廃野外フェスを実現する、と。こうした構図を含めて、音楽がまず先にある、という組み上げにおいて、この作品はとても一貫しています。

*15:「音楽」をアイロニーの道具ではなく神話の題材として再度選択する、そしてその実現として「草の根ネットワーク」の「新しい形」を生成する。コミュニティ対立→フロンティアとしての草の根ネットワークの創出、という構図。になるんでしょうか。「神話」の描きにくい時代にあって、オバマとかエジプトとかの前例? のあるこの解法は、少しばかり流行りそうな気もします、とこれは与太か。

2011-02-27

『うみねこのなく頃に 散 Episode8 Twilight of the golden witch』竜騎士07 : 「手品エンド」補遺

| 01:26 | 『うみねこのなく頃に 散 Episode8 Twilight of the golden witch』竜騎士07 : 「手品エンド」補遺を含むブックマーク 『うみねこのなく頃に 散 Episode8 Twilight of the golden witch』竜騎士07 : 「手品エンド」補遺のブックマークコメント

 手品エンドで描かれたのは、「幻想ではなく真実を直視すること」ではないという一点について。


 小此木社長と天草の真意を巡るやりとりが分かりやすい。

 あの推理の中身が"尤もらしいかどうか""筋が通っているかどうか"は問題ではないので、具体的には引かない。重要なのは、天草が返答に詰まったとき、それだけで、自分の"推理"が"真実"であると"信じ込み"、縁寿が引き金を引いた、ということである*1

「……ただ、この拳銃があるだけで。右代宮縁寿にはこの程度の推理が可能よ。如何かしら、皆様方…?」


「…………安全装置、外れてませんぜ。」*2

「知ってるわよ。……トカレフに安全装置がないことくらい。」


 彼女は、……生き残る。

 彼女を殺そうとする、巧妙に編み上げられた陰謀の渦から、……きっと生き残ったのだ。

 ……縁寿は舳先へ戻ると、その強い風に正面から向かい合い、さらにその先の未来を凝視する。

 主を失った船は、無限の水平線へ向けて、真っ直ぐに真っ直ぐに、どこまでも進む。

 その先に、彼女が本当に辿り着きたい願う真実があると、祈りながら

 ここで縁寿が展開した"推理"は、当っているのか("真実"なのか)分からないのである。縁寿の認識する限りの状況と、小此木社長の思惑への"推理"と、天草の持つ銃への"推理"が一貫しているだけであって、その一貫性が、事実と一致するか否かを保証するわけではない。同じく一貫性のある小此木社長の思惑が成り立つかも知れないし、同じく一貫性のある天草の銃への考察が成り立つかも知れない。ちょうど、ゲーム盤のルールで、筋が通りさえすれば複数の回答が成り立つかもしれないように。

 これはあくまで文字通り「推理」であって、真実であるかどうかについては、"推理"は何の保証もしないのである*3


 それでは、「手品エンド」が語ったものは何か、示したものは何か。

 ラストシーンのヱリカのセリフを見れば、それは容易に知ることが出来る。

 六軒島の島影も、今は遥か彼方。

 船は無限の水平線を目指し、……どこまでも、無限の旅を続ける。

 その無限の旅の始まりに、新しき真実の魔女は、同志の魔女に告げるのだ。


「………私は私なりの方法で、未来を切り拓くわ。」

「素晴らしいことです。」

「その果てに、……私が掴める真実は、あるのかしら?」

あなたが求める真実って、今さら何だって言うんです?

「…………………………………。」

「……………………………。」

「………ふっ。……その通りだわ。真実なんて、何の価値もないって、私は知ったわ。そして、もう一つわかったことがある。」

「何でしょう。」


天草の、看破されて戸惑った時のあの表情。悪くなかったわ。」

 真実など、分かりようもない。何故なら、この事件に限っては、当事者が生き残っていない以上、真実を真実と保証できるものが、何も残っていないからだ*4

 沢山の推理が成り立つ。右代宮絵羽が犯人かもしれない、そうじゃないかもしれない。右代宮戦人が犯人かもしれない、そうじゃないかもしれない。小此木社長は縁寿を狙っていたのかもしれない、いないのかもしれない。天草は縁寿殺害の命令を受けていたのかもしれない、いないのかもしれない*5

 けれど、それが一体、何だって言うんだ? と。

 看破に価値があるのなら、自分が「看破したと信じられるだけの条件が揃っている」ことが「真実である」ことの条件である。そう、すり替わっている。


 手品エンドが描いたものは真実か否かではない。自分で真実らしいと信じられるかどうか、喜んで受け入れられるかどうか。真実、ではなく、真実だと錯覚できる暴露の感触、である。

 さも、尤もらしい小此木社長への推理が成り立つ、天草への推理が成り立つ。それを、保証のないそれを、自分がそうであると信じるから真実である、と考えるのは、魔法エンドと、完全に同じ思考回路*6である。


 魔法エンドはともかくとして、「手品エンドの縁寿は純粋に真実を追っている」と見るのは、"魔法"である。

 望むのは、真実ですか、それとも、真実を暴く感触、ですか?

「「グッド!」」

*7 *8

*1:「そんな、あそこで撃たなければやられていた」と思うだろうか。それは、"分からない"のだ。何故なら、それが分かる前に、縁寿が撃ってしまったのだから。

*2:この箇所を、騙そうとしたから害意があったのだ/推理は当っていたのだ、と読むこと"も"出来る。しかし、何にせよ頭に血が上った縁寿を止めねばならないと、咄嗟に嘘を吐いたのだ"とも"読める。そしてこの状況に於ける真実とは、"どちらか分からない"である。

*3:前提が真でなければ、それに基づくあらゆる推論も、途端に意味を為さなくなる。そして真実とは、"前提が真である"と保証されることである。推理によって断定された犯人は「証拠を出せ」と謂う、しかし、証拠まで出した推理小説に読者は「それが証拠であると保証するのは探偵≒作者の恣意だ」と謂う。「分からない」に向かって、数多の"推理"を立てても、"推理が尤もらしいこと"だけを根拠にしては、「分からない」を「分かった」に変えることは出来ないのである。

*4:「いや、戦人が……」と言うだろうか? しかし縁寿はあの時点でそれを知らず、全員死亡の認識に基づいている。ならば、"誰かの生存を当て込むこと"はそのまま、想定外の恩恵が降ってくる"奇跡=魔法、を願うこと"に他ならない。

*5:あの事件への対応と手品エンドでの判断は違う、と思うのであれば、このエントリの頭に戻ることを推奨しつつ。

*6:「あそこで撃たなければやられていた」と"信じ込む"こと、を含んで。繰り返すが、真実は、あの段階では、"まだ分からない"のだ。

*7:仮にこれを、「いつか真実に辿り着いてみせる、という絶対の意思だ」と読む(ここまで見れば、そもそもの前提として、これはまずもって"誤読"となるけれど。)としても、それならばそれは「根拠が無くとも選んで信じる幻想」として等価であり、先に書いたように、その果てで生き残った戦人と出逢えたなら、それは"奇跡を得た"に過ぎない。そして、これを「絶対の意思は奇跡を引き寄せる」と昇華するならば、それはベルンとラムダに対する「両取り」であって、完全なものは完全である、という自家撞着に過ぎない。

*8:ただ、何でもかんでも「保証がないから分からない」と繰り返すのは「99%であっても100%ではない」と、当たり前の事を繰り言のように語っている/何も語っていない行い、に他ならないとも思うので。あくまで『うみねこのなく頃に』の手品エンドに何が描かれていたか、というお話として聞いていただければ。「分からない」はずのことを「分かる」と言い張るのは、他人に対する干渉としては望ましくないかもしれませんが、「何かをそうであると信じて行動する」という意味においては、結構、自分を促すために限れば、実践的だったりするとも思います。実際、彼女のように「陰謀だ!」と思い込めば、人だって殺せる決断力が(ry とは悪趣味が過ぎますね、申し訳。

2011-01-04

『うみねこのなく頃に 散 Episode8 Twilight of the golden witch』竜騎士07 : わたしが信じた魔法、あなたが残した手品

| 20:39 | 『うみねこのなく頃に 散 Episode8 Twilight of the golden witch』竜騎士07 : わたしが信じた魔法、あなたが残した手品を含むブックマーク 『うみねこのなく頃に 散 Episode8 Twilight of the golden witch』竜騎士07 : わたしが信じた魔法、あなたが残した手品のブックマークコメント

 橋を両側から架けねば成り立たないもの、あるいは、手を互いに繋がなければ成り立たないもの、そうしたものは、確かに実在する。

 それでは、”手を差し出さなかったのは”、果たして誰であったのだろうか?

 以下は『うみねこのなく頃に 散 EP8』のぼくのプレイメモの抄録とそれへのコメントである。

 文頭に「・」が非引用部であり、ぼく自身のプレイメモである。引用枠内のその他は作品の引用となっている。


 ゲームマスターである戦人には、赤き真実を使うことも出来る。

 しかし、赤き真実というルールは、魔女のゲーム盤にだけ出てくるものだ。


 ニンゲンの世界に、赤き真実など、存在しない。


 自らが見て、聞いて。……信じるに足ると、自らが信じたものを、赤き真実として受け入れるのだ。


 縁寿が認めない限り、どんな真実も、真実たりえない。


 それに、気付いて欲しいと戦人は願っている。

 赤き真実という、ゲームのルールで真実を押し付けても、何の意味もないのだ。

 縁寿は、自分の力で、自分の心で。

 真実を真実として、受け入れなければならないのだ。

 ぼくは話の結末自体には不満を持たない。「それがどのように物語られたのか」にのみ、不満を持つ。

 物語は戦人が事件の真相に至ろうと試みることから始まり、「魔法による殺人だ」と煙に巻く魔女ベアトリーチェとの推理合戦に繋がる。提示される魔法の描写と、それを暴くためのルール。物語の枠組み認識が転換されてゆく過程には、確かなセンスオブワンダーの興奮があった。物語は「現在の時間」としての縁寿の視点へと展開し、戦人が「真相に至り、魔女の真意を悟る」ことから降りた「事件の真相究明者」としての地位を縁寿へとバトンタッチする。

「魔女の赤字」とは「事件の真相≒事実に反することは云えない」ものとしての互いを縛るルールであり、それは「信頼し合わない者達」が、それでも対話を続けるために、対話を続けようとして、提示・構築した一種の「契約」である。契約によって互いを縛ることは、この意味において、逆説的に「互いの不信」を保証した。相手の言うことを信じられないから、嘘を吐かないことを約定する必要が生じるわけである。

 作中何度も触れられるように、「それでも赤字さえも信じない」ことは、確かに可能である。赤で言ったことは真実だ、と、信じられない相手と信じられないがゆえに約束する。これは明白な矛盾である。赤字は「より高い信頼」のための前段階に過ぎず、本当は、こんなことなどせずとも、相手の言うことに耳を傾け、その向こうにある「相手の思い、伝えたいこと、思い出して欲しいこと」へと辿り着くように考えるのが理想であった。

 厳密にはこのような関係性と矛盾を内包していた「赤字システム」は、それそのものは「通過点」に過ぎない。けれど、その圧倒的なメタレベルでの契約保証に「本当の信頼関係*1」を代替させてしまわないこと、を主眼とする狙いにとって、それは同時に「主敵」でもあった。

 赤字があれば、相手など信じなくともいい。相手が信じられるのならば、赤字などなくともいい。総ては、信頼と信用と安心と、つまりは「絆」を巡る問題になる。

・ケーキの観測問題

・ケーキのシーン。こういうののリアクションでキャラクターの描き分けが活きるし、また切実に問われたりするんだろうなあ、などと若干の横道。

・解くこと、の楽しさ。なぞなぞ遊びになぞらえて。

・真里亞の問題が……。

・確率は、「事実」は、事後的に与えられる情報で変化する。論理は「不変の不可能」を証明する。ならば、その「論理」に逆らうものは何か。守りたい「真実」があるのならば、自分自身の手で守らなければならない。「論理」は「不変の不可能」をこそ証明した。それならば、あなたが己の「真実」を預けるべきは”論理ではない”。

 EP8は、端的にやり過ぎ、ないしは”くどい”部分もある。譲治の語る、「論理」に「己の真実」を託そうとすると「論理」は「己の真実」を変遷させてしまうよ、自分で守らなければならないよ、については、赤字を信じるのは不十分であることを、外部の学問的な知識からも保証しようとする場面だとは思うけれど。この辺りも、

「じゃあ、その学問的な知識に傍証してもらおうとする態度は、”外部”に”己の真実”を預けている行為に類するんじゃないの?」と云いたくなるような違和感はある。「確率論が何を言おうと、”己の真実”は不変である」が一貫した論旨のはずである。

 ひとりひとりが歩み出ては、縁寿に別れの言葉をかける。

 そして最後に、戦人とベアトが歩み出る……。

「縁寿。………少しはみんなのこと、思い出してくれたか?」

 もちろん、すやすやと眠る縁寿が答えるはずもない。

 しかし戦人は、続ける。

「確かに右代宮家は、ちょいと変わった一族だ。大金持ちだし、それを巡っておかしな噂話も飛び交っただろう。……しかしそんなのは全て、島の外の連中の勝手な憶測だ。」

「……幼さゆえに、やさしき思い出を記憶に留められなかったそなたを、誰も責めはせぬ。しかしそれでも、思い出してやれ。……忘れることが罪ではない。……思い出さぬことが、罪なのだ。」

「俺たち全員。………縁寿をパーティーに呼べて、本当に楽しかったぜ。……なぁ、みんな。」

 戦人の言葉に、一同は皆、頷く。

 皆、彼女の未来にあまりにも無慈悲な孤独が待ち構えていることを知っている。

 それを癒すことは、もう彼らには出来ない。

 ひとつだけ出来るとしたら。

 …………自分にはかつて、どれだけやさしくて楽しい親族たちがいて、………そして今も未来も、ずっと彼女の身を案じて、見守っていることを、思い出してもらうことだけだ。

「言うまでもなく。……これは幻想だ。そなたは1986年10月4日の六軒島には、辿り着けぬ。これは全て、ゲームマスターの戦人が描いた、そなたと妾たちが一夜のパーティーをともにするという、魔法幻想。」

「でも、思い出せただろ…? みんながどれだけやさしくて、………楽しく親族会議で団欒していたか、……本当のことを、思い出してくれただろう?」


・「物語」の解体と再構築。記憶は塗り変えられる、多様な側面は一意の抽象概念へと固形化する。しかし、それならば。悪意に染まった多様なはずのそれそのものを、振り返り、無慈悲で愚かなものが全てではなかったのだと、“もう一度思い出す”必要がある。その手助けだけならば、死者であっても許されるはず。

 思い出さねばならないこと、自分の手で守らなければならない”己の真実”とは、特にこの、「一意の悪意の物語に塗り潰されずに思い出す、善い面も悪い面もあった割り切れない本当の親族の姿」のことにあたるのだろう。続くメモが半ば意味不明寸前になりつつも詳しい。

・死者がもたらす、赦しの物語。

・封鎖された可能性とそれを覆す奇跡の二者択一を、対象への認識の転換によって超克する。可能性の中に救いがなかった、物事の事実は悲劇と失敗と敗北に終わった。それならば、奇跡による祝福しか、それを救う手だてはないのか? 違う、のではないか。悲劇に終わればそれが全てか、奇跡で覆せばそれが救いか。それは、あまりにもその存在を小馬鹿にしてはいないだろうか? 失敗したものに尊厳はないのか? 奇跡による事実の救いなど無惨を裏返しにしてそうであると認めているに過ぎないのではないか。奇跡は、いらない。奇跡など起こらなくとも、彼らは善人でも悪人でもなく、あれは悲劇でもハッピーエンドでもなく、けれどそれが現実で、私の胸の中には「彼らを愛している」というたった一つの真実があるのだ。

・起こりえた悲劇は、起こりえずともあり得た悲劇は、少なくともボタンの掛け違えを掛け合わせた、物事の一側面に過ぎない。確かに悲劇は起こった。起こりえた事象の数ある一が揺るがし難く発現した。けれど、それならば、そのたった一つの起こり得た一が、本当にその全てであったのだろうか? 悲劇は起こり得た、けれどまた確かに、”起こらなかった場合”だって、あり得たのではないだろうか? さてそれならば。それならば「真実」とは何だろう? 起こり得た一か? それが本当に全てなのか? そうではない。確かに起こった悲劇と、確かに起こらなかった幸せな結末、その全てを内包した、可能性の束、それ全体こそが、たった一つの、けれど無数の、「たった一つの真実」なのでないだろうか?

 この辺りでは、ぼくも、そしておそらく竜騎士07さん自身も、明確に一連のKEY作品を意識した上での文脈を背負っている。その答えとして、「事実がどのような結末に終わったかは問題ではない」と「多様さを内包した対象が、一つに限定される事象によってそれが全てであるかのように受け止められるのはおかしい」と展開したことは、その是非はまたあるとしても、ある一方向への一歩の前進だとは思う。

ベルンカステルは仕掛ける。登場人物がいくら、どれだけ納得しようとも、勝負の趨勢を定めるのは縁寿=聞き手=プレイヤーなのだから。戦いは続く。役者がどれだけ騒いでも、劇の正否を定められるのは観客だけなのだから。


「………無論よ、ラムダ。約束するわ。ゲームが終わったら縁寿は解放する。」

・解放する。さて、それでは”解放された縁寿は何を選ぶのか”。これはそういうゲームである。

 作劇として、問題はやはりここにあったのだと思う。

 縁寿=聞き手=プレイヤー。果たしてそれは、最後まで守り抜かれただろうか?

 真実を知って尚、”魔法”を信じられるか? ベアト、戦人、縁寿とその立場を変えて為された「”魔法”を巡る物語」のその最後、作者は縁寿を信じたが、聞き手ないしはプレイヤーのことを、果たして信じていたと云えるのだろうか?

 ………私が真実を得れば、……それはつまり、家族の無残な最期を目を背けることなく、受け容れなければならないことを指す。

 それを受け容れるということは、…………ひょっとすると奇跡的に家族の誰かが生き延びていて、……12年を経て帰って来てくれるかもしれないという、僅かな希望、……都合の良い奇跡を、……手放すということだ。

「…………あんたもベアトも。……あんたたちって、つくづく面白い考え方ね。」

「何がだ?」

「……ゲームは、勝敗を決するための手段でしょう? そして、それを仕掛けるからには、至上目的は自分の勝利のはず。……なのに、自分が負けるかもしれないゲームを、どうしてわざわざ仕掛けるの…?」

「絶対に勝てるゲームなんて、つまらないだろ。そんなのゲームじゃない。」

「…………………………」

「勝つか負けるか。そのフェアなやり取りが面白いんじゃないか。ゲームってのは、戦いじゃない。コミュニケーションなんだ。その過程を楽しむ。勝敗という結果は、まぁオマケみたいなもんさ。」

「………理解できた? 自分と、……その鍵の意味。」

 私は、お兄ちゃんが掛けてくれたこの鍵を握り締め、しばらくの間、自分でも理解の出来ぬ感情に、わなわなと震えた。

 お兄ちゃんに騙されたと思って、憎むのは容易い。

 だが、それを憎むのはお門違いなのだ。

 だって、……これは私とお兄ちゃんのゲーム。

 お兄ちゃんは、私に勝つために、その最善手を尽くしたに過ぎないのだ。

 ……もしゲームが、遊びのようなコミュニケーションでなく、……勝利することだけを目的とする過程を意味するものだったなら。

 フェアなゲームなんて存在しない。

 相手にルールすら教えず、右も左も分からない内に、騙まし討ちで倒すのが一番に決まってる……。

 ……お兄ちゃんは、………その意味において、悪くない。

 私を、……あの甘ったるい幻想で誤魔化して、………孤独な未来に追い返そうとしているのだ……。

 こうして、不信と信頼、勝敗を決する手段としてのゲームとコミュニケーションとしてのゲーム。二つで揺れた縁寿の心が決まる瞬間についても、単純な飛躍があってどうにも置いてきぼりを食らってしまった感がある。

 ここから縁寿とプレイヤーとの「奇妙な乖離」が始まってしまった。同一でなくとも構わないものを、感情の受け皿として丁寧に擬似同一に置いていた筈なのに、決定的な瞬間でもって切り離すという、悪手を選んでしまった。

 ここに表れるものは、何か。それは「あなた=聞き手=プレイヤーは、縁寿ではない」という、不信や迷いだったのではないか。縁寿が心変わりすることは信じられた、けれどそれと同一化して、プレイヤーまでが心変わりすることは、どうしても信じられなかったのではないか。

 それは観客が己のパフォーマンスを見て何を感じるかを敏感に嗅ぎ取る、エンターテイナーとしての嗅覚において、優れているがゆえのものであるのは確かだろう。けれどそれは、「自分の物語を信じてくれていた読者」にとっては、「どうせ分からないし、伝わらないよ」と宣言し、突き放されたに等しくもまた、あるのではないだろうか。


 引用とメモは、ここで途切れている。続く物語はほぼ全て、「起きていることを眺めている」ものであると感じたからだと思う。

 ラムダデルタは最高にかっこよかったし、戦人が「見るな」と云った死の事実を直視してなお縁寿が”魔法”に辿り着いたのは理解できた。

 エピローグの戦人の身体のみ生き残りは、ハッピーエンドとバッドエンドを「死」の事実で客観的に判別出来ると妄想している人々に「心と身体と人格と魂と記憶と」「お好みの”生き残り”とは果たして何のことでしょう?」と問いを突き付け返す諧謔として寧ろ好ましい。

 海に沈んだベアトと二つに分かれた戦人は、「事実」と「真実」を併存させる美しさとして、EP2以降、ここまでで描き続けた「”魔法”の描写」の極地として、理想的な地点であったように思う。

 事件の真相が絵羽の日記と重ね合わせて明かされなかった事それ自体は、この物語の語ることそのものなのだから、そこに「個人的不満以上の客観的欠落」があるとみるのは、人の話を聞くことが出来ないんだな、としか思わない。


 そしてぼくは、このテーマに強く同意する、おそらくは「山羊ではない読者」である。

 では、この寂寞感は何だろう?

 最後の最後になって、"縁寿には真相を見せた上で魔法を信じられることを信じ、プレイヤーには山羊の下衆な欲望としてそれを拒んだ"こと。はじめから縁寿にその運命が与えられるのを"見届けるのが"我々の立ち位置であったのなら、はじめから"縁寿とプレイヤーは物語の別の所に立っている"と、明白にしていて欲しかったこと。

 作劇上の奇妙なズレが、伝えたものは何か、生まれたのは何故か。


 冒頭の問いかけを、もう一度。

 橋を両側から架けねば成り立たないもの、あるいは、手を互いに繋がなければ成り立たないもの、そうしたものは、確かに実在する。

 それでは、”手を差し出さなかったのは”、果たして誰であったのだろうか?*2 *3 *4 *5

*1:いわずもがな、胡乱な語であり概念ではある。

*2:追記:物語(孤島の殺人ミステリ) ⊂ ゲーム(魔法か否かのゲーム盤) ⊂ 物語(ゲーム盤を巡る心のお話) ⊂ ゲーム(竜騎士07さんとプレイヤーも同じ緊張関係にある) | 『うみねこのなく頃に』の8エピソード全体を通して、こんな感じの構造に見ることも可能だと思うのですが、ぼくの不満は「第四階層」にある「作者が読者に見せてしまった不信感」にまつわる問題です。お話のテーマを一番最初に裏切ったのは(最初に裏切ってしまえば助かる、というゲーム理論的な意味において、"最初に裏切る"とはまさにテーマの真逆である)、竜騎士07さんだったんじゃないか、と。それを除けばこの作品は大好きです。が、それだけは除けないんじゃないか、という一点で気になることが生じてしまったため、落とし所が見えなくなっています。

*3:そのように考えると、この作品に対する見方そのものが、ハロウィンパーティーで語られていた「一意の落とし所」ではない姿で捉えられる必要があるのかもしれません。ただ、それでも、最後になって「あなたはプレイヤー(傍観者・観客)でしかないんだよ」と突きつけられるのは、何とも寂しいものがあります。ラムダデルタは観客から「参加」することが許されていること、辺りと併せても。

*4:送り手と受け手、物語が双方の同意の下にはじめて円満に閉じられるのならば。例えば『Dies irae』は、納得して死ぬために、一夜の夢に贅の限りを尽くした。けれど『うみねこ』はその逆をやった。物語に満足したからその本を閉じられる、のではなく、テーマに同意させて物語に満足しないままでも本を閉じさせようとした。それは一つの手法として、テーマとして、何ら構わない。評価はそれぞれがすればいいのであって、「そういうもの」として、それ自体は単体で成立している。黄金郷の扉≒猫箱の蓋を閉じるのは二人。確定観測されなかった無限の物語可能性を成立させるものは、送り手と受け手の二人だからだろう。彼らが不確定のままその扉が閉ざされることに同意すること。しかしそれはあくまで戦人が縁寿に語ったことであり、縁寿が辿り着いたのは、心理の上でも事実の上でも、「確定観測された事実を、真実で上書きする」魔法の境地である。また、物語そのものが示したのも、その境地であるはずだ。

*5: 1/8 最後の追記 : 一つの事実誤認に気付いたので、ぼくの主張は強化されてしまうのだけれど、一応最後の追記をしておきます。それは「魔女のゲームに参加した縁寿は事件の真相を見てなお"魔法"である反魂を為したけれど、現実現在時間軸の縁寿は、そのことから発展して"事件の真相を知らない(絵羽の日記の中身を見ていない)"という、書き分けは確かに為されていた」ことです。書き分けについて曖昧な認識をしていました、謝罪します。ただし、ぼくの語っている「縁寿とプレイヤーの乖離」については、寧ろ魔女のゲームの縁寿の方がプレイヤーに近い認識(これは同意いただけるかと思います)なので、結局、ぼくが問題視している乖離の問題は覆らない――ないしは強化されてしまう――わけです。魔女のゲームの縁寿にそうしたように、プレイヤーにも"たいしたことない真相を見せて肩透かしを食らわす"展開も、竜騎士07さんの頭の中に選択肢としてはあったことと思います。推測に過ぎませんが、それこそ「エンターテイナーとしての彼の優れた嗅覚」が、「その展開は色んな意味で"面白くない"」と判断し、今回のような乖離ないし「プレイヤーを山羊or傍観者として突き放してしまう」結末に至ったのだと思います。また、多くの方が指摘されているように、現実の縁寿に対し「真実を知った上で生きる」可能性が予め恣意的に封鎖されているという面でも、問題視されて仕方の無いものと思います。ぼくは事前の予想として「ベルンカステルが事件の真相を赤字で述べたものに、縁寿ないしは戦人が黄金文字の"魔法"で上書き」を想定していたのですが、そこまでベルンが悪人には割り振られ切りません(未遂に終わった)でした。思えばこれは、9791さんの云う所の「ついぞ"悪人"を描けなかったKEY」と同じ陥穽であり、それはそれとして興味深くもあります。そして、それらを含めた上で、前記の注にあるように、今のぼくは「多様な可能性の束の総体」として『うみねこのなく頃に』に心よりの感謝を述べる心境にあります。その事を改めて述べつつ、繰り返した追記の末尾としたいと思います。ありがとううみねこ。落ち着いたら『〃 翼』もプレイするよ。