信仰の話

ここ数日finalventさんとこでキリスト教ネタというか、彼の思うところのキリスト教なるものの思いみたいな話が続いていた。へぇと思いながら読んでいた。
finalventの日記
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20070812
finalventさんはなんらかの揺らぎがあって面白い。ギャラリーを意識してもたらされた結果辺りの揺らぎまで正直に書く。なのでなんだかアフォリズムめいたところもある。

で、元ネタは毒舌で有名な猫猫センセがこういう話を語られていたのが発端。↓
○猫を償うに猫をもってせよ
http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20070812
バタイユ入門

ええ、『バタイユ入門』はいい本でしたよ。キリスト教徒以外にはバタイユは何の意味もないということがよく分かりました。日本のインテリって、キリスト教徒でもないのに、どうして『黙示録論』とか『カラマーゾフの兄弟』とかを読んで感心できるんでしょうねえ。ふしぎ。

後日のエントリでキリスト教徒の日本人は除外する。とおっしゃられていたんですが、インテリ世界がどうだとか私はよく判らないですが(東大など逆立ちしても、奇跡を神が起こそうとしても入れないような美大生だし)たしかにキリスト教文化圏に生きて来たとも言えるわたくし的にはバタイユは人生の中で結構重要な位置にあったかもしれないです。

ここで何度か書いたと思うけど、子供の頃からプロテスタント教会学校に行かされ、カトリックの学校に行っていた私はおガキ様の特性でしばらくは素直に受容していたそれを、反抗期半ばで、嫌気がさし、神から離れた時期があり、まぁそれが長かった。
推薦図書、遠藤周作の「沈黙」ではなく彼の初期作品やサド関連を読み、澁澤を読み、その流れでオカルティズム関連を読みあさり、アレイスター・クロウリーとかエレファス・レヴィとかシュタイナーなど彼らの位置づけも知らず脈絡なく読み、コラン・ド・プランシーの「地獄の辞典」とかを書棚にならべ、サド、バタイユなどの世紀末臭漂うおフランスのど腐れ世界に魅かれたもんです。あやしい本がどんどん並ぶんで親兄弟は不気味に思ったかもしれない。正直それらの書を当時、正しくというか、ちゃんと理解していたか疑わしい。

ただサドやバタイユのごときものは、ピューリタニズム臭を感じる母への反抗から、また聖域住人の典型なシスター達の表象に見えるイノセントなものへの反発から、そしてイエスやマリアのごとき聖なる存在、つまり聖、神なるものへの反発ゆえに、そういう方向へと必然として行ったという感じだった。キリスト教倫理が作りだすものへの反発と破壊、あの息苦しさを伴う世界からの脱出は、当時の自分には魅惑的でもあった。まぁへたれなので実践ではなく過激なそのような背徳的な存在を身近に置くことで充分ではあったが。

自分自身が多くの体験を経、酸いも甘いも知る年齢となって、そして多少のことに驚かない毛の生えた心臓の人間に成った時、再びキリスト教世界に回帰した。
ルネッサンス美術にどっぷりとはまり、中世へと遡っていく過程で、「美」を通じて知ったキリスト教世界は上記のごとき閉塞的な世界ではなかった。そこには人間性を、肉なるものを肯定する世界があり、喜ぶ人々がいた。視覚的言語において知る神の世界は限りなく広がる自由があった。そこでは闇も光も入り交じって存在し、分断されているようにも見えぬ。暗黒の中世は禁欲的ではない。寧ろ享楽的であり、また聖フランシスコが被造物に見たように、自然は自然のまま礼賛され、被造物の歓びはそのままルネッサンス自然主義的な光学世界へと引き継がれていく。神の三位一体は範形的に被造物にあると、ボナヴェントゥラは考えた。

私が触れていたキリスト教は近代以降の霊性だったからなのか。それも光のみの世界。しかし闇と光とが分断されたバロックの世界は光のみでは実は成立しえない。バタイユのごとき闇があって、光がある。その辺りは近代の神秘主義のあの「十字架の聖ヨハネ」によって述懐されてはいる。近代のオカルティズム作家ユイスマンスのあの一連の小説は、十字架の聖ヨハネの暗夜からはじまる道行きを辿っている。光によって作り出された闇を進むがごとき霊性。光のみを語る世界は薄っぺらであり、闇があって、その中から光を見るような、そういうバランスによってはじめて、光を知る事が可能になるのではないか?
などとまぁうだうだと紆余曲折して今がある。

整理して語るには実は難しい。いったいなんだったのか?は私自身も実はよく判らない。ただ、人間という、「肉」そのままであることを神は否定しないのだと。それが判った時、神に回帰した。更にフランシスコの霊性を学ぶ過程で、それはますます実感していくことになる。

そういえばヨーロッパの教会にはエロスがある。視覚的な享楽がある。あれを背徳的であり、また堕落であると指摘する宗教改革以降の霊性プロテスタントカトリックの一部の人々)は或る意味正しいし、かなり鋭いかもしれぬ。しかし上述の通り考えるならば神はそれを恩寵とする。イタリアの祝祭的な霊性に触れた時、神と出会うことが出来たといおう。やはりラテンの霊性なんだな。自分的に。

どうも、まとまりつかぬエントリになった。信仰のことはなんというか語りづらい。語り得ぬことを語るにはそれ相応の言語能力を必要とするんだろうが、わたくしにはそんなものはない。絵の事を語るのも同じで語ったそばから「そいつはなんか嘘っぽくね?」という気分に陥る。啓示的な直感的な領域だからなのか。それは判らないけど。
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そういえば、教会もない、カトリックキリスト教もない、アニミズムな島に来て、再び自己の信仰が解体されつつある気がする。
脈々と先祖から受け継がれてきた血に記憶された信仰を持つ島んちゅの文化に一人ほおり出され、またそれらを産んだであろう過剰な自然にある中で、自分自身の信仰とはなんだ?と思うこともある。剥き出しで神と出会う機会が多くなった。それはこの島を取り巻く圧倒的な自然に在る。ただ「在る」という神。旧約の神は「在る」という神だと自身を語る。子なるキリストは書の中に小さくなっている。
ああそう言えばキリストとは教会であったな。ここはキリストの共同体が遠い。

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カトリックぎょーかい的には「教会」とはギョーカイの過去の人間の生きた全てでもあり、伝承とは全ての人々の軌跡でもあり。それを受け継ぐのが教会。なんで色んな雑物があるけど、人間をいう存在をすべて呑み込むとはそういう事かも。なんで矛盾した変なものを内包している。罪も徳も教会は保持している。

エロティシズム (ちくま学芸文庫)

エロティシズム (ちくま学芸文庫)

バタイユせんせの有名な書。改めて読んで見ると赤面する青臭い頃を思いだす。というか男視点でエロを読んで頭でっかちになってしまったことは実は不幸だった気がする。
ところで文庫化されとるんですな。筑摩さんや河出さんは偉いですね。
眼球譚(初稿) (河出文庫)

眼球譚(初稿) (河出文庫)

正直、今読むと、馬鹿か?と思わなくもない。しかし実は一番はじめに読んだのがこれだったんですよね。
私が持っていたのは挿し絵がついてたんですが文庫にはあるのかな?
壊れっぷりがいいが、これ、語るとなるとしんどい。というか面倒くさい。
さかしま (河出文庫)

さかしま (河出文庫)

フェチ作家ユイスマンス
引きこもり小説「さかしま」は澁澤龍彦が訳してるんだな。このあと「彼方」「出発」「大伽藍」と続く。「修練者」は日本訳が出てないし「大伽藍」は一部訳。しょせんキリスト教文化なんてこんな扱いだ。というのも嘆美でオカルトチックな第一作からあとになるほど抹香臭くなる。「彼方」はバタイユセンセも興味を持ったジルド・レについても云々していて、文庫化されているけど、抹香臭くなった「出発」は文庫化されてないみたい。オカルト>キリスト教が日本の知識人の興味か?まぁ、いいけど。
その点、ゴスな子達はカトリシズム文化もオカルト扱い的に平等に扱っていて偉いぞ。