「天使と悪魔」が許されるのは20世紀までだよね? 

タイトルはホッテントリメーカーというので造ってみた。
これ↓
http://pha22.net/hotentry/

 20 users(推定)だそうだよ。ブクマが20。そしてはてな王国のantonian村領土が拡大されるらしい。

他にも・・・
■ 「天使と悪魔」厨は今すぐネットをやめろ 252 users(推定)
■ 「「天使と悪魔」脳」のヤツには何を言ってもムダ 49 users(推定)
■ 「天使と悪魔」の黒歴史について紹介しておく  35 users(推定)

・・・という微妙にふさわしそうなのがあったが、今回の単元を的確に著わすとするなら上記タイトルですな。

こういうのとかは違うもんなぁ↓

■ 権力ゲームのことを考えると「天使と悪魔」について認めざるを得ない俺がいる 234 users(推定)
■ 「天使と悪魔」にまた脆弱性が発見されました 27 users(推定)

つーか、なんだこのツール??


まぁ、前回の続きです。
■天使と悪魔
http://d.hatena.ne.jp/antonian/20081227/1230390896

カトリックギョーカイという狭い蛸壺世界での20世紀における最大の出来事はやはり「第二バチカン公会議」であろう。
世の中の人にとってはカトリックというのはよくわからない団体なので、色々妄想してくださるが、同じキリストギョーカイ仲間のプロテスタントの方ですらよく知らない。なので「カトリックは保守的で厳しい」などと言うイメージをいまだ持っている人がいるが、この第二バチカン公会議はそのイメージを覆してしまうような決定的な改革をカトリック世界にもたらした。
開かれた教会、親しみやすい教会、地球に優しい教会・・・・な感じ。他宗教への理解、儀礼的で様式化した典礼(ミサとか)は判りやすくなり、親しみがもてるものとして変容。イエスの教えに立ち返ろうとするシンプルさが好まれ、厳密な階級のヒエラルキアは風通しがよくなり・・・と、まぁいいこと尽くめみたいな感じなんであるが、その最中で失いつつあるものもある。例えば伝統や、美、知識の集積・・等々、かつて教会が大切に保持して来たものでもあり、今も世間様からは賞賛されているのだが、教会内部ではあまり省みられなくなりつつ。

・・というわけで、今回はその省みられなくなっちゃってるものの代表としての天使と悪魔の存在とかについてですね。現代のカトリックの教えの現場にいる方々の間では「20世紀までだよね?」みたいにあまり語られてないんですね。

■何故、天使や悪魔は語られなくなったか?の謎

世の中の人はクリスマスのモチーフに天使を用いたり、映画を作ったり、漫画では救いとか臨終の場面ではこのキャラが登場するとか、人気キャラです。悪魔のほうも映画ネタにもなるし、漫画ネタにもなる。それくらい人気キャラで、世間では一定の地位を既に確保しています。
そしてそれらのモチーフはキリスト教由来であるということは異教徒な日本人でも知っています。

ところが例えば、今、手元にあるキリスト教神学入門というとこれしかないんですが・・・↓

キリスト教神学入門

キリスト教神学入門

これは西方教会に関する教義をほぼ網羅している良書なんですが、この書の索引をめくっても「天使」の項も「悪魔」の項もない。

つまり本家本元では完全無視?なぐらいの扱い。ところが中世なんかだとかの有名なトマス・アクィナスというデブで大喰らいで無口なんだが実はすごく頭がよくて大変な書物をモノした神学者が天使について延々論じてるなど、かなり中心的な存在でもあった。トマスは偽ディオニシウスの『天上位階論』を受けて長々と『神学大全』で論じてたりします。

神学大全 第4冊 第1部 44~64問題

神学大全 第4冊 第1部 44~64問題

この巻が天使論。ネットで調べてみたらそうあった。島にある。たぶん。昔調べたから。
で、どんな論かっちゅうと・・・・

第五十問 天使の実体そのものについて
第五十一問 天使の物体に対する関係について
第五十二問 天使の場所に対する関聯について
第五十三問 天使の場所的運動について
第五十四問 天使における認識について
第五十五問 天使の認識の媒介について
第五十六問 非質料的な諸事物に関しての天使の認識について
第五十七問 質料的な事物についての天使の認識について
第五十八問 天使の認識の様態について
第五十九問 天使の意志について
第六十問 天使における愛について
第六十一問 天使の自然的存在への産出について
第六十二問 天使たちの、恩寵的ならびに栄光的な存在においての完成について
第六十三問 天使たちにおける罪科たるかぎりの悪というものについて
(中略)
第百七問 天使における語るというはたらきについて
第百八問 ヒエラルキアと階層とによる天使たちの序列について
第百九問 悪しき天使たちの間における序列について
第百十問 天使たちの物体的被造物に対する統轄について
第百十一問 天使の人間に対する働きについて
第百十二問 天使の派遣について
第百十三問 善天使による守護について

うへぇ・・・・・(´д`;)
馬鹿じゃねーの??・・じゃなくて、これくらいちゃんと考えていたの実例。

また暗黒の中世のカトリック世界だけのお話か?というとそうでもなく、例えば20世紀が産んだ偉大なるプロテスタント神学者カール・バルトなんかも天使について云々していて、彼について書かれた著作『使徒的人間』とかいう本でバルトの天使論が述べられていた。
これ↓

使徒的人間―カール・バルト

使徒的人間―カール・バルト

これも島にあるんで今は手元にないんだけど。なんかそういう話を書いてた。バルトさんは天使について延々語ったりしてるらしい。

まぁ古今東西、関わらず、キリストギョーカイでは「天使」とか「悪魔」とかは偉大な神学者も言及している、一定の地位を得たナニゴトかなわけです。

しかしマクグラスさんの著作では語られてない。


マクグラスさんの神学入門はキリスト教に共通する根幹の教義、つまりニケアコンスタンチノープル信条を中心とした神学入門なので語られていない。それは何を意味するのかというと、我々キリスト教徒にとって天使や悪魔は「クレド/信じる」と宣言する対象にはなっていない。と言うことがいえますね。

なのに当たり前に存在している。それはなんでなんでしょうかね?

・・・・というのが今回の疑問なわけです。

古代から中世の人にとって天使や悪魔の存在は自明であった。それらは霊的世界を具現化するものであったし、いわばそれのシンボリズムとして作用していた。
特に天使は宇宙観とも関わりがあり、天の構造を天使の存在で語ったりされてましたね。自然科学が神を中心として考えられた世界のファンタジーであり、素朴に信じられていた時代です。

で、前回のコメ欄でmarieさんが竹下先生の著作の重要なポインツを紹介してくださったんで引用しときます。

「悪魔の存在なしには、贖罪と救済の宗教であるキリスト教の存在理由もない位で、その意味では教会は、人々を悪魔から守るための特別機関だつた。洗礼の時も簡単な悪魔祓いが行われるし、贖罪の苦行や祈りを課すシステムを作つたのも教会だ。面白いのは、それほど重要なのに、悪魔は教義としては出てこないことだ。神学の歴史の中でも、神の存在の証明についてはいろいろな考えが展開されたが、悪魔の存在証明は問題にされない。悪魔というより「悪」の存在が人間には自明のことだからだろう」

古代や中世、あるいは近代の欧州人にとって、霊的な世界を考える時、それら形而上の問題を天使や悪魔といった人格化するのは例えば、聖書でも智慧の書で智慧が人格化されてるみたいなお約束の文法の文脈にあったと想像できるんだが、更にそれら抽象的な存在から天使や悪魔は発展し、神の被造物として定義されていくことになります。

天使や悪魔というのは人間と違い、肉の檻を持たない純粋知の存在である。魂はあるが霊はないと定義された動物とは対極にある。彼らは「肉の死」から自由であると、まぁそういう風に考えたわけですが、天使は神により近い場におり、神の為に働いていると考えられています。対する悪魔は自由意志を持った被造物である人間を神から離そうとする「誘惑するもの」として考えられてきました。まぁキリストギョーカイではそう考えています。

これらは人間の倫理や精神の作用といったものの謎を具現化し、語りやすくする装置でもあったといえますね。今日的に精神科学や心理学などが発達した時代にはこうしたブラックボックスはどんどん解明され、あるいは説明付けられていくので、ますます天使や悪魔の棲家は非日常的な宗教世界へと追いやられているわけですが、しかし当の「宗教」であるカトリック教会なんかでも昨今は語られなくなりつつある。未だ熱心に語るのはゴス系の人とかニューエイジ系、オカルト系の人々だったりします。

カトリックギョーカイだけで見るとこれはカリスマ刷新運動というか聖霊の見直しとともに起きてきたんではないかなどと推測します。

聖霊というのは神の三位一体で一番影が薄いっちゅうか、なにそれ?食べられるの?ってな突っ込みを入れたくなるぐらい、よくわからない「不思議神@ルフィ」なわけです。

さてわたくしはまだキリスト教の教義などちっとも理解していなかった頃、聖霊というのは天使のことだと思ってました。聖霊は神の働きなわけで神様の為に働いているのは天使だよな!!!だから聖霊は天使だよな!!!!とか思っていたわけです。

事実、天使は、そのように神様の為に働くとされているので、守護天使が色々人間の為に働いてるんですぅ。みたいに理解していたわけですが、聖霊は被造物ではなく、神様そのものとギョーカイ人は考えているのですから、天使と聖霊はまったく違う存在です。でも結果としては「働き」をしているわけで「同じじゃん。」とわたくしのような素人は思っちゃうんですね。厳密にはぜんぜん違うんですが、わたくしのごとく神学脳が薄いとそう考えたくなるものです。

で、大人になってそれを正されたときはいささかショックでした。
「三位一体なんてややこしくてわかりづらい教義はやめようや。君たち。」とかまで思いましたね。

つまり教えの中心にある「聖霊」という概念をきちんとしておきましょうという現代教会の流れで考えると、天使の存在が入り込むとややこしくなってしまうんで、「それはまぁ脇においとこうよ」という神学者が登場してもおかしくはないわけです。

しかしニケアのような教義のみ中心に考え、それしか語られなくなるというと、確かにそれが中心であるのは大切なんですが、なんかすごーくつまらなく感じてしまうのですね。退屈すぎて寝たくなります。
現にマクグラス先生の本を全部読み通すのは困難です。寝ます。ラッツィンガーの神学入門も同じように寝ます。疑問があるときなど以外に読むとたいへんにつまらないです。聖書の方がはるかに文学的で楽しいです。聖書には悪魔も天使もどんどん出てきてファンタジックで楽しいですね。

エスがたとえ話を用いたようにわかりやすい方法論。つまり「神」なんて実はよくわからない抽象的で広範すぎる超越存在を「父」と「子」と「聖霊」として理解したように、この世ならざる現象世界に「天使」や「悪魔」という人格化したシンボリズムを用いて理解するのはまったくキリスト教の伝統的なお作法でもあるといえます。

ええと長くなったんで、ここでやめときますが、次回はこの単元の最後を更に発展させて、天使と悪魔の復権を目指したお話をしようとは思いますです。