第63回 新春 心の旅 〜出雲の国にさすらいの神を訪ねる〜

  サスライという言葉から連想するのは、知らない国を行方定めず歩く。これが私の若い頃からのイメージである。しかし、現実には、旅はしてもさすらいとはかけ離れた目的地のある旅だった。そのためか、さすらいと聞くたびに心の底に沈んでいる青白き塊が反応して演歌を奏で、空想の彷徨へ誘う。
     ♪知らぬ他国を 流れながれて 過ぎゆくのさ 夜風のように
  小林旭歌う「さすらい」の2番の歌詞である。新春の旅に出雲を選んだ理由は、神話に登場する大国主命オオクニヌシノミコト)のゆかりの地だからだ。奈良時代に編纂の出雲風土記によれば大国主命は、諸国をさすらいのすえ、出雲で日本神話の須佐男命(スサノオノミコト天照大神の弟)に出会い、娘を妻に娶り、古代出雲国を拓いた。子どもの頃の歌に「だいこくさま」(明治28年)がある。
     ♪大きな袋を肩にかけだいこくさまがきかかると そこにいなばの白うさぎ皮をむかれて赤はだか
  幼稚園、小学校の劇では定番だった。この歌の最後は
     ♪だいこくさまはだれだろう おおくにぬしのみこととて くにをひらいてひとをたすけなされたかみさまよ
  大国主命は出雲から因幡伯耆の国を治め、播磨では新羅の王子という伝説の天日槍(あめのひこ)と戦い、これを破り、さらに北陸から能登、信州まで支配した文字通りの大国主であった。大国主は大和にも入り、傘下にしたという。哲学者の梅原猛氏は古代出雲王朝について著書『葬られた王朝』でこんな考察をしている。
  渡来人であるスサノオが出雲で豪族の娘と結婚して王朝を築き、そこへ大国主がやってきた。大国主スサノオから与えられた試練(領土拡張)に耐え、王朝を全国に広げて娘を妻にした。大和との戦いにも勝利した根拠として大和の古社に残る出雲系の神社の名をあげる。
  神話では苦労して造った国を天照大神の皇孫に譲り、自らは国の守り神になった。この国譲りに応え、天照大神は広大な宮殿を造らせたのが出雲大社の起源になる。
  神話の世界を古代史の世界にあてはめると、古墳時代には大和政権に並ぶ豪族が出雲、吉備地方を治めていた。統一国家を実現した大和政権は、出雲をはじめ各地に地方官、国造を置いて統治するが、出雲には皇室につながる天孫族を派遣し、国造として政治を任せる一方、出雲大社宮司に任命、政治と祭祀を司る独自の統治政策を敷いた。
          
  作家司馬遼太郎は、オオクニヌシを祭主に祀り上げたヤマトは地方官を「進駐軍総司令官」に位置づけ、出雲族を慰撫する占領政策を行った、と著書で書いている。
  出雲大社の祭神はいうまでもなく大国主命である。宮司出雲国造世襲を重ね、今日まで続いている。現宮司の肩書きには「第84代出雲国造」がつく。
出雲の国は東に中海があり、西は宍道湖に面し、意宇(いおう)平野と杵築平野を小高い山並みが見下ろしている。
  この地形から「八雲」が生まれ、八雲立つが出雲の枕詞になった。八雲は雲の重なりをいうが、焼雲立つ出鉄(いずも)と、砂鉄との関連を指摘する見解もある。出雲風土記によれば豊かな雲が湧き出している地という意味だ。
  もっとも松本清張は出雲と朝鮮半島の関係から考察し、出雲の語源は朝鮮半島楽浪郡所属の遼東7県が自治をゆだねられていたにもかかわらず魏(3世紀)の時代になって楽浪、帯方太守(魏の現地指令官)の攻撃を受け、住民の一部が山陰地方へ逃亡し、故国である邪頭日(イツモ、もしくはエツモ)の名をつけたと、私説風土記で独自の解釈をしている。
  出雲風土記には有名な国引きの神話の中で新羅の岬を「もそろもそろ」と引き寄せたとある。しかし、古事記日本書紀には国引きの記載はなく、出雲と大和政権の朝鮮半島に対する微妙な違いが垣間見える。
          
  宍道湖の北を通る鉄道ルートは、ばたでん独特の風景を楽しめ、映画にもなった。大社参道には300本の松が下り坂に沿って4列で並び、いかにも大社(おおやしろ)と呼ばれるにふさわしいアプローチである。銅鳥居をくぐる正面に巨大な注連縄(しめなわ)の拝殿が迎える。注連縄は長さ8㍍、重さは1・5トンもあり、正月3日には鬼や天狗の面をつけた町内の厄男が番内さんに扮して集結したあと、「歳徳神」の幡旗かかげた吉兆さんの祭事の先頭に立ち、町内を練り歩く。竹の先を割ったササラで各家の前で地面をたたき、魔を払う神事は出雲の名物だ。
          
  出雲大社の参拝は二拝四拍一拝である。四拍は宇佐神宮と同じだ。参拝をすませ、奥の本殿を仰ぐ。本殿(国宝)は大社造り最古級の様式。棟上に長さ7㍍の千木(ちぎ)3本の勝男木をいただく。現在は遷宮の工事で屋根がすっぽり隠れ、来年まで姿は見ることはできない。
  本殿は創建時、96㍍、平安期には48㍍、現在は高さ24㍍。1190年(建久1)、鎌倉期に参詣した歌人寂蓮法師は「この世のこととも覚えざりけり」と驚嘆して詠んだ歌
やわらぐる光や空にみちぬらん 雲に分け入るちぎのかたそぎ
  殿の高さをめぐり、建築学者らは、木造で96㍍はおろか48㍍すら難しい、と伝承を疑問視していた。ところが2000年(平成12)の境内発掘調査で巨大な柱が次々に発見された。この結果、文献にある奈良東大寺をしのぐ出雲大社神殿の高さが真実味をおび、それまで空想の建築としてきた学者たちは顔色なくした。この柱をもとに、大林組建築学者が48㍍の神殿をCGで復元したが、寂蓮ならずともあっと驚く威容、建築の粋の結晶であった。
          
  技術もさることながら緑豊かな国でなければ実現できない建築。機械の力を借りずに、成し遂げた古代人の想像力と技術に驚くばかりである。技術革新の今日、往時の建築の復元は困難と聞いた。木もない。人もいない。
  ここで神話を再び、思い起こしたい。日本書紀古事記は諸国をさすらったスサノオが八岐大蛇を退治して出雲の王になり、この国を治めるには船舶が必要と、髭をぬくと、杉になり、胸の毛は檜になり宮殿の材にすべし、と、木材の重要性を説いている。さらにオオクニヌシには技術と娘を与えたとある。出雲の神々は木と技術に深く結びついていた。
  技術革新の限界と人間の英知。この命題はおそらく今年のテーマだろう。テレビも新聞もそろって震災を忘れるな、と繰り返している。恐ろしい津波を忘れるな。しかし、大事なのは、混乱からかくも見事にやってのけた復興の過程と人の英知こそ、心に刻まれる教訓である。日々の営みの中で確認し、忘れられぬ復興にしなくてはいけない。
          
  出雲の参拝の帰りの道すがら、震災と出雲の国を重ねていた。つながりはないが、そんな心境になった。大社から日本海まで1キロほどの距離である。途中の丘の左手には出雲のお国の墓碑が立つ。国引きの舞台の稲佐の浜には、白波が押し寄せていた。海隔てた陸は韓国の慶州、新羅である。古代出雲国は狩猟、採集時代から稲作栽培への転換期を迎え、そこに外来の稲作技術が導入された時代に栄えた。新羅からは多くの人が渡ってきた。稲作、鉄の技術を持っていた。地域に溶け込むまで衝突もあっただろう。しかし人の出会いといなみが国をつくり、後世に歴史を残した。
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  メモ 出雲そば 出雲そばは実を殻ごと挽くため、色黒で香り高く、こしが強い。出雲大社門前には専門の店が名物の割子そばを競っている。割子にそばを盛り、ネギ、海苔、もみじおろしなどの薬味をのせ、だし汁をかけて食べる。だし汁が店の秘伝の味。