第100回 「青春紀行」 〜ふたつの詩の輝き〜

  青春とは人生のある期間ではなく心の持ちかたをいう (サムエル・ウルマン)
  草原の輝き、花の栄光 再びそれはかえらずともなげくなかれ (ワーズ・ワース)
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  1945年(昭和20)8月30日、アメリカ空軍機が厚木飛行場に着陸した。コ−ンパイプを手に連合軍最高司令官ダグラス・マッカサー元帥がタラップを降 りた。皇居前の第一生命ビルにはいり、ここを拠点に日本の占領政策を実践した。彼の在任期間は、トルーマン大統領に解任される51年まで6年におよび、昭 和天皇との会見はあまりにも有名である。
          
  彼の執務室の壁に詩の額があったというのが通説になっている。座右の銘ともいわれるが、この額が冒頭に記した『Youth』(青春とは)である。しかし、東京の執務室ではなくフィリピンの部屋説もあり、額の存在は伝聞の域をでない。
  1945年12月号の『リーダーズ・ダイジェスト』(アメリカ版)で従軍記者フレデリック・パーマーはマニラの本部にリンカーン写真とともに(How to Stay Young) の詩がかけてあったと紹介している。この号がサミエル・ウルマンの詩とマッカーサーについて記したジャナーリズム最初の所見といえる。ウルマンは1840 年、ドイツ生まれのユダヤ人で、11歳の時、両親とともにアメリカ移住し、ミシシッピのポート・ギブソンアメリカ生活をはじめた。南北戦争に従軍、その 後、アラバマ州バーミンガムで公職や聖職につき、アラバマユダヤ人の間では著名であった。しかし、彼の詩を知るアメリカ人はごく一部に限られる無名の詩 人だった。故郷の図書館には家族らによる自費出版の詩集『80歳の頂きから』が収蔵されている。
          
  トルーマンと衝突したマッカーサーは日本を離れ、1955年75歳の誕生日に多くの聴衆を前に演説している。この時の演説でウルマンの『Youth』を全文引用した。冒頭のフレーズのみ紹介する。
  Youth is not a time ;it is a state of mind;it is not a matter of rosy cheeks,red lips and suppl knees; it is a matter of the will a quality of the imagination, a vigor of the emotions; it is the freshness of the deep springs of life.
  青春とは人生のある期間ではなく、心の持ち方をいう。薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな肢体でなく、たくましい意志、ゆたかな想像力、炎える情熱をさす。青春とは人生の深い泉の清新さをいう。
  邦訳は電力の鬼と呼ばれた松永安左衛門説と前橋の岡田義夫説があり、岡田訳のほうが強い響きがある。いずれもリーダーズ・ダイジェストから引用している。ア メリカでは話題にもならなかった詩が日本では経営者を中心に広まり、社長訓示や結婚式あいさつなどで使われ、そのつど評判になったが、口コミで終わっていた。敗戦の日本にGHQ最高司令官がもたらした『青春』の詩。焦土から復興へ歩みはじめた50年代。ウルマンが80歳でつくった詩は経済人の復興の心をと らえたのである。
  大垣からあえて乗った鈍行電車は、さながら回想電車である。最近はなんといわれようとも、昔話が楽しく、時を忘れる。大垣発16時41分豊橋行。車窓の風景は、なぜか郷愁を誘い、50年前をたぐりよせる。
          
  1964年10月1日、東海道新幹線が開通した。東京―大阪ひかり4時間、こだま5時間だった。翌年にはそれぞれ1時間短縮している。
  新幹線開通から10日後、東京オリンピックが開かれた。私は池袋・西武百貨店の大型スクリーンで入場行進を見ていた。あの行進曲に乗って先頭のギリシャ選手 が歩く。エーゲ海と地中海の島に夢をふくらませた。ギリシャ国民所得が4倍の経済成長と読んだ記憶があった。しかし、東京オリンピックを境に政治は混乱、中道左派政権から軍部独裁の国になり、王政は廃止された。この年のパラリンピックに体育会有志がボランテイアで参加、所属の航空部はカナダ選手団を担当した。カタコト英語で苦労したが、面白いもので人間関係ができると、英語がうまくなったわけではないのにカタコトが良く通じた。
          
  新幹線開通しても旅は相変わらずの鈍行夜行利用だったが、翌年、京都新聞社の面接試験で初めて新幹線に乗った。鈍行といえば、当時は八重洲口に並び、行列の順にフォームへあがり、座席を確保した。超特急のかたわら、ローカル線ではSLが元気よく煙を吐いていた。日本は走った。私たちもためらいながら走った。
  その頃、TVで『若者たち』を放映していた。両親のいない5人兄弟、妹が取っ組み合いしながらも生きていく青春を描いていた。立場や生活は異なっていたが、 このドラマの主人公たちに共感した世代である。シナリオは毎日新聞の特集記事『ある家庭』をモデルに、34回続いた。ところが朝鮮人差別問題をテーマにした『さよなら』放映の直前、北朝鮮漁船の乗組員が船長を射殺、日本に亡命を求める事件が発生し、フジTVは事件の影響を考え、放送を打ち切った。
          
  局側は放送最初から内容が暗いという理由で打ち切りを考えていたようである。当時の政治状況は政府、自民党の報道、出版に対する批判、介入が問題化していた。私の入社した京都新聞社では憲法を守る蜷川革新府政に対する偏向報道が知事選で顕著になった。新入研修で読者からの抗議電話の聞き役になり、選挙報道担当者の言動を垣間見て、記者を志した夢が早くも壊れた。研修懇談で「知事選の編集方針は」と、質問をして睨まれ、担当者は編集局長に報告している。「いやな奴だ」と、思っていたが、10年後、所属長の彼の部下になった。月日も経過したこともあるが、最初の印象とは様変わりして親しくなり、将棋の相手をさせられた。人間関係はつくづくコミュニケーションの積み重ねと思う。彼の新入社員時代の私の印象は「なまいき」につきたという。
  マスコミは内面と外面を使い分ける。自由な議論を標榜する社ほど内では社員の締め付けは厳しい−が世間相場である。朝日新聞誤報問題は社の縦割り弊害が背景 にあると思っている。余談になるが、朝日が原発の「吉田調書」を取り上げた理由はいまだにわからない。現場責任者として、当然のことをした彼をマスコミは 美談にした。確かに東電の社長以下の動揺を見れば、吉田所長は骨のある幹部であったかもしれない。しかし、彼が混乱の中で被災を防ぎ、鎮めたわけではな い。また公文書ともいえる吉田調書を本人の希望で発表しなかった民主党政権もおかしい。読んでみてどこが内緒にしてくれという箇所なのか不明である。威勢よく東電や政府批判をしているにすぎない。吉田調書と現場の担当者調書を並べてこそ意味がある。朝日は「所長命令に違反、撤退」の見出しで吉田所長を持ち上げ、部下がいうことを聞かなかったスクープにしてしまった。当時の状況で命令や指示がどこまであったか疑問で、また混乱時、作業員は現場で判断しなけれ ば命にかかわる。社規則違反など振りかざす朝日の官僚性こそ私は問題にしたい。東電の現場が怒ったのはそこにあると思っている。
  フジTV「若者たち」は夜勤で見る機会はたまにしかなかったものの、あの♪きみのーいくみちはー音楽、タイトルバックの若者映像が印象深い。懸命に生きる若 者を応援する気概が社会にあった。局の方針にもかかわらず、続いた理由は視聴率である。フジTVは春からリメイク版を放映したが、評判はいまひとつに終 わった。内容は他のドラマに比べて良質の作品。しかし、学生、若者たちは、50年前に比べて冒険や夢に飛びつかなくなっている。「青春」の言葉が響かないのだ。新聞の高校生部活のタイトル『青春』を読んだ紙面評の女性が古臭い題名といったことと結びついている。
  「若者たち」のドラマの前、青春映画が公開された。『草原の輝き』(エリア・カザン監督)。大学に入学して間もない頃、池袋の映画館でひとり、ぽつんと見た記 憶がある。ナタリー・ウッド演じる主人公の魅力に圧倒され、スクリーン字幕のウイリアムワーズワースの詩の印象が薄いほどだ。この映画も最近、BSで放 映され、昔以上に胸を締め付けられた。涙もでた。若い頃よりもいまのほうが胸を射抜く美しさに満ちていた。若者ならいざ知らず古希の男が1920年代、大恐慌を背景にした純愛ドラマを切なく、清新な思いで見たことに、我ながら驚く。惹かれあいながら別離の話はそれこそ古い。健康食品CMではないが個人的な感想をいえば、小説の別離では漱石の『坊ちゃん』。松山へ赴任する坊ちゃんと、フォームで見送る年老いた女中のきよとの別れを、映画ではこの映画のラスト シーンをNO1にあげる。
          
  ナタリー演じる主人公は精神を病むほどに好きだった男と再会した。故郷で農場を営む彼には妻と子どもがいた。彼女もまた病院の医師との結婚を考えていた。しかし、会って確かめざるをえなかった女の心をナタリー・ウッドが目で表現していた。別れを告げて去る車と草原、一本の道。ここで詩が流れる。
     Though nothing can bring back the hour
     Of splendor in the grass, of glory in the flower
     We will grieve not rather find
     Strength in what remains behind
     Strength in what remains behind
     (草原の輝き 花の栄光 再びそれはかえらずとも なげくなかれ 奥に秘められた力を見出すべし 訳高瀬鎮夫
  汽車の窓に映画のラストを思い浮かべ、詩をのせる。作家の村上春樹がこの映画について書いている。
  「いつも哀しい気持ちになる。あるいは僕の涙腺が弱すぎるせいかもしれないが、見るたびに胸打たれる映画。青春というものの発する理不尽な力にうちのめされていく傷つきやすい少女の心を表現している」
  村上春樹の感想としては注文をつけたいところもあるが、「見るたびに」の部分に私は満足している。ナタリー・ウッドは、その後、スターとの結婚、離婚、浮名 を繰り返して不慮の死を遂げた。流れる風景にあわせて窓に描いたウッドの姿。彼女は生涯、草原の輝きを追いかけたのだろうか。
  1980年代の夏。あるビジネスマンと、新大阪駅で会った。作山宗久さん。『青春』の詩のサムエル・ウルマンを追跡取材して出版、反響を呼んだ。定年を前にした彼を動かしたのは日経コラムに掲載された故宇野収東洋紡社長(後に関西経済連合会長)の『青春の詩』だった。私は40代になって、文化部から大阪経済担当になった。会社回りの経験もなかった。大阪の経済団体と有力企業広報相手の、いわば提灯持ちである。酒の席も多い。話題はゴルフと『青春の詩』。中高年のサリーマンが酔って、詩の一節をくちずむ。曲がり角の人生を鼓舞するようだった。
          
   マッカーサーが運んできた青春の詩は社長あいさつから、送別会、結婚式で紹介され、サラリーマン社会のバイブルごときブームになった。作山さんは宇野社長のコラムをきっかけにウルマンの詩と人なりを求めてアメリカまで出かけ、ウルマンの孫や詩の原本を探している。アメリカ人にはこの詩が知られていないことに驚き、国民性の違いと分析している。作山氏と宇野氏が共著で『青春という名の詩』を出版したのは86年(昭和61)である。日本は85年に世界一の債権国になった。財界人らは誇らしげに経済を語り、自らの出処進退について『青春』を引き合いにだしたりした。
  この詩に関して邦訳のほうが印象に残っているのは、『草原の輝き』が英語をまがりなりにも読み書きしていた学生時代、『青春』は英語教育から絶縁していた中年の年隔の差が出たためだろう。
  年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。歳月は皮膚のしわを増やすが、情熱を失う時に精神はしぼむ
  ウルマンは時には20歳の若者よりも60歳の人に青春がある、と綴っている。作山氏の話から若者よりも中高年に共感を呼んでいる理由がわかった。私も慣れぬ経済取材で自らを奮いたたせていたから、この詩の本を買い、手元に置いた。
  汽車の旅にも同行している。今回の旅で改めて本を開いて、『草原の輝き』と読み比べた。しかし、40代の頃に比べて、胸に響いてこない。老いたのかと思うが、教訓的な言葉にいささか抵抗を感じる70過ぎの老人がいた。スクリーンの女優に憧れたかつての若者。やはり私には輝きと蔭の交錯する思い出の中の青春 がいい。再び還らずとも、なげかず、ヨチヨチと行こうではないか。
          
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