幕末の幕府老中首座のお城

前回久留島長親の義伯父にあたる福島正則が登場したので、今日は備後福山城を紹介しよう。この城は、慶長5年の関ヶ原の戦い後に福山藩となる備後地方と安芸一国と共に福島正則によって治められていたが、元和5年、有名な広島城無断修築(実際は幕閣に対し事前に何度も嘆願しているが、正式な許可無く修築)等武家諸法度を犯した咎により改易され、その後、 徳川家康の従兄弟である水野勝成が西国の有力外様大名に対する抑え(西国の鎮衛)として備後国東南部と備中国西南部の計10万石を与えられ、大和国郡山藩から転封する。元禄11年、5代藩主水野勝岑の早世により無嗣除封となり、福山藩は一時的に天領とされ、讃岐国丸亀藩京極高或によって城の管理が行われた。その後元禄13年、出羽国山形藩より松平忠雅が10万石で入封する。しかし忠雅は10年後の宝永7年再び伊勢国桑名藩に移封させられ、同年、阿部正邦が下野国宇都宮藩より10万石で入封する。その後、明治維新まで阿倍氏10代の藩政が続く。中でも備後福山藩第7代藩主、阿部正弘天保14年、25歳で幕府老中にまで昇りつめ、水野忠邦天保改革時代に不正など行った「妖怪」こと、江戸南町奉行・鳥居甲斐守耀蔵らを処分(職務解任及び全財産没収の上、讃岐国丸亀藩にお預け)し、弘化2年には当時老中首座であった水野忠邦をも天保の改革の際の不正を理由に罷免させ、後任の老中首座となる。幕末の動乱期にあって『安政の改革』を断行した大名だ。因みに水野の天保改革時代に北町奉行だった遠山の金さんこと遠山景元が、改革に批判的な態度をとり規制緩和を図ると、鳥居は水野と協力し、遠山を北町奉行から地位は高いが実質的には名ばかりの閑職の大目付に転任させたが、鳥居失脚後には南町奉行として復帰した。水野の後を受けて政権の地位に座った阿部正弘からも重用された結果と言えよう。とまあこんな具合で中央政権を握っていたお偉いお殿様のお城である。が当の本人(正弘)がお国入りを行ったのは、天保8年のたった1度のみとの事。
■備後福山城