コーヒー飲んだり抹茶飲んだりフレーバー日本茶飲んだり


灰色の空の肌寒い一日。雨が降ったり小降りになったり。昼に起きたけれどずっと薄暗い。外に出る気も失せるが,なんとかして図書館には(昨日も同じことを書いた)。


妙な夢を見た。詳細はすべて忘れてしまったが,若い俳優のNさん(敢えて名は伏す)とデート(らしきこと)をしている夢だった。Nさん,名前と顔は知っているけれど見たことがあるのはCMぐらいで,ドラマも映画も(動いて話しているところは)殆ど見たことがなくて,とくに最近は姿をみかけてもいなくって,なんで突然夢に出てきたのかさっぱりわからない。夢の中ではちょっと良い雰囲気になりかけているのに向こうにその気がまったくないようで,相手にされない自分がやきもきというか悔しいというか残念というか。しかし起きてからだったか夢を見ている最中の夢を見ているわたし自身かが“そりゃ〜Nさんは女は相手にしないだろう”と冷めた目で突っ込みを入れている,そういう夢。


以前「かっこいい」とは書いたけど,別段好みのタイプでもないのに,何を悔しがっておるのか,自分。

道楽娘さんのエッセィを読んで


わたしは小学生の時は休み時間に教室のオルガンを取り合っている児童だった。習い始めたのも早め(先生についたのは幼稚園のときだけどその前から母親に教えてもらって触っていた)だったので,たぶんクラス(男女合わせて20人)で3本の指には入っていたと思う。だけどそれは井の中の蛙でしかなく,中学校に上がったときにはもう自分より上手い人の方が多いぐらいだったと思う。


道楽娘さんがバイオリンを習っているのをうらやましいと思うし,幼い頃は大人になったらバイオリンを習いたいと思っていたし,だけど実際にはこの先習う確率は低いと思う。それは環境が許さないからではなくて自分自身の意思なり選択の結果として。


なぜなら練習が嫌いだから。彼女が書いているピアノ曲(ベートーベンのソナタとか)にしても,10年も習っていれば弾けておかしくない曲はほとんど弾けない。手が小さかったのもハンディだった(黒鍵同士の1オクターブ和音はフォルテシモにならない。白鍵でも9度の和音はかなり辛い)けれど,何より練習をしなかったので進まなかった。


音楽もののお稽古ごとというのはとにかく毎日練習をしなくてはならないものとされている。たとえレッスンは週1回でも,習い始めたが最後,毎日練習することになる。大人が趣味(遊び)で習うだけなら無理に毎日でなくてもいいとしても,レッスンの日だけ先生のところでだけ弾くものではない。自宅で練習して,その進捗をみてもらいつつ指導してもらう,というものなのだ。ピアノを習っていたころなんぞ,1日さぼったら取り戻すのに3日かかる,などと言われていたような気がする(でも最後の方は1週間1度も家で触らないまま日曜日を迎えていたものだ。そりゃ無理だよ)。


そういうのは,どうも性に合わない。練習そのものは厭ではなくてその気になれば2時間でも3時間でも弾くけれど,毎日必ず30分といった日ペンの美子ちゃん式練習(生活習慣)が不得手。とかく規則正しい生活を意識的にはできないタチで,かといって意識的に不規則にしているわけでもないので自然にリズムができるのであればいいのだが(たとえば出かける前には歯を磨くとか),自分で決めてそれを守るのができない。だから起きる時間も寝る時間も毎日ばらばら。会社に行く時間もばらばら(←揃えろ)。


バイオリン(でなくてもよいがあの手の弦楽器)に興味があるのは,その音を出す仕組みに興味があるからだ。弦が(低い方から)EADGと並んでいるのは知っているけれど,それがなんでト長調と……なら弾きやすいと言う話になるのか(入門編は弦一本で弾くの?)などなど。あとは音の移動と弓の上げ下げの関係とか(1音ずつ上げ下げしているようには見えないのだけれどどうやってスラーじゃなくできるのかしらん)。


弦楽器はわたしにとって謎の多い存在なので,いっときギターにも興味があった。中学校1年生の時に音楽で少しだけ触って(クラシックギターだけど),とても楽しかった。


いずれにしてもよほど耳が良くないと弾けそうにない,それもカッコイイ。とくにバイオリンなぞ,印もついていないのに,どうして音が精確に刻めるのか。あー,弦楽器だけではないけどね。昔トロンボーンに対しても同じことを思ったものだ。叩けばその音が出る鍵盤楽器や運指が決まっている横笛しか経験がないわたくしには尊敬と憧れの対象である。


外国語に対する興味とも近い。そういった仕組み部分の好奇心さえ満たせれば,うまくなりたいとはそこまで強くは思わないかも。いざ手にしてみるとまた違ったことを思うかもしれないけれど,同じ楽器の練習に時間を使うのであれば,バイオリンで初級以上に上達することより弾けなくなったピアノをもう一度弾けるようにする方に時間をかけたいように思う。といって,そのピアノも,毎日練習するのが厭だからやらないよ,という点でかわりはないのだが。絵空事としては,娘が習っているところにくっついて自分も同じ先生にならって自分は昼間練習して娘は学校から帰った後で練習するとか,そんな金と時間と広い家のある田舎暮らしでしか叶わないことを,幼いころ(つまり金と時間と広い家のある田舎暮らししか知らなかった頃)には思い描いてもいたけれど,今の自分の近未来を想像するに,そういう生活にはなりそうに(しそうに)ない。


そのことが寂しいとかつまらないとは思わない。楽器を演奏すること(練習すること)は楽しかったし嫌いではないけれど,今は子どもの頃には知らなかった生活でありそこにはそれなりの日々の楽しみがある。今の自分が自分で選択していないことは,その程度のことでしかない。


これは受け売りだけれど,「○○したかった」というのは,本当はそこまで本気でしたかったことではないのだそうだ。それは恵まれた人間(本当に本気でしたければすることが許されていた/可能だった人間)の考え方だとは思うけれど,一理はあるな,と思うのだ。わたしもまたおそろしく恵まれた人間で幸いここまで自分の望み通りの人生を歩んでいる。だから後悔することもないのだけれど,いくらかは「××もしてみたかった」と思うものごともある。それらは実際に選んだことと並び立たない(並び立ちにくい)ことだったり,もしくはそれしかなくても選ばない(ならどこまで望んでいたのかあやしいけれど)ことだったり,なんにしても2番目以降の選択肢でしかないんだけど。


やりたいことといえば,わたしの周りには「やらないよりやってから後悔」の人が多い。口で「いいなぁ」というのは簡単だけれど実行・実現にはそれなりの(かなりの)困難を伴う。ほんとうに大変なこともある。だけどやらないまま後悔したりできなかったことを自分以外の何かの所為にするよりもやってから後悔したい。


と,ここで自己嫌悪に陥りはじめてもどうにもならんのでそこに踏み込むのはやめますが。


5時か。暗いなあ。これだから東京は。図書館……寒い,めんどくさい。でも閉館まであと2時間もある。

今夜のドラマ(最終回)関連(感想の類ははるかに下の方のエントリです)


ちょこちょこ拝見しているブログさんで「NHK大河ドラマ『新選組!』ファンに100の質問」というWebリング企画をなさるそうで(記事),こっそり参加したいなあなどと思ってhtmlファイルの作成を試みたものの。


iBookにこっそりメインユースを切り替えてはいるものの,OSの根本がすっかり変わってしまったぱんさーちゃん(OSX.3)のおかげでたとえば「カラーピッカー」ひとつとっても,あるのかないのかすらわからない。htmlで文字色を変えることすら容易でない(どうすればいいのか全く分からない)ことに気づいてびっくりだ。この辺がOSXの不便なところでありわたしが嫌うところでもある。Kuro家のスマートな机の上を見て,引っ越したら(予定はないぞ)ノートパソコンに完全移行しようかと思ったけれど,場所をとってかなわんCRTのディスプレイはともかくOS9マシンであるところのかすぱーちゃん本体は廃棄したくない(できない)のぅ。iBookにもOS9入っていたような気もするが,起動の仕方が分からない。どのみちX以降の似非MacOSについて勉強する気にはならない。だってめんどくさいんだもん(思えば学生時代は時間があった)。


たとえば(予定はないけれど)新しくWebページを作るとしたらかすぱーに頼った方が遥かにやりやすい。単に操作慣れしているかどうかの問題なんだけど,スキャナ(SCSI)もタブレット(ADB)もお絵かき二大巨頭ソフトもすべてかすぱー仕様でもあることだし。ベッドトップパソコンであるところのiBookは使用頻度の多寡はともかくとして結局のところメールとWeb閲覧とテキスト打ちの為だけのサブマシンであることには変わらないのよなぁ。これでかすぱーが処理速度早くて記憶媒体の容量も大きければ申し分ないのに。8年前のパソコンにそれを求めてはいかんか。


話が大きく逸れた。ともあれ,そんな質問内容とは関係ない部分で出だしからつまづいているものですが,質問内容も難しい。終盤の質問で「録画してますか? いつから?(要約)」というのがあるんだけど,録画してなければ到底答えられないような質問ばかりでその質問はどうなんだ。これをDVD発売前の1月末までに全回答を作成というのは,参加できる人を限りなく選別してくれている。厳しいなあ。


たとえば,正直,多摩編(第1回〜第11回)での印象に残っている場面,なんて何一つ思い出せない。そういった一部質問(他には,全く気に掛けていない演出家に関する質問とか)を除けば公式サイトの各回あらすじなどで記憶を掘り起こしながら答えられなくはないけれど,記憶だけに頼るとどうしても記憶に新しい最近の出来事や登場人物の比重が高くなってしまうので,アンフェアに思える。途中からはちょこちょこ日記に感想を書いているので,今の時点から振り返るのではなくそういったリアルタイム視聴時の感想を大切にしたいと思うのだが,自ら仕込んだこととはいえ,いつどこにどのような感想が埋め込まれているのか,自分でも掘り起こせない。検索もできないようなつくりにしたのは一体誰だ(俺だ)。


先日,この100質とは関係なく,感想をいつごろからどれぐらい書いていたか気になって今年書いた日記を遡っていたのだけれど,ついほかの内容も斜め読みしたこともあって,6月ぐらいで(午前4時台になって)挫折した。自分の書いた日記であっても,読み返すのは辛い。ちょっと長すぎる。


5時半だ。寒いよう。お外に出るのが厭だよう。ごほん返したいけど(まだあと2時間ぐらいは余裕で間に合うけど)めんどくさいよう。


あぁもう今日は出ないことにしようかなぁ。返却期限を過ぎているのも気にしない。どうせ明日は休館日だ,帰りに返却ポストに放り込んでやる。稲垣足穂少年愛の美学」読み終えてないし(版面率高くて歯送り小さくて日本語が難しくてとても読み終えられそうにないのだが)。


この土日家から一歩も出ず。大いに結構。


8時まで一眠りすることにします。


……「100質」もうひとがんばりして仮登録申請までこぎつけようかなぁ。うううう。青のだんだらなら8月の背景画像があるのだけれど,青じゃなくて浅葱と藍色にしたいんだよなー。色味はフォトショップエレメンツで変えられるけど,文字色がなぁ。


それとも参加しないのが吉なのか。答えにくい質問多いし。うううう(思い悩み中)。


つまり,この一言に尽きるけれど,わたしはファンじゃないんだな(また出たよ「ファンじゃない」発言。好きにしろ)。参加資格ないかもな。リングマスターさんに蹴られる可能性も高いな。蹴られたら蹴られたで,せっかく作りかけているのだからどこかにアップしますが。


これこそ,最終回が終わった後及び総集編で記憶を掘り起こした後で取りかかるべき時間つぶしを兼ねた取り組みなのだろう。成程。

おなかすきすぎてつらい。


お風呂に入って髪を洗っていてもくらくらするし。おかしいなぁ。今日はインスタント麺(センミーナーム)と肉まん(井村屋の冷凍肉まん)を食べたのに。昨日(今日未明)の寝るときと同じぐらいお腹が空いている。昨日はインスタント麺(センヤイイエンタフォー)しか食べていなかった。この違いは睡眠時間の違いだろうか。ごはんまであと30分ぐらい待ち。


髪を乾かしがてら,気を紛らわせるためにテレビでも見ようと思ってテレビを点けたら,いちばん気楽に見られそうな鉄腕だっしゅがトヨタカップ(未確認)のためにやっていない。晴れていればともかく雨ふりの映像は見ているこっちが寒くなる。


うぅぅ。ホットミルクでいいから飲みたいなぁ。冷蔵庫の中の牛乳はもう食用に値しないだろうなぁ。ウィスキーのお湯割りでも作るか。腹の足しにはなりそうだ。

再放送までの間,とりあえず本放送終了時の雑感など。


なるべく文句つけない感じでがんばります(つけたいのか?)


昼間「100質」に関して「昔のことなんて覚えてないよ」と書いたわたしを見透かすかのように,最後は名場面集だった。秒単位で切り替わる場面の数々は,いつ・どこの場面かわかるものもあれば,わからないものもあった。


約1年,49回は短くはなくて。


連続ドラマだから。自宅で録画したものが全部残っているなんて限られた(恵まれた)人だけだから。必ずしもそういう見方をしなくてもいいとわたしは思っている。どっぷりはまらなくても楽しめるものだと(そうあるべきと)思っている。毎週日曜日,見ては忘れ見ては忘れ,少しずつ話は進み作中の人々は成長していく。移ろいゆく季節と共にドラマも移ろいゆく。それでいいと思っている。だからこそ(半分以上負け惜しみなのだが),最後に流れた名場面集を6分の1スケールとはいえ現実世界での時間の隔たりと共に懐かしく見られるのだ。


最終回を迎えると否が応でも一年の終わりを感じる。12月の日曜日はあと3回も残っているのでまだ年の瀬の実感はわかないけれど,60分拡大版だった最後の2分はもう来年の大河ドラマの予告で,来年わたしはこれを見るのだろうかと,ふと遠い目になるのだった。


主演がアイドル事務所所属のアイドルだから心許ないんじゃないか,正直そう思って見始めた今年の大河ドラマだった。中盤までは,周りの若手実力派俳優達の中で,どうしても至らなさが目に付きもした。しかし,最後2回で見せたどこまでも透明な感じはどうだろう。


演技の巧さとか,そういうのはわたしにはわからない。それを評せるほど舞台も映画もテレビドラマも見ていない。しかし,役者として上手になったか否かではなくて,あれだけ物足りないと思っていた局長が(これは,演じた人の演技の物足りなさだけでなく,ドラマの中で近藤はずっと「ただのいい人」でいつまでも煮え切らなくて物足りなくて仕方ない人だった),オマエ主役かよ,と毒づいていた近藤勇が,最後は疑いもなくこのドラマの主役として幕を引いた。


#47まではまだぶぅぶぅ言っていたのだから,ほんとにここ2回のことなんだけど。


今日の放送では端座する近藤を正面からとらえた絵が多く使われていた。それを見ていて一瞬ふっと「これは香取慎吾なんだよな」と我に返った。昨日見たスマステ4の香取慎吾を脳内に引っ張り出して比べてみた。


でも,同じ人には見えなかった。「あぁ,近藤勇だ」と安心して,再びドラマの中に入っていった。


だから,来年の主役だって,見る前から決めつけてはいかん。もっとも,主役がどうこうというのとわたしが見るかどうかは別問題なんだが。


見る前から決めつけといえば,かれこれ一年前を思い出す。あれから随分と遠くへ来たものだ。


はじめの数回を見て拒絶反応が出た人はすぐに見なくなっただろうし(はじめから見ていない人もいるだろうし),途中から見なくなった人もいるだろうし,逆に途中から見始めた人もいるかもしれない。現実世界のわたしの周りで見ている人は多くもなければ全然いないということもなかった,いずれにしてもドラマの話をすることはまずなかった。なかったから日記に(皆に煙たがられているのを承知の上で)書いてきたわけだし。


前に一年通して見た大河ドラマは(何度も書いているが)「北条時宗」だった。この時も周りで見ている人は全然いなくて,話をすることも(今年以上に)なくて,日記に書くこともしなかった。あれは2001年のことでその時からわたしの生活は大きくは変わっていないのに,まったく別の時代のことに思える。


その時と今年との最大の違いは,言うまでもない。このドラマを通して初めてわたしはドラマレビューを書いている人達の存在を知り,一方的にではあるけれど他の人の感想を読み,それを見て認識を深めたり感動を共有したり。それは現実世界での会話のなさを補うに足る,或いは,曖昧な場の合意が形成されない分直接の会話にも勝る楽しみを得ることができた。それによって「なんとなく見ている連続ドラマ」であるはずの大河ドラマがわたしの中で存在感を増していった。日記での言及がエスカレートした最大の原因でもある(ドラマを見ていない人達にとってはいい迷惑だったとも言える)。


と,携帯電話にメールが入って中断。知り合いも増えたんだな。うれしいなぁ。


冷めるのが早いのは自覚しているのでいつまで続くのかはわからない。今月26日放送の総集編を見ていなければ笑っておくれ。


さて。ホットウィスキーのお代わりをして,BS2の再放送を見ます。読み返してみれば今日の感想を少しも書いていないので,続きはその後で。まだどこかぼーっとしていて,何も思い出せなくて,何かを書けそうにないのです。

キャラ別感想(他に手の打ちようがない)


土方:他の人をいっぱい描いているから登場シーンも少なかったし,なんつっても宇都宮に居たという地理的距離が痛くやや不満。しかし彼は前回の近藤との抱擁がピークだったと思うので,今回はもうどうでもいいのだ。


彼の戦いはこれからも続くし(彼のその後の転戦が単に死に場所を求めていただけという風には見えない終わり方なのは良かった)みんなの前で弱気なところは見せない。いさみんとの最後の別れも済んでいた。ただ,目の見えないおにいちゃんの前で涙を流したところが,子どもっぽくて涙を誘うのだったよ。


近藤:綺麗かった。初夏の板橋の刑場も光と緑に溢れていて,このドラマの近藤が最後まで「いい人」だったんだね,と。野次馬達もみんな褒めてるしさ。


たまちゃんには会いたかったのかなぁ。あー。特に書くことないっす。先週で真っ白になってしまった。


つね:武家の女かくあるべしという強さを見せておいでだった。おかんはたまらず声を掛けた,にぃちゃんも声を掛けた。取り乱すな,とつねちゃんに忠告していた人達が堪えきれなかった中,つねちゃんはただ黙って唇を振るわすだけだった。


尾形:株,高いんだか低いんだか,おいらにはわかんねぇよ(涙)。すすむんの最期の時にもヤな奴だと思ったものだ。だけど最後,左之助との場面は泣かせるじゃねぇか。文学師範としてはかっこいいな。が,実際に今現在書き物が残っているのはこの時点ではあまり字書きなどしそうに見えない人達のものが有名だ。彼のその後,少し気になる。


左之助:「俺も不滅だー!」。不滅で良かった。そうともアンタは不滅だよ。あたしも尾形くんと一緒に笑っちゃったよ。「尽忠報国の士,天晴れなり」はかつて鴨が放ったセリフでしたか。「新選組は不滅だー!」は斎藤さん?


八っつぁん:結局救いがなかった気がする……真面目一徹が馬鹿を見るのかねぇ。ちょいとかわいそうだ。もっとかわいそうなのは最後の最後だというのに「こいつ感じ悪い」って思われた(に違いない)市川宇八郎改め芳賀宜道。そんな奴と友達の八っつぁんに対しても,オマエの人を見る目はそんなもんか,という気にもなろうもの。だから罪滅ぼしに板橋に碑を建てたりしたのですか(違うだろう)。


大村達夫(漢字表記自信なし):オープニングロール見たときにどっかで見た名前だとは思ったけれどキミのことと思い出せなかったよ。佑天仙之助殺して自分もヤクザ稼業かと思うと,敵討ちなんて虚しいばかりだ。


安房:あなたも最後まで喰えない悪人。心にもないこと言って土方さんのこと遠ざけてません? 気のせい? 気のせい?


西郷吉之助:上に同じく喰えない悪人。なんだかなぁ。世界の平和のために近藤一人に泥を被ってもらおうと,本人に伝わるならまだ道理も通じるけど,勝手に決めてるだけだとただの悪い人だから。近藤さんがどう思っていようとも(わかっていてもいなくても,ただ諦めただけでも覚悟があっても)。


前歯がでかいお考ちゃん:アテガキだし。まさか最終回の残り数十分で斬られるとは思ってもみなかっただけにすごくショックだった。好きだったのよ。バカなのか頭よかったのかわかんないけど。身を挺して沖田を守ろうという気概があったのか,以前刺客が来たときに回避できたから今度もなんとかなると高をくくっていたのか。わかんないけど哀しい。


ちょっとおばかだけどそれがじつは気が利いていて男を癒すというのはキャラこそ違え明里さんと同じ役割だ。登場が入れ違いだったから気が付かなかった(し気にならなかった)けれど。もっとも,山南さんと沖田のその辺の相似(類似)は偶然だろう。


木戸:あんた……いつ出てきてくれるかと待ち望んでいたのに。奇妙な和洋折衷の床張り部屋に一部畳を敷いてお膳の前に和服で正座してナイフとフォーク使ってオムレツ食べているシーンはひたすら「ずれてる」感が出ていてよかったけどさ。言ってることもビミョズレだしさ。


幾松:数少ない女性陣の中でも最後まで好きになれんかったのは彼女だけなんだが(お琴さんでさえ最後は共感したというに)……いかにもインテリっぽい「できる女」は同性には煙たがられるのかしら。だけど寺田屋お登勢さんは好きだった。同じ「できる女」でも,あれは気っぷの良さが売りで女臭さがないから。


捨:泣かせるけどちょっと無駄死感。風車刺してあんたは阿比留君か? ほんとにかっちゃんのこと好きだったんだね。かっこよかったけどちょっと無駄死。彼,途中までは歴史の重要な場面に必ずいる人物だったし,本人そうと知らずに時代を動かすきっかけとなってた人物だっただけに,最後はありんこのように踏みつぶされたのが哀れでもあった。架空の人物はドラマ内で決着をつける,ということか。或いは,彼が活躍しまた居合わせてきた「重要な転換期」だった前時代の全ては既にありんこの如く地に落ちたのか。半分ドリームだった「新選組!」終演の象徴ではあった。


斎藤:彼のオーラスシーンは新選組わくわくモードのBGM。若人に未来を! 希望を! 剣は銃よりも強し。かっけー。かたぼりちゃん(会津藩主旧京都守護職)に虎徹(本物)貰ってあっさりかたぼりちゃん寝返ったらしい……というのは冗談だけど。


冗談はさておき,会津藩主に直接目通りしたのは「永倉新八,反乱」以来では。セリフも長いし。会津に着くやいなや京に出張命令出されたのは「お疲れ様」であるが,道中関所(?)で止められたところはとことんかっこよかった。今まで人斬った後ろくに血拭いなんてしてなかったのに,すかさず懐紙を取り出してふきふきしていたところは妙にかわいかった。(虎徹(本物)に対する扱いの大切さの由縁かと思ったが虎徹は背負っていたので勘違いだった模様)。その後近藤の首奪還に成功したかどうかはともかく,今回の中で(回想シーン除いて)左之助と並ぶすかっとするシーンだったと同時に,唯一の明るいBGMシーンでもありました。次のシーンの沖田は人生投げた半死人だっただけに。その次のシーンの土方・島田・尾関はなんでそこで(鳥羽伏見と同じセットで)死なずに済んだのか不思議なぐらい無鉄砲だっただけに。そしてその次のシーンはいよいよ近藤斬首だっただけに。


最後の名場面集で振り返ったときのシーンがどこのかわかんないのが悔しい。


かたぼりちゃん(×斎藤):棒読み2人の差し向かいシーンということで,この2人の2ショットは初めてということで,最終回にも関わらずはらはらさせられましたが,斎藤がどうとか関係なくかたぼりちゃんは最初から最後まで棒読みキングだった。芸術の域。せっかく会津(鶴ヶ丘城)のシーンだったのだから,他の会津藩重役(小森様秋月様広沢様)も出してほしかった。

シーン別感想(というか……)


左之助が,今日に向かう道中お昼ごはんのお弁当(おにぎり)を食べていて,ふと自分の居る場所に気づいたシーン。「勝沼で負けたあとで軍議していた(永倉・原田が離脱した)建物に似てないか?」と思ったわたしはバカだよ。裏の壁に試衛館8人の名前(落書き)が書かれている。そういえばそんなシーンが40回近く前にあったんだ。だけどすぐには思い出せなかったし細かいことは今も思い出せない。確か沖田や左之助がはしゃいでいて,永倉もすぐに加わって,それを見ていた近藤も加わりたくてうずうずしていて,土方や山南さんが無言で引き止めている,けれど結局我慢できなくて落書き組に加わっちゃった,とか,そんなシーンだったはず。あの時って,全員書いたんだっけか。それとも別のシーン?


前々回(#47「再会」)を見て少し経ってから,ドラマ中では特に意識させるように描いてはいなかったけれど,あれは「この道はいつか来た道」だったのよな,と気づいてなんだか辛かった。意気揚々と京に向かった道を,甲陽鎮撫隊として行軍したときの気持ちはどんなだったろうと。


今回もまた,ここ数回と同様,回想シーンを使わない回想が多かった(最後に名場面集で本物の回想になったけど)。だからというのではないが,これまで隊士が死ぬことになったときにはみんなが必至で防ごうとしたことを思い出した。中にはそうでない人もたくさんいる(数としてはそうでない人の方が多い)が,山南さんもきーちゃんもへーすけも。だけどその時ほどに近藤を助けようとする人はいない。誰も彼を助けようとはしなかった。隊の内部での話じゃないから,話が大きくなりすぎているから,誰もどうにもできなかった。あきらめが悪かったのは捨助だけだ。


その捨助の最期は,思い描いていたのとは違っていた。ドラマが始まった頃から脚本家氏がぽろぽろっと,近藤が処刑された同じ日に処刑された人がいたことを知ってそれをどうにかこうにかと言っていたので,その「誰か」が捨助だろうとは前々から思っていた。これは或る程度情報収集をしていた人達にとっては重大な関心事(ネタばれタブー)の一つだったようにも窺えた。だからわたしは今回も「観柳斎,転落」の時と同じように,いつ捨がつかまるのかと思いながら見ていたし,最後にサノが声を掛けた場面では「じつは捨じゃなくて左之助だったのか!」とまで(左之助は口伝されている「その後」がちゃんとあるからサノなわけないのに)思ったぐらいだった。そして「観柳斎,転落」と同じように,見事に裏切られた。


どのような描き方にしてもドラマ最大の鍵としてもっと前面に出した感じにするかと予想していたのだが,三谷氏のそういった事前の話を読んだことのない人には特に意識することもない1シーンとして描かれたように見えた。「そうきたか!」という驚きと,ここまで(あれだけ言ってても)ストーリィのネタばれにはなっていなかったことへの感服はあるものの,少し消化不良(ワルクチ書かないんじゃなかったっけ)。


大きな話の流れとしては先週でケリがついているので,どうしても半分今年一年を振り返るような中途半端な感じになってしまう。全体振り返りは追々。


こんな無意味な長ったらしい文章を書いている内に浮遊していた魂が地上に戻れるのですよ。単純に「斎藤さんかっこえー」とか,書いてりゃいいのに。


と,いらん付け足しをした瞬間に,これ以上斎藤さんの新しいシーンは二度と出てこないことが急に腑に落ちてしまった。ぽっかり。