次回の課題本

本のキュレーター勉強会、改め東京HONZの(この事情はこちらを参照)次回課題本、こちらになりました。
ずっと出版が楽しみだった本で、ちょうど今、週刊SPA!に書評が載っています。

ミドリさんとカラクリ屋敷

ミドリさんとカラクリ屋敷

『君は隅田川に消えたのか』

版画家・藤牧義夫。美術史においてさして有名な作家ではないが、本読みの方なら、もしかしたら洲之内徹のエッセー、『気まぐれ図書館』シリーズの「中野坂上のこおろぎ」、「夏も逝く」、そして同シリーズの絶筆となった、「一之江・申孝園藤牧義夫」で取り上げられた版画家として覚えている人もいるかも知れない。

本書は、その洲之内も登場し、夭折の芸術家・藤牧義夫の謎を追ったノンフィクションだ。

君は隅田川に消えたのか -藤牧義夫と版画の虚実

君は隅田川に消えたのか -藤牧義夫と版画の虚実

藤牧は昭和2年、16歳で上京し、18歳から版画をはじめる。すぐさま作品は版画界で評価を得るが、昭和10年、24歳で突然行方不明になってしまう。

長らく忘れられていたこの作家がふたたび世に出るのが、昭和53年、かんらん舎という小さな画廊で行われた遺作展だった。

まだ20代の若き画廊主大谷芳久が、版画界の重鎮、小野忠重が受け取った藤牧作品を展示し、すべて完売する。そして翌々年、藤牧が書いた隅田川の風景を描いた長大な絵巻物「隅田川両岸画巻」3巻が東京の科学技術館に展示され、それを受けてその後幾度か新聞などに登場するようになるのだ。

さらに、藤牧が隅田川に身を投げたとの想定のもと、慰霊のために花束を隅田川に撒く、というイベントが行われたり、小説家・野口冨士男による、隅田川両岸画巻」を題材とした『相生橋煙雨』が発表されるなどする。

これらの、洲之内徹の言うところの「お祭り騒ぎ」が起こったのは、藤牧の人生をめぐる物語ゆえだ。

生活に困窮し、食うものも食わず、体が衰えてゆくのも厭わずにひたすら取り憑かれたように隅田川を描き続け、完成とともに忽然と姿を消した夭折の画家、というシンプルなストーリーに人々は魅了されたのだ。

この物語の出処は、小野忠重である。小野は藤牧の年譜を作り、思い出として「暗いどん底で混迷」し、「ノイローゼ状態」の藤牧が小野のもとを訪ね、作品など荷物を託して消えた、たぶん自殺したのではないか、と書く。
ちなみに野口はここに「肋膜をおかされ」と病状に結核を付け足している。当時、「結核」がこういった安っぽい物語の一番の定番であることは言うまでもない。

ここに疑問を呈すのが洲之内徹。まず、『赤陽』という代表作が2種類あることを見抜き、人物像や年譜に関係者を取材し、さまざまな矛盾に気づく。洲之内なりの結論はある程度見えていたと思われるが、それを記す直前、「それはまた次号ということにしよう」と書いたまま、死んでしまう。

一方、かつて「藤牧義夫遺作展」で彼の版画を世に出した大谷も、10年にわたって藤牧作品の史料を集め、検証と考証を重ね、徹底的な研究を行い、様々な矛盾と疑念をあぶり出してゆく。

大谷の成果は、2010年11月に『藤牧義夫 真偽』(学藝書院)にまとめられる。定価20000円、多数の図版を収録した500ページ超の重厚な作品だ。

本書もその多くをこの大作に負っているが、巧いのに巧さを感じさせない素性のよい文体、藤牧をめぐる謎をスリリングなミステリーに仕立てる構成力と藤牧作品の魅力を言葉で確実に表現する筆力によって、実に面白い読み物となっている。断定的に書けない部分もあって、そこに物足りなさを感じる読者もいるかも知れないが、疑惑をめぐるデリケートな部分も、非常にうまく処理していると思う。

物語の持つ「おそるべき増殖力」(著者)で、芸術家の本当の姿が覆い隠されてゆく。一人の版画家のこととはいえ、それを食い止めた大谷の業績はいくら評価しても評価しきれないほど大きなものだ。またその専門的な研究に光を当て、普通の人々に届く形で、スリリングな一般書に仕上げた本作も大いに評価されるべきものだろう。

ただ、このようにすばらしく面白い良書が、大手出版社からといはいえ、実にひっそりと出され、特に話題にもならないのは、残念なことだ。「本のキュレーター勉強会」で話題に出る多くの良質なノンフィクションがすでに絶版になっていることを考えても、この本の未来を思うとき、どうにも暗い気持ちになってしまう。

今年は藤牧の生誕百年(本書が出た理由もそこにあると思う)。回顧展も予定されていることだろう。ぜひともNHKあたりで本書をもとにした良質なノンフィクションが作られ(日曜美術館の特集でもいい)、大谷氏の業績が評価され、また長くこの本が読まれ続けることを期待したい。

ちなみに、今回、『気まぐれ美術館』を検索して、同シリーズが全6巻セット以外は絶版になっていることに驚いた。永遠のスタンダードとして、てっきり普通に売られていると思っていたのだ。最初の3冊は文庫化されていたはずだが、これも絶版。このシリーズは文庫化して、持ち歩いてパラパラとめくって楽しむのが一番いい。ぜひ今一度の文庫化を望む。

『ご先祖様はどちら様』

実は高橋秀実さんの本は、おそらくほとんど読んでいる。しかしながら、経験的に言えば、その面白さを人に伝えるのは実はなかなか難しい。

面白いよ、と言って直接本を読むことを勧めれば、大抵の人はすごく面白かった、と言ってくれるのだが、どう面白いのかを言葉では説明しづらいのだ。

読みながら何度もふきだしてしまうのだが、爆笑を誘う風ではない。

そこはかとなく面白い。

しみじみと笑える。

そんな感じで、自分の才能のなさを感じつつ、うまく伝えられず、困ってしまう。

今回もいかにも秀実さん(あっ、著者は秀実と書いて、ひでみねと読みます)らしい、実にしみじみと面白さが滲み出てくる作品で、それゆえ、正直困りながら、この原稿を書いている。

困る、と言えば、秀実さんはなんとなくいつも困っている。

なんで困っているのだろう、と考えると、彼が固定観念に惑わされず、あらかじめイメージにとらわれず、非常に冷静な人だからだと思う。それが「疑り深い」と本人が言う所以だろうが、ここで意地の悪い人なら、その疑いよりどころに、ズバッと相手(人ばかりでなく、文書、世論、報道などである場合もある)の矛盾を突いたり、批判をしたりするかも知れない。しかし著者は相手の気持ちがとてもよくわかる、「同感」の人でもある。疑り深いのに相手の気持ちも推し量り、「あなたが言っていることはなんだか変だと思うけれど、でも気持ちもわからないでもないな」ということになる。だから困ってしまう。

さて、困ったときに著者はどうするか。

佇むのである。

ご先祖様はどちら様

ご先祖様はどちら様



本書はそのタイトルどおり、著者が自分の先祖を探した本だ。

自分の先祖を探す、というのは、ありふれた発想のようで、極めてニッチで、かなり前代未聞のノンフィクションだと思う。自費出版ならともかく、不特定多数の読者に読んでもらう作品にするなど、ほとんど不可能に思える。たとえ文壇の大物作家や売れっ子作家が「自分の先祖を探す本を書きたいんだけど」と言ったとしても、多くの編集者は、「いや、先生、それはちょっと……」となるに違いない。

しかしながら秀実さんがご先祖探しをした、そしてそれを本にした、となると、これは面白くないわけない、と即座に思ってしまう。たぶん、日本で唯一、自分の先祖について書いて面白い本を書ける作家ではないか。

なぜ、そう思うのか、それは、ご先祖探しをすれば、困るに決まっているからだ。僕も佐渡時代、家系図や自分史を作りたいと熱烈に思っている近所のおじいさんたちに相談を受けて、相当に困った。そんな経験もあるゆえ、長年のファンとしては、また秀実さんが困る姿を見ることができると思うと、それだけで心踊る。


その期待に違わず、著者はいきなり、気持よく困ってくれる。前述したように、彼が困るのは、イメージに左右される物事の本質を確実に掴むからだ。すなわち、彼はいきなり家系の本質を掴んでしまう。
すなわち、

家系は爆発である。

理論上の数字だが、単純に考えて、両親、それぞれの祖父母、さらに曽祖父と辿って、例えば四十代遡れば、

2の 40乗 = 1 099 511 627 776人

というとんでもないのご先祖様現れる。

そして、それはもはや、数を数えるのも無意味なような、もやもやした雲として、今を生きている人の背後にある、というのだ。

愚直に誠実に先祖を辿ろうとして、上記ような結論になり、困って身動きが取れなくなった著者は、日本という国家の根本のご先祖様について書かれているであろう、古事記日本書紀を紐解くが、そこで、この二つの書が記す、家系の本質もぐぐっと掴んでしまう。
すなわち、

古事記曰く、家系を辿るとわからなくなる。
日本書紀曰く、家系にはいろいろな考え方がある。

さらに困った著者の姿が目に浮かぶ。

しかしながら、実際に家系をたどって、家系図を作ったり、先祖のことを調べている人は、著者のようなことは考えもしない。ウチの先祖には◯◯というエライ学者がいた。実は清和源氏の誰それに繋がっている。自分ののぞみや、現状を反映して、ご先祖を取捨選択して、自分と結びつけていくのである。

そこで著者は、

家系を辿ることは、自分の中に、名家や立派な人の素質を見出す行為

であると見切る。

そうとわかったら、爆発やもやもやほどには困らない。そこでその行為を実践してみるのだ。

宮城から静岡、甲府、京都まで、「素質を見出す」旅に出て、取材を重ねる。そこでの出来事はそれぞれにおかしみに溢れているのだが、結局著者は、考え、同感し、困り、そして佇む。それは、実際に本書を読んで体験していただくしかない。それはたぶん、なんともいえず、幸せな時間になるはずだ。

加えて言えば、その幸せな読書体験を作っているのは、実はかなり考えぬかれた精緻な構造にもある。展開の仕方やオチのつけ方などは極めて秀逸で、細やかな部分の表現も実は工夫されていたりする。困って「佇んでいる」にしても、考えぬかれた、決して他の人には真似できない「秀逸な佇み方」をしている、と言えようか。軽く読み物として読んで、「あー面白かった」と本を閉じてしまうのではなく、何度か読み直すと、しみじみと感心と感動が広がるはずだ。

本書は著者自身が自分の先祖を辿った本、と言えるが、むしろ先祖を辿るという行為をしてしまう人間という動物の、愛すべき、そこはかとないおかしみを描いた作品だと言えるだろう。前々作の『趣味はなんですか』もそうだったが、そういうものを掬い取らせたら、この人の右にでる人はいないだろうな、と思う。

『乾燥標本収蔵1号室』

先日、飲んでいる最中に電話が鳴り、某誌編集者から、いきなり翌日締切りで書評原稿を書いてくれ、と言われてしまった。うっかりして、依頼を忘れていたらしい。そのとき読んでいたのがちょうどこの本。

乾燥標本収蔵1号室―大英自然史博物館 迷宮への招待

乾燥標本収蔵1号室―大英自然史博物館 迷宮への招待

というわけで、この本は、そもそもこのブログ書評のために読んでいたのだが、急遽雑誌にも書くこととなった。同じ本を二度取り上げることになったが、ご容赦を。

著者は、
Trilobite!: Eyewitness to Evolution』(邦題『三葉虫の謎―「進化の目撃者」の驚くべき生態』)や『Life: An Unauthorised Biography』(邦題『生命40億年全史』)、『The Earth: An Intimate History』(邦題『地球46億年全史』)などの科学ノンフィクションの著者として知られる。『A Short History of Nearly Everything』(『人類が知っていることすべての短い歴史』)ビル ブライソン著にも登場している古生物学者だ。

そんな予備知識のせいで、科学的、あるいは考古学的、生物学的なアプローチを持った本だと思って読み始めたのだが、予想は裏切られた。本書は、著者自身が長きにわたって勤めあげた、大英自然史博物館そのものについての本だったのだ。

第一章が、自然史博物館に就職するときからの、若き日の著者の思い出から始まったときは、正直「あれっ、買う本を間違えたかな」と思った。率直に言って、退官して余生を持て余す学者の自伝など読みたくもない。

しかし、そう思ったのは一瞬で、あっという間に話に引き込まれていった。一つには、著者の語り口のうまさのせいだが、それ以上に、いかにもイギリスらしい、大英自然史博物館とそれを取り巻く人々そのものの持つ雰囲気のせいだ。

大聖堂を思わせる建造物の中は、どこに何があるのか見当もつかない迷宮のような構造で、陽の光も入らぬ室内で、名も知らぬ無数の研究者たちが、膨大な数の骨や化石、ホルマリン漬けや標本の間で静かに蠢く。そんな描写から漂ってくる雰囲気が、イギリス小説そのものなのだ。実際著者も、博物館で働く人々を、ディケンズウッドハウスの小説の登場人物になぞらえているが、まさにあの感じ。著者自身も指摘しているが、集められた標本は、むしろ黒魔術の材料ではないか、と思わせるほどだ。ミステリー、幻想小説、猟奇小説、ゴシック・ロマンス、現代ホラーまで、この博物館を舞台にすれば、次々に小説が描けそうである。
英国の古典小説やミステリーなどをよく読んでいた私としては、このいかにもイギリス的な雰囲気を体感できただけで、本書は絶賛に値する。

そうやって、博物館の迷宮案内が終わると、歴代の館長や、そこで働く超個性的な研究者や、博物館内で起きたさまざまなエピソードの紹介が続く。とはいっても、本書は、単に、イギリスならではの雰囲気や著者の洗練された語り口、ぶっ飛んだ研究者の話や研究にまつわる興味深いエピソードを楽しむ「科学読み物」ではない(たとえそれだけであったも、定価2500円の価値は十分にあるが)。

本書には、人の「知性」そのものが描かれているのだ。

冒頭に紹介した『人類が知っていることすべての短い歴史』』で著者のブライソンに、フォーティは「長い間たった一つの生物を研究し続けて、特に成果を挙げなくても、その事自体、敬意に値する」といったことを述べていたのだが(手元に本がなく引用が不正確ですみません)、本書を読むとフォーティが何を言いたかったのか、本当によくわかる。

人は、研究し、分類し、そして死んでゆく。研究は受け継がれるかも知れないし、受け継がれないかも知れない。長い間博物館の迷宮の奥にしまい込まれ、数百年後に突如発見され、脚光を浴びるのかも知れないし、人類滅亡の日を迎えても、埃を被ったままなのかも知れない。しかし、そうであってもまったくかまわない。延々と続く収集、調査、分類、同定、そして整理と保存。あまりにマニアックすぎるこれらの行為と研究者のほとんど常軌を逸した意志、時代を越えたその継続とそれが積み重なった軌跡こそが、人類という種全体の知性なのだ、と本書を読んで思い至るのだ。

『ハウス・オブ・ヤマナカ』

科学ノンフィクションを除いて、日本のノンフィクションは、世界的に見て非常に優れていると思う。

一般書であっても、取材によって得られた事実や史料の扱い方が誠実で、読者が作品の背後にあるそれらの事実まで、リアルに届くことができるからだ。

乱暴な言い方だが、海外ノンフィクションでは、それらの史料そのものが持つ魅力や事実の力を、著者自身の優れた(と著者自身が思っている)レトリックの中に埋没させたり、本を一貫して流れる主張を補完する材料にしてしまったりすることが多い。読んでいて、「この著者の勝ち誇ったような、断定的な一文を支える事実は何なのか、詳しく知りたい」などと思ってしまうことがよくあるのだ。

もちろん、海外のノンフィクションでは、注を手がかりに調べたり、著者のウェブサイトなどを見ることでその一次史料に至ることができるわけだが、日本の優れたノンフィクションでは、作品そのものを読む過程において、史料の魅力が素直に滲み出てくることが多い。

それは、日本のノンフィクションの文体が、著者が全面に出すぎず、事実を冷静に追う、抑制された文体を持つことが多いからだとも言えるだろう。

科学ノンフィクションでは、逆のこの点が弱点になっているのかもしれない。高度な証明や実験結果を可能な限りに正確に引用しても一般の読者には難しすぎて退屈なだけだ。「正確ではないかも知れないが、凡そこんな感じだよ」と、著者が自我と個性を出して、断定的にひとつの魅惑的な物語を作ってしまったほうが、読者にとって魅力的な本となる。


話が逸れた。いずれにしろ、日本の優れたノンフィクションの多くは、事実や史料の魅力を伝えてくれるものが多い。

朽木ゆり子さんの『ハウス・オブ・ヤマナカ』は、まさに世界に誇るべき、秀逸な日本のノンフィクションの見本のような作品だと思う。

ハウス・オブ・ヤマナカ―東洋の至宝を欧米に売った美術商

ハウス・オブ・ヤマナカ―東洋の至宝を欧米に売った美術商


まず序章で示されるニューヨークメトロポリタン美術館所蔵の六曲一雙の屏風の物語。実は、この屏風は、ある時期に左雙と右雙はバラバラとなり、まったく違う時期に、違うルートでふたたびひとつとなった。

教科書でもおなじみのフェノロサ岡倉天心、美術蒐集家のハヴマイヤーやフーリア、そして本書の主役である山中定次郎らが登場して語られる、小さな、そして象徴的な物語が、第一章以降の、かつて世界中に知られ、忽然と消え、忘れ去られた東洋美術商・山中商会の大きな盛衰史へと繋がる。そして、当時の手紙や会計記録などの一次史料から、江戸時代末期から明治、そして昭和に至る世界的な日本美術ブームと、美術品取引の実体が活写される。

そのさまは、教科書で習っていたような、歴史の向こうに閉じ込められた古臭いものではなく、カネの動きや駆け引きなど、まさに今世界で行われているさまざまな抜き差しならない経済上の取引同様のリアルさで迫ってくる。そしてそのまま、一気に最後まで読ませるのだ。実はそのパーフェクトさゆえ、書評として内容について語るべきことがむしろ少ない。(ちょっとずるい言い方かも知れないが)、歴史に揉まれ、消えていった山中商会と、当時の東洋美術市場の雰囲気を、すぐに本書を買って読み、体感してほしい、とだけ書いておく。特に歴史的経緯や日米関係については、こちらの書評も是非見てほしい。
 
その代わり、冒頭に書いた、史料について言及したい。著者は、本書の主役、山中定次郎の唯一の自伝『山中定次郎伝』を、「英雄譚めいた二次史料」として重視せず、アメリカ公文書館にある、アメリカ政府が戦時中に山中商会から接収した87箱の史料やフーリアの全美術品購入の記録(すなわち領収書や請求書、価格表、手紙の山)をはじめとする美術館や資料館、コレクターたちの購入記録を調査して山中商会と定次郎のアメリカでの活動を明らかにしてゆく。

その調査力自体がすごいものだが、その史料をだらだらと作品内で明かしてゆくようなことは決してせず、厳しく取捨選択し、作品として再構築する、作品のために自己を律する力も素晴らしいのだ。加えて、美術品の価格が現代の貨幣価値に換算してどれぐらいになるかを示し、日本語の書類や書簡は現代仮名遣いに改めるなどして読みやすくすることで、最初から最後まですーっと軽やかに読むことができる一体感を作品に与えている。細かいことのようだが、読者や作品自体の完成度のためにこういうことができる作家は意外と少ない。
 
人は苦労をすると、その(読者にとっては面白くもなんともない)経緯を書きたがる(特に最近、大きな賞を受賞したようなな若手ノンフィクション作家にその傾向が強い気がする)。しかしながら著者は、膨大な時間を費やして圧倒的な史料と格闘したうえで、淡々と、涼しい顔で書いているような印象だ。

そして、素直で平易で美しい文体。地面の深いところまで根を張りつつ、そのことを感じさせぬようにまっすぐに伸びた植物を見るような心地良さがある。言うまでもなく、そこに実った果実には充実感が漲り、その味わいは深く透明で、読み手を存分に楽しませてくれる。

週刊文春4月7日号 今週の必読『鯨人』

友人と開梱予定の山の畑で木の根を掘っているとき、携帯が鳴った。
週刊文春の「今週の必読」を書いてくれ、とのこと。書評に関しては営業をしたことがないので、びっくりする。編集者の方が提案した本は『鯨人』。前回の「本のキュレーター勉強会』で紹介してもらった本、なので、「もちろん存じております」なんて答えられてラッキーだった。

鯨人 (集英社新書)

鯨人 (集英社新書)

今発売中の週刊文春4月7日号。けっこう力を込めて書いたので、読んで頂けると嬉しいです。読み直してみると、自分で言うのもなんだが、なんか書評のクオリティが上がっているような。明らかに、成毛眞さん東えりかさん、そして勉強会の面々(左リンクより飛んでください)から影響を受けて、向上している。
今回の書評の目標は、まずある程度本の中身が文春の読者に伝わり、興味を持ってもらうこと、そして最終的に、この『鯨人』という本を買ってもらうこと。まさに本のキュレーションを目指した。