2008-12-08
■[memo]
- 波平恵美子『病と死の文化:現代医療の人類学』、朝日選書414、朝日新聞社、1990年
- 読了。第一章以外は、1986-1990年にかけて発表された文章を加筆・修正したもの。「日本人の死生観」「癌告知」「脳死と臓器移植」「エイズのイメージ」などさまざまなテーマが取り上げられている。とりわけ、医療人類学自体を中心に論じた第11-14章がおもしろかった。たとえば、医療人類学をバイオエシックスとを対比させている以下の箇所等である。なぜこうした対比がおもしろかったというと、他の文献、たとえば、バイオエシックス(生命倫理学)の説明をした文献で対比的に医療人類学が言及されるような場面を目にしたことがなかったから。まあ、どちらの分野にも詳しいわけではないので、知らないだけの可能性が高いとは思うが、とりあえず、引いておく。
1970年代に入っての、アメリカにおける医療人類学の発展は、発表された論文数や著書の増加、学会での口頭発表数の増加、大学や病院や福祉・医療関係の領域への医療人類学者ないしその訓練を受けた者の進出などによって測ることができる。そして、その背景には、例えば、米本昌平『先端医療革命』の中で論じているような、アメリカにおける医療状況の革命的とでも呼べる大きな変化があった。安楽死、臓器移植、遺伝子組み換え技術、出産時の重症障害児の延命措置、重度の植物状態の人の延命などに関して、急速に進歩する医療技術が結果としてもたらした状況において、医療従事者や患者の家族が人間の生と死とをめぐってその判断が分かれる事例が、次々と出てきた。・・・・・・・
/これらの問題は「バイオエシックス(生命倫理)」という新しい言論の領域の発達を促したが、バイオエシックスが、あくまでもアメリカの社会的・経済的・政治的・文化的な枠組みの中で是非を論じるうえでの理論構成であったのに対して、医療人類学は、そのアメリカの、あるいは西欧的、キリスト教的な文化基盤そのものをも相対化することをめざすものであり、アメリカにおける医療状況が深刻で基本的な問題を提出すればするほど、それを相対化してゆく視点を鍛えていったと言える。その一方では、医療人類学の下位領域として、応用人類学としての「臨床人類学(clinical anthropology)」が発達し、医療現場で生じる様々な問題解決学としての方法を発達させてきている。
/バイオエシックスとは根本的に異なる立場に立って、人間の生と死、そして老化という問題を、それが人間すべてに共通しているゆえに、医療人類学は特に問題にしてきた。(pp.220-1)
2008-12-06
■[memo]
- 波平恵美子『日本人の死のかたち:伝統儀礼から靖国まで』、朝日選書755、朝日新聞社、2004年
- 読了。勉強になった&おもしろかった。とりわけ、著者が1964年からつづけた村落調査でのエピソードを集めた第三部「さまざまな死のかたち」には考えさせられた。あとがきによると、『病と死の文化:現代医療の人類学』(朝日新聞社、1990年)の続編とのことなのでそちらも読んでいる。以下の件は、自戒の意味もこめて、引いておきたい。
昔は現在と違って一組の夫婦に子どもが何人もいたのだから、一人や二人子どもが死んでも親の悲嘆はそれほどでもなかったろうと考えるのは、現代の人びとが過去の人びとについて抱きがちな誤解である。確かに、一組の夫婦が十五、六人も子どもをもつことがあったが、そのうち成人する子は少なかった。また、周囲の夫婦が多くの子をもつのに一人も生まれないか、生まれてもやっと一人か二人であり、その子どもたちも成人前に死亡してしまうという家も決して少なくなかった。聞き取りによって家系調査をすると、子が生まれないか次つぎに死亡したため、養子をとる例が非常に多い。子どもの命は実にはかなかったようである。
一九一〇(明治四三)年生まれのある女性は次のように思い出を話した。長女であるその人を頭に両親にはすでに六人の子どもがいたが、七人目の男の子が、一歳未満で何の病気だったのかわからないが、死んだ。葬式の日、母親は激しく泣き崩れ、いざ出棺という時にその子の名前を泣きながら何度も呼び、「お母ちゃんも○○ちゃんについていきたい」と言ったという。それを聞き、当時十三歳の少女であったその人は、「私たち六人の子を残してお母さんは死にたいの。それじゃあ残った私たちはどうすればいいとお母さんは思っているんだろう。○○ちゃんほどには私たちのことを愛してくれないんだ」と思い、激しく母親を憎んだという。泣き崩れた母親が、残りの六人の子どもたち全部合わせたよりも、死んだ一人の子どもが可愛いと思ったのでは決してないだろう。しかし、どんなに子どもの数が多くても、とくに生まれて間もない幼い子の死は、親たちの悲嘆の種だったようである。(pp.97-8)