Dog Planet Cafe 〜 犬惑星 〜 このページをアンテナに追加

2015-01-15

今年もありがとうございます

 

自分は基本的に怠惰で内向的なダメ人間なので、

才能と言うようなものは一切ないのだけれど、

「奇人変人と巡り会う才能」には恵まれているのではないかと思っている。

 

昔は街で変な人を見かける程度だったのが、

最近は「ご当地キャラ」がブームらしいので、

儲かるんじゃないかと勘違いした人たちが向こうから近寄ってくるようになった。

きちんと『ゆるキャラ論』読んでもらえたら、洗いざらい書いてあるので、

そんな勘違いはするはずないのになあと思いつつ、

世の中には活字があまり好きじゃない人、

そんな時間も余裕もない人たちがたくさんいるのもよくわかっている。

 

一方的に自分が被害者だなんてお高くとまるつもりはないが、

それにしても、ここ2年ほど、

世の中には訴えられたり捕まったりしない程度の悪人とか、

困った感じの人ってたくさんいるんだなあというのを実感している。

 

基本的には「ご当地キャラ」をやろうなんて人間はバカがつくほどお人よしで、

こっちが申し訳なるくらいに善良な人たちばかりを見てきてしまったので、

いわゆるふなっしーブーム以降に現れた人たちの何もかにもに惑わされてしまった。

実際にはブーム以前からの知り合いもいて、

自分が鈍感すぎてその本性に気づかなかっただけって人もいたけれど…

 

で、周囲の人たちにえらく叱られながら学んだのは、

下心のある人というのは善良なふりをして近づいて、驚くほど清々しく嘘をつくということ。

本人に嘘の自覚がないのかもしれないけど、なんか「断言」しがちな人というのは、

わりとあとからボロが出がちだなあというのを感じる。

ボクなんかはこの世の中に絶対なんてことがあるはずないし、

100%自分が正しいなんてことはありえないんじゃないかと思っているから、

なるべく断言とかせずに、なんか「自分なりに頑張ります」とか、そういう言葉でごまかして、

結果的に視線がうわついて挙動不審になりがちなのだけれど、

世の中にはハキハキと、目を爛々と輝かせながら嘘をついたり人を貶めたり、

いろいろする人たちがいるんだなと…。

考えてみれば、ボクが今まで出会った善良な人たちというのは不器用で挙動不審で、

仲良くなるのにそれなりに時間を要した人たちばかりだった。

 

去年はとくに、

主観的にはちょっと迷惑、

客観的にはものすごく面白い人たちが、

現れては消えていったり、

こちらからちょっと距離を置かせてもらったりした。

残念なのは、そういう人たちを面白がりながら晒せないこと。

昔だったら嬉々としてはてなダイアリーに書きまくっていたことが、

いろいろ立場上、守らないといけないものが出来たりなんだかんだで、

すべてできなくなってしまった。

 

唐突だけれど、中学生の頃にハマった『幻獣少年キマイラ』という夢枕獏の小説あって、

最近、角川文庫からラノベ風の装丁でもう一度出はじめてるんだけど、

久々に読むと、登場人物の誰に感情移入できるかというと

仙人みたいな老人、真壁雲斎だったりする。

たぶん、年齢的なものもあるだろう。

で、悪役ではないけど失うものが何もなくて汚い手を使って相手を倒そうとする

菊池良二という人物がいて、実は昔はそんな彼がわりと嫌いじゃなくて、むしろ好きだったのだけれど、

今の自分の境遇を考えると、いつの間にか自分は菊池の立場じゃなくなっていたんだと気づいて愕然とする。

むしろ、相手は本気でこちらを殺しにかかってくるのに、それを防御しながら、

同時に相手を殺さず、傷つけず、永遠に自分の大切なものを守り続けなければならないという、

劇中で雲斎や九十九にのしかかってくるテーマが、自分の立場に重なって、

思わずその答えを作中に見出そうとしてしまう。(もちろん、答えなんて出るはずがないんだけれど)

 

暴露したり相手を責めたりすれば一時的に自分は爽快感を得られるかも知れないけれど、

結果的に事態は解決もせず、むしろ悪い方向に向かってしまう可能性があるなんてことも

世の中にはたくさんあるんだなと、つくづく思い知った。

しかし、なんかこう、モヤモヤしたものを抱えながらも、

もはやドMとしてそれすら楽しんでしまうしかないんだなという悟りの境地みたいなものもある。

思えば、夢枕獏にハマっていた中高生だった頃、意味もなく出家したり苦行をしてみたいと思っていた。

将来の夢は坊さんになって山篭りすることだったけれど、

出家なんかしなくても苦行は可能で、むしろ浮世の苦界で悶々とする方がよっぽど苦行かもしれない。

そう思うと、まだ若くて幼かった頃の自分の夢は、今かなっているような気がしないでもない。

 

今年も、ネタにできないくらい面白い人たちに出会えそうな気がして、今からワクワクしている。

2011-08-18

「まんべくん失墜の謎に迫る!」

 

◆メガヒットの成功心理 第4回「まんべくん失墜の謎に迫る! <前編>」

http://t.co/Dwxg61F

 

◆メガヒットの成功心理 第5回「まんべくん失墜の謎に迫る! <後編>」

http://blog.garyuproject.com/20110819/4116.html

 

こちらの方はだいぶ更新が滞ってますが、

我流プロジェクトで連載している記事に

大きな反響をいただきました。

 

後編、ほぼできてますが、

基本的には水曜更新なので、

来週か、あるいは状況を見極めて

もしかすると早めにアップされることもあるかも知れません。

後編もアップされました!

http://blog.garyuproject.com/20110819/4116.html

 

あくまでも私見であり、

考察に過ぎないので

全部が事実というわけではありません。

 

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起業家を対象にしたサイトという事もあり、

儲かる儲からないといったお金の話をしていますが、

「ご当地キャラ=キャラクタービジネス」では決してありません。

 

運営団体やキャラクターによって

当然のことながら「目的」は違うし、

「成功の基準」も違ってきます。

 

「儲からないのになんでやるの?」

という疑問に対しては、

キャラクターを作る目的はおおまかに2つあると思っていて、

  

◆「外」に対するアピール

 地域外の人に知ってもらって観光に来てもらったりお土産を買ってもらう。

  

◆「内」に対するアピール

 地元の人にもっと地元のことを好きになってもらう。

 みんなで目的や理想を共有するための旗印としてのマスコット。

  

このふたつ。

いずれにせよ、儲けが最終目的ではなく、

地域全体が活性化することで

そこに住んでいる人が住みやすくなるようにというのが目的です。

そのための手段のひとつに「儲け」もあるという感じ。

 

だから儲からないまでも費用対効果として

かけたコストの割にアピール力があると判断されれば、

そのマスコットには存在意義が保障されるわけです。

まんべくんは完全に外向きに特化していたけど、

内向きのアピールはお金以外の「時間・労力」さえあれば

ほぼ100%効果が出ます。

行政がやってる大多数のキャラもおそらくこっちがメインなので、

あまり儲けに対して頓着がないのではないでしょうか。

  

あと一番大事なのは、

住民の意識が変わったとか、

町のイメージが変わったとか、

住みたいと言ってもらえるようになったとか、

お金に換算できない価値もあるので、

何を重視するかはやはり運営側次第です。

 

さらに、利益をあげるにはそれなりの

「コスト・努力・ノウハウ」が必要だけど、

これにプラスして時の運で大化けする可能性がゼロではない。

ある意味、買っときゃいつかは当たるかもしれない「宝くじ」

みたいな感覚でやってるところも少なくないはず。

 

ただ、たしかに乱造はどうかと思います。

作っておしまいみたいなキャラは、

結局コンサルや各種の制作会社が儲かるだけですから。

 

もちろん、ご当地キャラ業界が死屍累々の山といっても、

成功事例だってたくさんあります。

個人的には「ひあゆ丸」や「やなな」はすごく理想的な形で

ビジネスと地域性の両立を果たしてると思います。

あとは、やっぱりチーバくんのように後追いでも

巨大プロジェクトなら大きく育つ。

芸能人と一緒で、キャラクタービジネスは

投資額デカさがリターンに直接結びつきやすいので。

 

記事を読んで「全然違うよ!」と思う方も大勢いるでしょう。

間違っている部分があれば教えてください。

 

何かご意見があればぜひ、

メールでもコメントでも受け付けます。

 

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◆過去の記事は、こちらにまとめてあります

http://mt-dog.jugem.jp/?eid=238

2011-05-09 このエントリーを含むブックマーク

ブログは全然更新してませんが、

こちらで連載してます。

 

◆我流プロジェクト

http://garyuproject.com/

 

◆『我流プロジェクト』 連載 - 犬山デザイン製作所

http://mt-dog.jugem.jp/?eid=238

2011-03-18

デマの心理

デマが広がることは、いつの時代でも、重要な社会的、心理的問題であるが、とくに危機の時代には、なおさらのことである。社会的緊迫のあるときには、いつでも、誤った報道が、猛威をふるうのである。戦時には、デマがひとびとの志気を涸らせ、不必要な警戒と、不当な希望を持たせることで、国家の安全を、脅かすのである。デマは、軍事情報の機密をおかし、もっとも危険なことには、忠誠な国民の諸集団に向かって、敵対と反感のばい菌を、ばらまくのである。

 

『デマの心理学』

G.W.オルポート/L.ポストマン/南博・訳 

 

デマは「嘘」だから問題なのではない。

 

本当の恐怖は「なんとなく、そんな気がする」という

皆の心の奥底に「納得」が生じてしまう部分にある。

 

だから誰かが故意に、おもしろがって流布しなくても、

「100分の何秒と一瞬であるレントゲン照射と、

 放射能が環境にばら撒かれている状況を一緒にするべきではない」という

誰かさんの思い込みに「納得」して、賛同する者が大量に現れれば、

それは自然発生的にデマとなる。

 

デマを信じてしまう人間はバカだ、などという、

他人への指摘や嘲笑はあまり意味がない。

当人にとっては大まじめな「現実」であるところに

こっちにも危害が及ぶほどの危険性が潜んでいる。

 

これらは、本質的には「信仰心」などとも関連してしまう話なので、

表立ってはできない話ではある。

子どもの頃から「信じることは素晴らしい」と教えられてきた。

特定の宗教を非難する人でも、

「信仰心」そのものを非難するようなことは、めったにない。

だが「信じる」ということは、成否にかかわらずその対象に賭けるということだ。

つまりギャンブルである。

行為そのものに合理性がない。

 

しかも信じるかどうかの判断は「事実」と無関係であるにも関わらず、

信じている当人にとっては、世の中のすべての事象が

自分の信じる概念の「立証」や「根拠」にしかならない。

 

「あなたの信じている情報はデマですよ」と教えられて納得する人はいい。

しかし、たとえ誤解だとしても、命の危険を感じている人にとっては、

どんな説得の言葉も「情報を隠蔽している。余計に怪しい」ということになってしまう。 

 

現実に銃を突きつけられていなくても、

背中に硬い物を突き付けられて「撃つぞ」と脅されれば、

思わず無防備に手を挙げてしまうだろう。

半信半疑でも、リスクがある以上はリスクを避ける方向に動いてしまう。

今回の「買い占め騒動」だって、「放射能汚染」だって、

その心情はやむを得ない気もする。

 

どんな虚構も、信じてしまった当人にとっては現実となる。

たとえば現在、コンビニに通常の2倍の商品が供給されているにも関わらず、

あわてて買い占める人が多いので欠品となっているらしい。

強迫観念に駆られている人にとって、

目の前に商品がないという現実を突きつけられれば、

「やっぱり品不足なんだ!もっと買わなきゃ!」とさらに不安感は増すことになる。

正直、それで豆腐やヨーグルトなど、

賞味期限の短いモノを大量買いしてどうするんだろうという

根本的な疑問はあるが…

 

オカルトの語源はラテン語の「隠されたもの」である。

「謎」を謎のまま保留しておけば、すべてオカルトとなる。

未確認飛行物体は未確認のままならUFOであり続けるし、

枯れ尾花だって、正体を確認しなければ幽霊のままなのだ。

 

不謹慎かも知れないが、

どうせ宛てにならない何かに期待をかけるなら、

僕個人は神や2ちゃんねる情報よりも、

最前線で事態に立ち向かっている人たちに

「信頼」という「非貨幣」をベットする。

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◆追記

 

twitter上で「大切な情報が埋もれてしまうといけないのでつぶやきを控えます」という人を見かけるけど、

はっきりいってtwitterにそこまでの情報を求めてないし、

情報を求める際はタイムラインではなく検索エンジンを使うだろう。

そもそもネットにそこまでの信憑性を求めてはいけない。

しかしネットにだって迅速で正確な情報は存在すると反論する人もいるだろう。

事実、たまに2ちゃんねるなんかで、

当事者が降臨してリアルタイムな発言をすることがある。

まあ、犯行声明とかが良い例。

 

しかし、たいていホンモノだったかどうかの検証は

すべてが終わった後に行われるものであり、

事態が進行している間は未確認であることが多い。

 

たとえ事実であっても、確証の取れない情報には使い道がない。

そういった意味でも、大切なのは「ウソかホントか?」という部分ではないのは確か。

そもそもソーシャルな力で情報の精査がなされるところにtwitterのすごさがあるので、

どうでもいい個人の、どうでもいいツイートなんて、むしろ大切な情報の水面下に埋もれてしまうので大丈夫なんじゃないかと思う。

まあ、だからデマも流していいというわけではないけど、

どうせみんなネットでガス抜きしてるんだし、

ある程度の気遣いがあれば、そこまでピリピリしなくていいんじゃないかと思う。

まあ、ネットでの発言を控えて、家で神様にでも祈ってるのが一番人様の迷惑にならなくていいかもしれないが…

犬山デザイン

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2010-04-08

ディズニー供養

 

昨今の葬儀ブーム…

あるいは「新しい葬儀論ブーム」に乗り遅れてしまった。

2、3年前から目を付けていたのになあと、悔しい気もするが、

新書ブームの時ですら権威のない僕ごときが企画しても通らなかったのだから、

コンビニ本の企画と一緒に出したところで通るはずもないのだ。

 

少子高齢化でおそらく「死」は身近になった。

老人にとってはもともと「自分の死=葬儀」は身近な話題だし、

若者にとっても貧しい老後しかイメージできない現在、

かつて輝かしいイメージを帯びていた「未来」や「将来」といった単語すら「死」に直結しはじめている。

電車が人身事故で止まったりするたび、無感動な自分にかえってギョッとする。

 

こないだテレビで健康寿命という言葉が紹介されていた。

日本は平均寿命は高いが、それは介護によって延命されているからに過ぎないというのだ。

いろんな不安を抱えつつも、

我々は今、死を畏れながら同時に待ちわびている。

数十年に一度おとずれる墓や葬儀に関する論争やブームの背景には、

「死への恐怖と期待」が入り乱れたアンビバレントな感情が隠されているような気がする。

死ぬのは怖いけど、ちょっと楽しみだったり、

痛いのはいやだけど、死こそ最後の安住の地であるような気がしたり、

不明瞭だからこそ、人間は「死」に様々な意味づけをしてしまうものなのだ。

 

うちの父親なんかは、

いまだに大きな仏壇と立派な墓にアイデンティティを抱いている。

 

一方、離婚した母親は、とある新興宗教を脱退してからしばらく宗教を渡り歩いていたが、ここ最近はそういったものから遠ざかっている。

かつては何十万もする新興宗教の仏壇を次々に買い換えてそれがトラブルの原因となったが、今ではすっかり熱も冷め、

たまに自宅を訪ねてゆくと、慕っていた祖母の写真とお供えのお菓子や果物、

それを囲むように僕のあげた韓国土産やぬいぐるみなんかが飾られている。

あるいは、ぼくのデザインした着ぐるみキャラクターの写真なんかも一緒に置かれていて、やや混沌とした様相を呈している。

その、宗教を背景としない独特の祭壇は、

かつて新聞記事から切り抜いた少女の写真を

ゴシック調の家具や雑貨で飾って祭壇を作っていた

ヘンリー・ダーガーのようだ。

 

しかし個人的には、従来の「葬式仏教」に固執する父よりも、

自分にとって愛着のある品々を集めて作った母親の祭壇こそ、

供養や弔いの方法としては「納得」できてしまう。

 

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かつてディズニーで働いていた頃、

ゲストとお話しをしていると「実は今日は死んだ子の命日で…」みたいな話に遭遇することがたまにあった。

命日でないまでも、おそらく亡くなった身内がディズニー好きで、その想い出とともにおとずれるという人は少なくなかっただろう。

死んでないまでも、よく子供と来てたんだけど、子供が成人して巣立ってからは夫婦で来てますなんて話だったらかなり多かった。

 

「故人を偲ぶ」という意味では、よっぽど墓参りよりも供養になるような気がする。

何より、供養というものが「死者」のためではなく「生者」のためのものであるという身も蓋もない「根源」に立ち返るなら、

特に思い入れもない人間を法要に呼び出して、

退屈な読経を聞かせてうんざりされるよりも、

故人を慕う人間だけが想い出と共に楽しい一日を過ごせる方がよっぽど意味がある。

 

かつて諸々のトラブルで絶版になった『最後のパレード』にも掲載され、

ディズニーをネタにしたセミナーなんかでもよく語られる話がある。

有名な話だし、あらためて語るのも面倒なのでリンクで済ますが↓

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1313704258?fr=rcmd_chie_detail

これなんかも、「ディズニー供養」とでも呼べる好事例だろう。

一部では都市伝説とも言われているが、

顧客満足のためにこれくらいの裁量権は現場にあるんですよという話なので、

おそらく実話だろう。

 

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冠婚葬祭というのは、仕きたりばかりが先走ってオカルト化してしまっているけれど、

要は「みんなが納得するための儀式」である。

葬儀に限らず、結婚式なんかもけっこう興味深い儀式がある。

 

特にブライダル産業を見ていると、「新しいジンクス」どころか「新しい宗教」が生まれつつあるような、そんな息吹を感じる。

オプションで付いてくる新郎新婦が生まれてきた時の体重と同じ重さのテディベアとか、二人で光る液体をそそいでハート型を作る儀式だの、キャンドルサービスの代わりにアロマオイルみたいなのに蛍光塗料を浸した花びらを散らす儀式だの、よく考えるなあと感心してしまう。

さながら、80年代頃に流行った『マイバースデー』などのおまじないブックみたいだ。 

葬儀の仕方は宗派によってそれぞれ違っても、

各宗派の僧侶の話を聞けばけっこう「納得」させられてしまう。

仏教の場合、四十九日というのは共通しているが、他の宗派が三途の川を渡って成仏する過程をあらわしているのに対して、たしか浄土宗は仏のもとで修行する日数みたいな解釈だったと思う。

 

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よくディズニーランドをバカにして「ハリボテ」じゃないかという人がいる。

そういう人にわざわざ説明するのも時間の無駄なので、その場ではニコニコしながら「そうだね〜」などとお茶を濁すが、それを言ったら宗教にしろ社会生活にしろ、全部ハリボテじゃねぇかと思ってしまう。

人間というのは、多かれ少なかれそのハリボテをありがたがって生きているのだ。

 

冠婚葬祭というのも、古いハリボテの説得力が薄れて、

もっと説得力の強いハリボテが出てきたときに少しずつシフトしてゆくものだと思う。

 

ただ、新しいものが生まれる時にはたいてい、その説得力や正当性を強調するために古いものが引っ張り出されてくる。

たとえばこないだ電車の中で見た広告には簡易仏壇が紹介され、柳田邦男が引用されていた。

かつて先祖の霊を祀る祭壇は「魂棚」と呼ばれ、それは野に咲く花が飾られるだけの質素なものだったというのだ。

だから簡易仏壇こそ、本来の供養のカタチなのだという。

 

あるいは先日、創価学会友人葬に出席してきた。

そこで語られるのは、釈迦や日蓮は葬式でお経を唱えるヒマがあったら修行しなさいというようなことを言ったらしい。

だから僧侶が読経する葬式仏教というのは間違っていて、故人と親交のあった友人達で弔ってやることこそが、仏教本来のやり方に近いのだという。

 

まあ、なるほどなあと思う。

ただ、やはりここでも重要なのは「納得」だ。

その価値観を共有していない人間にとっては、どの宗派のどんなやり方も疎外感を抱く要因になってしまう。

友人葬なんかも、信者でない親戚はちょっと戸惑っていた。

 

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先日、マンション型の霊園に行く機会があった。

ICカードをパネルにかざすとベルトコンベア式に遺骨が移動してきて、

パカッと墓石型のフレームに収まるという仕組みだった。

さらにオプションで生前の写真がスライドショーのように移り変わる。

祭壇にはいつでも綺麗な花が飾られ、常にお坊さんも常駐している。

さながら多くの死者達との集合住宅といった感じだから、

「これなら寂しくないなあ…」などと思ってしまった。

 

冬は暖かく、夏は涼しい。さらに雨などの天候も関係ない。

お墓参りする側にとっても、実に恵まれた環境だった。

 

考えてみると、従来の墓ではメモリーできるデータ量が少なすぎる。

墓石に刻めるのは「誰がいつ死んだのか」くらいだし、

卒塔婆は「誰がいつ来て金を払っていったのか」くらいしかわからない。

お供えから個人が生前好きだったものは偲べるが、

先祖代々の墓だったりすると、そのささやかな差異も薄まってゆく傾向にある。

 

それにくらべると、ささいなことではあるけれど

お墓にデジタルデータの肖像画が飾られているだけで印象はだいぶ違う。

故人への思い、感情移入の深さも変わってくるだろう。

 

まだインターネットが登場したばかりの頃、

インターネット上にお墓を作ろうというプロジェクトがあった。

ちょうどその頃に出版された『サイバーストーン』という本があって、

これはなかなか名著だったと思う。

 

巣鴨に寺院を持つ住職の書いた本なのだけど、

これからの時代、遺骨を焼いて墓を建てるというスタイルがそもそも間違っているのだという話を延々と書いている。

なぜ墓を建てるのかといえば、故人にまつわる何かを残しておきたいからだ。

だったら、遺骨では役不足だろうというのだ。

代わりに提唱するのが「髪の毛」である。

遺骨を焼いたらDNAは残らないが、髪の毛だったらたった一本でも完璧なDNAを残しておける。

さらにDNAをデータ化して生前の写真や音声、動画などと一緒にネット上にアップすればいつでもどこでも墓参りが出来るというのだ。

実に説得力もあり、魅力的な方法だと思う。

 

結局あまりうまくはいってないようだが、

個人的にはアリだと思う。

ただ、実際に死者のサイトやブログがそのままネット上に残っていて、

故人を慕っていたユーザーがたまにおとずれるという現象が自然発生的に生まれている。わざわざお寺に頼んでお金を払わなくても、ほとんど無料でネット上に実現できてしまっているともいえる。

アカウントの期限が切れたり、IDを削除されるという心配もあるが、

ウェブ魚拓なんてのもあるし、少なくとも何百万とか何十万もかけて仰々しくやるものでもない。

正直、ビジネスとしては儲からないだろう。

 

そういった自然発生的な供養の延長として、

twitterのbotなんてのもアリなんじゃないかという気がしている。

ネット上にデータの蓄積されている人物であれば、

かつての発言を切り取ってランダムに表示させるだけで

なんだか生きているんだか死んでいるんだかわからない状況ができあがってしまう。

特にtwitter上の発言なんかは、「お腹空いた」とか「おやすみ〜」とか「これから仕事」とか、いつ誰が言っても違和感のないものが多いから、ネット上にデータがなくても生前の人となりをリサーチして作ることはできそうだ。

 

なんだったら、「故人bot作成いたします」みたいな看板を掲げてみようか。

プラスして、生前の写真を加工していろいろな風景と組み合わせたり、家族の集合写真、ペットとの写真なんかも作ることはできるし。

遺影というのは前々から準備しておくようなものではないので、実際に葬儀会社なんかではフォトショップによる合成を行っているという。

でも片手間のサービスでやっているのでクオリティはあまり高くないというのが現状だ。

ボロ儲けはできないだろうけど、こうしたもののニーズは確実にあるはず。

キレイにデコれば、携帯電話の待ち受け画面なんかにも使えるし。

 

だけどそれこそ「生者の納得」という観点に立てば、

そういった汎用性こそ儀式の荘厳さよりも求められてくるんじゃないだろうか。

 

 

 

■関連しそうな過去の記事

 

犬惑星 - 死して屍拾う者あり

http://d.hatena.ne.jp/dog-planet/20060802/

 

犬惑星 - 本当はあまり怖くないポニョの都市伝説

http://d.hatena.ne.jp/dog-planet/20080805

 

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※「故人bot作成」「遺影のCG加工」など、本当にお受けします。

 

あと、冠婚葬祭に関する新書を書かせてくれる出版社も…

『ディズニー化する冠婚葬祭』なんてどうでしょうか。

なぜ人はディズニーで結婚式をあげたがるのか?

ゆくゆくは「ゆりかごから墓場まで」ディズニー化するんじゃないのかなどなど…

 

御用命は「犬山デザイン製作所」まで!

 

■犬山デザイン製作所

http://mt-dog.jugem.jp/