2010-03-06 ミレニアム・ヘッドライン
ミレニアム・ヘッドライン
ジョン・ケッセル『ミレニアム・ヘッドライン』(ハヤカワ文庫SF)
翻訳者の増田まもるさんご本人からお勧めされていた本。現代アメリカに潜む病理をペシミスティックに描いたグロテスクなSF長編。翻訳された1993年当初に購入していたのだけれども、その当時の自分では『ミレニアム・ヘッドライン』の面白さがわからなかったと思う。当時のアメリカに内包する問題点(キリスト教原理主義、オカルト、経済状況、宇宙人陰謀説)が絡み合って、1999年というミレニアム前のディストピアになったアメリカを描写していく。その意味では、ドライコ一族というコーポレーションギャングに支配された世界を描いたジャック・ウォマックの作品と比較してもよいだろう。そういう意味では、荒廃したアメリカを描いたディストピアSFとも読める。本書で出てくるHCRのヘッドライン(各章のタイトルは、主人公ジョージが属するニュース配信会社HCRの見出しになっている)の各章を読んでいると、1999年4月から2000年4月までに何が起こったのかがわかるようになっている。主人公ジョージ、その妻のルーシー、HCRにジョージを抜擢したジョージの親友リチャード、そしてキリスト教原理主義の指導者ギルレイの4人の物語を中心に(時折、彼ら以外の別人物たちのエピソードが挿入され、それらが実に興味深いものになっている。)進行し、あっと驚く物語の展開が見られる。その意味では、まるで「あらし」のような怒涛の1年間を描いている感じではある。もともとケーブルテレビのネットワークなどを通じたキリスト教の説法が行われているアメリカでは、このような過激な破滅願望を持つ原理主義者たちが跋扈する環境が整っていることから、「陰謀」や「噂」により実は世界は構成できるというある種の真理を描きたかったのではないかと感じた。
ケッセルの描いたアメリカ自体は遺伝子操作によるウィルスが蔓延し、経済は新通貨を発行してデノミしなければならないほどのインフレに苦しめられた絶望的な状況にあり、アメリカ人自身が終末自体を予感する「自己実現的」な状況にあった。そんな中HCRの敏腕記者であったジョージは人間もどきの存在たちがアメリカ各地で引き起こす事件をベースに、このことが異星人の侵略の証であることを確信するものの、運悪く心臓発作で倒れ、妻のルーシーと親友リチャードの手助けもあり、ある種のウィルス蘇生法により、死からの復活を果たす。その一方で、キリスト教原理主義のテレビ伝道師ギルレイは、イエス・キリストを司令官とする宇宙船<ニュー・エルサレム>が地球に着陸し、最後の審判が始まると説法する。これら謎めいた人間もどきの人々は、彼にとっては神の御使いだと考えられていた。果たして、ミレニアムは到来するのか?
読み終えた感想は、ある一定レベルの知識があれば楽しく読める(そうでなくても、嫌なアメリカ世界を描いたディストピアSFとして読める)。ケーブルテレビを通じたキリスト教伝道師によるキリスト教原理主義思想の広まりの問題をネタに、男性主権社会に対する批判を織り込み、政府によるコントロールを超えてインフレによって崩壊したアメリカ社会を描く。またさらにウィルスによりout of controlになった状況などを踏まえても、情報の奔流、ウィルスの奔流など、「拡大したことにより、コントロールができない」世界を見事に描くことに成功している。それは上巻や下巻にある、主人公たち以外の物語にある。まずは精神経済学の話。人は自分が消費するよりも多くの愛を得たいと感じる。つまりコストとベネフィットを勘案して、精神的な幸福の余剰を最大化するような行動をとる、とする。そしてその行為自体は、ある種のキャパシティの制約のもとで精神的な幸福の最大化(効用最大化)をする主体であって、決して利他的ではないということ。この原則はジョージやルーシー、リチャード、ギルレイたちにも当てはまり、本書内で一貫して利用されている。幸福の判断基準は自分と他人とではまったく異なるところに、余剰が応じるか、コストを被るかというのはある種の幻想的な部分があると考える。最後の最後にある種の理解があるものの、人は自分のことしか考えないというホモエコノミクス的な様相が面白い。それは妄想や色々なものに囚われていても、だ。
またしゃべることができないビンゴの魔術師の男の子と老夫人のエピソードは面白い。我々の社会は実は微妙なバランスによって成立しており、常に蓋然性によって支配されている。その原則が破られたときに、人は不快な気分になるということであり、人はありえないと思うことを常に「確率」(大半の場合は客観的確率や頻度)に収束させるのだが、ある種の制約にとらわれながら日常の選択をしていると考えると、奇跡は奇跡であるからよいのであって、主観的な確率をコントロールできるような世界観は他人の合意がなければ棄却されるべきだと感じる。ケッセルは情報のノイズ、誤った仮説から導かれるストーリー展開、メディアにより誇大に拡大し、ネットワーク的に拡大するノイズの怖さをミレニアム前という混沌の世界を利用して描くことに成功した。そういう意味では、1989年の様相をベースにした素晴らしいアメリカ風刺小説であると思う。ウェブなどの感想文も少ないのが残念だが、今だからこそ読まれてもよいタイプのディストピア小説だと思う。
2010-01-29 アナベル・クレセントムーン
アナベル・クレセントムーン
イラストはいのまたむつみさん。著者の中井紀夫さんは最近あまり活動されていないみたいですが(2001年のEXノベルズ以来見かけていない気がします)、どうされているのだろう。中井紀夫氏が電撃文庫からファンタジー小説を出したので、どんな本だと思って読んでみた。ドラゴンが出るファンタジーが書きたいという著者の希望が前面に出た小説で、ラスト付近で驚愕のオチが待っていた!ラストへの収束は、ドラゴンの本能を考えると、「なるほど、そういう方向なのか!」と思える。物語は、国の王座を簒奪された王女アナベルが、国を簒奪し、アナベルに呪をかけた親衛隊隊長ペイルスキンから逃亡し、その呪を解くためにドラゴンの宝を仲間たちと共に探究するというもの。
男勝りのやんちゃな美貌の姫という設定はどこかで聞いたことがあるけど、実は結構いろいろな古典小説のネタが入っていたりするので面白かった。アナベルの呪を弱める方法はアーサー王伝説だし(これは著者がエレーン姫の話をあとがきで伝えているとおり)、逃亡劇はどこか指輪物語な感じもした。割とさまざまな要素が組み合わさって、決して飽きさせないファンタジーになっていると思うと、ラストで「!」な設定になっていることが明かされ、やられた!と思う人は多いはず。多分古典的な方法なのかもしれないけど、パトリシア・マキリップ『ムーンフラッシュ』(ハヤカワ文庫FT)みたいな感じの衝撃を受けてしまった。いのまたむつみのイラストも内容に沿ってやわらかい感じが出ていてよい。今のラノベの雰囲気とは大違いだし。
たぶんこの小説の読み方は、ドラゴンランスシリーズやエディングスの小説のようにキャラクターに感情移入して読むとさらに楽しめる。麗しの男勝りの姫、朴訥な石工、ひょうけた老魔術師、冷酷な親衛隊隊長、愛のために生きるちょっと斜に構えた魔法使い崩れなど、冒険活劇に必要なキャラクターが勢ぞろいしているので、「○○の〜のシーンに萌える」という人も多いはず。僕はドラゴンたちが放牧されてよちよち歩いているシーンがちょっと森岡浩之『機械たちの荒野』(ハヤカワ文庫JA)っぽくて好きなんですけどね(その意味でも、展開の仕方は森岡の小説と似ていて、ラストの処理の仕方の比較が面白かった)。本書自体は品切れで入手が難しいけど、ブックオフには転がっている可能性があるので興味のある人はぜひ。
2010-01-10 わらの犬
わらの犬
みすず書房の本書の紹介>http://www.msz.co.jp/book/detail/07490.html
SF作家のJ・G・バラードが帯を書いているのに興味を持ったため読んだが、ものすごく面白かった。ある種のセントラルドグマを持つ人たちは、この本を読んでショックを受けるべきだと僕は感じた。そして日本人に生まれてよかった、と正直に思う。値段以上の価値がある本だし、この本が日本語に訳されて読めることにあらためて感謝したい。グレイは現在の人間社会におけるキリスト教の思想を色濃く反映した進歩主義、ヒューマニズム、科学万能主義に対する警鐘を鳴らす。本書は、そういう意味で人間の唯我論を戒め、科学が世の中を発展させるという幻想への風潮を批判している。科学とキリスト教の間にある緊張関係は、科学技術の発展に不可欠であったということをグレイは指摘する。このことをかいつまむと、ある種の真理が見えてくる。つまり、キリスト教を信じる者は善のものは最後の審判で救われる→科学は善である→だから科学の発展こそは救済への道であるという短絡ともいうべき、論理的な帰結が見えてくる。キリスト教がなければ科学の発展はありえなかったことは、西洋史をひも解いていくと明らかである。東洋的な多元主義というのは、分権主義的な平等なシステムであり、競争というよりもお互いのよいところを見極めて共存するシステムであるが、キリスト教やイスラム教の中央集権システムでは競争を中心としたヒエラルキーシステムであり、進歩という概念が生まれるのはその形成から必然であった、と考えることができる。その意味で行き過ぎた人道主義、進歩主義こそが人間の思い上がりであり、科学技術に絶対的な信用をおいてはならないとする。本書の主張は極めて明快で「唯我論を捨て、科学技術に代表される進歩主義に盲信せず、「人間」という種として、自然と調和して生きること」を説く。このことは、6章の「ありのまま」での「人生の目的は、ただ見ることだけだと考えたらいいのではないか。」という言葉に集約される。
グレイが本書で指摘する科学と宗教の在り方について考えると、J・G・バラードやS・レム(本書では『技術大全』から引用されたある装置の話が出てくる)らはSFという準拠枠の中で、進歩した科学技術における人間の在り方を描き、進歩主義に対する批判や考察を行ったともいえる。その点について特にバラードは進歩主義に対して真摯な批評者として、進歩主義によってもたらされた倦怠と平常という均衡を打ち破るのは人間の中にある生物としての獣性しかない(たとえば『夢幻会社』(創元SF文庫)や『楽園への疾走』(創元SF文庫)、グレイの本でも取り上げられている『コカイン・ナイト』や『スーパーカンヌ』(新潮社)などを読むといい)ということを明らかにしている。バラードはシチュエーションは変えながらも、進歩によって発達したテクノロジーや社会システムに対して常に鋭い理性から、批判を行っていたということを感じるだろう。つまり残されるのは「自然への回帰」であり、一体化である。その意味では、ポール・ボウルズの『シェルタリング・スカイ』(新潮文庫)もある種のシンパシーを感じるのは、西洋とアフリカという世界の狭間で結局残るのは「人間という種として生きること」なのかもしれない。
つまり西洋を中心とする学問体系の裏にはご存じのように、セントラルドグマとしての絶対的な「善」があり、その善を達成するのは科学技術であるという信念こそが、人間を思いあがらせていると考える。特に経済学を学ぶ自分にはある種の信念がある。たとえば、よい技術が普及することはよいことというある種のコンセンサスがあるが、みんなが選んだからといってよい技術であるとは限らないこともある。しかしそれはもしかすると人間以外の種にはものすごくよい技術なのかもしれないと考えると、増えすぎた人間にとっては当然の帰結なのかもしれない。たとえば大量殺戮技術は増えすぎてしまった人間という種の数をコントロールするためには、「ガイア」にとっては最適なものかもしれない。そしてそういう技術は極めて安価であることに注意したい。たとえばルアンダの虐殺は、水資源の奪い合いだったとグレイは指摘するが、実際のところはそうだったのかもしれない。増えすぎた人口の調整が戦争や虐殺であるというグレイの指摘は、その通りだろう。そして今の世界は安定期に入り、人口は増大し、人類はたくさんの資源を消費しているという現実を考えると、本書をひも解く意味はあるだろう。本書はさまざまな視点からもっと議論されてよい論題をあげており、実に面白い。鋭い読者ならわかるように、本書のメッセージは極めて単純なれど「わらの犬」である人類はもっと謙虚に自分の本質を見直すべきであることを感じさせる一冊。
2009-12-23 一箱古本市の歩き方
一箱古本市の歩き方
千駄木・谷中の一箱古本市に参加したことがある。その提唱者、開始メンバーの一人である南陀楼綾繁氏が一箱古本市というイベントを始めた経緯について語り、今後の展開について思うところを記した本。本が好きで、読書という文化をすたれさせないためにもユニークな試みは重要で、南陀楼氏がまいた種は確実に全国に拡散・浸透しつつある。
本が好き、というのは本の中に内包する物語世界の楽しさや、著者の思い入れなどが凝縮されていて、そこと親和して重なり合っていくことではないかと感じる。そしてそれを「一箱」という制約の中で厳選した本を他人に売るという行為は、ある種自分のこだわりや満足を他人に伝えるステキナ行為だと僕は感じている。市販されているブックガイドやウェブの書評とは違い、直接一冊の本を巡るコミュニケーションによって相対取り引きされることに、その人の人生や興味などの小宇宙を感じることができるからだ。普通に谷中・千駄木の出店者さんたちの本を覗いているだけでも、楽しい。ある人は美術だったり、歴史だったり、文学だったりと多様な小宇宙が展開している。新たな本の海への航海をするために、自分の所持した本を売るという行為によって、自分のこだわりや想いのつまった小宇宙が他人の手に譲渡される。それは時代や空間を超えて、人間が生き続ける限り引き継がれる行為のように思える。
一箱古本市のユニークなところは、中古品は相対的に入手しやすく商品バラエティに富む(そういう意味では本とは私的価値で価値が決まる。たとえばオークションである本がものすごく高く売れる理由は他人と自分との本の価値の乖離にある。つまり個人の総支払用意と他人の総支払価値の違いが重要になるわけである)ため、私的にはかなり価値を置いている本が安く買えるなどの「消費者余剰」の最大化が可能であることが多い。一箱古本市はそのような場を提供することにより、余剰の交換の場として働いているということである。そのためさびれた商店街や地方で一箱古本市が起こるということは、上記の効果に加え正の外部効果(噂によるネットワーク外部性など)のフィードバックもあり、それが人々の期待を高め、本好きが本に対して相対的に価値を置いていない人たちにも影響を与える効果をもたらしていると考える。南陀楼氏はそういう意味で、試行錯誤しながらも余剰交換のバザールを創出したことにより、本を通じた交流に成功したと感じる。
また本書ではフリーペーパーや能動的な読者(ブロガーなど)についても面白い考察を行っている。DTP技術の発展、文学フリマのような試みの発達など、フリーペーパーに関しては全体としてイメージが変容しつつある気がする。同人誌にはコアなファンがつくが、フリーペーパーの場合金銭的なダメージは商業誌とは異なりないので(無駄になるのは時間だけ)、機会費用+金銭価値という意味で商業誌よりはコストは低い。つまり何かをやるためにはコストが必要であり、商業誌書評などで外れた時に頭にくるのは機会費用+商品価値だからだと僕は最近感じるようになった。コストと便益の観点で考えれば、能動的な読者が評する書評が多少だめでも損な気分にならないのは、機会費用分のロスだけだからだと思う。商業誌ベースでよいと思える書評は的確にその本のセールスポイントを扱いながらも、悪い点も加味したうえで「総合的に見てすぐれている」と評されるものだと思う。
と最後は蛇足になってしまったが、ブックイベントはネットワーク外部性を目指した動きなので今後も発展することを祈ってやまない。
2009-12-12 幻影の構成
幻影の構成
『幻影の構成』にはハヤカワ文庫JA版、角川文庫版などいくつかのバージョンがあるが、最後に出たハルキ文庫版を読む。発表された当初の時代背景や問題認識とは異なり、現代のコンテクストで読み直せるSFである。本小説はイミジェックスというシステムによってコントロールされている世界の中で、制度(システム)と個、個と管理体制の在り方についての物語として読むことができる。過去眉村作品をいくつか読んできたが、本書はイミジェックスによる広告やシグナルによって偏向させられた消費者たちが、欲望の赴くままに自分の予算制約を考えないまま(借金をして)過剰な消費活動を行っている。つまり独占企業群によるサブリミナルによる強制需要喚起メカニズムにより、第八都市の中で人々はイミジェックスによってコントロールされている世界である。そんな中、一般市民だった主人公のラグ・サードは強靭な意志により、「奉仕マン」と呼ばれる管理市民体制側になる試験に合格し、第八都市の第四級市民として奉仕する矢先に、ある事件に巻き込まれる。彼はそのことにより、第八都市の「真の姿」に気が付き、反抗を開始する。というのが物語の設定。
まず市場とは何かを考えることが本書を読む際に重要である。市場は競争によるダイナミズムを持ち、常に革新的な技術や消費者に魅力的な商品を作り続けることにより、市場での勝者になり、最終的には独占的な利得をゲットすることができる。ところが模倣と創造により、市場に参入する新規参入がおこり、その結果市場では常に「よいもの」が生まれるダイナミズムがある。これは産業革命期から見られるダイナミズムで、市場は常に拡大・発展するがそれに制度がどのように追いつくのかという点で、市場の質の良しあしが決定してくる。しかしながら本書では、その市場構造が企業側のコントロールによる一方的な押し売りという形態であり、市場の質から見れば、競争の質、情報の質がゼロであるような世界を取り扱っている。つまり、本書では市場メカニズムがほとんど働かない世界で、企業によるコーポレートコントロールがガバナンス構造として各地方都市を支配した、中央集権制度を選択したメカニズムにある。
本書はさらに、その中でさらにもう一要素加わるわけだが、そういう意味では「ソシアルプランナーによる、人々の間の情報の非対称性をなくすような中央集権メカニズムの担い手はだれか?」という問題に帰着する。その意味で、本書と対極的な比較対象になるのは、伊藤計劃『ハーモニー』(早川書房)である。伊藤作品の場合、純粋に「調和のシステム」に関する答えが、消費のコントロールにはなく健康にあった。この場合、自然と人間の価値観が多様性から一様性への転換の方向に向かうのは納得がいく。この点ではシステムデザイナーの選択が、ある種の指標のもと(たとえば何を最大化、最小化するのかという点で)、人類総体にとって果たして正しいのかどうか、判定できない「判定の問題」という点が、ディストピアとして分類される。眉村はあえて、「市場メカニズム」に立脚したうえで、人々の消費の多様性をベースにした一様なコントロールシステムを志向した点に違いがある。その帰結は、眉村と伊藤ではまったく異なるのが面白い。眉村は「人々の多様性を肯定し、人間によって作られた制約条件である「制度」の在り方を見つめ直す。それはフォーマルな制約(法律やルール)がインフォーマルな制約(慣習、行動規範など)によるフィードバックによって社会を支配しているゲームのルールが変化する」ととらえる。人間行動を制約する制度にひずみが起きた時に、人々は基本的に限られた情報の中で、ミクロ経済学の理論をベースに、選択をしていると仮定されるため、その中で不確実性を解消しようとする。ところが眉村が「人間というのはさまざまな要因からなっている」と文章中で指摘するように、多様なことこそがフォーマルな制約とインフォーマルな制約からなる制度を豊かな土壌にすると考える。そのため、制度をゲームのルールとしたときに、最適なゲームのルールをどのように設定するのか、デザイナーの視点に考えたのが本書である。
では具体的に見ていこう。巨大コンツェルンによるイミジェックスという電脳機構により、中央が欲望をコントロールし、人々を奉仕させる。相対価格メカニズムに沿って自分の総支払用意のみにしか注意せず、その枠組みで満足する一般市民、その枠組みに不満を持ち、自由に生きる自由民とコーポレーションの上級専門職として一般市民に奉仕する奉仕マンの階層が出来上がった世界。眉村はここで巨視理論というもので、イミジェックスの支配を正当化する。これはまさに個々人の欲望(消費)の和を最大化することは、努力に応じて個人に(その最大化した消費が)還元される、というものだった。このあたりにも眉村氏の経済学的な知見がよく出ている。ただし独占企業体は消費者の欲望をサブリミナルにコントロールし、無限ともいうべき「消費の罠」に陥らせ、消費の奴隷としてしまう。これでは最適な消費ではなく、独占企業による押し売りの状況に陥っている状況にある。それに対して眉村は、ハルキ文庫版311ページで社会の在り方について、彼の意見を提示している。すべての個人を満足させるようなシステムは無理だが、それを有効活用することによって秩序を保つことにある。それはフェアに不公平を生みだすシステムであるかもしれないのだが、それを支えるのはインフォーマルなルールであると眉村は指摘する。つまりフォーマルなルールとインフォーマルなルールの緊張関係について、眉村は実に優れた指摘をする。眉村卓のSFの見方はダグラス・ノースの新制度学派の考えに近く、フォーマルな制度が多様性の集合を狭窄したときに、インフォーマルな制度がフィードバックを行い、社会は緊張に陥るとみなす。これは代表作<司政官>シリーズにもあるように、日常から生成された慣習や行動規範の制約条件が、人々自らが化した制約条件である法などのフォーマルな制約が、フェアなゲームのルールとして受け入れられなかったときに、そのときにどのようなダイナミズムが生まれるのかを眉村は考えてきた。そういう意味では、インサイダーSFではなく、管理者側から見たアウトサイダーのSFと僕は感じるわけだが、そのあたりは議論が起こってもいいのではないかと感じる。



