マニアックフィンランド紀行(3日目)

3回目の朝食だがなぜかすごい人。チェックウト後バスで空港へ。そこから600キロほど北のロバニエミに。ここでオーロラを見るツアーを予約してあるが、過去の結果が出ていてそれによると少しでも見える確率が半分程度で本当にきれいに見えるのは1割くらいらしい。ロバにエミの空港に着くと「サンタクロースの公式空港」などと書いてあり、ボーディングブリッジの下にもサンタの等身大人形が。バゲージクレームのターンテーブルの真ん中ではトナカイがサンタのそりを引いているし。
厳しい雪景色の中、ミニバスで市内へ。しかし、ホテルに入ると早速ツアーバスキャンセルの表示が。まあ仕方ない。
時間が厳しいのでタクシーでサンタクロースビレッジへ。予想していたが本当にただの商業施設。特にサンタとのツーショット撮影なんかは、自分のカメラは一切使えず、写真を買うしくみらしい。ただ、「郵便局」ではサンタからの手紙を送るサービスがあり、多数の日本人を見かけましたね。その他、トナカイのそりに少し乗るアトラクションとかありましたが、驚いたのは持っていったガイドブックよりも施設がかなり増えていること。
そこからバスでサンタパークへ。ここは岩山をくりぬいて作った元核シェルターの中にあり、入口からパークまでトンネルを200メートルほど歩くことになります。実はホテルのフロントでは子供用の施設なので薦めないと言われていたんですが、核シェルターを見たくて来たようなものです。それにしてもパーク自体はそれほど広くもなく、またアトラクションやショーもちゃちで子供でも楽しめそうに無い、それでいて入場料はしっかり取っていましたね。まあ、気が済んだというところです。
で、帰りですがこのパーク非常に便が悪く、また時間も余ったため先ほどのビレッジまで2キロほど歩くことに。気温は零下10度ほどで全くの夜でしたが、車道から少し離れた側道ながら街灯もしっかりしていて、なかなか快適な散歩。ただ途中で狼が出たらどうしようかとちょっと気になりましたが。
ビレッジのメインの建物に戻ってふと見ると床に北回帰線の表示が。今頃でしたが、このビレッジ、北極圏との境界だったんですね。またパスポートに0.5ユーロで北極圏に入ったことを証明するスタンプを押してもらう。
帰りのバスは満員。中にスーツケースを抱えた日本人の家族連れあり。多分空港からビレッジに直行し、オーロラツアーに行く計画なんでしょうがお気の毒でした。自分も一緒ですが。
予想よりも早くホテルに帰ってきたのでサウナに。思ったより低温でしたが焼き石に水をかけると蒸気で途端に蒸し暑くなる。一緒になっていたのはでぶでぶのロシア人たち。まだ若そうなのに。
夕食はホテルのレストラン。トナカイを前菜で再度試すと今度はなかなかうまい。しかし、ロシア人の子供多し。まあ、ここは子供連れ向けの観光地なんですね。

マニアックフィンランド紀行(2日目)

例の朝食を摂った後、雪の中出発。
まずは、建築史博物館に。ほとんど貸し切り状態。小ぢんまりしているものの、なかなか見ごたえある展示。全体的に、日本で言えば丹下健三あたりの時代に近い感じ。時代で言えば、1960年あたりか。
次に、隣のデザイン博物館に、残念ながら展示の準備中で、1階のみの展示でしたが、結構堪能しました。やはりセンスが良いですね。特に生活用品など工業デザインが優れているようです。
そこから、さらに進んで各国大使館が集まる住宅街を抜ける。一番目立つのがロシア大使館だったのが何とも。
目指すは第二次大戦時の実質的な国の指導者だったマンネルへイム元帥の博物館(元邸宅)だったんですが、ガイドブックの地図が間違っていて元温泉だったレストランに行ってしまったり、隣の美術館が閉まっていたり、結構深い雪の中、時々くるぶしまで雪に埋まりながらやっとたどりつきました。大して大きな家でなかったので分からず、雪かきをしていたおじさんに聞いてみたら、目の前の家を示されていささかびっくり。ちなみに、フィンランド、英語が本当にどこでも通じますし、非常に聞きやすいんです。
マンネルへイム博物館を入るとさして大きくもない待合室というか玄関スペースに5人くらい待っている。こんな大雪の中、当然貸し切りかと思っていましたが。
ところで、このマンネルへイム元帥、第一次大戦まではロシア軍の高級軍人で(フィンランドがロシアの一部だったので当然ですね)、大戦後の独立時には有力者の一人だったんですが、時の政府から警戒されたりして一時は隠遁同様になったそうね。しかし、戦雲が濃くなるにつれて軍の強化のため引っ張り出され、大戦中前後のソ連との一連の戦い(冬戦争・継続戦争)では大軍相手に善戦し、大戦末期からしばらくは大統領職も務めて独立維持に力を尽くすなど、今でも国民の敬愛を集める人物です。
しかし、そうした経歴は知っていたものの、さすがに記念館となるといろいろ発見がありましたね。まず、彼の家系がドイツ出身であったこと。そりゃ、マンネルへイムなんて、典型的なドイツ名ですもんね。ちなみに、奥さんはロシア人だそうね。それから、若いときは相当なやんちゃで、内申書が悪く、いろいろな学校を落ちまくったこと。で、最後の望みでもないでしょうが、ロシアの士官学校に滑り込んだこと(そういえば、ビスマルクも若いときは相当はちゃめちゃでした。まあ、組織人じゃないんでしょう)。
また、日露戦争にも従軍し、秋山支隊とも交戦していること。その後、中央アジアの地理の把握の重要性から、フランスのぺリオ探検隊にロシア代表として加わり、ユーラシア横断をしています(その一環で日本にも来たようです)。ぺリオ探検隊といえば敦煌の文書を大量に持ち出したとして今でも中国から三大盗賊として非難されている、それだけ学術的な貢献も高い探検行で、ここに参加していたとは知りませんでした。ちなみに、後の2団は、敦煌を発見したオーレル・スタイン隊と日本の大谷光瑞隊のことです。マンネルへイムはスタインとも交流があったようですし、フィンランド中央アジア学に大きく貢献したとか。そりゃそうでしょうね、そんな情報、彼以外持って来れませんから。ちなみに大谷光瑞西本願寺の大谷家の元法主ですが、どうも万能の天才でもあったようで、石炭液化の深遠な知識とか食に関する著書を出すなど逸話に事欠きませんが、長くなるのでこれ以上は別な機会に。
そこから雪の中を港に。港内には大きなフェリー船が何隻も止まっている。岩壁沿いに市場の建物があり、せっかく海沿いなのでスシレストランに入る。レストランと言っても屋台に毛の生えたようなものでしたが、味の方はまあまあ。ちなみにシェフの服を着た女性が握っていましたね。
その後、昨日閉まっていたウスペンスキー寺院に。波止場を見下ろす小高い丘の上にいかにもというロシア正教寺院が建っているのは、ロシア占領時代の人々はどんな思いで見ていたんでしょうね。
そこから市の中心を抜けて現代美術館(通称キアズマ)に。建物の外観が超モダンでちょっと期待しましたが、やや不十分な展示内容。しかし、展示の一環として数年前のリトアニアでのリトアニア系とロシア系住民の衝突のフィルムが流されていて、日本ではほとんど報道されていなかった事実が非常に勉強になりました。
もうすっかり夕闇の中、隣の郵便局に。2階がいろいろな切手などを売っていると言う触れ込みでしたが、完全にファンシーショップでしたね。ちなみにここの売りはムーミン。原作者のトーべ・ヤンソンフィンランド人なんですね。
この日の最後は個人コレクションをもとにしたというアモス・アンダーソン美術館に。実は前日通りかかったんですが、結構遅くまでやってそうなのと画廊のような小さな間口でちょっと逡巡していたんですが、入って見るとこれが5階建ての堂々としたものでびっくり。かつ、企画展でやっていた画家の絵が非常に高いレベルで、改めてフィンランド人の美術センスを認識した次第です。
夕食はなぜかネパール料理。

マニアックフィンランド紀行(1日目)

当地の休み(誕生間もないキリストに東方三博士が会いに来た日だそうな)を利用してフィンランドに行ってきました。時間節約のために、水曜日の遅いフライトでヘルシンキに飛んだんですが、驚いたのは、市中心部に着いたのが夜中の2時頃だったのに、結構人通りがあるんですね。遅いだけでなく、それなりの積雪があるんですが、若者を中心にかなりの人が歩いている。さすが休日前と言うところでしょうか。ホテルに投宿後、しばし就寝。
翌日の朝食には北欧らしくニシンなどの魚の他、カレリアパイという、ミルクで炊いた米を巻き込んだ手のひらサイズのパイが。それにしても、およそ米なんかとれそうもないフィンランドでこれが代表的な郷土料理の一つになっているのはよくわかりません。
市内観光の最初は テンペリアウキオという石造り教会。というか、小さな岩山(岩丘?)をくりぬいて教会にしているんですね。まあ、印象としては教会と言うよりもモダンなコンサートホールと言うところですが。ちょうど、明日からしばらく工事で閉鎖の予定らしく、ラッキーでした。それにしても、町中にこんな施設があるのがちょっと驚きです。
そこから、雪の中、オペラハウスやコンサートホール(フィンランディアホール)などを見に行く。湖沿いの道を歩いたんですが、その先にはオリンピック会場がありました。ヘルシンキオリンピックは東京の前の前、1956年に行われていますが、さすがにそのころの時代を反映して、小ぢんまりした印象でした。しかし、このオリンピック、フィンランド人の努力の結晶だったようです。というのも、フィンランドは一応枢軸側だった(但し、末期に独自に講和交渉を行おうとしてドイツ軍に国の北部をひどく破壊されたそうですが)ため、戦後にソ連から膨大な賠償金を課されたんですね。それをきっちり払い切り、さらにオリンピックまで開催したんですからなかなか大したものです。
その後、国立博物館に。教会を思わせる塔と重厚な造りの建物でしたが、いくつか発見が。まず、勲章のコーナーではナチスからのものが堂々と展示されていました。ドイツでは少なくとも着用は法律で禁止されているそうですが、何かあまり気にする風ではなかったですね。また、世界の貨幣のコレクションではちゃんと日本の大判があったりしました。さらに、大きなクリスマスツリーがあったんですが、そこに飾られていた国旗の分布がなかなか面白い。ヨーロッパの国はいろいろあったんですが、それ以外の地区のものは、星条旗とカナダ国旗と日の丸だけだったんですね。何だかフィンランド人の世界観がしのばれるようです。日本が入っていたのは非常に嬉かったですが。
まあ、今のフィンランド人全般がそうなのかはわかりませんが、伝統的に対日感情は良いようです。一番の契機は日露戦争でにっくきロシアを破ったと言うことですが、由来は分かりませんが、同国最大の製菓メーカーの代表的な製品が「GEISHA」チョコレートなんですね。ヘルシンキ空港にも山積みで売っていました。たまたま食する機会がありましたが、なかなか上品な味わいでしたよ。
それにしても、ヘルシンキは清潔な町です。19世紀になって、ロシアの意向でロシア寄りに遷都させられて出来た町のようですが、ガイドブックには「ロシア的」な町とありました。確かに、東欧一般に見られるようねドイツ風の高い塔などは見かけませんでした。で、ロシア風の建物と近現代の建物のミックス、さらに積雪というわけで、非常に清潔な印象です。
清潔さの一端は、アジア・アフリカ系の移民をほとんど見かけないせいもあるかもしれません。というのは、どうしてもそのような人々は自分たちのコミュニティを作りがちですし、そうした地区は経済的な理由からも治安が悪くなりがちです。数年前に行ったオスロとかストックホルムなんかはそんな印象が強くありました。しかし、ヘルシンキではごみ収集のようなダーティーワークをフィンランド人自身がやっているように見受けられ、また、移民もほとんど見かけませんでした。それだけ経済規模が小さいと言うことかもしれません。
といいながら、その日の昼食はタイ料理。小さな店ですがお客さんは一杯で、上品そうな年配のウエイターが差配していました。
ところで、人と言えば、ヘルシンキでははっとするような美人が結構歩いていてびっくりするんですが、その人たちがしばしばロシア語をしゃべっていたりする。注意してみると、ロシア人の観光客が非常に多いんですね。確かにサンクト・ペテルブルクからでも鉄道で簡単に来れてしまいますから一番手ごろな観光目的地なんでしょう。で、フィンランド人はと言うと、ややぽっちゃり系の、ちょっと垢抜けない感じの女性が多かったように思います。そもそもフィンランド人はフィン・マジャール系ということでアジア系とされていますので、コーカソイド以外の血が混じっているんでしょう。
その後、市の西側に歩いて行き、まずヘルシンキ大聖堂を見学。大きいですがプロテスタントかつ歴史が浅い町らしく、内部の装飾はごくあっさり。何よりも教会が本当に真っ白で、これが積雪の町と曇り空を背景としている様は何とも言えません。寺院ではもう一つ、ロシア正教会ウスペンスキー寺院があるんですが、祝日のためか閉まっており、明日に持ち越し。
そこから、東にとって返し、国立美術館であるアルテウムを見学。大体、初めての国では美術館に行って、その国の画家の絵を見るのが習慣になっています。というのは、何となく国民性が分かるような気がするからなんです。で、この美術館ではフィンランド人画家の絵のうまさに驚倒しました。才気と言う面ではよくわかりませんが、とにかく見ていて安心できる。テクニックと感性のバランスが良いと言うか、オーソドックスな意味でレベルが非常に高いと感じました。
実は、入国以来、デザイン的な洗練度の高さを感じていました。知り合いのカーデザイナーに言わせると、デザイナーは結局のところ絵描きであって、絵のうまさとの相関が非常に高いのだとか。今回、非常に納得させられましたね。
夕食はホテル近くのレストランに。ここでトナカイ肉のステーキに挑戦してみましたが、食感は豚肉でしたが強烈なレバーのような臭いがあって、常食するものではありませんでした。ここは内装のデザインが凝っていて、店の中にトラクターがあったり、わざと雑然とした雰囲気を出していました。

「乃木将軍」の持つ意味

畏友、風観羽さんから宿題をもらってから時間がたってしまいまして。
それにしても、実に正攻法の問いでしたね。

実はすぐに答えが出なくて、改めて乃木さんのことを調べてみたんです。すると、なかなか複雑な人のようですね。軍人としての経歴も維新の際の戦闘を含め、多岐にわたっていますし、若いときの遊びぶりも相当で、祝言の日もそれで遅れていったとか。一説には西南戦争で軍旗を奪われたことを苦にしての放蕩という話もありましたが、豪遊はそれ以前からのようです。もっとも、ドイツ留学から帰国後、生活態度が一変したとか。普通知られている質素な乃木さんというイメージはこれ以降のものというわけです。
また、旅順攻略戦自体も毀誉褒貶さまざまで、とてもにわかに判断が下せそうにありません。多分、実際に歩いてみないと分からないでしょうね。
脱線になりますが、実は、数ヶ月前にベルギーのブラッセルに出張したときに、近くのワーテルローを訪問したんですが、30万の兵士が集結した割には戦場が案外狭いのに驚きました。フランス軍が陣取っていたあたりに現在高さ40メートルの人工の丘が作られていて、その上から俯瞰的に見たせいもありますが、そもそもフランス軍とイギリス軍が最初ににらみあった距離は1.5キロ程度なんですね。接近して撃ち合うイメージの強い戦車の交戦距離は実は2〜3キロと言われていますから、当時の戦闘がいかに近接主体だったかがわかりますね。そういう視覚的なイメージを捉えて初めて分かることって多いわけで、逆に筆者が旅順戦を評価するためには現地現物での確認なしには難しいように思います。

それはともかく、そもそも、一人の人間の評価って、そんなに簡単なものじゃないですよ。

ということで、少し困っていたんですが、はたと気がついたのは、この「乃木将軍は名将か愚将か」という問い自体の持つ意味です。

乃木将軍の評価って、同時代でも大きく揺れ動いており、まずは旅順攻略に手間取って国民(というか新聞)から強烈な攻撃を受けます。攻略自体の巧拙というよりもとにかく手間取っていたことに非難が集中したようですね。旅順の陥落自体に国運がかかっていたわけで、この非難はある程度分かるような気がします。
ところが、息子が二人とも戦死すると急に同情が集まるようになり、旅順陥落後の水師営の会見などを経て、名将扱いをされるようになるんですが、相変わらず実際の戦闘の手腕と言うよりも、一種の人格と言うか「聖将」的な扱われ方のように思います。まあ、結果的に旅順が陥落した故の国民の余裕なのかも知れません。しかし、非常にエモーショナルなものを感じますね。

司馬氏はひょっとしたらこのような扱いの胡散臭さを感じていたのかもしれません。しかし、もしそうであればそうした扱いをする当時の空気なり風土なりを分析することが主であるべきですが、彼の体質として、つい人物評価に走ってしまうんですね。で、人物評価にどうしても難しい部分があるために小説家的に想像を膨らませることになるんでしょう。
近年、彼に対する批判の中心は、小説家としては史家を気取りすぎ、史家としては小説家として想像でものを書きすぎという点です。「竜馬がゆく」なんて、相当部分が創作のようで、坂本竜馬と言う人物を発掘したまでは良いものの、かえって別な虚像を作ってしまった嫌いがあります。

そして、何より問題なのは、こうした司馬作品をもって、「歴史を勉強した」気分になっている大多数の日本人の態度かもしれません。とすると、司馬遼太郎の本当の罪は、このような歴史学もどきを作ってしまったことにあるかと思います。

「坂の上の雲」に思う

NHKの「坂の上の雲」、なかなかの力作で筆者も大いに楽しんでいます。丁寧な造りで、かつ役者さんたちも頑張っていますね。個人的には、正岡律役の菅野美穂が健気で一番のはまり役のように感じています。

それはさておき、ここに来て司馬史観への批判が散見されるようになっています。特に、昭和の統帥権を背景とした軍人の跋扈と理想像としての明治期の対比が単純すぎるという点が攻撃されているんですが、これについて少し考えてみたいと思います。

まず、言いたいのは、日露戦争開始前の指導層のある種の悲壮感と言うか純粋な危機感は疑い得ないと思うんですね。とにかく、ロシアの南下を防ぐと言う限定された目標であっても達成の確率はあまり高くないと思われたはずなんで、こうした中で開戦を決意した指導層の決意は相当なものがあったろうと想像します。
問題は、連戦連勝の中で、軍、そして国民の間に急速に野望が膨らんでいったことです。後者の典型的な発露は日比谷焼き討ち事件で、賠償金を取れないことに怒った民衆が教会とか新聞社などを襲ったんですが、ここには夜郎自大になった当時の国民の姿が浮き彫りになっていますね。この点については、司馬遼太郎も後の暗い時代の原点として特筆しています。まあ、国民自身の責任もさることながら、真相を国民に伝えない日本の指導層の宿亜が早くも現れたと見るべきかもしれません。
軍人の例では、これも司馬が書いていることですが、正式な日露戦史が史料的に無価値で、かつ編者が左遷されたとのこと。要するに、将星たちが自分の手柄を多く書かせようとし、また失敗を隠蔽しようとし、あげくのはてに資料はぼろぼろで編者は不興を買ったということですね。どうも、明治期の軍人たちもその底は浅いようです。
しかし、底の浅さと言うよりも、日露戦争自体がもう限界まで背伸びしていて、その後の立ち居振る舞いまで構っていられなかったという言い方の方が正確のような気がします。一つには日露戦争自体の苛酷さがありますし、もう一つは、それまでの動きが所詮借り物だった部分が大きいためではないかと思うんですね。例えば義和団事件では日本軍の軍紀が最も厳正だったとされていますが、これも「一等国」として見られたいという一心からで、内発的な感じがしませんね。ですから、ロシアに勝ったことで、一挙に本音がむき出しになったとも言えると思います。

以上まとめると、司馬が言うほど明治の日本人は純粋ではなかったということです。いや、純粋に頑張ったけれど、うまくいった瞬間に馬脚を現したというところでしょうか。まあ、それにしても明治期の日本人の海外文化と技術の咀嚼能力の凄さは疑いえませんが。

昭和に殉ず

筆者、ヨーロッパ在住ながら、いくつか日本の雑誌を購読しています。その一つが「文藝春秋」なんですが、最近違和感が強くなって来ていまして。
というのは、紙面の大半が昭和20年代以前生まれを対象とした内容になっているからなんです。例えば10月号の特集は「真相 未解決事件35」と題して、最近の事件もあるものの、未だに三億円事件とか下山事件ですし、11月号は「医療の常識を疑え」と「決定!永遠の小悪魔女優ベスト10」で、後者は加賀まりことか若尾文子ですからね。また、戦争ものも欠かせず、10月号からは「九十歳の兵士たち」と題した体験談の連載が始まっています。もちろん、現代の問題を扱った記事も多いんですが、この構成にはいささか辟易してしまいます。

このような行き方がいつまで続くものなのか。もちろん、続かないでしょう。しかし、雑誌を会社の商品ポートフォリオの一つと考えれば、「金のなる木」として、最大限活用していくことが最善手となりえます。まあ、総合雑誌の中ではすでに「現代」が休刊し、「中央公論」も昔日の面影をすっかり失った今、ひとり「文藝春秋」のみが頑張っており、というか残存者利益を独占していると言う意味では、理にかなったマーケティングとも言えそうです。

しかし、同誌の、極端な昭和シフトを見ていると、なにやら経済合理性のみというよりも、あたかも「昭和に殉ずる」かのような姿勢を感じないではありません。思えば、明治とか大正って、ひとくくりのイメージがありますが、昭和については、時間的な長さもさることながら、戦前・戦中・戦後・高度成長・安定成長・バブルと、実にさまざまな要素を踏んでいると言う意味では、空前絶後の奥行きがありますね。ですから、いくらでも料理の仕方がありますし、それに殉じてもいいと思わせるものがあります。

ただ、これからの日本の課題は、この強力な「昭和」からの脱却にあるのではとも思われます。しかし、時間とエネルギーがかかりそうな課題ではありますね。

視覚対象としての君主

今日は、ベルリンを散策していました。昔の離宮であるシャルロッテンブルク宮殿を訪れたんですが、これがなかなかで、結局4時間も居てしまいました。ご他聞に洩れず、ここも第二次大戦の被害が相当あったようですが、残るところは残っており、それなりの見ごたえでした。
ところで、宮殿の前に広大な庭園があり、その中にドイツ皇帝家の墓所があるんですね。とはいえ、総合的なものでは無く、フリードリヒーウィルヘルム3世および初代ドイツ皇帝のウイルヘルム1世およびその后のみの小規模なものですが。それにしても、気になったのは、ヨーロッパ王家の墓所の常として、それらの人々の棺が見えるところに安置されていることです。
思い出すだけでも、ウィーンのカプツィーナー教会の地下には、マリア・テレジアとかフランツ・ヨーゼフなんていうビッグネームの棺が目の前にありますし、ポーランドのクラコフでは諸英雄に混じってつい最近飛行機事故で無くなったカチンスキ大統領の大理石の棺があったりします。中でも生々しかったのは、スペインはグラナダには、スペインを統一したフェルディナントとイサベルの遺骸が包帯で巻かれた状態で見ることができたことです。これが墓石の下であれば、まだ我々の感覚に合うんですが。

ここで思い出すのは、絶対君主たちの「公開の食事」という習慣です。これは、君主が宮殿の1室で食事をする風景を一般の民衆がぞろぞろと見に来るというものなんですが、あの太陽王ルイ14世にして、週1回は公開の食事を取り、それは死の1週間前まで続いたとか。それだけ民衆に近かったという解釈をしたくなりますが、当時の状況からそれはありえませんね。むしろ、視覚化されることによる権力の補強ではないかと思います。というのは、ヨーロッパの宮殿を回ると、実に多くの肖像画掲示されていることに驚きます。ことに、有名どころの王侯であれば、いろいろな場所で出会うことが出来ます。これって、視覚に訴えることによる権力の誇示と考える他はないんじゃないでしょうか。
わが国の場合、肖像が伝えられていない権力者が非常に多いという印象があります。あっても、後世のもので、同時代でのものは結構少ない。例えば、鎌倉執権の北条氏なんか、時宗以外は肖像を見たことがないでしょう。まあ、いわゆる三英傑なんかは例外的に図版が多いですが、江戸時代の将軍でも、一般に流布していた肖像なんて無かったでしょうね。

そう考えると、ヨーロッパと日本の権力のありようって、こうした面からも相当異なったものであると言うことが言えそうです。何より、死んだ後も、そうした視覚にさらされることが宿命とされる権力って、なかなか因果なものですね。

面白いのは、明治以後の天皇制は、ヨーロッパ的な権力のありようを模索したと言えるところです。維新後、早速明治天皇は全国を回っていますし、「ご真影」なんて、その最たるものですね。天皇・皇后の肖像写真に最敬礼なんて、それまでの日本の伝統にはなかったことですから。そうした点からも、いわゆる天皇制の人工性が伺えます。まあ、今でも視覚とのかかわりは強いんですが、時代のしからしめるところであって、相当ナチュラルなものになっているとは思います。筆者、多摩御陵にも参拝したことがありますが、押し付けがましいところがなくて、いい感じでしたよ。