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Critique of games - メモと寸評


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『PLANETS vol.7』第二次惑星開発委員会/宇野常寛編,2010 所収
「ゲームと物語のスイッチ」ほか


『早稲田文学増刊U30』早稲田文学会,2010 所収
「認知的作品論」


『Review House 03』レビューハウス編集室,2009 所収
「批評」としてのゲーム実況動画―「反復性」の破壊と「一回性」の発生 / 黒瀬陽平(司会)×石岡良治×井上明人×濱野智史


(Chris Bateman,Richard Boon,松原健二(監訳),岡真由美『「ヒットする」のゲームデザイン ―ユーザーモデルによるマーケット主導型デザイン』オライリー,2009 所収 
「ゲーム市場の生態系とネットワーク構造の変化をどう捉えるか」

ユリイカ2009年4月号 特集=RPGの冒険
『ユリイカ2009年4月号 特集=RPGの冒険』青土社,2009
「リテラシーという解釈システム」


『未来心理 vol.13 』モバイル社会研究所,2008
「遊びとゲームを巡る試論-たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるだろうか」
[ ! ]リンク先PDFファイルです。


ユリイカ2008年9月号 特集=太宰治/坂口安吾 無頼派たちの“戦後”
小島秀夫インタビュー(聞き手=井上明人)「ゲームという戦場から見た世界――『MGS4』という挑戦」


ユリイカ 特集=任天堂/Nintendo
「宮本茂をめぐって―コンピュータ・ゲームにおける作者の成立―」

その他の仕事リスト

2008.10.14(Tue)

[]行動から知覚へ。

1:ゲームにおいて「見ること」:『The Unfinished Swan』

 ゲームショーやらなんやら、ここのところイベントが続くこの数日。

 いろいろと「すげー」とは思いましたけれども、

 Sense of Wonder Nightで紹介された、下記 The Unfinished Swanは、本当に1ゲーマーとして、是非やってみたいという欲望にかられました。『塊魂』や、『ジェットセットラジオ』をはじめて見たときのような衝撃です。


The Unfinished Swan - Tech Demo 9/2008 from Ian Dallas on Vimeo.

 サイト:http://iandallas.com/games/swan/

 まだゲームとしては全く仕上がっていない作品で、アマチュアの作りかけの一品という段階ではあるようです。だけれども、たとえ、ゲームとしてできあがらなくてもメディアアート作品としてだけでも、十分にすばらしすぎる。

 「行為によって世界そのものがはじめて分節化される」っていう世界がここまで明瞭に顕現する空間もないよねー、みたいな。飯野さんの『エネミーゼロ』もある意味では「音」を媒介にして同様のことをやろうとしていたソフトだったけれども、「音」だとさすがに人間の空間把握能力としてはちょっと難易度高すぎたからなぁ。

2:見ることと干渉すること:『ドラゴンクエスト』『メタルギアソリッド

 一応、もうちょっとつまらないことをまとまりなくダラダラ書いてみます。

 口調、変わりますが…

 …で、さて、

 ほぼ暗黒の空間の中で、少ない手がかりや、小さな明かり/発砲したときのわずかな光を頼りに歩くというようなものは昔から部分的には存在していた。3次元空間ではなくても、例えば『ドラゴンクエスト』(1986,エニックス,FC)で、「たいまつ」なしにダンジョンの中を動くときなんかも、インタラクションをしたときのフィードバックを手がかりにしてはじめて道そのものが把握可能になっていた。『ドラゴンクエストII』では、ラストから二番目のダンジョンである「ロンダルギアの洞窟」で、どこに落とし穴があって、どこが通り道になりうるか、というような情報もインタラクションなしには知ることができない。

 「見る」「聞く」といった、情報の摂取は、ただ「見る」ことによっても、ただ「聞く」ことによっても与えられず、コントローラーを介して自己の身体の延長線上たるプレイヤーキャラクター動かすことではじめて知覚されることになる。5感の中でも、「触れる」ということと「見る」「聞く」という感覚はだいぶ違っている。

 「触れる」という行為は、その行為自体を通して、「触れられるもの」への干渉を必要とする。たとえば、目隠しをされているときに、プリンや、オレンジジュースという存在を知覚しようと思ったら、プリンの肌触りを確かめるためにプリンを指でいくらか潰してしまいそうになるだろうし、オレンジジュースに指をつっこんだら、オレンジジュースがいくらか汚れてしまうことになる。「触れること」は「触れられるもの」との間に、かなりインタラクティブな関係性をむすぶことになる。自分の身体を積極的に動かすことが、知覚するための条件となる。対象に干渉することではじめて対象を認知することができるようになる。

 一方で、「見る」「聞く」といった行為はそうではない。もちろん、目を開いている人の顔を真正面から見つめようと思えば、見つめられる対象(人)は、見つめられることを通して何かしらの反応をするだろう。そのほかにも「観察」自体が、インタラクションを構成する例はもっといろいろ見つけることはできる。だが、普段われわれのほとんどの日常行為の中では「見る」「聞く」ことが、「見られるもの」「聞かれるもの」への干渉を直接に要請すると感じられることはない。ものを「見る」ことによって、そのものが変容したように感じられることは、まずない。*1

 だが、The Unfinished Swanは「見ること」の条件そのもの。「見ること」の在り方そのものを見事に転倒させている。空間を「見る」ためには、「見る対象」への要請を常に必要とし、空間は「見つめられること」のために、その存在様態の変更を迫られる。

 我々の「見る」という行為は、見えているものをみているに過ぎない。人間の可視光線領域には、個人差はあるが、およそ350nm〜830nmの波長が見えているにすぎない。その外側の領域には赤外線と紫外線があり、それは特殊な装置を使わなければ、我々の眼球はそれを捉えることができない。たとえば、『メタルギアソリッド』シリーズや、『トム・クランシー』シリーズなどの潜入系のゲームでは、暗視ゴーグルなどを通じて赤外線を見ることが可能になる。暗視ゴーグルは、我々の身体条件を乗り越えた「見ること」を可能にするためには、要請された道具である。

 日常的な「見る」という我々の身体の行為は、だまっていれば光が入ってくる世界では、水と空気よりもさらに遙かに「タダ」の行為であり、その限界が意識の中心にのぼることは、まずない。日常的な「見ること」の外側を我々はほとんど味わうことがない。だが「見る」という行為は、驚くほどに我々の身体の一部であり、我々の身体に依存している。我々の「触れる」という能力が、自らの肉体の周囲の物体との界面においてしか成立しないのとほとんど同じような有限さで、我々の身体の「見る」という行為も存在しているのだ、ということ*2

 The Unfinished Swan をプレイするとき、たぶん我々は、普段ほとんど、まともに意識することのない、我々の眼球器官のもつ、感覚の特殊さの中に分け入っていくことを可能にさせてくれるのではないだろうか、と、そういう期待を抱かせてやまない。そういう経験にアクセスすることを可能にしてくれることは、それこそ、ゲームの他のメディアではありえないものだろう。

 だから、ゲームは止められない。

3:アーキテクチャと、存在の身分:『ジェットセットラジオ』『塊魂』

 4年前にゲーマーたちにとって、未曾有の知覚の変容を体験させてくれた『塊魂』や、はやくも発売から9年も経ってしまった『ジェットセットラジオ』といったタイトルたちが与えた感動もこうした、「見ることの在り方」の変容に連なっている。

D

ジェットセットラジオ

 ゲームの中で、「それが何で在るか」を把握するためには、視覚、聴覚、触覚など様々な五感が媒体とされる。だが、「それが何で在るか」の「在り方」そのものは、色や、音や、肌触りによってのみ規定されるわけではない。ゲームの中の存在は、ゲームの中の身分を与えられる。コリジョンデータ(衝突判定データ)。レベル。HP。MP。

 ゲームの中には、ゲームの中ならではの身分が在る。

 ゲームをプレイするとき、ゲームプレイヤーは、視覚だけでなく、聴覚だけでなく、「ゲームの中の身分」を確認しながらゲームの世界の中を練り歩く。その「ゲームの中の身分」という特殊な様態を可能にするのは、ゲームの中のルールであり、ゲームの中の身体(PC)であり、その他のゲームのプログラム、グラフィック………まとめていえばゲームの中のアーキテクチャそのものである。

 ただし、これは何もゲームの中に限った話ではない。

 ゲームの外側*3の日常世界でも、我々はアーキテクチャの多様性と供にある。インターネットの世界がアーキテクチャの変容の幅を強力に押し広げる*4以前から、我々の経験するアーキテクチャは一つではない。

 目も見えず、耳も聞こえない人にとってはこの世は触覚を通して認知される世界であり、「色」や「音」という身分は知覚としては存在せず、触覚の先によって知覚される「形」や「堅さ」という身分しかそこには存在しない。そこまで行かずとも、5歳の子供の身体であった頃、目の前に立ちふさがる高さ1メートルの壁と、25歳の身体の目の前に立ちふさがる1メートルの壁は、同じ壁であっても、異なる身分を与えられている。1メートルの壁は、幼児には「乗り越えられない行き止まり」であり、25歳にとっては「乗り越え可能な大きな段差」に過ぎない。極端な独我論を介さずとも、個々人にとっての世界が異なった形で現れるというときの、差異はこのような形で説明することはできる。

 ゲームの話に戻ろう。

 『ジェットセットラジオ』がゲームのプレイヤーにもたらす知覚の転倒は、地面/壁/ガードレール/電柱といったものの身分を、大きく転倒させることにある。日常の我々にとっては、壁は壁であり、地面は地面である。地面は歩くことが可能な空間であり、壁はそうではない。ガードレールは地面ではなく、電柱は壁ではない。

 しかし、『ジェットセットラジオ』をプレイするとき、壁は壁でなくなり、ガードレールはガードレールではなくなる。より正確に言えば、我々は「壁」が「壁」であるのか。「壁」が「地面」であるのか、それに触れてみるまで、判断することができなくなる。『ジェットセットラジオ』の「壁」は時にそれが「地面」であるかのように、その上を滑走することが可能である。しかし、そうかと思うと、全ての壁が滑走可能なわけではない。『ジェットセットラジオ』という空間における「壁」が「壁」なのか「地面」なのか、を決定するのは触れることによって、その感覚が更新される。そしてしばしば、『ジェットセットラジオ』をやり込んだプレイヤーは、一日中やり込んだ後に、街へ出たとき、その感覚が逆輸入される。街の壁が、それまでの「壁」のように見えなくなるという錯覚にとらわれることとなる。(もちろん、人の脳みそは、ほとんどの場合には、今いる状況がゲームの中なのか、日常の街の中なのかを判断できる。その錯覚がそこまで致命的に機能することを、ほとんどの場合は心配しなくてもよい。)

 『塊魂』でもまた、「猫」は「猫」でなくなり、「人」は「人」でなくなる。そこでは、新たにゲーム内の身分が与えられ、ゲームプレイヤーはゲーム内の身分を、ゲーム内で触れることによって知りうる。お相撲さん、飴、ゆきだるま、牛etc...それらは、全てゲーム内の身分を新たに与えられ、ゲームを遊ぶとき、ゲーム内の「お相撲さん」の身分と、日常における「お相撲さん」の身分。ゲーム内の「牛」の身分と、日常における「牛」の身分の違いに、戸惑い、笑い、驚く。

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塊魂


4:行動と知覚

 こうした話は、ストラットンに連なるさかさめがね研究の話も思い起こさせるかもしれない。たとえば、さかさめがねを付けたとき、次のようなことが起こりうる。

 知覚心理学者牧野達郎は、みずから上下反転めがねを長期的に着用する実験を行った際、この状態で立小便をした。すると小便は「むこう側」から「こちら側」に飛んでくるように見えた。もう一人の自分から小便をひっかけられる仕儀となったわけだ。しかし不思議なことに(?)濡れなかった。そしてもっと不思議なことに、着用期間の後半になると、このような分裂した印象は消えていた。見える自分と感じられる自分とがふたたび一致して、小便はこちらからあちらに飛んだのだ(牧野(私信))

(下條信輔[1996])*5

 そしてまた、その後に、さかさめがねを外してみる。すると、さかさめがねに適応してしまった人は、まるで当初さかさめがねを着用したときのような、知覚の混乱を味わうという。

 この知覚の転倒現象は、我々の知覚が一体何に由来しているのか、ということを強力に物語っている。我々が世界を見、聞き、感じる在り方は我々の知覚(視覚、聴覚)のみに由来しているのではない。我々が世界を見、聞き、感じる在り方は、我々の「行動」に深く関わっている。

 では、行動と、知覚はどう関わっているのか。(やや古いが)下條*6によれば、「行動的適応と知覚的変化は密接にリンクし、行動が知覚の前提条件となるが、両者はイコールではない。これが今日、研究者の間のコンセンサスである。」という。つまり、ここまで何度か繰り返して述べてきた「見ることの転倒」といったとき、それはもちろん、我々の視覚そのものが変容させられているわけではない(脳に電極を指すサイボーグ技術ではない)。

 では、何が我々の見えることの在り方に変容をもたらしているのか。

 同じく、下條によればその一つの基準は「恒常性」である。

 さかさめがね着用当時の視野の同様による混乱は、方向・位置の恒常性の喪失とみなすことができる。つまり「事物の静止、自己の運動」という解釈ではなく「事物の運動、自己の静止」として知覚してしまう。順応過程はその逆、つまり方向・位置の恒常性の回復の過程にほかならない(略)。この意味のリアリティ、すなわち「自分が動いたとき、環境そのものが揺れ動くのではなく、あくまでも自分の動きとして知覚する」という意味での恒常性……(略)…… このように、知覚現象としてつきつめて考えれば、現実感・臨場感は恒常性の問題に帰着する。

 もう一つは「随伴性」の認知である。*7

「視覚による捕獲」として知られる現象がある。たとえばくさび型のプリズムごしに自分の手をながめ、指を曲げたり伸ばしてみる。プリズムによって見える手の位置はずれるので、さかさめがねの場合と同じように、感じられる手と見える手との間に分裂が生じるはずである。ところが実際には、手は見える手の位置に強く引きつけられるため、分裂はほとんど感じられない。目を閉じたときだけ、手は本来感じられる位置に感じられる。そこで目を開けたり閉じたりすると、感じられる手の位置がスイスイと見える位置との間を行き来する(Shimojo(1987))

 手を伸ばしたときに、この効果はよりはっきりと観察される。このことから、自発的に手を運動させた際の、神経学的な運動指令と視覚フィードバックとの間の時間的随伴性が重要であることがわかる。同じように、体性感覚と視覚との間の、フィードバック同士の随伴性も重要と思われる。

 …(略)…考えて見れば、さかさめがねに対する順応過程で、見える位置に手足が感じられ始めるのも、この視覚的捕獲の一種と言える。変換がドラスティックであるため、適切なネーミングとは言い難い。むしろ時間的随伴性を手がかりとして、体性感覚が視覚世界の中に住み込んでいく。いわば仏に魂が入るというわけだ。

 このように、恒常性や、随伴性といった、体性感覚と環境とのインタラクションによって再帰的にのみ明らかになってくるような感覚によって、われわれの「見ること」「聞くこと」の在り方は大きく左右される、という。

 もちろん、さかさめがねや、HMDのような視覚全体を覆うような装置と、モニターの中だけで完結するコンピュータ・ゲームのような装置では、この議論がそのまま適用できるわけではないだろう。しかし、『ジェットセットラジオ』や『塊魂』のようなゲームをプレイするとき、確かにゲームプレイヤーである私は日常の見ることの在り方とは、別の見ることの在り方と接続されているという感覚を抱いていた。地面が地面ではなく、壁が壁でもなく、猫が猫でもない。そういう世界の中に、かなりドラスティックな感覚器官を放り込んでいるような、そういう恍惚に襲われる。

 そして、地面が地面でなく、壁が壁でなく感じられるその世界は、マックス・エルンストサルバドール・ダリといったシュルレアリスムの画家たちが描くような、像が像としての整合的な形を結ばない世界でもない。地面が地面でなく、壁が壁でないにも関わらず、そこに立ち現れる世界は、全体的な整合性をもって直感的に感じ取られる。静止した映像の世界であっても、単なる動画の世界であっても、決してたどり着くことのできない<見ること>の変容がここにはある。環境とのインタラクションによってしか、この感覚変容はもたらされることがないのだ。


余談:積み残した少しはなし。

 一応の、記述したかったことは以上である。

 余談になるが、ここまでで端折って書き、書くことを避けた点について二点述べておきたい。

 上記の、下條の議論からの導き出した議論はあくまで、視覚などの五感と最終的には結びつき、それを変容させるベースとしての「随伴性」や「恒常性」の話である。「コリジョン」の話などは、基本的にはこの範囲に属するところの多い話だろう。

 では、最終的に視覚や、聴覚と結びつくことのない、感覚についてはどうなるのだろうか?

 例えば、「HP」「MP」「LV」etc...はどうなるのか?

 前に、澤邉紀生先生と飲んだときにたまたまアフォーダンスの話が出て、澤邉先生から、とても興味深い話を聞いたことがある。

 会計をやっている人の中でも、あるレベルを超えて達人の域に達すると、会社のバランスシートなどの会計データをパッと見るだけで、その会社のある側面が、常人とはまったく異なった、生々しいリアリティをもって感じられるようになるという。会計データのなかのある数字が、会社の中のどういった慣行や、文化とどのように結びついているのか。達人の中では、あたかも五感のほかに、もう一つの感覚器官で捉えているかのように感じられるようになるという。(酔った席での話だったので、話の記憶が若干まちがっていたらすみません…)

 この感覚は、おそらくある域を超えてゲームをやり込んでいるゲーマーにとっては、何か共感するところがあるのではないだろうか。

 バーチャファイターF-ZeroGTA、将棋なんでもよいが、ある閾値を超えるほどにインタラクションをやる。すると、恒常性/随伴性といったインタラクティブな行為の中から感得されてくる要素が、視覚や聴覚といった最終的な行き場は伴わなくとも、何かしら、妙にわけのわからない生々しさを伴って立ち現れてくることはないだろうか。

 やや生得論寄りとされるの認知研究者の議論によれば*8我々の身体がもっている生得的直感は、視覚や聴覚といった五感のみではない。スティーブン・ピンカー*9によれば数の感覚や、確率の感覚、言語といった機能、そして物理的挙動を直感的に感じ取るような直感物理学とでも言うべき機能*10もまた、我々の生来の認知能力の一部に含まれるという*11。これは、認知の専門家でもなんでもない人間による推測に過ぎないが、随伴性の認知や、恒常性の認知は、五感と結びついて世界像を変えるだけでなく、こうした直感の領域とも結びつきながら、我々の認知変容を可能にしていくのではないだろうか。

 実際、2000年代中盤以降『Half Life2』をはじめとして、『Line Rider』や『Armadillo Run』など物理演算処理をゲームの中に組み込んだ傑作がいくつか生まれたが、ゲームの中の物理演算がどこまでリアルな挙動に沿っているものなのか、工学屋でもなんでもない自分にとってはあまりわからないところがある。だけれども『Armadillo Run』の物理演算処理は、全体としての整合性が十分にとれた世界になっていたし、そこでの物理挙動としての「ウソ」の部分があったとしても、ほとんど私はわからない。人間の認識能力はしばしば錯視のようなドラスティックな認識の欠陥を持つことが知られているが、そういうことをもし、ゲームの中でやられたら、ほとんどわからないだろうと思う。『Armadillo Run』のゲーム中で試してみるほどに、複雑・高度な物理挙動のデザインを、ゲームの外では試したことがない。なので、感覚の準拠点は、ほぼ完全に、現実世界のそれよりも『Armadillo Run』の中の物理挙動の感覚である。私のなかでは今や「リアル」な感覚の構成はそちらにある。

 もう一点は、ここで私が記述した「知覚」「認識」といった概念は、おそらく認知科学系を専門にやっている人からすれば、かなり脇の甘い言葉遣いになっていると思われる。「私が動くこと」「環境が動くこと」、「関係性が変わること」「知覚が変容すること」。概念をそこまできちんと区分けして使っていない。この点については、殴り書きのもあるし、そもそもわかっていない部分もあるので、認知科学プロパーの人からコメントがもらえたら嬉しく思う。


2008/12/09 追記とメモ

1.

 結局、逆さメガネの例は、逆さメガネによって人間の認知が「変わる」という話なのか、「変わらない」という話なのかと、いう突っ込みをいただいた。

 逆さメガネの例自体は、(行動的適応の対象となる)環境が同じであれば、視覚への入力デバイスが変わったとしても、感覚は同一に保たれる、という例である。つまり、視覚入力デバイスが、我々の感覚の生起の在りようを根拠づけていないことを意味している。

 逆に、環境が変わることによって、視覚が変わりうるという可能性がここでは提示されている*12

 つまり、変わる。

2.

 この話に関連して、ジェームズ・タレルの暗室と、ミミズの世界の話をすると、けっこう評判がよかった。今度、この文章をどこか向けにリライトするときは、その話を冒頭にもってこようと思った。

3

 EAの『mirror's edge』もおそらく、この話の延長線上で語りうるタイプのゲームだと思われ。まだ手元に届いてないけどwktk

  D

 mirror's edge

4

 イアン・ボーデン『スケートボーディング、空間、都市──身体と建築』(齋藤雅子ほか訳、新曜社、2006)は、上記のような話をベースにしたより高次の話になっている、との指摘をもらった。

 まだ、パラパラとしか読めていないけれども、たしかに、認知レイヤーの議論とは、議論のレイヤーが一段階違う。

 ただ、それはどちらが偉いという意味ではない。私の話のほうは、どちらかというと、ミクロな個室での体験を話しているとすれば、イアン・ボーデンは、シチュアシオニスト*13的な批評の作法を一つの前提とした上で、そこからの距離を取ることを目指している。確かに説明のレイヤーが違う。

 私の上記の話を、社会批評的なレイヤーに変換して言うのであれば、非常に安直には、シチュアシオニスト的なものになるんだろうな、とおもう。しかし、シチュアシオニスト的な方法からどれだけ決定的に距離をとり、無効化するか、ということを示す枠組みを作れなければ、旧来的な左翼系のアート言説システム内部に包摂されてしまう。それは進むべき道として最もおもしろくない道なのでやりたくないところ。シチュアシオニスト的な言説から、距離をとることを目指すという意味においては、イアン・ボーデンは、(未だ読んでないけど)たぶん、私と考えの近い人だとおもう。

 ただ、社会批評的な問題に直に連結させてこの話をやる必要はなくて、私はもうちょっと別の経路からこの話は発展させていきたい。

2009/01/14 追記と、走り書きメモ

5

 結局、<アーキテクチャの多様性がある>→<よって世界の見え方の多様性が成立する>、という現象が「ゲームを介さなくても存在している」と言ってしまうあたりは、わかりにくかったので追記。

1.身体由来の世界の現れの多様性:人間の個々人の身体由来の世界の見え方の多様性というのはある

2.異なる身体経験の不可能性:しかし、通常、われわれは他人に成り代わって、他人の見ている世界それ自体の感覚を生きることはできない

3.ゲームによる異なる身体経験の可能性:しかし、ゲームは、我々の身体感覚を日常のそれとは異なったところへと連れて行ってくれる。そこでは、まるで他人の身体になりかわるかのように、多様な身体性を経験することができる。そして、それによって身体性由来の世界の見え方の多様性を経験することができる。なので、ジェットセットラジオや、塊魂はすごい…!

 という理屈の流れになる。

 太字の部分(異なる身体経験の不可能性)が、きっちりと書いてなかったので。反省。

6

 あと、イアン・ボーデンによる、スケートボーディングの話っていうのは、「ゲームによって異なる身体を経験すること」ではなく「身体拡張の機器によって異なる身体を経験すること」という形で、異なる身体を経験するためのツールを変更している、という話だとおもわれる。「異なる身体」を経験するためのツールは、もちろんコンピュータ・ゲームだけでなく、身体拡張機器(スケボー、逆さメガネ、ローラースケート、AR)、環境変化装置(ジェームズ・タレルの暗室)、乗り物の操縦(車、自転車、バイク、飛行機、ヘリコプター)ケミカルなもの(ドラッグ)など多様なものがありうる。*14

7

 もちろん、「車の操縦」をめぐって、シチュアシオニスト的な発想から肯定できる理路は獲得できない。それは、「車」が現代社会の中で基幹的な制度の一つとして組み込まれているからに他ならない。運転免許を取得して、交通ルールを守りながら、車社会の一員として生きることの「批評性」というのは、どこにあるのか。そんなものは、ない、という話になるだろう。車は、旧来と異なった身体アーキテクチャが現出してきたときに、既存の社会システムとの調整が、存分に果たされ終わったような歴史の古いアーキテクチャである。ここには<操縦者(プレイヤー)によるシチュアシオンの再定義>という行為は見られない。シュチュアシオンはすでにきっちりと定義されている。むしろ、操縦者は、シュチュアシオンに従うことを強制される。それに、基本設計コンセプト*15の多様性も存在しないアーキテクチャである。そこには、車を使って走ることは、なんら、新たな社会的問題/疑義を提起しない。

 だが、実際には、車を使えば、別の身体感覚を味わうことは可能であり、別様の世界経験がそこに生起しうるのは確かだとおもう。

 車の操縦を通して、シチュアシオンをもしも破壊することのできる可能性をもつ者がいるのであれば、それは「走り屋」「暴走族」といった形で、標準的な車社会の規範からの逸脱者としてラベリングされるだろう。「おまえらは、車社会の一員としての自覚が足りない」と言うことになる。それは、標準/逸脱という、ごく安定したシチュアシオンを結局は何も壊せはしない。車社会のシチュアシオンには、ヒビの一つも入らない。それが「かつて新奇で人工的なアーキテクチャであったが、伝統的になってしまったもの」の、ごく標準的な在り方だろう。

 車やバイクを用いて、我々はかなり特殊な身体経験/世界経験を行うことが可能だ。しかし、それは、社会全体とのシステムとの調整/均衡バランスがすでに設計されているものであって、その調整された社会システム上の規範/制度を抜け出すことはもはや自由にできなくなっている。ゲームバカとしては、さしあたって言うのであれば、「走り屋をするぐらいなら、巨大プロジェクタと、扇風機使って、レースゲームでもやった方が、よっぽどいいよ」とでも言っておくべきだろうか。(もちろん、そんなことを本気で言ったら、高速にdisられると思うけど…)

 一方で、スケートボードや、逆さメガネ、ARはその限りではない。これらは、身体由来の世界の多様性を可能にするだけでなく、未調整なアーキテクチャである。だからこそ、まだまだ「遊べる」。<標準的>な使用と、<逸脱的>な使用(遊び)の境目ははっきりと確定されていない。なぜならば、未調整なアーキテクチャは、まだ<標準>が、きっちりと決められていないからだ。使用の<標準>が<標準>として、社会的に未調整なアーキテクチャは、<真面目/不真面目>の境界線が未確定だ。何が遊び/逸脱であり、何が「まともな使用」であるか、我々は知ることができない。「まともな使用」を知ることができないとは、つまり、そもそも「まともさ」自体がまだ存在していない、ということだ。新しいアーキテクチャは、それをどう扱っていくのが社会にとって最適なバランスとなるうるのか、まだ誰も知らない。どこでバランスするのか、バランスさせてみるまで、知ることはできない。

 そのような「まともさ」の獲得されていないアーキテクチャを遊ぶとき、われわれはおそらく、身体感覚をねじまげるアーキテクチャを介して、異なる世界経験を、二重の意味で「異なる世界経験」として経験することができる。第一に、実質的に異なるリアリティの経験が可能であり、第二に逸脱/標準というシチュアシオンのない世界へと行くことができる。

 極端な例を挙げれば、ドラッグもまた異なる世界経験を、ダイレクトに可能にするものだった。だが、これは既存社会システムとの調整/未調整という規準でいえば、強烈にして調整をうけた。ドラッグはもはやそれを通じて、異なる世界を経験することは禁じられてしまった(し、もちろんそれでいいのだろうと思う)。

 ゲームでいえば、オンラインゲームで言えば、RMT(リアル・マネー・トレード)は急速に既存の社会システム側からの調整を受けた。それは、既存の社会システム(貨幣/経済システム)と直につながってしまったからだ。だからこそ、急速な調整を受けざるをえなかった*16。一方で、スタンドアロンのゲームは、社会システムからの調整からも、多くの場合、自由でいられる。それがどこまで放置していいのかどうか、という議論は、もちろん、今後必要なわけだけれども。


8.

 それと、ミラーズ・エッジをクリアしたので、たぶん、これについての話を、そのうち書きたい。

 <人間の身体という乗り物>とかいうタイトルで。

 たぶん、乗り物でもなく、ケミカルな手段でもなく、インタラクティブな「人間の身体」というメタファーを介して、異なる街の見え方へのアクセスを可能にしてくれることこそがおもしろい気がする。息切らしてるのとかが、おもろい。

2009/07/27追記

9.

 いまさらながら、『Portal』やりました。この作品も、ここらへんの系列にならべておkな作品だと思われますた。単なる3Dパズルゲームだと思っていて、正直すまんかった。GDCAをゲットした実力は並じゃない!というべきか。

D

 まあ、あまりに網羅しようと思うと、『マリオ64』とか『Sonicアドベンチャー』とかもそうなんじゃないか、とか。基準が曖昧になってくるので、このへんで。

*1:シュレディンガーの猫とか、エヴェレットの多世界解釈やらの話は、あましきちんと勉強したこともないので、おそろしいから触れるのはやめときます。とりあえず、日常的な観測の中での「感覚」の問題と、もっと原理的な観測な話は違うよね、という話へリンクだけ→ http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20060618/ 。ここでは「日常的な観察」の問題だけについて記述しているということで、ゆるしてくださいまし。

*2:余談:書きながら、ジェームズ・タレルの作品とか、ひさびさに見たいな、とかおもった → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%AC%E3%83%AB …といことでただのメモ系注釈

*3:一次的現実

*4:とりあえず、ここらへんの話は濱野くんの話を参照→ http://wiredvision.jp/blog/hamano/200705/200705231549.html

*5:下條信輔,1996「『脳の中の桶』は未来の夢を見るか」『仮想現実学への序曲』共立出版 より引用。またもや余談だけれども、この論文は、とてもとても面白い。下條さん、まじネ申。

*6:下條信輔、同掲書

*7:認知の専門家ではないので、厳密な概念適用はわからないが、たぶんアフォーダンスの話なんかも、ほぼ同様だろうと思う。随伴性の認知と、恒常性といった問題と、<知覚>の間に密接な連動がある、という話だし。

*8:認知系の知り合いに聞いたら、生得論不評だったので、そっち系の業界での評価は、よーわからんです。ピンカーは不評でした。という逃げをうちつつ……/2010/10/02追記:しかし、ピンカーの評判って、要するに『The Blank Slate』ほかで、有名になりすぎたゆえの評判の分裂問題のように感じた。認知系の研究に詳しい人に言わせれば、筆が走りすぎていることもソコソコにある本らしいが、しかし、マーク・S・ブランバーグ『本能はどこまで本能か』で、なされてるような「発生論的視点からすれば、<本能>論議はDQN!」みたいな批判は、どうなの??そんな批判されても、ピンカーはそのぐらいの批判はかわすのでは?と、素朴に思ったのだけれども。

*9:『人間の本性を考える』2003、NHKブックス

*10:そのほかに、直感生物学、直感工学、直感心理学、空間感覚、論理能力としては、種類と個の区別/合成性/量化/再帰性/カテゴリー的推論などが挙げられている

*11:2010/10/02追記:まだ、読んでいないけれども、スタニスラス・ドゥアンヌ(長谷川真理子、小林哲生訳)『数覚とは何か』(2010)http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20100913 とか、数と認知をめぐる本は議論はけっこう出ており、まじめにそういうことを言うのであれば、せめてそういう議論をもっと踏まえてから言いたいな…と、思いつつ、いろいろな本を絶賛、積ん読中なう…。誰か色々と指導的コメントをいただけると幸い

*12:繰り返すが行動的適応と知覚的変化は密接にリンクし、行動が知覚の前提条件となるが、両者はイコールではない。

*13:前に、シチュアシオニズムとゲームについて少し書いたもの → http://www.critiqueofgames.net/data/index.php?%BE%F5%B6%B7 ...とか書いていたら、ドゥボールが死んだらしい。http://d.hatena.ne.jp/situationniste/20090108/ 合掌。

*14:この後の走り書きでは、社会的調整/構築システムと、身体感覚の二つの問題の重なりを話しているが、社会/身体/環境という3レイヤーで話をすることも可能かもしれない。

*15:ref.藤本隆弘

*16:既存の社会システム――貨幣交換システム――と、オンラインゲームにおける貨幣交換システムが、衝突し、RMTが調整されていった、という話は、2009/01/31に、情報社会学会シンポジウムで発表させていただく予定です。 http://infosocio.org/cfp_sympo_2009.html