どうも不思議なことがある。マスコミが、タブレットPCを殆ど報道しないことである。
恐らくマスコミがタブレットPCに脅威を感じているため、ニュースの素材として避けているのでは?と思うのは私だけでないはず。
先日も中学校の同期会に持って行こうか迷った位である。 同年代の彼らなら、このアプリを見たら腰を抜かさんばかり驚くはずだが、
嫌味とも受けとめられる可能性もあるので止めたが・・ それだけ、これは私にとっては大きなインパクトになっている。
モバイル携帯が出回っているので、それほどでもないかも知れない?。 しかし、モバイル携帯と、タブレットとは違う。
・アマゾンが読書専用のタブレットとは別に、多機能タブレットPCの分野に進出すると報道された。現在、他のメーカーで
 iPadに対抗できるところはないが、対抗できるとしたらアマゾンしかないと言われてきた。対抗馬としての本命のお出ましである。
・シャープも社運をかけてタブレットPCに打ち込んでいるが、売れているふうではない。
・先日、大型家電のタブレットPCコーナーに行ったところ、各メーカーが特、それぞれ特性のあるタブレットが並んでいた。
 その一つにソニーが、近くに売り出し予定のメガネケースにソックリな二つ折りで、見開きのものがあった。
 モバイル携帯二個分が折りたたみになったようなもの。 これなら落としても壊れにくいし、持ち物として小物の範疇になる。
富士通は、小型ノートパソコンの画面が取り外せるタブレット式。 これも便利で抵抗なくタブレットに移行できる。
 ー話しをiPadに戻す。 
これを使いこなすポイントはアプリとの出会いになる。 それとブログとツイッターも、いま一度、探してみる必要がある。
パソコンとの接点が飛躍的に増えるからだ。 忙しい人ほど、タブレットは有効になる。特にビジネスには間違いなく効果的になる。
暇な私など、机上PCと並べて交互に使っている。 そして疲れて寝室で仮眠するときも枕元に置いているほど。 IPAdバカか!

 ・・・・・・・
3477, ロスチャイルドと共産中国が2012年、世界マネー覇権を共有する
2010年10月02日(土)
ロスチャイルドと共産中国が2012年、世界マネー覇権を共有する 」 鬼塚 英昭 著
ー内容紹介ー
読者よ、知るべし。この八百長恐慌は、第一にアメリカの解体を目標として遂行されたものであることを。そして金融マフィアの
世界支配の第一歩がほぼ達成されたことを。私たちは微力である。しかし、このまま、この八百長恐慌をただ黙殺していても
よいものなのか。ヨーロッパもアメリカ同様に解体される。恐慌の津波は太平洋を越えて日本に襲いかかろうとしているのだ。
▼ この本によると「ロスチャイルド」が世界を牛耳っており、ロックフェラーさえ配下にしているという。
 東南アジアを、日本を、そしてアメリカを破壊し、今度は「中国」に目を向け、新しい世界マネーの覇権を共有しようと図っており、
その鎧が出るのが2012年という。 そのため中国は金(ゴールド)を買い増し、世界中の資源を買い漁っている。
ロスチャイルドを軸に、2012年に中国と仕掛ける新世界秩序を明確にしている。(中国に仕掛けた上で、結果として主導権を握る)
 この世界恐慌も、仕組まれた八百長恐慌であり、アメリカ解体を目指し遂行されたものと知るべしという。
そして現在、ロスチャイルドによる金融の世界支配の第一歩がほぼ達成された。次は欧州もアメリカ同様に解体される。
恐慌の津波は太平洋を越えて現在日本に覆いかかってきている。まずは円高、そして次は株安、その後、円安になる。
その過程で、激安になった日本株の買い漁りを彼らは狙い定めている。ドラッがーは「重要なのは既に起こった未来を確認する
ことである」と述べているが、彼は起きた過去と現在の中に、未来の姿が隠れているという。それからすると、近未来は
一部の勝者が大多数の敗者を支配する「人間つぶし」の暗い現象、資本主義に代わる共産主義に近い国家の姿であった。
 そうと分かっていても日本人には、未来の子供に与える財産はないのである。結局、アメリカドルの下落は最小に留まり、
株価は少しだが高くなると著者は予測。 そしてアメリカの金融資本を握っているユダヤ人は、アメリカを二極化の強者は残す。
金融資本主義者は、バブル崩壊で多大の利益を得るのである。そのためにバブルをつくりあげ、潰すのである。1985年に
プラザ合意で日本は内需を強要され、バブルを強要された。 そして、ある時期に彼等の手で株式の暴落を誘導されていった。 
それと同じことが、アメリカのサブプライム・ローンのバブルと、その崩壊、そして金融恐慌であった。 その刈り入れが
2012年から本格的に始る。100年〜250年に一度のバブル崩壊は、彼等のターゲットだったという著者の意見は、
過去の所業からみて、疑う余地がない。そうこう考えると、哀れなのが現在の日本の現状。更に収奪されようとしている。
・・・・・・・・・
3102, かなしみの詩
2009年10月02日(金)
  かなしみの詩 ー「10歳の放浪記」その後ー  上條さなえ著
 たまたま図書館で、ある本を必死に探していたら偶然、あの「10歳の放浪記」の続編が目に入った。
今年の1月の発刊だから、最近に図書館に入ったばかりだろう。 図書館の天使が導いたのだ。「10歳の放浪記」では、
その後、養護学園に入るところで終わった。その「おわり」に、その後の「非情な虐めがあった」と書かれていた。
 学園の中では、一人ひとりの幼い子供たちの哀しみがあり、本人の哀しみの傷があまりに哀れ。
11歳といえば自分を考えても、厳しい人間関係の基礎が出来る時期。 不幸な子供たちほど仲間への虐めも辛らつになる。
その中で彼女の逃げ場がトイレと誰も居ない図書館。 そこで、自然と本を手に取るようになる。
そして、そこで先生に手渡された石川啄木の詩集「一握の砂」。いのちなき砂のかなしさよ さらさらと 握れば指のあひだより落つ
いのちなき砂のかなしさよ という言葉が、さなえの心を捕らえたのだ。「かなしさ」を表現してもいいのだという驚き。
  かなしみといはばいふべき  物の味  我の嘗めしはあまりに早し
この歌に出合った瞬間、さなえの胸に吹き矢が当たったような気がしたという。
 そして歌集の啄木の写真をみつめ、もしかしたら11歳の初恋だっかかもしれない、と。
山本先生に「啄木の歌をいくつ覚えた?」と聞かれ首をかしげた。「うーん、80ぐらい・・かな」
「一番好きなのは?」 「みんな好きなんですけど・・・」少し考えてから言った
 かなしみといはばいふべき 物の味  我の嘗めしはあまりに早し
山本先生は、黙ってきいていた。 そして、「早苗ちゃん、早苗ちゃんは食べることが好きだね。食べ物にはね、
うま味、塩味、あま味、から味、さんみがあるというけど、僕はもう一つあると思っているんだ」
「かなし味、かなしみという味を知る人は琢木もそうだけど、人にやさしくなれるんだ。とっても大切な味なんだ。
早苗ちゃんは、かなしみの味を知っているから、いい子なんだね」私は俯いたまま涙をこぼした。
わたしは、やっぱり山本先生のような先生になりたい。
 〜以下は、この本の紹介文〜
 昭和36年、10歳のホームレス生活を経てたどりついた学園で、11歳の著者を待っていたのは…。
愛情あふれる先生と、それぞれに事情を抱えた生徒たちとの出会い、将来の夢、友情、勉強する楽しみ、
そして、文学への目覚め…。「10歳の放浪記」の著者が描く、再生の物語。児童文学作家・上條さなえ、渾身の自伝第2弾。
 養護学校に暮らす子どもたちの中でもひときわ貧しい風体の主人公・早苗は、意地の悪い男子生徒などからいじめに遭う。
それでも、思いやり深いよい先生に恵まれ、たくましく生き抜いていく。また、石川啄木の短歌との出合いから
読書の楽しさに目覚め、そのことが、のちに児童文学作家として立つ原点となる。
 《竹田養護学園での日々は、ホームレスだったわたしの再生の日々でもありました。(中略)わたしは山下先生との出会い
 により、「教師」になろうという夢をもちました。その夢が、どれほどわたしの励みになったことでしょう。
 友だちのいじめに耐えられたのも、夢のおかげだったと思います。また、わたしはホームレスの日々を経て、
 強い少女になっていたのでしょう(「おわりに」)》
後記) アウシュビッツで殺されたユダヤの子供たちに、それぞれのドラマがあったのだろうに!
 ーーーーー
2283, 10歳の放浪記
         才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)
 この日曜日の朝、偶然にBS・NHKハイビジョンで「私が子供だったころ」を観て、思わず涙が溢れてしまった。
昭和25年、東京生まれの児童文学作家・上條さなえさんの実話。10歳の時、父親が事業に失敗し家族離散、
父親と池袋でホームレスの生活を1年過ごし、その後児童福祉施設を経て、後に小学校教員になった経歴を持つ。
その過酷な子供の頃の生活を「10歳の放浪記」と題して本にした。あまりにも悲しい過去のため出版は躊躇していたが、
出版社から「いじめ問題や親子問題が多い現実にひとつの警鐘を」とくどかれ思い悩んだ末、出版したという。
この本を忠実にドラマ化したのが、TVの内容であった。
 ーその大筋を書いてみるー
不動産業をしていた父が事業に失敗して一家は離散。父と東京・池袋の簡易宿泊街で暮らした。
酒浸りの父に代わってパチンコでかせいで夕食にありつく毎日。高度経済成長期の昭和35年の頃の、学校に行けなかった
1年間の生活を淡々と描写してある。父とふたり、池袋のドヤ街でその日暮らしをしていた彼女を支えてくれたのは、
街で出会ったパチンコ屋の兄さん、やくざのお兄さん…など普通の人々である。弱者に対して優しかった時代であった。
そこは池袋駅西口を背にして左に数分歩くと、東京芸術劇場がみえてくる。目的地はその斜め向かいにあるホテルメトロポリタンだ。
かつてそこには1泊100円の簡易宿泊所があった。昭和35年、小学5年生上條は、当時43歳だったその日暮らしの父親と2人、
やむなくのホームレス生活だった。10歳という年で、道にお金が落ちていないか道をさまよい、パチンコ屋の前で玉を拾い、
パチンコをする。 (字数制限のためカット 2010年10月2日)
 ・・・・・・・・・・
2737, 1929年の世界恐慌とは?
 2008年10月02日(木)
 昨日の毎日新聞の「なるほどドリ」質問、というコーナーの記事が1929年の大恐慌と、今回の金融危機を対比して説明している。
これによると全米の銀行の半分が倒産、それにともない企業も倒産ラッシュで、三年で失業者が4人に1人の割合になり、
これが世界第二次大戦につながっていった。この「世界恐慌」に酷似している、というから恐ろしい。ともにバブル崩壊が引き金!
という。29年の世界恐慌に詳しいアメリアの学者がインタビューで「今回の方が遥かに規模が大きく性質が悪い」とコメント。
 〜〜〜〜
なるほどドリ  株価が大変なことになっているね。
記者 先月29日の米ニューヨーク市場のダウ工業株30種平均は前週末比777泌下落し、
  史上最大の下げ幅でした。 グリーンスパン米連邦準備制度理事会(FRB)議長は
 「100年に1度の危機」と言い、1929年の「世界恐慌」に状況が似てきたとの懸念も出ています。
Q 世界恐慌って歴史の教科書で読んだことはあるけれど。
A 世界全体の経済が破綻してパニックに陥ることです。1929年10月のニューヨーク市場にした世界の金融危機と、
  その後の長期的な不況を指しています。
Q 今と似てるの?
A バブルの崩壊がきっかけという点が共通しています。世界恐慌の時には、第一次世界大戦後の特需や工業化による空前の好景気で
 ダウ平均は直前の5年間で3倍に急伸しました。今回もダウ平均は過去3年で2割以上、住宅価格は5年で倍に上昇しています。
 「株と住宅は上がり続ける」と過剰な投資を膨らませた金融機関が、急落によって巨額の損失を抱えたのです。
Q 恐慌でどうなったの?
A 不安に駆られた預金者の取り付け騒ぎに発展して銀行が相次いで破綻し、米国内の銀行の数は約半分に減りました。
  融資が受けられなくなった企業の倒産も粗次ざ、3年後には米国の全労働者の4分のーが失業しました。
  影響は世界に及び、失業者の増加による社会不安はドイツ、イタリア、日本でファシズムの台頭も招きました。
Q 怖いね。世界経済はこれからどうなっちゃうの?
A まずは金融危機を止めることです。日米欧の中央銀行は銀行の資金繰りを支えるため、29日に35兆円の追加資金供給をしました。
 金本位制で金融政策の自由度が低く、国際協調の枠組みも不十分だった29年当時とは違い危機を未然に防ぐ仕組みは整っています。
 「暗黒の月曜日(プラックマンデー)」と言われた87年10月の大暴落は大量の資金供給で危機を抑え込みました。
Q 安心していいのかな。
A 米国は大統領選挙中で、日本も総選挙が予想されています。
 「政治的空白」で有効な手が打てなければ、 さらに混乱する可能性があります。
  〜〜〜
  現在進行中の金融危機は、歴史的事件として記録される出来事の序盤が始っただけ。朝起きると、欧米発のニュースで「マサカ」
 の事件が待っている。出来ることなら、楽観的なレベルで終わって欲しいが、そうはいかないだろう。
 まずは、弱いところから大きな影響が出る。
・・・・・・・・
2007年10月02日(火)
2373, 人は60歳で何をしたか −2
 「人は60歳で何をしたか」藤原治・著   ー読書日記
ある月刊誌が贈呈として昨日、会社に送ってきた。 そこに作家の新井満が寄稿していた文章が「60歳以降に何をすべきか」
というテーマ。 よくある偶然の一致であるが、それにしても不思議である。
  ーまずは、その内容をコピーしてみようー (百楽ーケイアイ出版)
*以前、禅宗の高僧と対談をしたとき「座右の銘は何ですか」ときかれ、お互いに色紙に書くことになった。
お坊さんは、たしか「誠」だった。で、私は「余命7日と想え 何をなして何をなさざるべきか」と書きました。
余命10年と思うと、まだ余裕があるから、死と生について真剣に考えるのはもう少し先にしよう、となってしまうが、
余命7日と想うと、本当にすべきことと、する必要でないことを区別せざるを得なくなるでしょう。そうすると生き方も
変わってくる。「死を考えることは、生を考えること」だというのは、このことなんです。(中略・・・)
私は若い頃から死と隣り合わせで生きてきましたから、死から生を考えるというのは当然のことなんです。
今年の春に自由訳の『老子」という本を出しました。 60歳になったら、どう生きるべきかという内容です。
老子という人物は2500年前の伝説的な哲学者ですが、その思想は難解中の難解といわれています。
私はその思想を、無謀と知りつつ4つに分類しました。1つ無欲、二つ目は謙虚、三つ目は不浄の徳、つまり争わないこと。
4つ目は貢献の徳、社会貢献です。 老子で有名なのは「上善如水」。
水のように生きるのが最高のライフスタイルだといっています。水ほど自己主張しないものはない。
丸い器に入れれば丸くなり、四角い器に入れれば四角くなる。こんな町に従順で弱々しいのに最終的には岩をも砕いてしまう。
万物を潤し、万物に恵みを与えながら、決して威張ることなく、常に謙虚だ。
人間はこの水のように生きるべきだ、というのが老子の基本的な考え方です。この水の生き方はとても参考になります。
それに基いづ明いて、私は人生3期説を考えました。人生、90歳まで生きるとしましょうか。それを30年ずつで区切ってみる。
・最初の30年は、自分探しの時代。
・30歳から60歳までは探した自分を実現する自己実現の時代。
・60歳以降は、自分や家族以外の人間、あるいは人間以外の命のために何が出来るか考える時代。つまり老子の分類でいえば、
 人生の晩年は社会貢献の徳を実現しようという提案です。 これは、あくまで理想論ですがね。
 ーーーーーー
以上であるが、三期説にしても、5期説にても、その説を立てる論で幾らでも理屈はつく。
5期説とするなら〜20歳、40歳、60歳、80歳、80歳以上の五期に分けることができるが、三期説の方が解りやすい。
三期説で考えると、一番大切な時期は三期目ということになる。人生の収穫期ということになり、一番に充実した日々になる。
 一番良くないのは、何も考えないことである。 何も考えないと、どうなるのか? 
あの8〜9割の方の群れている老人達。 表面は楽しそうだが、心の空虚は群れていては埋めることはできない。 
 ところで、「人は60歳で何をしたか」藤原治・著で取上げている人たちは、その後も、二期を続けた人たちである、
そうすると荒井満とは少し違ってくる。 片方は世に、それなりのことを達成した人と、凡人は分けて考えるべきか?
 ただ生き方を考える上では、藤原治の方が参考になるが。
・・・・・・・・
2006年10月02日(月)
2008, 「私」のための現代思想  −6
          (。^0^。)オッ(*^○^*)ハ〜
 ー 先に概要を説明しておくと、
 明治以降、日本人が信じてきた価値観がここにきて大きく崩壊している。
ポストモダニズムが日本にも浸透してきたのである。「一流大学を卒業して、一流企業に勤め、そして家を建て・・」
という価値観が根こそぎ信じられなくなってきた現状の原因を、解りやすく説明してある。
現在は、自分で「小さな物語」を創作していく時代である。「小さな物語」は「大きな物語」の裏づけがあればこそだが、
それが無くなった中で創作していくのは並大抵のことではない。
各自がそれぞれの「捨てられない物語」を受けとめて、能動的に生きることが自分の「小さな物語」を究極的に生きることになる。
 ーーー      
第二章 「私」はどこで、どのように生きているのか −2
  (以下、字数の関係上中間カット08年10月2日)
・・・・・・・・・・
2005年10月02日(日)
1643.マグロ屋福助ー亭主・宗親の独り言・・2
(字数制限のためカット2009年10月02日)
・・・・・・・・
2004年10月02日(土)
1278, 人生(時間)のセイムスケール−2
(以下、字数の関係上カット08年10月2日)
・・・・・・・
2003年10月02日(木)
911, 恥ずかしい話
・・・・・・・
537, 緩慢なる自殺

  • 2002年10月02日(水)

 十数年前の東京の経営セミナーで、漢方の薬局を経営している人から聞いた話で、今でもその忠告を守っている。
  ーその内容は
・白砂糖は毒そのもの、絶対に口にしないこと! ーコヒーに入れて飲むのが一番悪い。
・缶ジュースも毒そのものー冷やすと甘味が薄れる為、甘味料を異常に入れてある。特にコーラは要注意、
 どうしても仕方なく飲みたいときは スポーツ飲料にすること
・インスタント物も可能か限り口にしないこと、やむをえない時は冷凍食品にする事。
・内臓ものも口にしないことー焼き鳥とか、レバ焼き。
 ラーメンもたまに食べるのはいいが、常食にしないこと−中華そばの汁は骨とかでダシをとってある。
・マヨネーズも危ない。今は動物性から植物性に変わっているが、ドレッシングがよい。
今考えてみて、それを実行してつくづくよかったと思う。今の人を土葬にしても骨が腐らないためにそのまま残るという。
防腐剤のためだ。 長岡のあるホテルの人から聞いた話だが「裁判調停の為長期で泊っていた母と子が数ヶ月間、
3食カップヌードルを食べていた」と聞いたことがある。 聞いただけでゾッとした。
農家は農薬を使っている現状を知っている為、自分達の口に入れる作物は無農薬しか口にしない
という話を聞いたことがある。こうなるとエログロの話だが実際のところそれに近いのだろう。
今になって狂牛病が大問題になっているが、知る人ぞしる話である。
「それでも世界で一番長寿なのだから心配することはない」というのは見当違いで、それは今のお年寄りの話。
そういう食品を若いときに口にしてない。今の30~40歳以下の人はその保障はない。
「インスタント物」「缶物」「砂糖などの糖分」は口に入れないことだ。そうしないと緩慢なる自殺になる。
・・・・・・・
[168] 忘れられないあのお店−1
 2001/10/02
 このキーワードを聞いただけでも、ある年齢を超えた人なら深い思いに駆られる。初めてのデ-トで入った店とか、
初めて一人で入った店とかのことだ。これをキーワードに過去をさかのぼると、無限に近い記憶が戻ってくる。
考えていたら予想を超えて、全く違う思いが底より湧き出してきた。それが意外と?長岡の大手通りの‘生家の池津屋’という店だ。
要するに幼児体験の自身のアイデンデテーに立ち返るということだった。 私が3歳の時に両親が当時ビルを建設をはじめた。
その時に仮店輔で木造の家を、厚生会館(前は公会堂)の前に引越した。家の下に、丸たんぼうを入れて移動したのだ。
個人の申請として全国で初めてのビル建設だったという。 昭和24〜25年の頃で、その時のことをハッキリと覚えている。
ビルの完成、そして引越し、仮ネグラの二階の奥の記憶! 今の緊張感の数倍あった!当時の方が圧縮された生々しさが有った。
あの白壁の匂い!そして三階への引越し。四階に従業員のねぐらと倉庫。子供ながら色いろあった。
それが(トップページの倉蔵の写真)の中にある。考えてみても、異常体験だった。でも刺激的で悲しくもあり楽しい毎日であった。
10人の家族と20人以上の従業員の戦場のような毎日!そのまま描写したら、面白い小説になるような日々の連続であった。                                 −つづくー
もし高いというなら、古本屋かブックオフで買えばよい。それでも高いというなら、図書館がある。
主知主義ではないが人間として生まれてきたからには、知る事が最も優先されべき権利であり義務でもある。
知れば知るほど知らない事が増えてくる。 知っただけその周囲の未知の部分が増えるからだ。

つれづれに

イメージ 1

今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=f9IvUS4ipZk&feature=related
---

 たまたま二年前の同月同日に、「悲しみの詩」があった。「10歳の放浪記」の続編の感想文。
   なかなか印象深い内容。 暗い中にある明るさがよい。
・・・・・・・
3102, かなしみの詩
2009年10月02日(金)
  かなしみの詩 ー「10歳の放浪記」その後ー  上條さなえ著
 たまたま図書館で、ある本を必死に探していたら偶然、あの「10歳の放浪記」の続編が目に入った。
今年の1月の発刊だから、最近に図書館に入ったばかりだろう。 図書館の天使が導いたのだ。
「10歳の放浪記」では、その後、養護学園に入るところで終わった。その「おわり」に、その後の
「非情な虐めがあった」と書かれていた。 学園の中では、一人ひとりの幼い子供たちの哀しみがあり、
本人の哀しみの傷があまりに哀れ。11歳といえば自分を考えても、厳しい人間関係の基礎が出来る時期。 
不幸な子供たちほど仲間への虐めも辛らつになる。その中で彼女の逃げ場がトイレと誰も居ない図書館。 
そこで、自然と本を手に取るようになる。そして、そこで先生に手渡された石川啄木の詩集「一握の砂」。
  いのちなき砂のかなしさよ さらさらと 握れば指のあひだより落つ
いのちなき砂のかなしさよ という言葉が、さなえの心を捕らえたのだ。「かなしさ」を表現しても
いいのだという驚き。
  かなしみといはばいふべき  物の味  我の嘗めしはあまりに早し
この歌に出合った瞬間、さなえの胸に吹き矢が当たったような気がしたという。
 そして歌集の啄木の写真をみつめ、もしかしたら11歳の初恋だっかかもしれない、と。
山本先生に「啄木の歌をいくつ覚えた?」と聞かれ首をかしげた。「うーん、80ぐらい・・かな」
「一番好きなのは?」 「みんな好きなんですけど・・・」少し考えてから言った
 かなしみといはばいふべき 物の味  我の嘗めしはあまりに早し
山本先生は、黙ってきいていた。 そして、「早苗ちゃん、早苗ちゃんは食べることが好きだね。
食べ物にはね、うま味、塩味、あま味、から味、さんみがあるというけど、僕はもう一つあると思っているんだ」
「かなし味、かなしみという味を知る人は琢木もそうだけど、人にやさしくなれるんだ。とっても大切な味なんだ。
早苗ちゃんは、かなしみの味を知っているから、いい子なんだね」私は俯いたまま涙をこぼした。
わたしは、やっぱり山本先生のような先生になりたい。
  ~以下は、この本の紹介文~
 昭和36年、10歳のホームレス生活を経てたどりついた学園で、11歳の著者を待っていたのは…。
愛情あふれる先生と、それぞれに事情を抱えた生徒たちとの出会い、将来の夢、友情、勉強する楽しみ、
そして、文学への目覚め…。「10歳の放浪記」の著者が描く、再生の物語。児童文学作家・上條さなえ、
渾身の自伝第2弾。
 養護学校に暮らす子どもたちの中でもひときわ貧しい風体の主人公・早苗は、意地の悪い男子生徒などから
いじめに遭う。それでも、思いやり深いよい先生に恵まれ、たくましく生き抜いていく。
また、石川啄木の短歌との出合いから読書の楽しさに目覚め、そのことが、のちに児童文学作家として
立つ原点となる。 《竹田養護学園での日々は、ホームレスだったわたしの再生の日々でもありました。
(中略)わたしは山下先生との出会いにより、「教師」になろうという夢をもちました。
その夢が、どれほどわたしの励みになったことでしょう。 友だちのいじめに耐えられたのも、
夢のおかげだったと思います。また、わたしはホームレスの日々を経て、強い少女になっていたのでしょう
(「おわりに」)》 
  後記) アウシュビッツで殺されたユダヤの子供たちに、それぞれのドラマがあったのだろうに!

・・・・・・・
2007/07/04
2283, 10歳の放浪記 ー1         才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)   
 この日曜日の朝、偶然にBS・NHKハイビジョンで 「私が子供だったころ」を観て、
思わず涙が溢れてしまった。昭和25年、東京生まれの児童文学作家・上條さなえさんの実話。
10歳の時、父親が事業に失敗し家族離散、父親と池袋でホームレスの生活を1年過ごし、その後
児童福祉施設を経て、後に小学校教員になった経歴を持つ。その過酷な子供の頃の生活を
「10歳の放浪記」と題して本にした。あまりにも悲しい過去のため出版は躊躇していたが、
出版社から「いじめ問題や親子問題が多い現実にひとつの警鐘を」とくどかれ思い悩んだ末、
出版したという。この本を忠実にドラマ化したのが、TVの内容であった。
 ーその大筋を書いてみるー
不動産業をしていた父が事業に失敗して一家は離散。父と東京・池袋の簡易宿泊街で暮らした。
酒浸りの父に代わってパチンコでかせいで夕食にありつく毎日。
高度経済成長期の昭和35年の頃の、学校に行けなかった1年間の生活を淡々と描写してある。

父とふたり、池袋のドヤ街でその日暮らしをしていた彼女を支えてくれたのは、街で出会った
パチンコ屋の兄さん、やくざのお兄さん…など普通の人々である。弱者に対して優しかった時代であった。
そこは池袋駅西口を背にして左に数分歩くと、東京芸術劇場がみえてくる。
目的地はその斜め向かいにあるホテルメトロポリタンだ。そこには1泊100円の簡易宿泊所があった。
昭和35年、小学5年生上條は、当時43歳だったその日暮らしの父親と2人、やむなくのホームレス生活。

10歳という年で、道にお金が落ちていないか、道をさまよい、パチンコ屋の前で玉を拾い、パチンコをする。
1個、2個、3個と球が無くなり、4個目にチュウリップに入り玉が出る。
5個目の球が、途中でひっかかると、隣のおばさんが「このスイッチを押すと店員さんが来てくれるよ」と、
教えられ、ブザーを押す。そこの店員が機械が壊れたと思い「どうしたの」聞いた。
さなえは自分がどうしたのかと聞かれたと思い 「お父さんが病気なの」とかぼそい声で答えた。
それを聞いた店員は気の毒に思い、多くの球が出してやる。さらに金に換える方法を教えてくれた。
教えられて行った景品屋のヤクザが同情して、高い値段で買い取ってやる。
それから毎日、パチンコに通い、生活を支えた。 しかし、ついに父が言う、
「なぁ、なこちゃん、父ちゃんお前を育てるのに疲れちゃったよ」「なこちゃん、死のうか」 
しかし、「子どもって、かなしいよね。大人に決められたら逆らえないし、 どんないやなことだって、
がまんしなきゃならないもんね」「でも、なこちゃんは幸せだよ。お父さんも、お母さんも、
お姉ちゃんも、いるから」。 いつも友のこの言葉を反芻(はんすう)し、壊れていく父を励まし、生き抜く。

つれづれに

2007/07/12
2291, 10歳の放浪記 -3    。っω-)..。oо○(゜+。ぉレ£∋ぅ゜+。)
この番組の中で、作家がドラマの中の10歳の頃の子役を抱きしめた場面を紹介したが、これは深い意味が含まれている。
この行為そのものが「究極の癒し」になるのである。精神症や精神病の原因として最近「トラウマ」が
取りあげられている。辞書でトラウマを調べると、「耐えられないような体験・その痕跡。内的原因(欲動興奮的)
と外的原因(侵襲破壊的)がある。」とある。特に幼少時のトラウマが大きな原因となっている場合が多い。
癒し系の本には、その時の自分を思い出して、イメージとして抱きしめることが、本人のトラウマの一番の
治療になる、とある。ところで、NHK/BSで「わたしが子供だった頃」のシリーズで、童謡作家の上条さなえさんの
「10歳の放浪記」をドラマ仕立て観て、感動し、この随想日記に二回にわたり書いてきた。
本を買おうかどうか迷ったが「図書館にあるかもしれない」と思って、買うのを控えていた。
先日の日曜日に近くの図書館のファンタジーなどのコーナーで探したが、無い。
 諦めかけたが、それでもと思い直し更に探したところ、あったのである。
  ー以下は、この本の一番のクライマックスの場面であるー
四月になると、暖かい日が続いたので、早苗は母が買ってくれた半コートを父のボストンバッグにしまった。
父は数日にわたって、風邪で熱を出していた。早苗は天井を向いている父の横で、算数の計算ドリルをしていた。
「なこちゃん」父が目を開けた。「ン?」早苗が父の顔をのぞきこむと、「死のうか…」とポヅリとつぶやいた。
「やだ。まだ、マティー二を飲んでないもん」早苗は首をふった。
(映画館で見た、マティーニを飲むことを夢みていたのだ)
「もう、金がないんだ。明日の朝十時にここを出たら、行く所がないんだよ」 父の言葉がショックだった。

早苗は大きな溜め息をはくと、外に飛び出た。姉は、東京の巣鴨だときいていた。姉なら、なんとかお金を
貸してくれるだろうと思ったが、電車賃がなかった。早苗は歩く道々に、お金が落ちていないか目を
皿のようにして探した。駅前の通りを歩いていると、パチンコ店の中から『軍艦マーチ』の曲がきこえてきた。
早苗がその曲につられるようにして、店内を見ると、銀色の玉が一つ、二つ、床に落ちているのが見えた。 
ここで稼ぐしかない。

ドアを開けると、耳をつんざくような軍艦マーチ一の曲と、チン、ジャラ、ジャラという音が聞こえてきた。
床に落ちている玉を探し求めて、何個かの玉を握りしめた。人に怪しまれないように、早苗はおばあさんの
隣を探して座った。そうすれば、祖母と孫だと入は思うだろうと考えた。

早苗は・おばあさんのやり方を見た。パチンコ台の右わきの小さな穴に玉を入れて、
バネを右手の親指で掃せばいいのだとわかった。早苗はゆっくり玉を入れた。そして、ゆっくりとバネを押した。
力が弱すぎたのか、玉はパチンコ台のくぎにも届かず下に落ちていった。二つ目はバネを押す力が強すぎて、
台のくぎの外側を大きく回って下に落ちた。早苗は深呼吸した。三つ目がようやく、台のてっぺんにある
くぎで囲まれた小さな穴に入ろうとして、くぎにはじかれて下に落ちた。(ここをねらえばいいんだ)
早苗は四つ目を、はじいた。四つ目の玉はてっぺんの穴に吸いこまれるようにストンと落ちた。
チン、ジャラ、ジャラという音とともに、台の受け皿に玉が出てきた。早苗はホッとして、五つ目を入れた。
すると右わきの穴の途中に玉が引かって止まった。早苗が小さな声で「あっれ」と言うと、隣のおばあさんが、
「上についてるブザーを抑しな」と教えてくれた。

早笛が思い切ってブザーを押すと、台の後ろから、ニキビがたくさんある若い男の店員が顔を出した。
そして、体を乗り出して台の扉を開けると、引っかかっていた玉を下に押してくれた。
それから、早苗を見て、「どうしたの?」ときいた。早苗は、「どうしたの?」という言葉を、
「どうして子どもが一人で来てるの?」という意味にとって、「お父さんが病気で」と、
小さな声で言った。そのあと、早苗の台は、まるで壊れたように玉が出てきた。
「あんた、上手だね」隣のおばあさんが手を止めて、早苗の指つかいを見た。早苗は、
バチンコ台の玉が出るようしてくれているお兄さんの秀が迷惑にならないよう、必死にうった。
 ーーーー                    
   実際の経験だから、人を引きつけるのだろう。              
   戦争体験は、もっともっと凄い体験をしたのだろう。
   地元長岡は空襲を受け焼け野原、両親から色いろ聞いてきたが・・・・
   それでも、国を守るためには戦わなければならない!それが現実である。
     戦争放棄だと、この国は!  
     気違い国家の隣にいて、それから金を貰っていた政党が今も闊歩して、
     戦争反対だという!歴史上、これだけノウテンキな国はないだろう! -つづく
                         ヾ(。´・ェ・`。)Byeヾ
2007/07/05
2284, 10歳の放浪記 -2            *ヾ(´∀`o)+。才ノヽ
    この番組の中で、教職員を前に上条さなえさんの講演の一部を放送していた。
     その内容がユニークである。
    「あなた方仲間に年配の口うるさいオバサンがいるでしょう。
     彼女らを嫌わないでください。
     彼女たちは誰からも愛されなくなってしまったのです。
     誰からも愛されなくなると、人を愛せなくなるのです。
     先生の仕事は子供を愛することです。人を愛することです。
     その為には人に愛されなければなりません。さらにそのために、
     まず自分を愛せなくてはなりません」    という言葉が何とも説得力があった。

一年間のホームレスの後、養護学校に初めて行ったとき、アンパンを食べようとしていた自分に、男の先生が
「自分の弁当と交換してほしい、東京のアンパンが食べたい」と、家庭の味のする弁当を交換してくれた。
その時、「必ず良い人間になる」と自分に誓い、先生になりたいと決心をする。
 教育に無条件の愛情以上に何の能力が必要なのだろうか。
ヤクザが気の毒に思い、10歳の子供にいう。「俺のような人間になっては駄目だ。人間真っ直ぐに
生きなくてはいけない」 これも、自己否定からくる良心からの説得力のある言葉である。
「うらやましがられることもあるけど、やっぱり平凡な人生がよかった。まず親が『幸せ』と
感じなければ子どもも幸せになれない。それぞれの自分の人生に価値を見いだしてほしい」
「私の書く小説すべてがハッピーエンドに終わるのです。色いろな経験から、そうしなくては
ならなくなったのです」の言葉が重い。
最近、14歳というのがキーワードになっている。中学二年生、誰もが覚えがあるだろう、
あの揺れ動いていた時期の日々を。誰も周囲から居なくなって、自分ひとりが取り残されて
しまったような不安の日々。ひとつの節目だが、その前の十歳も大きな節目となる。
そこで決まってしまう時期でもある。初めて自分の自我に目覚め、人間としての最初の?
壮烈な戦場がある。そこには虐めと、虐められるギリギリ中ので、人間としてのベースがつくられる。

彼女のような経験は特殊だが、しかし大きく揺れる時期でもある。
一番問題なのは、親が全て取り仕切り、自主性を刈り取ることである。

10歳の子供が、ケネディーの 
「国家が何を自分にしてくれるかより、国家のために自分が何ができるかを問え」
を「親」に切り替えるとは、 驚きである。   (* ̄∀ ̄)**SeeYou