* 逸ノ城の太腿は92センチ
 どえらい新人が大相撲に入ってきた。 白鵬が「俺より強い」といったとか、双葉山以来の逸材とか。
21歳で入門して5場所目の今場所で、一横綱・二大関を敗った。白鵬まで敗れていたら、不甲斐ない、
というより大相撲の全面否定にもなっていたところ。 白鵬が何とか勝って面目を保ったが・・ 
来場所と、次の場所に12勝を上げると大関。そうすると、来年中の横綱もありうるが、そうは甘くない? 
太腿が92センチもあるというから、少し肥満気味の人の腰周りと同じ。それでいてバランスが取れている。
 初の草牧のゲル育ちというが、こんな体格の男に日本人が敵う訳がない。既に大相撲は蒙古勢に上位を
多く占められ、次の大物二人が上がってきている。 面白いといえば面白いが・・ 問題は怪我!
   * 人間は他人と同じになろうとして、自分の4分の3を失う
 「人は他人と同じになろうとして、自分の4分の3を失ってしまう」は、ショーペンハウアーの言葉。
何世紀も農耕社会が主だった島国では、まず他人と同じになることが生活の知恵。だからこそ
「和同の精神=和して同ぜず」が必要になるのだが、人は自然に流れる。 情報社会では、自分の好きな
分野を生かすことが可能になってきたが、反面、情報の大波の中で、最善と思われる一部の情報に洗脳される
傾向が強くなる。 他人と同じになろうとするのは、自分の頭で考えないから。 自分で考えを深めれば、
自然、他と同じにならない。 それにしても、本当に考えな人が多い! 比較するしか、自分がみえないためだ。
 とはいえ、「石ころが、個性個性といっても、集めてみれば所詮は砂利」でしかないが。 
・・・・・・
4581, 2050年の世界 ー11
2013年10月01日(火)
    「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」〜英『エコノミスト』編集部 (著)
  第十四章 経済とビジネス ーのまとめ
・一九五〇年代の統制資本主義の時代にはマイナーな理論とみられたシュンペータの理論は、
 その後の現実の歴史によって、最も影響力のある経済理論に押し上げらた。
・一九五六〜八一年までは、『フォーチュン』誌が選ぶ五〇〇社のリストのうち、
 年平均で二四社が脱落していた。 一九八二〜二〇〇六年には脱落組が四〇社に増えいる。
・ことにインターネットの発明・普及によるグローバリゼーションはシュンペータの言う創造的破壊の
 スピードを高めている。想像もできない技術革新により、これまでのビジネスのやり方が陳腐化し、
 固執していた企業は淘汰され、新企業が生まれる。
・製造業では、大量生産の方法が開発された一九二〇年代以来の、大きな技術革新よってその現場は
 変貌をとげるであろう。可能性があるひとつの技術として 3D印刷技術があげられる。
・他にも、あらゆる物がネットと常時接続するようになり、そのネットワークがわたしたちの生活を変える。
 ロボットの技術革新によってこれまで人間にできなかった作業ができるようになる。あるいは電子秘書の
 機能を持つ自律型のソフトウェアができることで、仕事の効率化が起きるなど、様々な技術革新による
 経済の変化が予想される。
・先進国にいちはやく追いつきたいという新興国経済の要求も様々な技術革新を生むだろう。一気に
 九〇パーセントものコストを削減するような工程の開発によって、先進国の商品市場もがらりと変わる。
・契約型の雇用者が、複数の企業にみずからの技能を売るようになるなど、会社の形態もより複雑化する。
・様々な技術革新にともない、グローバル市場においては、知識階級に富が偏在するようになり、
 労働者の勤務はグローバル化によってより過酷化する。
・しかし総じて言えば、「資本家の功績というのは、女王にもっと絹の靴下を供給することではなく、
 それを女子工員たちの手が届く場所に持ち込んだことにある」とのシュンベーターの言葉どおりに、
 人々は創造的破壊の荒波のなか恩恵を受ける。
▼ 工程といえば、隣家のプレハブ住宅工事。まず3〜4Mの杭打ち工事。ビルや工場建設などの
 基礎工事を住宅に応用。ミニ杭の打ち込みから三週間、一切の工事がなく、その後、床底の部分を
小さな重機で二日間で掘り込み、そこにプレハブの床と杭を結び始めた。ビル工事の小型版である。 
パソコンを手の平に押し込んだスマートフォンの普及で、世界は創造的破壊で大きく変化を始めた。
「まさか、一番かたいビジネスと思っていた事業が、この結果になるとは!」が、全てのビジネスで
生じてくる。情報化は創造と破壊のサイクルを短くするが、消費者にとってはプラスになる。
・・・・・・
4206, 閑話小題 ーキモカワキャラ
2012年10月01日(月)
    * キモカワキャラ
 TVで石破幹事長を評して「キモカワキャラ」と言っていた。的確な一言フレーズを作るもの。
顔はコワモテだが、一度話し始めると、ソフトで、そのギャップが可愛らしく見える辺りを凝縮した言葉。
本人が聞いたら傷つくだろう。中年から熟年の何割かのベビーフェイス顔は、この言葉に当てはまる。
この言葉から連想できるのは、「キモバカキャラ」「イモカワキャラ」「キモカマキャラ」「キモマジキャラ」
「キモギャルキャラ」などある。 角栄は、ギタギタしていて汚職の利権漁りのイメージが強いので
「キモギタキャラ」。 ネット社会のB層には、的確な「一言フレーズ」で如何に発信するかだが、
虐めに使われるから問題になる。 この一言フレーズで切り捨てられ、切り捨てるのが現代である。  
   * ギリシャ、イタリアは近未来の日本?
 ギリシャ、スペイン、そしてイタリアで起こっている恐慌に近い事態は、近将来の日本? 
5〜6年先の日本の事態。南欧の近未来には、何かのキッカケで凄惨な国家破綻になる可能性がある。
それでも、国民は国家に頼るしかなく、急激な締めつけに反発、事態は悪化を辿る。 
それは日本も同じ。スペインの25歳までの若年労働者の失業率が過半数を超えているというが、
現に日本の高卒、大卒の三分の一が正規社員の就職が出来ず、就職したとしても三年もしないうちに
三分の一は辞めてしまうため、若者の半分はフリーター状態。将来の日本が思いやられる。
60才以上が預金総額の6割を持ち、40才以下が、その10分の1の6%しか預金がないため、消費は減る一方。
適齢期の女性の結婚相手の収入希望が6百万。そんな相手は少ないため未婚が増加している。厳しい時代に
なったもの。互いに自己限界の設定をシビアにすればよいものを、と思っても「たった一度の人生に誰かが
何処かで待っている」という洗脳がなされて抜け出せない。隣国に中国、韓国があり、競争相手は韓国男性、
中国女性になりつつある。2ランク上なら、私なら考える。
   * つれづれに
 血圧が、毎日通っているスポーツジムにあるため計る習慣がついている。毎日、大きくブレルため、
高血圧かどうか戸惑っている。また運動する前と後と、食事の直後では20は違ってくる。
120〜160前半、平均すると135で、高血圧かどうか微妙である。中高年の八割が高血圧というから、
一般からすれば平均だろう。 冬時期を除けば一日三時間も運動をして、この数値。晩酌を減らせば、直ぐに
下がるのは分かっているが・・ これも以前に書いたことだが、今、自然に頭に浮かぶことは、こんなこと。
・・・・・・・
3841, 閑話小題
2011年10月01日(土)
  * まず、50冊の本を業者に送付
 iPadなどのタブレットPCの普及と同時に、手持ちの本をデジタル化をする動きが出てきている。
本の裁断機と自動スキャン機を買って、手持ちの本を一万冊をiPadに入力した人の「iPadバカ」
という本をネットで購入し、読んだが、その手間など自分には無理と諦めていた。ところが、最近、
マスコミで、「スキャンの代行業者が出現、出版元や作家からクレーム」という報道を知り調べたら、
業者は溢れるほどあった。裁断機とスキャンを準備し、ネットで誘導すれば誰でも何時でも参入できる。
半月前に思い切って、まず50冊を選定し、いざ業者に送ろうかとしたが、何かが引っかかって、
箱につめたままにしていた。ともかく50冊をと思い切って業者に送付した。一週間後には完成するが、
送ってしまった本は、二度と戻らない。それが正しい判断かどうかは、一年後にならないと分からないこと。
とはいえ本棚に並んでいても、それが図書館にある本と、何処が違うのかというと、あまり違わないのも事実。
金を出して読んだ本は本気で読むから買うのである。本棚に置いておくのは、それと時を共にした愛着と、
再読するため。それがパソコンに入っただけと、割り切ってしまえば良いだけだが・・・ 
考えあぐねて、とにもかくにも送付することにした。
  * つれづれに 一昨日は、中学校の同期会
 中学校の同級会が開かれ出席してきたが、今年に入って二回目である。出席は11名。この数年は、
年に二回は開かれている。春から私の生活圏が小さくなった分、それはそれで有難い。 あいも変わらず
女性は元気が良い。 帰ってみれば午前様。店は何処もガラガラで、よくやっていると老婆心が出るほど。 
男5人の出席のうち、中小企業の社長は3人。背中の重しが取れた分、天使のように気持ちが軽くなった。 
そのため現役の人と接すると、何かエネルギー負けを感じるのは仕方がない。プラマイ、ゼロ。
一線で働くということは、それ自体が歪みの増大になっていることに、最近になって気づいた次第。 
それが個性でもある。 ところで高校の同級会、去年も、今年も開かれてない。一昨年、私とM君が幹事で、
恒例でその年の幹事が次の幹事を指名して持ちまわるシステムになっているが、任命責任がないでない。
この時期は、むしろ行われないほうが良い。娑婆はシャバシャバか!
 ・・・・・・・
3476, 秘・異郷ツアー、よもやま話 ー12
2010年10月01日(金)
  * 次のツアーの選定の仕方
 ツアーの選定を、どのようにして決めるのか? その都度に選定のプロセスがある。
多いのが直近に行ったツアー仲間の情報と、自分が、その時点で行きたいところを数ヶ所あげて、
その資料を集め情報を得るところから始る。 まず直近に行って良かった周辺を探すことが多い。
エジプト・トルコが良かった直後にイスラエルが面白い!と聞いて資料を集めて決断。
そして、次はシリア・ヨルダン・レバノンのコースを決めるとか。
インドに行って、ネパールに行き、その後、中国のウィグル地区からカラコルム・ハイウェーを通って
パキスタンに抜け、アフガンの国境の麻薬通りに行くコースの順に行ったりとか。一ヶ所から周辺の二ヶ所を
選ぶケースが多い。それを結んで行くと、それが世界一周コースになったりする。スペインも中央、南、
北スペインの三ヶ所だったり、オーストリア、スイス、北イタリアも、そうだ。 南米も、同じ理由で
行き先を決めていった。 情報は、その都度行ったツアー仲間と添乗員が、その最大の情報源になる。
他の人も同じこと。従って聞くほうも聞かれる方もオープンになる。 国内では単に自慢話になるが、
旅行先では情報交換クラブ仲間になる。インド派、アフリカ派、欧州派、南米派、遺跡派、シルクロード
など、その人により違ってくる。万遍なく行っている人は、「旅行道派」ということになる。 
私の経験からすると、一度行って良かった処に通い詰めるのも良いが、やはり万遍なく色いろな世界を
見ておいたほうが良い。TPOSが良いこともある。ある人が、これから世界中を10回行くとしたら、
どのような場所を選ぶとしたら、《 南米三ヶ所、アフリカ三ヶ所、カナダ、ウィグル・カラコルム
北スペイン、スイス》と答える。それか、船旅で100日間世界一周のコースがあるが、あれでも良い。
そこに行ってから付け足しをするのも合理的である。
一人150万が高いか、安いかを如何に判断するかだが。 集中の妙である。
 ・・・・・・・
3101,返済猶予法案の成立から見えてくること! −2
2009年10月01日(木)
 返済猶予法案の成立が現実味を帯びてきた。無理だろうという一般的な見方だったが、
面白くなってきた。実際のところ、こうでもしないと中小企業はもたない、と前回書いたとおりである。
新聞やマスコミの論説などからして実態の厳しさが分かってない。「昭和初期の恐慌ほどではない」とか、
藤井財務大臣が言っているが、その数倍の津波が来ているのが理解できない?のである。 
(字数制限のためカット2011年10月1日)
・・・・・・・・・
2736, 正直こそ、最大の正当防衛
2008年10月01日(水)
 議論に絶対負けない法 −4          読書日記
学生時代に、「青雲寮」(25人)という名の寮に4年間いた。 三日前にも40年ぶりに訪ねた夢をみた。
夢の中の寮は部屋も40年前のままだったが、古くて瓦解する寸前の汚い風景。そこで初めて知ったのが、
自分の見たことのない世界。今回は夢がテーマではないので詳細は書かないが、北は秋田から南は福岡までの
人種を知った。こでまず驚いたのがウソを平気で言う何人かの人である。8人兄姉の末っ子のため、ウソなど
必ず見抜かれることを体験上知っていた。しかし、それは私だけの話し大体、15%の割りでいた。
(もちろん、ウソを付く程度のレベルで言っている。人を陥れるために付くウソを平然と言うと人種のことである)
正直であること、それが一番の自然体ということは、特に母から常日頃いい聞かされてきた。 だから、それが
当たり前ということは、圧縮された異種の人間の集合体ではベースではないことを、そこで知った。
しかし長い人生を歩いて、正直こそ一番の力になることを知った。反面、正直とウソさえ知らない人種がいる。 
それは無知の人間である。 ただ親の価値観を引き継いで、その価値観の中で生きていて、その価値を疑った
こともない人たちが大部分だろう。 自分もそうなのだろう。その価値観に従うことが正直なのだろうから
何がなんだか分からなくなる。 −次の箇所が、そのあたりの人間の歪みを、言い表している。
 p−93
私たちは子供のころから本当のことを言いなさいと諭され、人生のさまざまな場面において「正直は最良の策」
だと確信するようになった。 だが、一生のあいだに、真実を語る事に、ほとんど上達しない。
おかしなことに、私たちの社会は正直であることを奨励しない。大学に「真実を語る法」と題する講座はない。
「うそつき自主治療協会」など、というものもない。 真実を語る人だと自称する人には一度もお目にかかった
ことはないし、もし自分の言うことは全部本当のことだという人がいたら、私はくるりと向きを変えて逃げ出す。
私たちは幼いころの経験から本当のことを言うとたいていは罰を受けると学んだ。本当のこと書うと、負けるか、
拒否されるか、追い出されるかだ。悪いことをして、それを正直に告白すると、たとえ悪気がなく
些細なことでも、たいがいは罰を受ける。自分が怖いと思ってることを正直に言うと、馬鹿にされる。
(字数制限のためカット2010年10月1日)
 ・・・・・・・・・・
2007年10月01日(月)
2372, 人は60歳で何をしたか                  
 *「人は60歳で何をしたか」藤原治・著 文芸春秋   ー読書日記 
何度もここで書いたことだが、50歳になった時、はたと今後如何に生きようか? 一年考えた末に、
「この十年で、60歳以降も含めた全ての人生を生きよう」という結論に達した。そして、そのつもりで生きた。
現在に至って、このコンセプトは正解だったと自己満足をしている。これは他人が評価する問題ではない、自分
自身のことである。 昨年の一月に還暦を迎えた時に「この10年間の生き方は満足できたが、次の10年をどの
ように生きようか? そのコンセプトを一年間考えよう」と決めた。正直にいうと、その満足できる結論は出てない。 
しかし大よそ考えたのは「この十年生きてきた中で、やり残したことが幾らでもあったはず、それを追求だけで
幾らでもあるはず、それを探せばよいだけ」である。「やり残しを探し、一つずつ潰していく」しかし50代の
コンセプトからみると、何か攻撃的ではない。50代のそれは好きな世界秘境ツアーを可能な限り行けばよいし、
嫌なこと、嫌な人間のいるところに、一切顔を出さなければよかった。秘境・異郷旅行を徹した?上に、
このHPの文章を遺言と思いを書き足せば良かった。他に身体に害にならない程度に美味い酒を楽しめばよかった。
これまで読みたかった本は幾らでもあったが、それを読めばよかった。その結果、60歳になった現在、何か張りが
無くなってしまった。この10年の間、少し無理してきたこともあり、唯我独尊の生き方でもあった。
50歳で人生の元は取った実感があったし、60歳で人生の余白も埋めた実感を持てた。そこで、他の同じような
年代の人は如何なのか、気になりだした??(いや、それより60歳代のコンセプトを満足してなかった!からだ)
ところが面白いもので、丁度良い本を図書館で見つけたのが、これである。それを読むと、60歳の地点で色いろな
人生の立ち向かい方があるのに驚かされた。意外に老成している内容が多いのには驚いたが、えり抜かれた人は
当然ながら、それぞれの人生に最大限の努力をしている。この本を読んでみて、小さな世界に満足していた
自分の卑小さが合わせ鏡のように見えてくる。生きてきたようにしか、その後も生きられない。それでも
真摯に生きてきた人は、その後の人生でも枯れるのではなく、むしろ成長しているのが解る。
次回からは、その印象的なところを抜粋しながら考えてみる。同じ歳とはいえ、比べようもない相手ではあるが、
自分が情けないような、悲しいような気がする。これは生まれた天分だから、仕方ないとしてもである。
二度とない人生、一日一生の思いを更に深くすれば良いのだが!
ーーーーーーー
2006年10月01日(日)
2007、「私」のための現代思想 −5          おはよ〜!(*^ワ^*)i
  第二章 「私」はどこで、どのように生きているのか
(字数の関係でカット12」年10月01日)
   ー バードウォッチに転載!
・・・・・・・
2005年10月01日(土)
1642.マグロ屋福助ー亭主・宗親の独り言・・1
 1, 人生を見せてもらいました!      宗親
居酒屋を二十数年も経営をしていると、社会の裏表が見える。
人生を人の数十倍、いや数百倍も見たように思える。
・数年前まで羽振りの良かった人が、今は乞食をしているとか。
・あのお客が会社の金を使い込んでいたとか。
・がんで亡くなったとか。
・かけ落ちをしたとか。
・実の娘に手を出し、子供ができたとか。
・遠くの親戚から、思わず数億の遺産が転がり込んだとか。
ここで書けないような犯罪の話の内容を聞いた。それらを中心にボチボチ書いていくつもりだ。
まあ人間は酒が入ると、人間性が丸出しになるし、幼稚になるからね!
・・・・・・・
2004年10月01日(金)
1277, [人生の目的]ー五木寛之著ー読書録
 数年前に話題になった本だが、当時あまり興味を示さなかった。先日、たまたま図書館にあったので借りて
読んでみた。幼児期のころから、かなり厳しい生活体験をしている為、書いてあることは暗いが、しかし重い。
彼のーあとがきにかえてーの一文が、全てこの本を伝えている。
ーー「人生に決められた目的はない、と私は思う。しかし、目的のない人生はさびしい。寂しいだけでなくて、
むなしい。むなしい人生は、なにか大きな困難にぶつかったときに、つづかない。 人生の目的は、
「自分の人生の目的」をさがすことである。自分ひとりの目的、世界中の誰ともちがう自分だけの
「生きる意味」を見出すことである。変な言いかたになるが、「自分の人生の目的を見つけるのが、
人生の目的である」と言ってよい。そのためには、生きなくてはならない。生きつづけてこそ、
目的も明らかになるのである。「我あり、ゆえにわれ求む」というのがわたしの立場だ。
  (字数の関係でカット08年10月01日)
・・・・・・・・・
2003年10月01日(水)
910, 人生の縮図
 先日、ある世界を垣間見た。といって書くには、あまりにシビアな世界であった。
しかし、それを書くのが随想日記の真骨頂である。
(字数の関係でカット08年10月01日)

つれづれに

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  今日のYoutube
 
 御嶽山の噴火、本土では数十年ぶりの爆発。
TVのインタビューや、ユーチューブを見ると、その迫力が伝わってくる。
何気なく石の雨が降るというが、あれは、加速がついているから、
非常に危険である。オーバーにいえば、機関銃と大砲の集中砲撃を
あっていると同じこと。 生延びた人は、その表現を知らないが、
映像が多くを語っている。 死者がどこまで多くなるか?


・・・・・・
2007, 「私」のための現代思想  -5
2006年10月01日(日)
              おはよ~!(*^ワ^*)i
第二章 「私」はどこで、どのように生きているのか

私たちは<世界>に投げ出され、その<世界>の中で何らかの<物語>を遂行しながら生きて
いく存在である。私たちは<言葉>と<価値>によって<世界>を認識し、<物語>をつくります。
ここでの物語とは、私たち一人一人が持っている、自分が生きていく上での「脚本」のことです。
そして<世界>とは、そのそれぞれの<物語>が上演される「舞台」のことです。
 ーハイデッガーの「世界劇場」-
 私たちは「役割」を演じている
ハイデッガーは「世界劇場」という概念を通して「人間の生」を把握しようと試みた。
彼はまず私たちの「存在そのものー現存在」と「役柄」は異なっている、ということから考える。
「役柄」は、人間は「この世界で何らかの役柄を演じている存在である」ということを表す概念。
学校においては学生を、家では息子を演じ、また友人や恋人を演じたりしている。
これらを心理学では「ペルソナ」と呼ぶこともある。 これら仮面は、あらかじめこの世界に
用意してあったもの。少なくとも、その役割の性格から大きく離れたりすることはない。
つまり、私たちはこの世界に突然投げ出され、自らの意志によって、
その世界に予め用意されていた仮面のうちから幾つかを選び出して、それを演じています。
 このように「この世界に投げ出されること」をハイデッガーは「企投」と呼んだ。
またその「役割」に没入している状態を「耽落」と呼んだ。
私たちは、この「仮面を被った自分」を「本来の自分」と勘違いしている。
仮面を被った状態の自己を「対象化された自己」という。
被ってない状態の自己を「現存在」と呼んだ。
学生である男と、先生である自分がであったとする。そのお互いの立場ー役割を一瞬で把握して
「相互関係的な役割演技」をすることを、「原初的な出会い」という。
その前段階としての「存在の認識」がある。それは果して存在しえるのだろうか?
という問題がある。しかし、「役割のみが存在している」のであれば、私たちは、
いきなり役割を認識できるわけです。しかしそうではありません。
少なくとも短時間で「役割を持たない誰か」が認識され、
その上でその人の役割が想起されるという段階を通っているはずだ。
 ハイデッガーは、
我われが人生という劇場で役割をこなすためには、
「役割を演じている役者である自己を自覚すること」であるという解決を薦める。
それをもっと自覚的にするためには「役者を辞めることを決意しつつ、役者を続ける」
ということです。そうすると大根役者と言われても、それは、「役割上のことでしかないのだ」
と考えることができます。「芝居が下手だ」とか、「華がない」と言われようが、
そんなことは気にならなくなる。うまく演じることにどんな意味があるのだろうかと考えれば、
うまく演じられないことにマイナスの意味を見出すことには、それこそ意味のない。
なぜなら「どうせ芝居でしかない」からです。
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評)もっと辛辣にいえば、人生などお笑い劇場でしかない。
 真面目に演じれば演じるほど喜劇の道化になっていく。
それに早く気がつけばよいのだが・・・
人を笑わせることは難しいが、こと人生にかけて簡単だ。
演じていることを自覚しなければよい。それがお笑いになる。 
 没頭することは最も大事である。
反面、どこかで没頭している自分をみている自身の時間が必要である。
アウトサイダーと、インサイダーの両者の眼が。
 ・自分の人生という物語のシナリオと、
 ・そのシナリオに従って演じている自分と、
 ・その背景となる世界(劇場)を観ている観客と、
 ・観客を意識しながら見守っている監督、を意識して生きる!ということだ。  
 そのためには、自分の人生の役を愛することだ。
そして、その背景となる世界と、観客と監督を愛することだ。  
そう考えると、やはり宗教と倫理は必要ということ??   
この第二章 のー「私」はどこで、どのように生きているのかー
の答えー総括ーは、
「私」は「世界劇場」で、私の「役割り」を果たして生きている。
ハイデッガーは、我われが人生という劇場で役割をこなすためには、
「役割を演じている役者である自己を自覚すること」であるという解決を薦める。
それをもっと自覚的にするためには「役者を辞めることを決意しつつ、役者を続ける」
ということです。そうすると大根役者と言われても、それは、
「役割上のことでしかないのだ」と考えることができます。
-である。
 それぞれの人生劇場は二度とない!
だから一瞬たりとも無駄にはできないのが人生である。
自分の役を愛し演じとおすしかない!
「私」と、私の「世界」は日々刻々腐っていく。
生ものだから。
汚れていくなんて甘いものではない!腐っていくのだ。
腐っていくのは仕方がないことだ。
腐っていくことを自覚するしかないのである。
そして、それを自分で笑えればよい!
いや笑うしかないのだ。
他人のことは解るのだが、自分のことは解らない。
 だから生きていけるのである。
せめて心が腐らないようにしたいが・・・
そのためには、学び続けなければならないというが、
今さら何じゃい!という、腐った声が聞こえてくる。         
 ー 以上である。               つづく
               \(^▽^*)バイ!
            
・・・・・・
・・・・・・

2005年10月01日(土)
1642.マグロ屋福助ー亭主・宗親の独り言・・1

1, 人生を見せてもらいました!  
 宗親
居酒屋を二十数年も経営をしていると、社会の裏表が見える。
人生を人の数十倍、いや数百倍も見たように思える。
・数年前まで羽振りの良かった人が、今は乞食をしているとか。
・あのお客が会社の金を使い込んでいたとか。
・がんで亡くなったとか。
・かけ落ちをしたとか。
・実の娘に手を出し、子供ができたとか。
・遠くの親戚から、思わず数億の遺産が転がり込んだとか。
ここで書けないような犯罪の話の内容を聞いた。
それらを中心にボチボチ書いていくつもりだ。
まあ人間は酒が入ると、人間性が丸出しになるし、
幼稚になるからね!
BR>
・・・・・・・
2004年10月01日(金)
1277, [人生の目的]ー五木寛之著ー読書録

 数年前に話題になった本だが、当時あまり興味を示さなかった。
先日、たまたま図書館にあったので借りてきて読んでみた。
幼児期のころから、かなり厳しい生活体験をしている為、
書いてあることは暗いが、しかし重い。
彼のーあとがきにかえてーの一文が、全てこの本を伝えている。
ーー「人生に決められた目的はない、と私は思う。
しかし、目的のない人生はさびしい。寂しいだけでなくて、むなしい。
むなしい人生は、なにか大きな困難にぶつかったときに、つづかない。
 人生の目的は、「自分の人生の目的」をさがすことである。
自分ひとりの目的、世界中の誰ともちがう自分だけの「生きる意味」を
見出すことである。変な言いかたになるが、
「自分の人生の目的を見つけるのが、人生の目的である」と言ってよい。
そのためには、生きなくてはならない。生きつづけてこそ、目的も明らかに
なるのである。「我あり、ゆえにわれ求む」というのがわたしの立場だ。
 その目的はナカナカ見つからないものである。
確実に見つかるのは目的でなく目標である。
目標は達成されれば終わる。残るのは達成感だけである。それも直に薄れていく。
 人生の目的とは、おそらく最後まで見出すことのできないものだろう。
それがいやなら、もうひとつ、「自分でつくる」という道もある。
自分だけの人生の目的をつくりだす。それは、ひとつの物語をつくることだ。
自分で物語をつくり、それを信じて生きる。
しかし、これはナカナカむずかしいことである。
<悟り>という物語、
<来世>という物語、
<浄土>という物語、
<来世>という物語、
<輪廻>という物語、
それぞれが、偉大な物語だ。
人が全身で信じた物語は、真実となる。
ーー
以上だが、深い人生を生きてきたからこそ、このような文章が書けるのだ。
最近、両親の生きざまが、いやに思い出される。私にとって両親を尊敬できるのが、
本当に嬉しいとつくづく思う。あと5年もしたら、どうしても過去を振り返りながら、
ソフト・ランディング態勢に入らなくてはならない時期になる。
その時人生を振り返っテ「自分の人生の目的」とは何だったのだろうか、
と総括をしなくてはならない。
苦しいが、しかし冷徹に自己評価をしなくてはなるまい。
この本に、前回借りた人が書いた、メモが挟んであった。
達筆な年配の人のような字だ。それを書き写してみる。
「他力の信は義なきを義とす。
 生きている限り生老病死の影は、私たちにさしつづける。
 このことは、わがはからいにあらず
 災難に会うときは会うがよろし
 死ぬる時は死ぬがよろし
 人生は暗夜の山中行である
 人は彼方の灯火に勇気づけられる
 それを他力本願という」
 
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2003年10月01日(水)
910, 人生の縮図

 先日、ある世界を垣間見た。
といって書くには、あまりにシビアな世界であった。
しかし、それを書くのが随想日記の真骨頂である。

 ある売り物の物件を見にいった時の人生模様である。
生々しい状態であった。
「あるリゾートホテルをどう転用したらよいか見てほしい」と頼まれた。
半年前に経営委託を受けた人が、支払いができないで逃げた直後。
オーナーが嫌気をさして混乱しているという。

 現場に行くと数日前まで営業をしていたのが、ありあり。
給料2か月分をまだ貰えない行き場のないマネジャーや従業員が3人いた。
彼等はそこで働き出して半年、派遣会社の身分で、保障は全くないという。
現在の日本の姿が、そのまま現れている状況であった。

 これ以上の景観がない位の場所にあり、オーナーが半分趣味で建てた
素晴らしいリゾートホテルである。
夫婦して80歳を過ぎた高齢の為、維持が出来なくなってしまったのだ。

 実家の衣料ディスカウントハウスを五年近くみていたときは、そういう現場
は日常茶飯事であった。
夜逃げ直前の現場から買い付けをする場面など、何回も経験してきた。
問屋を数十軒も回っていると、何処かで危ないという噂を聞く。
知らない顔をして平気で乗り込むのだ。
安く良い商品のことしか頭がなかったからできたのだろう。

 しかし今の事業を始めて二十数年は全く無かった。
ー違う形の人生模様は多くあったが、倒産という修羅場は無かった。
その当時はドライに割り切っていたし、深く対象を見る余裕など全くなかった。
しかし、この歳になるとその背後がよく見えるのだ。

 どんな時でも、弱者の立場に立ってはならないのが現実社会である。
自分が経験したこと以外は、何を理屈を言ってもイメージの世界でしかない。
可能な限り経験を積むしかない。
中村天風でないが「積極一貫」で経験を積むしかない。
自分が経験した範囲で対象が見えてくるのを今回つくづく知った。

 ここまで変化が激しい中で、変化に対応するためには、自分が変化の先端に
立つしかない。  変化の拒否は自殺行為である。

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デフレと対策
      2002/10/01

現在上手くいっている店を見ていると、やはりデスカウントの業態の店である。
それも思い切って、20年前か25年前のプライスを打ち出しながら、
現在の嗜好を取り入れた店や会社だ。

衣料品は20年前の半値以下の商品が多くなってきた。
自転車も、半値か四分の一だ。
電気商品もしかりだ。

落ちないのが公共料金だけである。
ホテルの値段もその様相になった。
ラーメンの値段も落ちてない。
過去の三次産業の異端は価格破壊である。
そうすると落ちてないのが狙い目である。

先日TVで180円のラーメンチェーンを紹介していた。
マクドナルドのように、徹底した機械化を厨房で図っていた。
吉野家松屋の牛丼も400円を280円に下げた。
そうすると他の甘いラーメン屋とか何でもや食堂のお客が流れてくる。

先日に法事で帰ってきた姉が、面白い温泉旅館にいってきたと教えてくれた。
関東圏の温泉旅館で、4名以上で一泊二食で4500円という。
予約をすると東京周辺のJR駅の近くの三箇所の指定した場所、
にマイクロバスで迎えにきてくれるという。
更に食事のときは従業員が即興の演劇をしてくれたり、
とにかく飽きさせないようにしてあるとか。
社長はつなぎを着て陣頭指揮にあたっているという。
先ずは安く、そして価値があればお客は殺到する。
「もうそういう時代だよ!」とつくづく言っていた。

何かどこかで聞いたことがある話だと思ったら、
そうアメリカの航空業界の異端児で大不況の中、飛躍的に伸ばしている
サウスウエスト航空を温泉旅館版に換えただけの話である。
斜陽産業の温泉旅館が良くぞ考えたものと驚いてしまった!!
(こういうのをベスト・プラクテスという)

客の立場にたてば,全く違った設定ができるのである。
淘汰されている所は、ただ不況と仲間内で傷を舐めあっているだけだ。
発狂してベスト・プラクテスをするか、廃業するかどちらかだ。
今更発狂はできないか??!!
(発狂とは、出来ない人の目から見たベスト・プラクテスのプロセスを
踏んでる姿)

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[167] 読書について
                2001/10/01
 読書ー書物はすべての人の学校である、いや大学といっていい。
どこの学校に入ったとしても学べる事はしれている。
学校を出てから学び続けるしかない。本を読み続けるしかない。
 大学を出ているかは関係ない、生涯本という大学・専門学校に
通い続けなくてはならない。
もちろんセミナーや新聞やTVや、実際の仕事の上で学ぶべることが多い。
しかし読書という分母の上でそれらをやると効率が違う。
 初対面の人でも書物の大学にどの程度通い詰めたかどうか直ぐわかる。
私も反対に見られているのだろう。
本は安い500円から2000円であれだけの情報・知識を買えるのだから。
もし高いというなら、古本屋かブックオフで買えばよい。
それでも高いというなら、図書館がある。
 主知主義ではないが人間として生まれてきたからには、知る事が最も優先され
べき権利であり義務でもある。知れば知るほど知らない事が増えてくる。
知っただけその周囲の未知の部分が増えるからだ。