<書評>宮台真司・鈴木弘輝編『21世紀の現実――社会学の挑戦』

 都立大学社会学雑誌に掲載された書評である。前に途中までアップし、その後脱稿し、投稿したものである。いささか冗漫な部分がある一方で、はしょりすぎた部分なども目立ち、不本意なところもあるのだが、全部アップしておく必要もあるのではないかと思われた。

21世紀の現実(リアリティ)―社会学の挑戦

21世紀の現実(リアリティ)―社会学の挑戦

<書評>宮台真司・鈴木弘輝編『21世紀の現実――社会学の挑戦』

1.はじめに

 『21世紀の現実』と題されるこの書物は、宮台真司氏とその大学院ゼミ生によって書かれたもので、「社会学の挑戦」という副題がつけられている。宮台氏がブログで行っているような体系だった社会学講義がなされているわけではなく、社会的現実のいくつかの断面から−−若干大仰な言い方になるが−−宮台社会学・宮台ゼミの骨法を示すかたちになっている。本書は一種の社会学の原論的な性格を有し、問題作『制服少女たちの選択』以降、宮台氏が関わった数多い書物のなかでユニークな位置を占めるものとなっている。
 編者の一人である宮台氏は、一方で「空白の10年」と言われた90年代から21世紀の今日に至るまでの歴史認識、他方で機能主義に基づく自らの社会学的立場を明快に総括している。宮台氏は、自らの理論形成の来歴にまで言及し、フランクフルト学派と、広松渉ルーマン、そしておそらく、マッハ、フッサールポパーなどをも視野に入れた、手短な文献レビューを行い、理論的な貢献を終章で明示している。それは本書全体の理論的な貢献の主張ともなっている。もう一人の編者鈴木弘輝氏は、「宮台ゼミのガイドライン」を明快に整理し、社会学の教育テキストとしての貢献を主張するかたちになっている。俗に宮台ファン、宮台ヲタと通称される人々のみならず、『権力の予期理論』以前のみを評価する人々にも、研究、教育両面で少なからぬ示唆を与える作品ではないかと思う。

2.「真理の言葉」と「機能の言葉」

 本書の論旨は、一言で言えば、「社会学は、真理の追究を止めて、機能分析の蓄積に転換せよ!」(辻泉氏メールより)ということになるだろう。これは一方で、現代人の現存在、21世紀のリアルの存在論、とりわけ真実、理想、統合等々を渇望する若者−−カルト宗教や少年犯罪−−の問題とかかわる。他方で、これは科学方法論の問題である。現象の背後にある本質。そこにあるはずの真理を探究する。真理を説明する言葉が見つかったら、それを実体として因果関係を説明する。こんな方法の言葉を総括して、宮台氏は「真理の言葉」と呼んでいる。対して、そうした説明方法、本質や真理の探究を断念し、現象的な関係性のみを問題にすべく、モデルをつくり、説明をし、限定的な問題を解決するプラグマティズムに徹する言葉を、宮台氏は「機能の言葉」と呼んでいる。
 一見したところ、グランドセオリーに対して、中範囲の理論を提起したマートン的な聡明さと似ているようにも思える。しかし、ピースミールな分析の積み重ねがやがて一般理論を結実するというようなマートン的な安易な期待は宮台氏にはない。むしろ部分の積み重ねという安直な議論における、「真理の言葉」の目的論復活が警戒される。よって、「真理の言葉」の機能主義化では、問題は深刻化するだけである。
 これはなかなかにやっかいな問題で、批判しようとしても、逆手にとろうとしても、ダメ。で、解決の意匠として注目されるのが、ルーマンの「社会学的啓蒙」である。それは身近な問題から普遍理念までを「機能の言葉」で表現することである。機能主義は、「真理の言葉」をラディカルに否定する定義そのものとして純化される。そして、たとえば全体性志向=「真理の言葉」、部分志向=「機能の言葉」という安易な等値なども批判される。全体や非限定を断念すれば、あやしげな実体をふりかざす議論が回避できるわけではない。機能主義の徹底化、「機能の言葉」の機能主義化により、全体性をめぐる議論ははじめて実体論を回避できる。「『機能の言葉』は、『真理の言葉』的なカタルシスを放棄する代わりに、相互言及の網によって相対的に全体性へと接近する」(p.239)。そう宮台氏は言う。こうした方法論は、「刹那的な若者」「身近を愛する若者」の存在論とより親和的である。ここには、宮台氏のフィールドワークの理由が述べられていると思う。社会が融解し、文化が肥大化する時代の社会性を考察するために必要不可欠な作業なのだ、と。
 宮台真司氏の理論的な見地と、他の執筆者のそれとの異同はどうなるのだろうか。各章にならんでいる社会学理論は、聖俗遊の理論、人間関係の希薄化論と選択化論、子ども論、親子関係論、システム論、権力論、性愛の理論、記憶論と社会構築主義と様々である。しかし、いずれの議論も、本質論、実体論を回避し、現象的なファクトファインディングスの指摘、機能関係の分析を行っている点で共通する。そこに読み込まれるべきは、「機能の言葉」の機能主義化の意匠であり、相互言及の網による相対的な全体性への接近、換言すればそれぞれの社会学的啓蒙の実践であるように思われる。社会学を学ぶ者がよく口にする「社会学って面白いけど漠然としている」という不満がある。本書は一方でわかりやすく身近な問題に言及し、他方で身近の危険を指摘し、透徹した論理で「社会学」を定義し、不満に応える結果となっている。社会学教育の方向性として高く評価されよう。

3.問題状況の認識と歴史意識−−書名の由来について

 各章で扱われている題材も、ジャニーズファンとポピュラー文化、友達母娘、「ゆとり」の教育、同性愛、思い出、マンガ、インターネットと様々である。多様な主題をどのように鈴木氏と宮台氏が編集している。その編集の論理には、「機能の言葉」の勘所と言うか、明解な社会学教育・勉学のノウハウが反映されているように思った。
 第一に、書名の由来について確認しておこう。なぜ『21世紀の現実』なのか。このタイトルは、見田宗介氏の15年おきの戦後史の区分と関わりがある。すなわち、見田氏は1945年から1990年までの日本社会の変遷を次の三つの時代に分けて考えている。(1)1945年〜1960年=「理想」の時代。(2)1960年〜1975年=「夢」の時代。(3)1975年〜1990年=「虚構」の時代。「理想」、「夢」、「虚構」の三つはいずれも「現実」の反対語になっている。議論の下敷きになっているのは、『社会学講座11知識社会学』(東大出版)所収の「ユートピアの理論」であると思う。それに照らすと、時代区分は現実超越=未来構想のタイプ分けとして解釈される。90年代以降は、「空白の10年」「動物」の時代などと呼ばれる。「現実」の反対語が見つからない時代。それは未来構想のできない時代、現実感のない時代である。
 しかし、上で確認した終章の論旨に照らせば、それは、閉塞状況であると同時に、「機能の言葉」の可能性が開示された時代であるとも言えるように思う。機能主義的な歴史認識と問題状況の認識を明確にして「現実を構築する」というのが、本書各章の「お約束」となっている。戦後史の知識は、「宮台ゼミ事始め」とも言うべき位置づけが与えられ、問題意識を鮮明化するための必須知識として位置づけられている。*1これは、社会学教育という観点からも、興味深い識見であると考える。

4.二つの編集方針について−−社会学的啓蒙のガイドライン

 さて、次に二つの編集方針を確認しよう。この説明も、鈴木弘輝氏執筆の序論部でなされている。第一の編集方針は、各章に共通する節立てとして「4段階構成」という形式が選ばれていることである。すなわち、すべての章は、次の4段階で構成されている。

1.各テーマの社会的意義=なぜその主題が「現実」を読み解く鍵になるか?
2.各テーマの社会学的意義=その主題はなぜ社会学的に重要か?
3.社会学的な本論の展開=その主題を社会学的に考えるとどうなるか?
4.社会への投げ返し=その結果明らかになった知見をどう生かしたらよいか?

 1〜4の形式は、「社会学的啓蒙」という社会学的実践のガイドラインになっており、「真理の言葉」のゲーム、カタルシスのゲームのラディカルな断念に誘う。社会学は何の役に立つのか?逆に役に立つという言説の危険は何か?どうやったら身近な問題を考えられるのか?身近を考える危険はなにか?社会学の実践として「機能の言葉」を運用するにはどうしたらよいか?運用するとどうなるのか?「真理の言葉」でカタルシスに溺れるような危険はどのように回避できるか?こういう問いかけを読者に促す。
 井上章一氏も指摘するように(「社会学者の文化論」『現代文化を学ぶ人のために』世界思想社)、社会学では面白い問題考察をしている論考でも、いささか寒い理論講釈がお約束のように冒頭に長々ときて、これがどうにもじゃまくさい。しかしまた他方で、「神は細部に宿る」的なさかしらな聡明に安住するのもまずい。本書の機能主義実践の形式(上記1〜4)は、こうした困難に対峙する社会学徒にとり、簡便なガイドラインとなっている。本質的真理にも、現象的事実にも安住せず、考察すべき関係性、社会性をモデル化し、それを全体性と照らし合わせるという学び方が提示されていることは、社会学教育の見地からも意義を持つように思われた。と言うよりは、さっそく卒論指導などで使ってみたくなったというほうが適切にニュアンスを伝えられるかもしれない。
 第二の編集方針は、3部だての構成である。Ⅰ〜Ⅲ部のタイトルを裏返せば、そこで問題にされている「真理の言葉」が明らかになる。すなわち、第Ⅰ部「『大人/若者/子ども』のゆるやかな境界」は、その厳格な境界を問題にし、第Ⅱ部「社会関係を通じて構築される『私』」は社会関係からは独立した「私」・「個人」・「自己」などを問題にし、そして第Ⅲ部「国家からの自由/国家が基礎づける自由」は、一方的な個人の放縦や一方的な国家の抑圧を問題にしている。そして、各章では、「機能の言葉」による考察が行われている。主題も理論も自由に選択されたものであるが、明解で、しかしそこそこにアバウトなガイドラインが示されることで、相互にいろいろ絡みあいながら、書物全体が構成されることになる。そういう意味で、本書は、宮台氏の言う「相互言及の網による相対的な全体性への接近」の実践となっている。

5.各章の内容について−−文化の両義性との関わりで

 私は、『21世紀の現実』を、ジンメルの文化論や、長谷正人氏、太田省一氏、遠藤知巳氏、赤川学氏、北田暁大氏、園田浩之氏らの新しい文化論を下敷きにして読んだ。*2ジンメルの文化論は、両義性の理論である。19世紀的なコンテクストのなかで、ジンメルは一方で、公衆や、健康や、衛生、あるいは男性性といった、括弧つきの「正常なもの」を問題にした。他方で、群衆や、病いや、退廃や、性的なもの、あるいは女性性といった、精神や社会の括弧つきの「異常なもの」を問題にした。ジンメルはさらに様々な形式の両義性を考察している。そして、両義的なものの不安定であやうい均衡を描いた。こうしたジンメルの視座は、20世紀におけるケネス・バークの両義性論や、バフチン的なポリフォニー、さらにはフーコールーマン構築主義の議論と共鳴する。他の諸氏の議論も同様な視点から読み、一括した。同じ地点から21世紀のリアルを考察した各章を概観する。
 まず辻泉氏が書いた第1章を読んだ。そして、辻氏が、カイヨワの「遊びの文化」、聖俗遊の概念、その解釈としての井上俊の離脱説=離脱による自由、長谷正人の拘束説=拘束が故の自由といった見地を援用しながら、ジャニーズファンにおける自閉の選択、選択のなかの自閉という逆理を検出し、それをポピュラー文化の両義性といった論議へと接続していることを読解した。そして第Ⅰ部では、両義性の間をめぐる事例と理論が提示されていると考えた。はたして、第2章の中西泰子氏は、親子関係における分離・自立と密着・依存という両義的なもの、子ども・若者・大人の境目などを問題にし、「友達のよう」という意味あいを有効に考察している。また第3章の鈴木弘輝氏は、同様の境目を、ゆとりと選別、家族システムと教育システム、子どもとライフコースなどについて問題にしている。本書全体をルーマン研究としての貢献へと接続する実質的議論をし、ライフコースや戦後史などの基本視点とのかかわりで、整理している点でも重要な章である。
 第Ⅱ部では、主体、自己、個という不安定で逆説的な存在を、社会関係や時間のなかで構築される視点が提示されているのが、注目された。第4章の金田智之氏は、フーコー構築主義、さらにはアルチュセールの呼びかけ理論などの理論的見地をレビューしながら、それが異性愛主義や構造的ホモフォビアにつながるような弱点を持っていること、それが根拠をどこかに求める本質主義に陥ることなどを指摘した。そして、フーコーの議論とルーマン社会システム論のラディカルな機能主義を照らし合わせ、「同性愛」の問題について独自の知見を提出している。第5章の角田隆一氏は、社会関係の流動と自己の不安定を、記憶論、物語論、ギデンズの再帰性論などを用いて考察している。「思い出」という記憶を写真雑誌によって考えるという事例の面白さが、目を惹いた。ミードの学説研究を続けてきた私としては、この章はその現代的意味が論じられ、非常に興味深いものがあった。
 第Ⅲ部では、序論にもあるように、「個人の国家からの自由が創造の源である」という思考枠組みと「個人への国家による自由の基礎づけが創造の源である」という思考枠組みの循環が問題にされている。マンガシステムの韓国日本の比較を行ったイー・ヒョンスク氏の第7章も、インターネットを考察した鈴木謙介氏の第8章も、他章と比べ、理論的によりこなれた論述を行い、事例解析において「厚み」(ギアツ)のある成果をあげている。
 どの章も、真理と機能、事実(身近)と理論を方法的に按配し、私の言葉で「両義性の繊細なニュアンス」と表現されるものが、宮台氏の「相互言及の網による相対的な全体性への接近」という見地から考察されている。そして、両義的なものの間、狭間の論理を解明し、執筆者それぞれの分野の主題研究、理論研究において、貢献度の高い成果が出されているように思った。宮台氏の提示した4節立てのガイドラインが、各章にひとつの「おさまり」をつけ、終章へと接続されてゆく。

6.「後期宮台」への期待を代弁する−−むすびにかえて

 最近は「初期宮台」という言葉もあるようだ。システム論的な社会学者はもちろん、河村望氏のような立場の社会学者すらも、「あの頃書いたものは本当にすごかったよ」とおっしゃっていた。そして、「制服少女」以降の突然の変貌には、みんな驚いた。読書新聞が「制服少女」の特集を組み、橋爪大三郎氏の論考が緊急発表され、それに宮台氏が答えるというやりとりがあった。ここまでが「初期宮台」、これ以降が「中期宮台」ということだろう。「中期」の読者層は随分とかわったと思う。先日あるお店で食事をしていたら、となりの学生さんたちが、次のような会話を交わしていた。「オレこのごろ宮台にはまってるンダ」。「俺はもうちょっと飄々としたのが好き」。「でも、宮台って理論もできるらしいよ」。「今理論というとルーマンとか読まないとダメだよな」。私は鼻から噴飯しそうになった。これは例外的なことだと思うが、なんとも象徴的な話だと思った。
 「機能の言葉の機能主義化」、「梯子をはずす」、「16分割の隠し絵」、「相互言及の網による相対的な全体性への接近」などの機能主義的なアイディアに接し、理論の言葉で分厚く展開されたものを読んでみたいと思うのは私だけではないだろう。実証主義論争、システム論争、広松哲学などのレビューもより本格的なものを読んでみたいと思った。さらに宮台氏自身が言及されているニーチェの弱者論、ハイデガーの非本来性論などを交えた、理論的な著作が一冊書かれることを期待してしまう。近著『絶望 断念 福音 映画』や『サイファ』などでは、理論化の努力も行われているという声(辻泉氏メイルより)もあるわけであるが、終章に書かれた「機能の言葉」の分節を期待したいのである。
 本書の書評のことなどをブログとメールで議論していた花野裕康氏が「行為のカテゴリー化と帰責」(社会の理論研究会第6回例会報告原稿@九州大学文学部 未発表)という論文を送信してくださった。この論文は、行為の人称・数帰属について論じたものである。花野氏は、宮台氏が『ソシオロゴス』に1985年に発表した「人称図式論」を、先駆的業績としてとりあげ、批判的に検討している。論の詳細は、私の理解をはるかに超えているが、機能主義的なアイディアがより精密に分節化されなければならないというメッセージだけは読みとれた。本質、原因、実体などの概念が、本質論を脱却し、現象的な機能関係として規定されれば、それで「免罪」されるわけではない。たとえば、固有値のような概念も批判的に対象化されなくてはならない。それを担える理論として、内部観測論がある。ぜひ郡司ペギオー幸夫氏の新著『原生計算と存在論的観測―生命と時間、そして原生』(青土社)を読んで欲しい。そう言われ一応買うだけ買ってきた。ずっと机の上においたままだ。フィールドワークの機能分析を捨てるのではなく、それを携えて、こういった研究にコミットして欲しい。理論的な書評など期待されていない私ですら、そんなことを思ってしまったというのが、この『21世紀の現実』と宮台氏の「真実」なのだろうと思う。*3

*1:辻泉氏によれば、宮台ゼミでは「ルーマンの社会システム理論に依拠した近代化論」(鈴木弘輝氏)であるノルベルト・ボルツ『意味に飢える社会』(東大出版)を検討されたとのこと。読解の手がかりとして興味深い情報であると思う。

*2:なかでも、園田氏の次のような議論は、私の思考にとってもっとも重要なものである。「フーコーのゲームには、観察者なら見てしまう仕切がない。『差異を解放するためには、矛盾のない、弁証法のない、否定のない思考が必要である。相違のための肯定を語る思考が必要なのだ』。そうした思考の生命が継続されうるか否かは『真のフーコー』への収束や調和にではなく、そこから複数の異質な作動が創出されてゆくかどうかにかかわっている。それをそれぞれに実行していこうとするとき、その機構を実現しつつあると思われたのがオートポイエシスであった。経験科学の認識論的凝着を崩しつつたどりつかれるのは、ひとつの点のような立場ではなく、線のような動きである。引かれた線のようにではなく、線を引くことである。フーコーとはそうした行為そのものである」(「行為としてのフーコー馬場靖雄編『反理論のアクチュアリティー』ナカニシヤ出版)。

*3:紀要というスペースが限られた貴重な場に書評を書く機会を与えていただきありがとうございました。原稿執筆の相談にのっていただいた辻泉さん、いろいろと事務的なお取り計らいをいただいた三田泰雅さんに感謝します。