ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

シャリーア法に関する解釈の相違

キリスト教からイスラームへの改宗理由について、日本人ムスリムの話では、「キリスト教は人の心の内面までのぞこうとするが、イスラームでは内面については問われないから」と聞いたことがあります。指摘されて考え直してみると、確かに一理ある面もなきにしもあらずと言えそうです。

例えば、昨年マレーシアで話題になった、マレー人女性リナ・ジョイ氏のカトリックへの改宗問題についても、一部該当する面があると言えます。これには、マレー語と英語の翻訳問題もさることながら、イスラーム法上の解釈問題があるため、彼女がもし心の中で新しい信仰を秘めておくならば、マレー当局やムスリム法官も、あのような対応はとらなかったかもしれないと予想されます。ところが彼女が、私的のみならず、公的にも二重基準の暮らしを送りたくない、と公明正大な態度をとったために、本人も教会も窮地に陥ったわけです。「自由意思に基づくキリスト教への改宗」と彼女は公言しました。一方で、ムスリムのマレー人裁判長は、「気まぐれで宗教に出たり、入ったりは出来ない」という法的判断を下したと日本語訳されました。
翻訳のご苦労を拝察した上で、あえて申し上げることが許されるとして、大変失礼ながら、マレーシアの複雑な状況を長年にわたって詳しくご存じではないであろう訳者のこの訳し方にも、いささかの問題があるように感じました。それはともかくとして、冒頭で述べたようなムスリムの考え方を知るならば、なぜ最高裁がそのような判決を下したのかは、それはそれとして理解できなくもありません。
まさかとは思いますが、誤解なきよう申し添えますと、だからといって、私が上記判決に満足しているという意味では決してありません。焦点は、事の是非ではなく、マレーシアのような国では、常にこの種の問題が派生的に起こる可能性があるということを指摘したいだけです。

(c)世界キリスト教情報 2007年6月11日(月)第856信(週刊・総合版)


 ◎マレーシア最高裁キリスト教への改宗者にもイスラム教身分


 【シンガポール=ENI・CJC】マレーシアでキリスト教に改宗した女性ライナ・ジョイさんが、イスラム教棄教を理由に投獄の危機にさらされている。マレーシアはイスラム教徒が6割を占めている。同国連邦裁が5月30日、イスラム教から他の宗教に改宗する憲法上の権利はない、と判示した。 
 ジョイさんは1998年にキリスト教に改宗、それを法的に認知させるべく7年も法廷闘争を続け、ついに連邦裁にまで持ち込んだが、30日の判決では、ジョイさんの身分証明書の宗教の項目で「イスラム」の字句を消去出来ないとされたもの。
 アハマド・ファイルズ・シーク・アブドル・ハリム裁判長は、「気まぐれで宗教に出たり、入ったりは出来ない。法には従わなければならない。棄教はイスラム法に関係することで、民事法廷は介入出来ない」と述べた。
 ジョイさんは現在所在を明らかにせず、法廷にも出席しなかった。これで問題解決のためには「シャリア」(イスラム法廷)に委ねられることになったが、棄教を有罪とする可能性が多く、ジョイさんは投獄される可能性がある。
 ジョイさんはキリスト者男性との結婚を願っていたが、今回の判決はこれにも大きな障害となりそう。
 イスラム教を国教とするマレーシアは、仏教徒キリスト者ヒンズー教徒なども抱えており、今回の判決は宗教の自由を打ち出しているマレーシアには一つの試金石となった。
 「今回の決定は、良心に従って自らの宗教を証しし、実践しようとしているだけの個人を、法的に再規定することの責任を法廷が放棄するという、最近の判決の傾向を反映している」とマレーシア・キリスト教連合のポール・タン・チーイン議長(カトリック司教)は指摘する。
 今回の判決に、イスラム教徒以外の判事はただ1人。そのリチャード・マランユム判事は少数意見。イスラム法廷に委ねるのはジョイさんにとって無意味だ、と言う。同法廷では棄教で有罪になるのは明白だからだ。
 マレーシアの宗教の自由に関わる裁判はこれが初めてではない。異なる宗教の両親から生まれた子どもの親権や埋葬をめぐる紛争もある。ヒンズー教徒の妻からの抗議を排除して陸軍将校がイスラム教徒として埋葬された例もある。
 仏教、キリスト教ヒンズー教シーク教道教のマレーシア協議会のレオナード・テオ弁護士は「宗教の自由などここでは幻想なのだ」と言う。□

上の記事に関する私のメールでのコメントは、次のとおりです。

世界キリスト教情報 御中


いつも楽しみに読ませていただいております。

2007年6月11日のマレーシア最高裁の件ですが、「ライナ・ジョイ」さんではなく「リナ・ジョイ」さんです。
私は17年間、マレーシアのキリスト教関連についてリサーチしており、本件でもマレーシアの関係者から数年にわたって情報を送っていただきました。当地では、誰も「ライナ・ジョイ」と発音していません。

また、「気まぐれで宗教に出たり入ったりはできない」のくだりですが、判決はマレー語で、本意は「一時的な自由意思というもので、イスラームを放棄したり改宗したりはできない」という意味です。恐らく、英語からの翻訳だとは思いますが、これでは誤解を生みます。

もし差し支えなければ、訂正していただけると幸いです。

以上、どうぞよろしくお願い申し上げます。

2007年6月15日
(ユーリ名)

それに対するご回答を、以下に示します。

メールありがとうございます。

> 「ライナ・ジョイ」さんではなく「リナ・ジョイ」さんです。

検索すると「リナ・ジョイ」でしか出ないので、訂正する予定ですが、出来ましたら、あなたが執筆された論文など、準拠すべき出典を教えていただけますとありがたいです。

> また、「気まぐれで宗教に出たり入ったりはできない」
> のくだりですが、判決はマレー語で、本意は「一時的
> な自由意思というもので、イスラームを放棄したり
> 改宗したりはできない」という意味です。恐らく、英語
> からの翻訳だとは思いますが、これでは誤解を生みます。

この部分は、今後の参考にさせていただきます。

(世界キリスト教情報 主宰)

以下は、私からの再度の往信メールです。

名前の日本語表記については、準拠出典のようなものはありません。私がマレーシアを訪問した時にも、皆が「リナ・ジョイ」と発音していました。

この人はジャワ系マレー人で、元のムスリム名がAzlina binti Jailaniといいます。「ジャイラニの娘アズリナ」という意味ですが、「アズリナ」を省略して「リナ」と通称するのは、マレーシアではよくある話です。決して「ライナ」とは発音しません。


>> また、「気まぐれで宗教に出たり入ったりはできない」
>> のくだりですが、判決はマレー語で、本意は「一時的
>> な自由意思というもので、イスラームを放棄したり
>> 改宗したりはできない」という意味です。恐らく、英語
>> からの翻訳だとは思いますが、これでは誤解を生みます。


本件のマレー語判決文をまだ入手してはいませんが、憲法にせよ何にせよ、マレー語で読むのと英語訳で読むのとでは、同じ内容でも印象がかなり異なります。英語では確かに、「気まぐれ」と訳出されていましたが、元のマレー語の意味は、決してそうではありません。


マレー語:Seseorang tidak boleh sesuka hatinya keluar dan masuk agama.

英語訳:One cannot embrace or leave a religion according to one's whims and fancies.


英語では‘a religion’となっていますが、マレー語での‘agama’は、修飾句がつかない限り、一般にイスラームを意味します。

イスラームの基本的考えは、「法による支配」なので、キリスト教の「自由意思概念」とはそもそも相容れません。変わるかもしれない自由意思というものに頼らず、総括的な体系であるイスラームの法に従って生きていくべき、というものです。

ですから、本件のように、「マレー人はムスリム」と憲法に規定されていても、心では一度も信じていなかったというリナ・ジョイさんが、受洗後クリスチャンとして認められるのか、それともいったんマレー人として生まれた以上は、法的に死ぬまでムスリムなのか、という見解の対立が焦点となったわけです。この判決はムスリム判事長が下したものなで、当然、イスラームの考えが濃厚に出ています。

「信教の自由」の意味合いも、クリスチャンとムスリムとでは当然異なってきます。マレーシアには、確かに憲法上、何人にも信教の自由があります。ただし、「信教の自由」の概念内容が異なるだけです。また、「宗教を変える自由」とまでは規定されていません。

ムスリム、特にクリスチャン達は、マレーシア人としてマレーシアで暮らす以上は、もっとマレー語とイスラームを本当の意味で学び、自己主張ばかりしていないで、うまく協調関係を築く努力をすべきでしょう。

マレーシアは、イスラームが連邦宗教でマレー語を国語とする国なので、外部からいくら批判したとしても、残念ながら、国内秩序の優先順位から、このような判決はやむを得なかったのだろうと思います。もしもキリスト教寄りの判決だったら、流血の惨事になったかもしれません。

リナさんは、既にオーストラリアにシェルターがあるそうなので、悲しいことですが、そこで望むような幸せな半生を送っていけるよう祈っています。

2007年6月15日
(ユーリ名)

上記のやりとりを経て、早速、一部に訂正が入りました。

(c)世界キリスト教情報 2007年6月18日(月) 第857信(週刊・総合版)

《訂正》6月11日付け第856信『マレーシア最高裁キリスト教への改宗者にもイスラム教身分』の中に《ライナ・ジョイさん》とあるのを《リナ・ジョイさん》に訂正します。

くどいようですが、以下に追加コメントをお送りいたしました。

たびたび申し訳ございません。
今、気づいたのですが、名前の表記で気になる点が二カ所あります。


1.裁判長の名前ですが、「アハマド・ファイルズ・シーク・アブドル・ハリム」の「シーク」は原語では‘Sheikh’であり、これは「シェイフ」と表記されるのではないでしょうか。アラビア語由来で「首長」の意味だと思います。


2.少数派判事の「リチャード・マランユム」は、‘Richard Malanjum’ですので、「リチャード・マランジュム」と表記されるかと思います。この方は、ボルネオ島の出身で、先住民族系のクリスチャンです。


また、最後の段落で、「宗教の自由に関わる裁判」の過去の事例が書かれていますが、これも現地事情を知る者には、やや違和感があります。


・「異なる宗教の両親から生まれた子どもの親権」

この事例は、ヒンドゥ教徒同士で結婚した夫婦の話です。夫の方がムスリム女性と交際するようになり、その結果イスラーム改宗して(イスラームでは重婚が認められているため)第二夫人をめとりました。父親がムスリムになった場合は、元ヒンドゥ教徒として生まれた子どもも自動的にムスリムとして育てることになる規定があるので、第一夫人に相当するヒンドゥ教徒の妻が、親権の異議申し立てをしました。これが騒動になったのです。夫の二重婚が生み出した問題であり、「宗教の自由」とは直接関係ありません。


・「陸軍将校がイスラーム教徒として埋葬された例」

これは、将校が家族にイスラーム改宗をしたことを伝えなかったか、死亡直前にイスラーム宣教者が将校に改宗を促したらしいのに、妻が知らなかったことが発端です。将校本人が本当にムスリムになったのかどうかは今や不明です。結局のところ、家族内でコミュニケーションがきちんととれていなかったことが問題で、「宗教の自由」の欠如と結論づけるのは、やや飛躍ではないかと思います。


今回のニュースを読み直してみて、一つはマレー語・英語間での翻訳の問題と、「信教の自由」という同一表現に対するイスラームキリスト教の価値観の相違・対立が浮き彫りになっていると思いました。

一言申し添えれば、棄教者が女性の場合と男性の場合では、扱われ方が違います。ムスリムの間でも、イスラーム法廷で穏便に棄教者を去らせる場合と、罰金か禁固刑あるいは両方の場合と、究極的には死刑を求める場合と、かなり見解に相違があります。マレーシアは、死刑の先例はありませんが、本件をきっかけに、二重法体系の矛盾を解消すべく検討する方向に向かうでしょう。

世界キリスト教情報は、当該地の社会的文脈と当事者の背景もよく調べた上で、翻訳に充分配慮しつつ配信していただけるとありがたく思います。

2007年6月16日
(ユーリ名)

ところでイギリスでは、先週、シャリーア法の部分的導入の是非について、カンタベリー大主教が発言したことが論議を呼んだ模様です。もちろん断るまでもなく、イギリスとマレーシアの英語版メディアでニュースを知り、すぐさまワードに複写しておきました。この件は、なかなかやっかいなようです。

イスラームを連邦宗教とするマレーシアでは、マイノリティである非ムスリムの特にキリスト教指導者層が、1980年代以降、シャリーア法の導入を強硬に反対しています。それに対して、英国国教会を持つイギリスでは、国内の少数派ムスリムのために、教会の長がシャリーア法の部分導入について考慮する発言をしたのです。そして、歴史的には、マレーシアの旧宗主国がイギリスでした。

この対照は、学問的には非常に興味深いのですが、両国の当事者および関係者にとっては、単なる法的問題のみならず、家族や親族も含めた実生活にも直結するために、心穏やかならぬものがありそうです。

とりあえず、英語版ブログ‘Lily’s Room’http://d.hatena.ne.jp/itunalily2)では、関連ニュース数本をまとめて列挙しておきました。ご興味のある方は、どうぞご覧ください。(全文が長過ぎて、何度繰り返しても途中で切れてしまいますが、明日以降、補う予定です。どうぞご了承ください。)