ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

インターネットよりも本を

この頃、特に日本語版ブログは休みがちになっています。それというのも、パソコンの電子文字に少し飽きてしまったことと、連続して読みたい本に集中しているからでもあります。
インターネットは便利ですが、予定以上に時間を浪費することもあります。本ならば、少なくとも物理的に、時間管理がもっと楽ですし、疲労感もそれほどないように思われます。
ブログは、私にとっての勉強記録でもあるので、英語版も日本語版も、一年に一度は印刷に出してまとめてあります。めったに中を開くことはありませんが、記録保存の意味はあると思っています。
振り返ってみると、2008年が一番、高揚感に満ちて、集中していたような気もしますが、あの頃は、待ち望んで探し求めていた、これぞと思う文献に出会えたので、うれしくて書き留めておきたかった、という時期でした。今では、ムスリム・クリスチャン関係の傾向も、従事している世界的な研究者も、おおよそ把握できたように思います。後は、繰り返して発生する出来事に対して、どのように忍耐強く付き合うかが課題で、これは本当に根気のいる作業です。特に、マレーシアの場合はそうです。
ところで、昨日は、マレーシアの1969年5月13日事件の記念日でした。電子版新聞で、少し記事が掲載されていましたが、今でもあの事件が記憶から消えない人々がいる一方で、歴史的事実として真実を直視する勇気を持つ必要も語られていました。同時に、当局のコントロールや複雑な民族宗教感情から、何かと前進を阻まれてしまいがちな傾向が、改めて指摘されていました。
話は変わりますが、最近、バーナード・ルイスの本を和訳で4冊続けて読みました。ネオコンの御用学者だなどと、ブッシュ政権の時代には、日本でも一部から痛烈な批判を浴びていましたし、現に、2005年頃には、ある著名なアラブ系人類学者が、京都の某大学での講演会で、会場からの質問(実は私が紙に書いて提出したもの)に応えて、それまで丁重で洗練された話し方だったのが、突然トーンを変え、「ルイスはユダヤ人だから間違ったのだ」と言い出したことも、記憶に鮮明です。
しかしながら、時を置いて、今、まとめて本を読んでみたところ、全体の論調は、イギリスにいた頃の出世作アラブの歴史林武・山上元孝(訳)みすず書房1967/1974年)と、基本的には変わっていないように思います。また、e-bookを除いて、検索でさっと出てくるインターネット情報とは違って、このような古い本を読む醍醐味は、時代の変遷を経た上で、記述の当否に関する検証ができることです。例えば、35年以上経って、本人に対する評価が、一部において全く変わってしまうというパラドックスないしは不条理さがあります。と同時に、現在抱えている問題が当時から実は萌芽的に温存されていたことにも気づかされます。
「訳者あとがき」には、こうあります。

パーキスタンなどでは、本書のウルドゥ語版が発売禁止になっていることは、逆にまた、かえって本書の公正・厳密な学術書としての性格を立証することにもなろう。」(p.179)

さらに、興味深いことには、次のようにも記されているのです。

かつて著者とともにアラビヤ語を教えていたあるシリヤ人の話では、同氏(ユーリ注:バーナード・ルイス氏のこと)はムスリムに改宗し、ハッジとなったとのことであるが、真偽のほどは分らない。」(p.186)

もとより、バーナード・ルイス氏のアラブ・イスラーム研究にもそういう内的動機がはたらいていたというつもりはないし、同氏がユダヤ系であろうかなかろうが、それは本書の内容と何の関係もないことである。」(p.187)

この時代には、今よりは情報拡散がゆったりしていたこともあってか、落ち着いてバランスのとれた論調で、ある面、懐かしくさえ思われます。1970年代前半にはこうだったのに、2000年以降に邦訳された本では、これは誤訳だとか、気をつけて読め、などという監訳者からの「助言」がつくような、いささか力こぶの入った妙な方向になってしまっているのは、かえすがえすも残念です。

十九世紀いらい、イスラーム研究者にはユダヤ系の人がすくなくない。ヘブライ語の知識があればアラビヤ語の理解をはやめることは言うまでもない。」(p.186)

これについては、語学上の有利さもさることながら、次のような理由も考えられるのではないでしょうか。
1.イスラーム圏の方がキリスト教圏よりも、ユダヤ人に対する待遇が比較的よかったという歴史的事情。
2.シオニズム運動とイスラエル国家の成立(1948年)により、周囲のアラブ諸国を理解する必要性に迫られたという現実的側面。
3.1.と矛盾するが、クルアーンにはユダヤ教徒に対する憎悪の記述も含まれているので、よりよい共存のためにムスリム・アラブを知っておくべきだという戦略的・防衛的背景。

昨日からおもしろく読んでいるのは、昨年12月半ばに届いた、"111 Questions on Islamand the West: Samir Khalil Samir, s.j."(A Series of interviews conducted by Giorgio Paolucci and Camille Eid, Edited and translated by Fr. Wafik Nasry,s.j., Co-translator: Claudia Castellani), Ignatius Press, San Francisco, 2002です。
このサミール司祭については、以前も書きました(参照:2007年10月31日・11月1日・2008年6月16日・2009年4月3日付「ユーリの部屋」)。1938年カイロ出身で、エジプトとイタリアの系統を引くイエズス会の教授です。フランスとオランダで教育を受け、ローマにもいらしたことがありますが、今はベイルートの聖ヨセフ大学で教鞭を執られています。また、ベネディクト16世イスラーム関連のアドヴァイザーを務めてもいらっしゃいます。と書くと、いかにも保守的で反イスラームの権化のように勘違いされる向きもあるかもしれませんが、大事な点は、カイロでの非ムスリムとしての経験も踏まえ、アラビア語のわかるアラブ・クリスチャンとしての背景を生かした学術啓蒙活動であるということです。また、いつ頃かは不明ですが、上智大学客員教授もなさっていたそうです。
この司祭は、平和的な共存の成長のための基盤として、いわゆる「政治的正しさ」を採用せず、率直に勇気をもって、しかも学術的裏付けを注で記しながら語っていることが、最も注目されます。2006年秋のレーゲンスブルク大学の事例についても、単純に教皇を責めるような安易な態度ではもちろんなく、「全体の文脈を、一体どれほどのマスメデイアがきちんと把握した上で、報道したのか」「ムスリムの初期の歴史が、暴力を伴う拡大であったことは事実なのに、どうして自ら否定しようとするのだろうか」と明言されていました。
カトリックではないものの、私にとっては、こういうゆるぎない態度こそが、非常に求められるところでした。その意味で、今読んでいる本も、実に興味深く、勇気づけられる思いです。