Hatena::ブログ(Diary)

神保町系オタオタ日記

2017-01-19

ツイン21古本フェアで野原潮風『少女小説忍び泣き』(法令館、大正4年9月)を拾う

ツイン21では21日(土)まで古本フェアを開催中。わしは、100円で珍しそうな上記の本が拾えました。発行所は大阪南区松屋町末吉橋北の法令館、編輯兼発行者は榎本松之助*1。コドモ文庫の一冊で、裏表紙の一覧には23冊の書名があがっていて、探険手帖、怪飛行機、魔法島探検が面白そう。本書は、本文62頁と「みなさんへ」が1頁あって、裏表紙が文庫一覧と奥付である。サイズは縦10.5cm、横7.5cmの豆本。「みなさんへ」によると、少年少女のための家庭の読物として前年(大正3年)豆お伽を発行。多大な好評を博し、天覧の光栄に浴したので、その記念としてコドモ文庫を発行したという。

ところで児童書や古書価の高いキネマ文庫を出していたこの法令館、後には尖端軟派文学研究会編『エロ戦線異状あり:女給の内幕バクロ』(昭和5年12月)などの尖端エロ叢書を刊行しているね(^_^;)

*1:榎本は、榎本法令館と榎本書店の発行者にもなっている。

2017-01-17

[][]全集が出るべくして出なかった二人の巨人ーー柳田國男斎藤昌三ーー

斎藤昌三三田村鳶魚がどれくらい親しかったかは不明だが、三田村の日記*1には数回出てくる。たとえば、

(大正十二年)

二月九日(金)

崇文堂、斎藤某氏と挈へ来る。(略)

六月八日(金)

崇文堂、八重を一九会へ。◯斎藤昌三氏。

(大正十三年)

一月二十九日(火)

(略)◯北野博美、斎藤昌三氏。(略)◯北野等は岡崎の講演へ出席を求む、都合よき時にてよろしといふ、聞置くだけにて確答せず。

「崇文堂」(発行者斎藤熊三郎)は斎藤の『近代文藝筆禍史』(大正13年1月)を刊行した出版社である。

そして、次の記述が最も面白い。

(昭和二十四年)

四月十二日(火)晴

(略)◯今朝の新聞広告にて、尾佐竹氏全集十五巻の二巻目出たるを知る、斎藤昌三が全集の出づべくして出ぬ二人は柳田氏とおのれとなりと云ひしよし首肯せらる、あれ程に著名なる柳田氏の方、甚だ怪しむべし。(略)

実業之日本社から全集が出た尾佐竹猛昭和21年10月没。「柳田氏」は柳田國男だろう。「全集」だから本来は当時健在だった柳田も斎藤も出なくてもおかしくはないのだろうが、生前でも全集が出ちゃう日本の慣行の中では、斎藤は自身の全集が出ないことに不満だったようだ。それにしても柳田と自分の二人を互角に並べる斎藤も斎藤である。単純に言うと非エロの柳田とエロの斎藤という二人の巨人。共に結局生前に全集は出ず、柳田は生前に『定本柳田國男集』が刊行され、全集は現在刊行中*2。斎藤の方は、没後著作集が刊行されたが、全集は未だ刊行されていない。

*1:『三田村鳶魚全集』26巻、27巻(中央公論社

*2:ちくま文庫から一応全集が出ているのを忘れていた。

2017-01-13

佐渡民俗研究会の青柳秀夫と三田村鳶魚

三田村鳶魚全集』25巻-27巻(中央公論社)は日記だが、別巻の索引の対象外とされている。索引があれば、あんな人やこんな人が出てくるのかと色々発見できそうなので、残念である。

私は何度も読んでいるのだが、今回青柳秀夫が登場するのを発見。青柳秀夫(又は青柳秀雄)は、誰ぞが調べても没年が判明しなかった新潟県郷土史家である。拙ブログでは「青柳秀雄旧蔵『思遠会会報』創刊号(思遠会、昭和10年4月)」を参照されたい。

さて、三田村の日記では、

(昭和七年)

二月十七日(水)

(略)◯柴田氏、佐渡百姓一揆ニ関スル調査帳一冊持参、是は新潟県佐渡郡小木町、青柳秀夫といふ人より小生へ寄贈のよしなり、同地に佐渡民俗研究会といふものある也。

とある。「柴田氏」は柴田宵曲と思われるが、この前後の柴田の日記はないようだ*1

青柳は小木町(現佐渡市)の某寺の住職だったそうで、そこに墓があれば没年はわかるかもしれない。

*1:『日本古書通信』昭和56年7月号「柴田宵曲翁日録抄(1)」によると、昭和6年7月1日から7年10月11日までの日記は存在しない。

2017-01-11

大正中期の鰭崎英朋

鏡花本の装幀で知られる鰭崎英朋が三田村鳶魚の日記*1に出てくる。

(大正六年)

八月二十四日(金)

鰭崎英朋氏来る、同伴伊丹鉄弥氏に至る。(略)

九月二十日(木)

出社、鰭崎英朋氏来ル。(略)

(大正七年)

四月十六日(火)

お客、樋口二葉氏、山中共古翁、鰭崎英朋氏。◯錦絵寄稿。(略)

九月四日(水)

(略)鰭崎英朋氏来話、御殿女中の画稿につき相談あり。◯初代豊国晩年の猫背矩躯は上から見たるよりの描法なり。(略)

三田村は当時政教社の社員*2なので、鰭崎は同社発行の『日本及日本人』に寄稿したのだろうか。泉鏡花記念館で買った松本品子編『妖艶粋美 甦る天才絵師・鰭崎英朋の世界』(国書刊行会、平成21年12月)を見たが、わからなかった。

なお、「伊丹鉄弥」は、大正5年5月31日の条によると、「田安慶頼卿ノ小姓」。また、大正7年9月18日の条によると、「此の二月に逝去のよし、七十五といふ、昔は鉄眼と共に岩倉公の暗殺を企てしほどの元気の男なりし」という。

妖艶粋美──甦る天才絵師・鰭崎英朋の世界

妖艶粋美──甦る天才絵師・鰭崎英朋の世界

*1:『三田村鳶魚全集』25巻(中央公論社昭和52年4月)

*2明治43年入社説と大正3年入社説があるようで、『三田村鳶魚全集』別巻(中央公論社、昭和58年10月)の「三田村鳶魚著作目録」の明治43年と大正3年の両欄に「政教社社員となる」とある。

2017-01-10

[]関西で公職追放になった二人の出版人

戦時中の企業整備による統合後の大雅堂(教育図書が母体)の代表者となった田村敬男だが、戦後公職追放となる。これについて、田村は『荊冠80年』(あすなろ、昭和62年7月)136頁に次のように書いている。

(略)わが大雅堂が、G・H・Qから公職機関に指定され、僕は公職追放の身となった。

この時、関西では、立命館大学出版部とその責任者であった富田正二君と僕との二人だけが、追放の身となった。

僕の記憶に間違いがなければ、富田君はその後、河原町二条西入るで喫茶店を経営していると聞いていたが、お互いに追放後一度も会っていない。

公職追放に関する覚書該当者名簿』によると、田村は「日本青年教育会出版部代表」、富田は「立命館(ママ)常務理事」が該当事由である。日本青年教育会と立命館出版部は共にいわゆる「G項該当言論報道団体」に指定されている。田村自身も前掲書110頁で、

ここで一応政経書院の活動を中止し、その頃東京で友人の藤岡淳吉のやっていた日本青年教育会の青年学校の教科書出版をする事となり、宝文館を一手取り扱い店とする事が決定して、その代表者に僕が指名され就任した。(略)

この当時、藤岡淳吉が東京で、助川啓四郎、船田中氏等がやっていた東亜同志会編のパンフレット十点を代表名義人であった僕の名前で出版した。これが戦後、出版界追放の十点となろうとは知る由もなかった。

この青年教育会出版部も途中で辞し、合資会社政経書院を組織変更して教育図書株式会社に改める(略)

東亜同志会編のパンフレットというのは不明だが、例えば国民精神総動員中央連盟編『戦時農山漁村読本』(日本青年教育会出版部、昭和13年5月)の発行者は田村である。

ところで、『公職追放に関する覚書該当者名簿』は、ある人物が戦前何をしていたかを調べるのに有用なツールでもあるのだが、アルファベット順で見づらい。相当の作業になるが、リバーフィールド氏あたりが出版人だけ抜き出して五十音順の名簿を作ってくれたらなあ。

Tom.Riverfield Tom.Riverfield 2017/01/10 21:07 ご指名頂きまして恐縮です。
『公職追放に関する覚書該当者名簿』、知らない資料です。
調べてみたら結構な分量があるのでシンドイですが、取りかかってみようと思います。いろいろ平行してやっているので、数年がかりになるかもしれませんが。

jyunkujyunku 2017/01/10 21:31 名簿は軍人が多いのだけれど、軍人とは別名簿になっている一般人でも結構いるからねえ。『二級河川』の数号先で期待しております。

2017-01-06

[]昭和18年における出版社の自主的統合

「「『二級河川』16号の「戦時の企業整備により誕生した出版社一覧(附・被統合出版社名索引)が超便利」」で言及した一条書房(代表者河原四郎。河原書店、臼井書房、スズカケ出版部などが統合)だが、昭和18年1月の企業整備により設立されたという。出版事業の整備について定めた出版事業令の公布・施行が同年2月なので少し早いなあと思っていたら、『資料年表日配時代史ーー現代出版流通の原点』(出版ニュース社、昭和55年10月)によると、

昭和18.1 出版社の自主的統合がはじまり、申請により文協*1官庁の連絡会議で適当と認められたもの、河原書店(京都臼井書房ほか6社統合)、森北書店(東学社ほか2社)、春秋社松柏館(大菩薩峠刊行会ほか1社)など8件。

なるほど、昭和18年1月から自主的統合が始まっていたのだね。統合されてできたのが一条書房でなく、河原書店になっているのが気になる。また、自主的統合により創立された残りの5社の概要も見てみたいが、この出典は何だろう。

*1:社団法人日本出版文化協会

2017-01-05

井田太郎近畿大学准教授「コレクターと収集品」(大阪古書組合講演会)への補足

12月18日大阪古書会館で開催された井田太郎近畿大学准教授講演会「コレクターと収集品ーー紀文書簡から稀書複製会叢書までーー」を聴いてきました。江戸会、同方会、集古会から稀書複製会に至るコレクター群像の流れ、ネットワークの広がりは山口昌男内田魯庵山脈』を愛読した私には馴染み深いコレクターが多く楽しめた。

さて、井田先生が不明とされていた点について私が調べて判明したことを補足しておこう。

・稀書複製会の主事だった山田清作の生没年

山田については『坪内逍遙事典』(平凡社昭和61年5月)に立項されていて、明治8年生、昭和21年没である。

・武井豊の経歴

大正7年11月稀書複製会主催の稀書展覧会に『風俗問答』、『馬糞夜話』、『絵直集』など*1を出品した武井豊の正体だが、『出版文化人名辞典』第3巻(底本:『現代出版業大鑑』現代出版業大鑑刊行会、昭和10年8月)に同名の人物が立項されている。要約すると、

信義堂 武井豊

明治14年2月14日生、長野県出身

・先代が現在地(日本橋区蛎殻町)で新古本及び和本の小売店を経営していたのを継承

明治36年頃から出版にも進出。株式期米等に関する専門書肆として知られている。

・大正15年頃下位春吉の『魚雷の背に跨りて』、『大戦中のイタリヤ』等を出して好評を博した。

浮世絵に関して一隻眼を有し、各種の貴重な物を豊富に蒐集。

・大正6年頃吉田一松と相版で広重東海道五十三次の改訂版を出版して世上を驚かせた。

コレクターであることや同じく出品者である吉田吉五郎や吉田久兵衛(浅倉屋)ら書肆と同業で同一人物の可能性は高いが、同定する決め手はない。

・樋口二葉

稀書複製会編『稀書解説』の執筆者の一人である樋口については、「謎の樋口二葉」、「謎の樋口二葉(その2)」などで言及したことがあるが、私にもよくわからない人物である。

内田魯庵山脈―「失われた日本人」発掘

内田魯庵山脈―「失われた日本人」発掘

*1:稀書複製会編『諸家珍蔵秘書解題』(米山堂、大正8年2月)参照。