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神保町系オタオタ日記

2017-07-19

久米正雄らが参加したファッショ運動団体五日会と雑誌『恤兵』

戦前久米正雄が参加した「五日会」という文士と軍人のファッショ運動団体があった。小谷野敦久米正雄伝』(中央公論新社平成23年5月)に、

[昭和七年]二月四日の「読売」に、久米が、直木、三上、白井喬二、佐藤八郎(サトウ・ハチロー)とファッショ文学運動を始めるという記事が出た。

とある団体である。より詳しくは東京朝日新聞昭和7年2月6日朝刊に載っていて、

文壇側:三上於莵吉、平山蘆江直木三十五吉川英治、土師清二、鈴木氏亨、野村愛正、竹中英太郎岩田専太郎

軍部:(参謀本部)根本中佐、武藤少佐(陸軍省調査部)石井少佐、林大尉、鈴木中佐、坂田中佐、山ノ内少佐、松崎少佐、今村少佐ら12名

が同月5日芝浦の細川雅叙園に集まり、毎月5日に会合を開催することとし、五日会と命名したという。

この五日会だが、東京朝日新聞昭和13年7月12日夕刊の「大日本文学研究会」旗揚げの記事中に「満洲事変の時は三上於莵吉氏等が中心となつて文壇右翼「五日会」が出来たがその後立消えとなつてをり」とあって、昭和7年2月の会合後すぐに休会になったのだろうと思っていた。

ところが、『団体総覧』(大日本産業総聨盟団体研究所、昭和9年9月)に愛国団体の一つとして記載されているのを発見。その内容は、

沿革 満洲事変を直接的契機として生る。

目的 軍部愛国思想を大衆文学を通して国民の間に普及昂揚する。

役員 (軍部)根本、武藤(参謀本部)各少佐坂田 鈴木各中佐 松崎 今村各少佐 林大尉(文壇)直木三十五 白井喬二 三上於兎[ママ]吉 平山蘆北[ママ] 吉川英治 久米正雄 土師清二 野村愛正(画壇)竹中英太郎 岩田専太郎

ただし、同書の「編纂上に就いて」によると、編纂は昭和9年4月1日現在だが、やむを得ざる部分はそれ以前のものがあるという。また、原稿及び資料は各団体に対し直接回答を求めたもので、回答の無い分は研究所の資料のほか、官辺、諸団体の資料を仰いでいる所があるという。ということで、必ずしも五日会が昭和9年時点でも存在したとは言えないのだが、その可能性は高そうだなと思っていた。

更に、押田信子『兵士のアイドルーー幻の慰問雑誌に見るもうひとつの戦争ーー』(旬報社平成28年4月)にも出てきたので驚いた。陸軍恤兵部が昭和7年9月発行した慰問雑誌『恤兵』は五日会が編纂したものだという。創刊号には、鈴木、直木、野村、土師のほか、菊池寛野村胡堂の名前も見える。また、「五日会に就て」として、

本誌の編纂に当たってゐる五日会は、満州事変に刺激されておこされた帝都在住文士の会合であります。本会はより良く軍部を理解し、これを国民に知らしむると共に、日本の現勢を正視して将来に備へんことを希つて居るものであります。そのために、毎月軍部の指導を仰いで会合を重ねて居ります。(略)

とあるという。確かに久米らが参加した五日会と『恤兵』を編纂した五日会は同一の団体と思われる。

なお、神奈川近代文学館が所蔵する創刊号を初めて紹介したのは押田氏だが、講談社が所蔵する26号(12年2月)から35号(13年7月)までを活用した先行研究として竹添敦子「山本周五郎と『陣中倶楽部』*1」(三重短期大学編『三重法経』110号、平成10年)があるという。五日会とは情報交換を目的(又は名目)とした飲み会ぐらいに思っていたのだが、雑誌の編纂までしていたとは、意外な事実であった。この編纂の実務は誰がやっていたのだろう。そして、久米は創刊号には執筆していないが、どの程度関与していたのだろうか。

(参考)海軍の慰問雑誌『戦線文庫』については、「敗戦前後の『戦線文庫』」で紹介した。

久米正雄伝―微苦笑の人

久米正雄伝―微苦笑の人

兵士のアイドル 幻の慰問雑誌に見るもうひとつの戦争

兵士のアイドル 幻の慰問雑誌に見るもうひとつの戦争

*1:『恤兵』は42号から『陣中倶楽部』と改題し、編集は五日会編纂部から大日本雄弁会講談社に移行した。

2017-07-13

[]寺町今出川の宮崎書店が始めた平安巡回文庫

伊良子清白の日記*1にはもう一つ図書館ネタかと思われるものがある。

(大正七年)

十二月二十四日 火曜(略)今出川寺町の宮崎書籍店にいたり平安巡回文庫のことを尋ね(略)

十二月二十八日 土曜(略)平安巡回文庫より左記の雑誌を閲覧することゝす 日本及日本人、中央公論、太陽、文庫世界、婦人の友、女の世界、ホトヽギス、早稲田文学白樺(略)

「巡回文庫」を図書館問題研究会編『図書館用語辞典』(角川書店昭和57年10月)で引くと、「図書館が数十冊の図書をセットにして主に団体やグループに一定期間貸出し、閲覧または個人貸出しするもの」とある。おっ、「京都図書館が巡回文庫をやっていたか、関西文脈の会ネタかも」と思ってしまった。

ところが、念のため『京都書肆変遷史』で宮崎書店の項を見ると、平安巡回文庫は宮崎書店が始めたものであった。同書から要約すると、

創業者:宮崎則忠

創業年:明治42年

創業地:上京区寺町通今出川下ル

宮崎は代々金沢前田藩に仕える士族の家柄で、祖父の代に寺に入籍。成長するにつれ出家を嫌い、入洛。

明治42年頃寺町通今出川下ルにて雑誌の回覧(平安巡回文庫)を始め、古書も取り扱ったのが嚆矢の様である。大正14年に幹事、昭和6年から同22年までの長きにわたり評議員、副組長、相談役等を歴任。昭和15年「紀元二千六百年奉祝記念」として「二宮尊徳の胸像」の建設が組合で決定され、委員長に就任。胸像は同年12月府立図書館前に完成。昭和24年5月没。

客が店に行き本を借り、返す時も店に行く貸本屋とは逆に、平安巡回文庫の場合は書店の方が客の家に色々な雑誌を持って行ってそこから好きな雑誌を借りてもらい、一定期間が過ぎたら回収に行くという形態なのだろう。前掲辞典によると、日本における巡回文庫は明治35年に佐野友三郎が秋田県立図書館で導入し、翌年移った山口県立図書館で本格的に行い、のちに全国的に広まったという。図書館が始めた巡回文庫を書店も真似したということだろう。明治末に始めて大正7年の段階でも続いていたということは、需要が相当あったということになる。伊良子が借りた誌名を見ると、中々渋い雑誌も揃えていたようだね。

余談だが、二宮尊徳の胸像って今も京都府図書館前にあるが、宮崎書店の店主が中心となって京都書籍雑誌商組合が設置した物だったのね。知らなんだー。

*1:『伊良子清白全集』2巻(岩波書店平成15年6月)

2017-07-11

[]50年後の太平洋と1万2千年前のムー大陸を夢見た三好武二

昨年知恩寺古本まつりで買った友松円諦主幹の『真理』1年5号(全日本真理運動本部、昭和10年5月)。全体的に折れ曲がっていて状態はよくなくて500円だが、三好武ニ「南方熊楠研究」が載っているので購入。三好武ニといっても、その名前にビビビと来るのは、わしと偽史ウォッチャー藤野七穂氏ほか数名くらいだろうか。『サンデー毎日』昭和7年8月7日号に「失はれたMU太平洋上秘密の扉を開く」を書いた日本における最初期のムー大陸紹介者である。その三好が熊楠について書いているので買ってみたわけだ。

記事の内容は、副題に「南紀田辺に最近の心境を訪ふ」とあるが、熊楠の少年時代から渡米、その後のロンドン時代、帰国後の様子とともに、田辺を訪問し、インタビューをしている。迎えてくれた熊楠の姿。

そして心持ふるへる手で朝日に火をつける。裸形ではなかつたーー白木綿の半ズボンをはき、襦袢にネル格子縞の寝衣を重ね、寝起きたばかりの百姓のおつさんとでもいふいでたち・・・・。

三好に泣き言めいたことも言っている。

「学問のことは自分の努力で片付くが、出版の方は、どうも思ふやうに行きませんよ。日本でも外国でも、わしをよく知つてくれてゐた友人たちが死んだしね・・・・」

この人にこの反面がと思はれた程、南方さんはホロリとしてゐた。これまでの研究の最後の段階として、粘菌図録を印刷に附し後世まで残したいのが、昨今の望みであるらしい。

結局粘菌の図録は発行されずに、熊楠は昭和16年に亡くなっている。

さて、三好の経歴を調べようと思ったら、酒井大蔵『日本人の未来構想力ーー三好武二と「五十年後の太平洋」ーー』(サイマル出版会、昭和58年)で既に調査されていることが判明。それによると、

明治31年3月18日 青森県弘前市生 (本籍は婿入りした香川県三豊郡辻村(現三豊市)。旧姓は奈良)

大正8年 東京高等工業学校(現東京工業大学)応用化学科卒。日本酷酸製造株式会社入社

9年*1 日本酷酸製造退社。朝鮮総督府道技手、京幾道慶尚北道勤務

昭和元年 退官。朝鮮総督府嘱託として欧米の商工業制度調査を命じられ南洋、豪州ニュージーランド欧州各地を視察*2

昭和2年 ロンドン大学植民地政策専攻

3年 帰国大阪毎日新聞社入社、学芸部勤務。

7年 上海事変特派員

9年 大阪毎日新聞社退社

12年 文藝春秋社支那特派員

13年 蒙古自治政府嘱託*3

14年 報知新聞入社、編集局次長兼外報部長学芸部長論説委員

16年 報知新聞社退社。蒙古自治政府弘報局長

18年 株式会社蝶矢オイル工業所嘱託

19年 7月現在の住所は東京都大森区馬込町

戦後 第一科学社で編集企画

29年2月4日 没

酒井氏が三好に感心を持ったのは、大正15年大阪毎日新聞東京日日新聞が行った「五十年後の太平洋」を課題とした懸賞論文で一等を受賞した三好の論文*4に出会ったのがきっかけだという。そして、息子で画家の碩也氏ら遺族や知人を探し、経歴を明らかにしてくれた。その中で驚くのは、大阪毎日新聞で三好と部は違うが親友だったという高木健夫からの手紙である。その中に、

かつて三好は、いま騒がれている太平洋ムー大陸の研究をやっていました。小生もこの話を三好から聞かされましたが、へぇーそういうものがあったのかねえぐらいの相槌しか打てませんでした。

とにかく彼は奇才ですよ。いつか彼のことをジックリ書きたいと思っているうちに年をとってしまいました。

三好は『サンデー毎日』に二回ムー大陸について書いている*5が、その後も研究していたようだ。ムー大陸を取り込んだ竹内文献等の偽史運動やスメラ学塾との関係があったとは確認できないが、もしかしたら接触していたかもしれない。

上記の三好の経歴やムー大陸との関係だけでも面白そうだが、長男の碩也氏によると戦前大森の住居には田中清玄が出入りしていたというので底知れぬ人脈が伺われる。

三好の「五十年後の太平洋」には日本諸島が太平洋に沈下してしまうかもしれないという小笠原島付近の海底地震による大津波の発生が予想されている。なるほど、1万2千年前に太平洋に沈んだとされるムー大陸に関心をもつのももっともなわけである。三好はムー大陸とともに熊楠にも関心があったようだが、熊楠の方はムー大陸について何か考えを持っていたであろうか。

(参考)「藤野七穂により解かれた『失われたムー大陸』中のキリスト日本渡来説の謎

*1:昭和19年現在の自筆履歴書による。大正15年の一等入選時の略歴紹介では、東京高等工業学校卒業後、大阪株式会社芝川商店東京支店染料薬品部に入り、大正10年2月朝鮮京城旭石鹸会社に転じ、同年8月京畿道産業技手、13年2月慶尚北道産業課に転じるとある。

*2:酒井氏の書によると、一等入選の懸賞として、欧米視察の旅費が支給され、朝鮮総督府も旅行中の三好を休職扱いとし、一時賜金を支給とある。

*3:酒井氏が話を聞いた佐川一雄氏(戦後京都府会議長)によると、蒙古行きは元毎日新聞社会長の城戸元亮、蒙古連合自治政府最高顧問の金井章次、蒙古司法制度確立のため派遣された控訴院判事の藤井五一郎の三人が介在したという。

*4論文といっても、小説仕立てでSFである。横田順彌氏か長山靖生氏が紹介していた気がする。

*5:昭和7年8月7日号のほか、同年10月2日号に「歴史の撹乱社MU」

2017-07-08

伊良子清白に保険の勧誘をされた伊上凡骨たち

伊良子清白は明治37年から39年まで帝国生命保険会社に診査医として勤務していた。ところが、保険勧誘のノルマがあったようで、日記には伊良子に勧誘された著名人の名前が記録されている。

(明治三十九年)

一月七日 日曜 午前中山丙子君を春木町二ノ六四に訪問し保険を勧誘す、加入することだけはたしかに約束せらる、此人野州足利の生にて話面白し 信州に関する地理的観察は興味をおぼえたり(略)

中山丙子は後の民俗学者中山太郎。伊良子は文庫派の詩人として知られるが、中山も『文庫』に投稿している(「中山太郎の出てくる小説」参照)。なお、この頃中山は電報新聞の記者であった(「松宮春一郎年譜」参照)。

(明治39年)

二月二十六日 月曜(略)与謝野氏を訪問す 晶子夫人保険に加入す 尚多数の紹介書を得たり(略)

三月一日 木曜 早朝和田英作氏を訪問し不在 転じて南町三丁目岡野栄氏を訪ひ保険申込書を受く(略) 次で伊上凡骨氏を訪ひ席上にありし岩田氏をも保険に入らしむ 岩田氏は一色氏の友人なりとぞ(略)千駄木林町に長原止水氏を千駄木町に夏目漱石氏を(我輩は猫である)西片町に上田敏氏を歴訪し保険を依頼せしも皆不成功 長原氏は沈痛夏目氏は洒落上田氏は快活 殊に上田氏の談話は室内の清掃と雛壇の華麗と相待て氏の文学を体読する思ありき(略)

三月七日 水曜 (略)次で曙町に岩田氏を訪ひ伊上氏にも会す 岩田氏の室は美術品骨董品を以て装飾せらる(略)また岩田氏の親戚らしき深見氏の画堂を見る(略)

与謝野晶子から多数の紹介書をもらって勧誘しているが、成績はかんばしくなかったようだね。「岩田氏」は、同月26日の条に「岩田郷一郎氏方に到り深見氏の保険を依頼せしも調はず」とある。凡骨については、盛厚三『木版彫刻師伊上凡骨』(ことのは文庫、平成21年3月) に詳しいが、それによると、凡骨は日記に出てくる岩田ら画家の作品を与謝野鉄幹が主宰した『明星』で手がけている。たとえば、前年の明治38年6月号では別刷の一枚物岩田の「森の画」を手がけ、作品の左下に「イカミ刀」と署名があるという。また、同月自ら編者となり『思ひ出艸』(金尾文淵堂)を刊行し、和田の「恋衣」など6枚の作品を一枚物の版画として手がけている。39年1月号には和田の「伊上凡骨肖像」を凡骨自身が木版にしたものが掲載されたほか、和田の「馬」「下総稲毛の海岸」や岡野の「善光寺」などを手がけた。また、同年6月号では長原の「短肱の人」を彫っている。

なお、「洒落」と漱石が評されているが、荒正人『増補改訂漱石研究年表』(集英社昭和59年6月)は日記の公開前の発行なので、記載はない。

2017-07-06

西川誠光堂から伊良子清白に日夏耿之介明治大正詩史』が届いた

日記を読むのが好きなオタどん。いつか京都市上京区丸太町通新道東入ル南側にあった西川誠光堂が出てくる日記を見つけたいと思っていたが、たうとうその日が来ました。『伊良子清白全集』2巻(岩波書店平成15年6月)所収の日記に出てきたのだ。

(昭和四年)

十一月五日 火曜 (略)西川誠光堂から明治大正詩史下巻、八十の抒情小唄集来る、「百年」「趣味」*1などいふ雑誌も来る、伊藤*2から短歌全集来る、明治大正詩史には肖像あり、「孔雀船」初版の撮影もあり

十一月六日 水曜 (略)西川誠光堂に送金す(略)

西川誠光堂へ来店したわけではないのが残念だが、それでも日記中に西川誠光堂という名称が登場するのを見るのは初めてで嬉しい。西川誠光堂は明治36年貸本屋として創業、40年以降新本屋へ転向。大正15年には夫の吉之助が急逝し、以後西川ハルが一人で運営していた。ハルは昭和4年当時52歳。松木貞夫『本屋一代記ーー京都西川誠光堂ーー』(筑摩書房昭和61年11月)には成功した理由の一つに自転車による本の配達があるというが、この頃伊良子は鳥羽に住んでいたので、小荷物で送られたのであろう。ただ、なぜわざわざ京都の西川誠光堂から取り寄せるのか、普段から新刊情報誌のような物が送られてきていたのか疑問があるところである。なお、伊良子は古書については、たとえば昭和4年3月16日の条に「大阪カズオ書店よりいろ/\の本来る」とあり、目録注文*3していたことがうかがわれる。

日記中に出てくる『明治大正詩史』下巻は、日夏耿之介の著書で新潮社から昭和4年11月刊行。また、同年1月に刊行された上巻については、

(昭和四年)

二月二十四日 日曜 (略)長谷川成文堂から、明治大正詩史、晶子詩篇全集、日本戯曲歌舞伎二冊、みゝずのたわごと 小包にて来る(略)

とあり、こちらは長谷川成文堂から取り寄せている。この長谷川成文堂は、『京都書肆変遷史』に長谷川庄一創業の成文堂とある書店と思われる。京都市上京区丸太町川端東入ルに所在していたから西川誠光堂のすぐ近くにあったことになる。『明治大正詩史』上巻を成文堂から、下巻をその近隣の西川誠光堂から取り寄せたことになり、不思議な話である。ちなみに、全集の年譜によると、この日夏の著書により伊良子の再評価が決定的になったという。

参考:「矢野峰人と西川誠光堂

本屋一代記―京都西川誠光堂

本屋一代記―京都西川誠光堂

*1:『百年』、『趣味』という雑誌は不詳。なお、昭和5年3月5日の条に「『趣味』の山本といふをとこに原稿おくる」とある。

*2カズオ書店の伊藤一男又は日記昭和4年7月24日の条に出る鳥羽の伊藤書店か。

*3:『日本古書目録大年表』(金沢文圃閣)によれば、カズオ書店は大正14年4月から『誌上古本屋』を発行、昭和4年3月に第15冊を出した後、同年5月からは『桜橋だより(誌上古本屋別冊)』を発行している。

2017-07-05

北方人』27号(北方文学研究会)と室内を描いた装丁

上記を盛氏より御恵投いただきました。いつもありがとうございます。目次は、

創作/御城前のおババ 通雅彦

創作/陀羅尼助丸の秘密 哀神シュナイダー

評論/釧路湿原文学史(8) 盛厚三

書評北方人の本棚 [K]

書誌/装丁挿話(3) かわじもとたか

編集後記 [K]

表紙画・カット ジャック・カロ

釧路湿原文学史」は昭和40年代(下)。木山捷平の妻みさを、渡辺喜恵子渡辺淳一、佐々木栄松、瀬戸内晴美田中角栄原田康子井上光晴南部樹未子らが登場。

装丁挿話」は、『続装丁家で探す本』(来年1月刊行予定)に100話まで書いていて、本号はその続きの101話から107話までを掲載。亀倉雄策、佐藤泰治、萬鐵五郎、佐藤功、作家の装丁本など。室内を描いた装丁本を探していると前号に続いて今回も書いておられるが、それで思い出した。文庫櫂で入手した鳥居幸子『小さき家の装ひ』(萬里閣書房、昭和3年2月)がそれである。カバーの折り返しには、

著者鳥居幸子女史は、人類学の泰斗文学博士鳥居龍蔵氏の令嬢で、永らく仏蘭西に留学せられ、フランス現代の室内装飾及古代建築の美を研究せられたものを本書に蒐録せられたのである。(略)

とある。また、「凡例」には、

「一、中に挟んだ挿絵は、写真版の外は総て私がスケツチ致しましたものばかりでございます。装釘も、包み紙の意匠も皆自分で試みました。」とあり、カバー、口絵、挿絵にある室内の絵は幸子が書いたことがわかる。鳥居龍蔵の長女である幸子については、「鳥居龍蔵の孫娘鳥居玲子の母親、そして父親は?」で言及したことがある。まあ、本書の装丁として描かれた絵は、日本の室内ではなく、フランスの室内だが、かわじさん御参考までに。来年の御著書楽しみにしております。

新刊案内として、同人である池内規行氏の『回想の青山光二ーー資料で読む「最後の文士」の肖像ーー』(共和国平成29年5月)が紹介されていた。善行堂に置いてあってもよさそうな本である。

2017-07-02

[]伊良子清白が羊頭狗肉と酷評した大阪府中之島図書館

図書』(岩波書店)6月号に伊良子清白の孫伊良子序氏が「詩人清白の流離と純化ーー生誕百四十年と新出日記ーー」を書いておられる。それによると、『伊良子清白全集』2巻には25年分の日記のうち8年分が収録されたが、その後新たに8年分が発見され、解読中であるという。また、清白の日記、創作ノート、蔵書などは、鳥取県立図書館に寄贈し、現在、資料整理、劣化を防ぐ特殊処理、データベース作成などが行われ、「伊良子清白アーカイブ」が今後の研究の中心的役割を担うともあった。文学全集の日記篇はあらかた読んだつもりだったが、清白の日記は読んでなかったので、あわてて全集の日記を読んでみた。そうすると、図書館ネタがあったので報告。まず明治37年に開館した大阪図書館(39年に大阪府図書館に改称。現大阪府中之島図書館)。

(明治三十八年)

一月十五日 日曜 午前はじめて府立図書館に行く 蔵書の不備なるは其建築の美麗なるに比して羊頭をかけて狗肉を売るの譏なきにあらず 「新楽劇論」((略)流石に春のや先生の識論と感服)竹柏園集(この内にて大塚楠緒子刀自の詩歌心にとまれり)及び萩の家遺稿の三冊*1をよむ 午後堂島に商品陳列所を観覧す(略)

当時伊良子は帝国生命保険大阪支社に勤めていた。また、37年度の同図書館の蔵書数は3万7千冊*2。伊良子は32年に京都医学校(現京都府医大)を卒業後、日本赤十字社病院に勤めていたから、帝国図書館大橋図書館を利用したことがあって、それらと大阪図書館を比べたのかもしれないが、蔵書数に不満があったのだろうか。

他の図書館も出てくるので紹介すると、

(明治三十八年)

十二月十七日 日曜 博文館図書館にいたりいろ/\の物を見る、新年勅題詠進の式をも女鑑の合本よりうつしとる(略)

(明治三十九年)

一月十二日 金曜 帰途博文館図書館にいたり家事衛生に関する書籍をよむ 上野にいたりたれども満員にて入ること能はざりき

三月十二日 月曜 研究のため大橋図書館に到る 満員にてやむなく教育図書館にいたる 別によき書物もなく且つ風強くして身内寒ければ急ぎ帰る 詩集の手入をなす

四月五日 木曜 (略)夜帝国図書館にいたり調べ物をなす(略)

(大正七年)

三月十六日 土曜 (略)三時より図書館にいたりキリスト教書物や歌の本などを見る(略)

六月八日 土曜 (略)夜京極より図書館にいたり丸太町古本やを素見してかへる

[欄外]図書館は意外に貧弱也、何もかも台北を見た目にはあまり驚かるゝことなし 台湾の方が実際はよきなり

博文館図書館」は大橋図書館、「上野」は上野にあった帝国図書館。「教育図書館」は書物蔵氏の御教示によると大日本教育会附属書籍館(現千代田図書館)か。最後に出てくる京都府図書館明治42年開館。武田五一設計の建物の外観は今も残っていて立派だと思うが、伊良子は43年5月から大正7年3月まで台湾総督府に勤めていたので台湾総督府図書館と比較して感想を述べているのだろう。戦前の図書館について、関係者ではない一般利用者による忌憚のない感想が記録されていて貴重な資料である。全集に未収録の残りの日記も早く公開されるよう期待しております。

伊良子清白全集〈第2巻〉散文篇

伊良子清白全集〈第2巻〉散文篇

*1:この3冊は現在も中之島図書館と中央図書館が所蔵しているようだ。

*2:『大阪府図書館五十年史略』(昭和28年11月)による。ちなみに家蔵の同書には「大阪府図書館児童図書」のスタンプが押されている。なお、『上野図書館八十年略史』(上野図書館昭和28年3月)によれば帝国図書館明治38年度末現在の蔵書数は42万3千冊弱、『大橋図書館四十年史』(博文館、昭和17年9月)によれば大橋図書館明治35年度末現在の蔵書数は4万4千冊強である。