Hatena::ブログ(Diary)

神保町系オタオタ日記

2018-09-15

押川春浪率いる天狗倶楽部が立てた天狗塚を訪ねる日夏耿之介

日夏耿之介鏡花・藤村・龍之介そのほか』(光文社昭和21年11月)の「炉辺子の墓に詣るの記」に天狗倶楽部の天狗塚が出てくる。日夏は、平井功の13回忌(昭和19年)に雑司ヶ谷墓地へ平井の墓を訪ねた折、泉鏡花ラフカディオ・ハーン島村抱月夏目漱石の墓と共に押川春浪の墓も訪ねている。

こゝにて又平井氏一行と会したれば、氏の案内にて押川春浪が墳墓にいたる。天狗塚といふは天狗倶楽部の立てたるによるものにや。されど目のあたりには、さる妖異の気漂へる墓域にあらず。さりとて夫の勇ましき武侠草紙の面影もこれなし。まつたく世のつねのお墓のみ[。]す。[ママ]なはち

押川春浪

天狗塚を訪るるものつねの荻風のみ

と吐きすてて、こゝに墓地の散歩終へたれば、まつすぐに衝き抜けて電車みちに出づ。(略)

押川が亡くなった大正3年から30年たち墓や天狗塚に詣る人はいなかったようだ。しかし、押川や天狗倶楽部に関する著作を出されている横田順彌氏が近年訪れていて、氏の『快絶壮遊[天狗倶楽部]ーー明治バンカラ交遊録ーー』(教育出版、平成11年6月)に天狗塚の写真が載っている。そこには、「雑司ヶ谷墓地の押川家の墓に向かい合っている天狗碑。台座も入れると人間の身長も越しそうな丈の高い碑である」と書いている。私も一度訪ねて見たいものである。

2018-09-13

[]第6代関西学院大学図書館東晋太郎が空襲から守った蔵書群

下鴨納涼古本まつりで竹岡書店の3冊500円コーナーから東晋太郎『夕靄』(歌集夕靄刊行会、昭和36年1月)を購入。219頁、私家版、上原専禄署名入り。歌集や句集には興味がないが、序文や年譜等をざっと見て面白いことが書いてあれば、買うことにしている。今回は、年譜の昭和18年の条に「(四月)山本五郎氏の後をうけ(関西学院大学)図書館長となる」、20年の条に「七月図書館蔵書中重なるもの約一万冊、非常なる労苦を以て有馬街道名塩小学校に疎開す」とあるのにひかれて購入。

蔵書の疎開については、ネットで読める『関西学院大学図書館史 1889年〜2012年』(関西学院大学図書館平成26年1月)によれば、

第2次世界大戦終焉が近づくにつれて空襲が激化し、図書館としては、これに対応するために、1945(昭和20)年5月から7月にかけて、重要図書9,000冊を、名塩国民学校川西町花屋敷奥小路民蔵邸、武庫村友行国光宣揚会道場分散疎開させたりしている。

とあった。都立日比谷図書館の蔵書疎開については、金高謙二氏によって映画『疎開した40万冊の図書』や著書『疎開した四〇万冊の図書』(幻戯書房平成25年8月)になるなど、よく知られている。一方、関西学院大学図書館の蔵書疎開についてはほとんど知られていないだろう。疎開した蔵書数も多くないし、日比谷図書館みたいに疎開しなかった蔵書が空襲で全焼というドラマ性もない。しかし、関西学院大学図書館の蔵書疎開について、誰がどのように運んだのかなど詳しく知りたいものである。

本書の昭和21年の部には、東が学院図書館前で詠んだ

見のかぎりみどりの芝生夏の雨ゆたけくふりてこゝろ足らへり

が収録されている。空襲から図書館や蔵書を守りきった館長としての思いが出た一首だろうか。東は病気で辞任する昭和30年12月まで館長を務めた。

疎開した四〇万冊の図書

疎開した四〇万冊の図書

2018-09-12

知られざる杉浦非水装丁本、『夢中語:土屋大夢文集』(昭和6年)

下鴨納涼古本まつりで萩書房の1冊200円3冊500円コーナーで土屋大夢*1『夢中語:土屋大夢文集』(土屋文集刊行会、昭和6年12月)を拾った。土屋については、「天神さんの古本まつりで拾った村雲龍三『革身術』」で言及したことがあったので、名前に覚えがあった。また、口絵写真に「明治三十六年大阪にて/中央は杉浦非水」とあるので、非水と関係があったのかと興味津々に購入。裸本、800頁強の非売品。「凡例」を読んでいたら驚いた。「本書の装釘は旧友杉浦非水氏に嘱し」とあって、かわじもとたか氏の労作『続装丁家で探す本 追補・訂正版』(杉並けやき出版、平成30年6月)で調べてみた。すると、同書には268冊の非水装丁本があがっているが、本書は見当たらない。「日本の古本屋」にも7店が本書を出品しているが、装丁に言及せず、古書価も高くない。どうやら、本書は知られざる非水装丁本のようだ。

土屋と非水の関係はすぐにわかった。土屋『記憶を辿りて』(土屋文集刊行会、昭和7年8月)によれば、

明治35年3月 大阪毎日新聞社退社

同年春 三和印刷店創業に付き顧問を托せらる

同年 雑誌『三十六年』を刊行

36年3月 三和印刷店を退く

一方、非水の方は、『生誕140年杉浦非水ーー開花するモダンデザインーー』(「杉浦非水展」実行委員会平成29年2月)の「略年譜」(長井健・喜安嶺編)によれば、

明治35年4月黒田清輝の推薦により大阪・三和印刷所[ママ]図案部主任として赴任。翌年の第5回内国勧業博覧会関係雑誌『三十六年』の発行を手掛ける。

36年7月三和印刷所廃止に伴い、退社

二人は明治35年大阪の三和印刷店で知り合って以来の旧友ということになるようだ。

ところで、本書を拾った日には古本の師匠と合流し、昼食中に本書を見せたら、ビビビと来るものがあったらしい。見る人が変わると、注目する箇所が違うのが本の面白さである。

なお、はてなダイアリーが来春終了するとのことで、はてなブログの方にデータをインポートしたので、当面は併存することになります。→「https://blog.hatena.ne.jp/jyunku

*1:奥付は土屋元作

2018-09-02

[]CIE図書館が生んだ芥川賞候補作家久坂葉子

嵐山ロンドンブックスでだいぶ前に買った『久坂葉子の手紙』(六興出版、昭和54年9月)を読んでると、CIE図書館が出てきた。昭和25年1月26日付け川崎澄子(久坂の本名)から友好安子宛の書簡で、

(略)

今、一人の女性をかいてます。

C、I、Eで、昨日、一時間十枚のスピードで三十枚かきました。

百枚前後になるでしよう。

(略)

題を「晶子礼讚」としてますが、改題しようと思つてます。(略)

「C、I、E」はCIE図書館のことだろうと思ったら、26年5月12日付け斎田昭吉宛葉書に「CIE図書館にて/久坂葉子」と書かれているので、推測は間違いなかった。CIE図書館は、敗戦後GHQのCIE(民間情報教育局)が設置した図書館である。当時久坂は神戸市生田区山本通に住んでいたので、同区三宮一丁目三宮ビルにあった神戸CIE図書館だろう。『日本教育年鑑』1950年版(明治書院昭和25年4月)によれば、23年6月開館、302坪、収容人員192人。無料で開架図書自由に閲覧できたが、久坂は本を読むよりも執筆活動に使っていたようだ。「青空文庫」で読める「久坂葉子の誕生と死亡」にも、昭和25年頃として

その頃、私は喫茶店につとめていた。一週間に、二度か三度 、手伝いに行っていた。一日働いたら三百円であった。休みの日は、朝から、インキ壺と原稿用紙をもって、CIEの図書館へ通った。ストーブがあって暖いのである。一時間に十枚位のスピードで、やたらむたらに書きまくった。

とある。久坂の芥川賞候補となった「ドミノのお告げ」(『作品』5号、25年6月)は「落ちてゆく世界」(25年1月11日脱稿。『VIKING』17号、25年5月)を改作したもの*1なので、CIE図書館で書かれたものと見てよいだろう。芥川賞候補作家久坂葉子は、CIE図書館で誕生したのだ。

*1:『久坂葉子全集』3巻(鼎書房、平成15年12月)「久坂葉子著作目録」、佐藤和夫「解説」参照

2018-08-19

学内の権力闘争に破れ教職追放となった京都学派の西谷啓治鈴木成高

竹田篤司『物語「京都学派」ーー知識人たちの友情と葛藤ーー』(中公文庫)の31「「教職不適格」の烙印」は、昭和21年10月18日付け下村寅太郎高山岩男書簡の引用で始まる。

(略)遂に西谷[啓治]、鈴木[成高]両君迄災が及び、最近の適格審査会で決定致したやうです。(略)(第一回目の審査会では鈴木君のみはパスしたのですが、これを不服の一派の策動で再審査を行ひ、西谷鈴木両方を落としてしまつたのです)。西谷・鈴木両君が不適格の判定を受くべき十分な理由のないことは勿論で、既に御想像のことと思ひますが、夫々一派の醜い私心の横行の結果で、本当に遺憾この上もないことです。Y教授なら格別、○○教授あたり迄西谷君追出しを策することは今迄気づかなかつた処で、この委員会で人間の善悪が実に露骨に分つて来ました。私も今迄全く見損つてゐた人物のゐることをよく自覚した次第です。

[ ]内は竹田氏による補加である。敗戦後大学については大学に設置された適格審査委員会追放の可否を判断された。審査委員第三者ではなく、同僚の教員により構成され、竹田氏によると、京大では西谷の属する「哲学」は山内得立、鈴木が属する「西洋史」は原随園が審査委員長だったという。学内の教員による審査なので、「前からあいつが気に入らんかった」とか「戦時中あいつはいい思いをしたが、わしは・・・」とかで、書簡にあるような「一派の策動」とか「醜い一派の私心の横行」はいかにもありそうなことではある。ただ高山がどの程度事情に通じていたか不明で、実際は「私心」ではなく例えばGHQの意向を受けてという可能性もあるだろう。

ところで、何度かブログで利用した書砦・梁山泊から入手した鹿野治助の日記で上記書簡と同時期の箇所を見ると公職追放や教職追放に関する緊迫した状況が書かれていた。

(昭和二十一年)

八月二十七日 (略)

高山君は今朝新聞紙にて追放に該当発令の由

(略)

九月七日 (略)

高山、西谷両氏訪問

(同月)二十六日 佐藤幸治君より来信 西谷君も追放該当者なりといふ。惜しきことなり 小田君を学校に訪ね 会のことを知らす。

(同月)二十九日 午后二時高山君の□

例の四人の外に小田、朝(?)倉二氏顔を加へて会談

(略)

(十月)二十八日 (略)

西谷氏を訪ぬ 失職(?)追放該当の由尚文学部妙(?)な党派のことを聴(?)く 国民学校(?)より大学に至る乞[ママ]皆かくの如し

あきれたるもの也

(昭和二十二年)

二月十六日 (略)

西谷君と百万遍行く。午後片岡君を寺に訪ね 西谷君の審査□□相談す。(略)

二月十七日 午後、高山君訪問。後西谷君を訪ぬ。例のこと色々きく。 翌日 農専に小田氏を訪ねて相談す。

(五月)二十三日 (略)吉田氏より西谷鈴木両氏追放判定書を見せて貰ふ。

誤読も多いと思われるが、御容赦を。鹿野が西谷の教職追放に関して情報収集をしたり、関係者に相談していることが確認できる。特に昭和21年10月28日の条は高山書簡の内容を裏付けるような記述になっている。

結局、西谷らの教職追放の真相はわからないが、『京都大学文学部の百年』(京都大学大学院文学研究科、平成18年6月)によれば、西谷・鈴木はその著書・講演等の内容を根拠に思想的理由から不適格と判定され、辞職を余儀なくされたという。共に昭和22年7月30日付けで退任している*1

実現するには様々な問題がありそうだが、京都大学大学文書館高山らの公職追放や西谷らの教職追放について企画展をして欲しいものである。なお、タイトルの「権力闘争」は必ずしも適切な表現ではないが、他に思い付かなかったので御理解いただきたい。

物語「京都学派」 - 知識人たちの友情と葛藤 (中公文庫)

物語「京都学派」 - 知識人たちの友情と葛藤 (中公文庫)

*1:西谷は昭和27年2月に復職

2018-08-10

[]福岡県図書館の女性出納手にして俳人の竹下しづの女

最近刊行された柳与志夫・田村俊作編『公共図書館の冒険ーー未来につながるヒストリーーー』(みすず書房平成30年4月)第5章は河合将彦氏の「図書館で働く人々ーーイメージ・現実・未来ーー」である。ここに出納手という図書館員の職種が出てくる。

出納手」は、聞きなれない言葉だろう。戦前は閉架式の図書館が多く、利用者の請求を受けて、主に少年の出納手が資料を出納した。

夜学に通いながら図書館に勤める少年が多かったらしい出納手だが、身分としては傭人扱いで職員名簿には名前が載らない場合が多かっただろう。例外的に後世に名前が残った出納手として、「ある帝国図書館員の死」で紹介した事故死したため名前が伝わった例がある。

さて、坂本宮尾『竹下しづの女ーー理性と母性の俳人1887-1951ーー』(藤原書店、平成30年7月)を見てたら、俳人竹下しづの女は昭和9年から14年まで福岡県図書館児童室係の出納手だったという。しづの女は明治20年福岡県京都郡稗田村生、39年福岡県女子師範学校卒業、福岡県小倉師範学校の訓導などを務めた。女性でかつ高学歴とあって戦前の出納手のイメージとはかけ離れたものがある。更に福岡県図書館月報に「児童図書館の諸問題」という論考を発表している。ただの出納手ではなかったわけだ。残念ながら『図書館人物事典』(日外アソシエーツ平成29年9月)には登場しない。

出納手時代の句が極めて面白い。

日々の足袋の穢しるし書庫を守る

紋のなき夏羽織被て書庫を守る

書庫瞑く春盡日の書魔あそぶ

既に陳る昭和の書あり曝すなり

足袋で羽織を着て書庫から出納したり、曝書する姿が目に浮かぶようだ。坂本氏によると、「書魔」は、「薄暗い書庫のなかになにかが潜んでいるように感じたしづの女の造語」だという。書庫に潜む書魔、なにか小説のネタに使えそうだ。

そして、憲兵隊による検閲も詠まれていた。

かじかみて禁閲の書を吾が守れり

憲兵を案内す書庫のい*1てし扉に

公共図書館の冒険

公共図書館の冒険

*1:にすいに「互」

2018-08-05

兵庫古書会館武田豊四郎発の絵葉書を拾う

久しぶりに東京古書会館西部古書会館に行ってきた。やっぱり東京古書会館の古書展は質量共に凄いと実感。あくまで私個人の感想だが、南部、西部、東京京都大阪名古屋兵庫の順番で古書会館の古書展と相性がよい。残念ながら最下位になってしまった兵庫古書会館だが、勿論蒐集範囲や予算などから人それぞれで一番好きだという人もいるだろう。さて、そんな兵庫古書会館で先日一枚の絵葉書を見つけて驚いた。「大正期早稲田大学の三大オカルト教師」や「やっぱり、あやすーぃ早稲田大学教授武田豊四郎」などで言及した早稲田大学教授武田豊四郎発の絵葉書である。オールドブックス ダ・ヴィンチの出品。

東京早稲田大学講師室」の武田豊四郎から愛媛県周桑郡楠河村の武田秀子宛で、明治41年10月4日の消印。文面は、米国ワシントン大学のベースボール選手が早稲田競技したが早稲田が負けたことや勉強して早く女学校へ行きなさいと書いている。武田は愛媛県の出身なので、娘か親戚の子供宛なのだろう。武田のことを調べている研究者がいるのかいないのかわからないが少しは参考になるかなあ。