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神保町系オタオタ日記

2016-09-27

田代善太郎日記』に風俗研究会や仏教児童博物館、はたまた嵯峨断食道場

田代善太郎日記』昭和篇(創元社、昭和48年10月)は、田代京都帝国大学理学部嘱託だった時代の日記。残念ながら京都古本屋カフェーに関する記述はほとんど出てこないが、家族の外出先も記録されていてその中に興味深いものがあった。

江馬務の風俗研究会

福田與が風俗研究会に参加していたことは「小笠原秀実の白塔歌会の会員だった福田與」で言及したが、田代の妻たかも参加していた。

(昭和5年10月)

18.(略)妻は江馬(務)氏の講習を聞きてのかへり、乗りたる電車に事故あり傷心。

(同年12月)

11.(略)夜、妻は風俗研究会の<義士会>に出席。

(昭和6年1月)

18.(略)夜、妻と千鶴とは風俗研究会の扮装会(時代風俗実演)のためにゆく。

(昭和7年11月)

23.(略)妻は風俗研究会の見学旅行のため山崎に行く。利休の茶室を見また水無瀬神社に参拝したる由なり。

(昭和10年11月)

15.(略)妻は風俗研究会に幹事として働くことになり(活動するの意で就職の意ではない)島原角屋(すみや)かしの式実演を世話する。

(昭和12年1月)

15.金. 風俗研究会より妻宛の印刷物に、礼式研究会の広告あり、井村氏顧問たり。妻は宿志の成れるを喜ぶ。

(昭和13年2月)

16.水. 民政会館に江馬(務)氏訪問、カシハにつきて聞けど標本なく絵画は自宅にある由にて複写してくれる約をなす。

(同年3月)

6.日. (風俗研究会)礼道研究会講習第1回、食礼につきて行はれるにつき、その準備に妻は一方ならず骨折る。食物を盛る植物、柏を研究したれど充分なる明解を得ず。

(昭和18年3月)

7.(略)妻は江馬(務)氏宅にて講習(礼法)。

( )は編者田代晃二の注。昭和13年2月16日の条の江馬務への脚注には、「風俗研究会々長。善太郎の妻はその礼式部の幹事をつとめていた」とある。福田と田代の妻が風俗研究会に参加していた時期は重ならないようだ。研究会の会誌『風俗研究』は244号、昭和17年11月が最後の発行のようだが、この日記により研究会が昭和18年まで活動していたことがわかる。

仏教児童博物館

仏教児童博物館については、「『仏教児童博物館第二回年報附資料分類目録』(仏教児童博物館事務所、昭和5年5月)」と「仏教児童博物館の経営に協力した桜井安蔵」で紹介した。当初は龍谷大学図書館に事務所を置き、展示物は各機関に貸与していたが、昭和6年10月に円山公園内に開館している*1。この博物館田代の日記に出てくる。

(昭和7年11月)

17.木. 尚子と東山女塾(円山公園双林寺内)の「熨斗(のし)折、水引結展覧」を見、児童博物館を見て教室に至る。

(昭和9年11月)

12.月. 尚子児童博物館(円山公園南)の仕事手伝を承諾し妻の添書をもたせてやる。

(昭和10年10月)

4.金. 児童博物館陶器展をなし販売

(昭和11年4月)

14.(略)児童博物館に至り爪哇(ジャワ)の仮面陳列を見(略)

「尚子」は、田代の四女。仏教児童博物館は館長が中井玄道、館員は日野大心とされるが、田代の娘が臨時的に働いていたかもしれない。なお、日野の名前も出てくる。

(昭和12年3月)

30.(略)日野大心氏、暇乞に来る、名古屋に行く為なり。

・嵯峨断食道場

嵯峨にあった断食道場については「赤尾照文堂で『小国式断食療法』(嵯峨断食道場、昭和7年?)」で紹介したが、なんとまあ田代の日記中に発見。

(昭和12年7月)

3.(略)正容は(脚気治療のため)断食堂をたづねてくる。

(同月)

22.(略)正容は昨日、断食道場(嵯峨)に行けり。

(同月)

25.(略)釈迦堂にて(電車を)下り断食道場にて正容を見舞うてかへる。単に断食を励行する丈にて何の世話もしてくれず。

「正容」は、田代の三男。断食道場だから何にもしてくれないのは仕方がないかもしれない。

*1:川北典子「「財団法人仏教児童博物館」の研究ーーその設立と活動についてーー」『子ども社会研究』3号による。

2016-09-26

北方人』25号(北方文学研究会)をいただく

盛厚三氏より『北方人』25号を送っていただいた。ありがとうございます。

目次は、

創作/ゆうゆう館小話(3) 通雅彦

創作/理想郷チルワツナイ 哀神シュナイダー

評論/釧路湿原文学史(6) 盛厚三

研究/[復刻]原野の俳人・長谷川光二ーー牧場経営と俳句人生とーー 伊藤重行

書誌/装丁挿話(1) かわじ・もとたか

編集後記 [K]

表紙画・カット 川地ポン

伊藤先生の論考によると、長谷川は石川三四郎や望月百合子と交友関係にあり、生涯を通じて岡田虎二郎を師匠とした「静坐」を人生の哲学としていたという。仙台静坐会の機関誌『坐忘』に掲載された長谷川の書簡俳句も紹介されていてとても興味深かった。

かわじさんの「装丁挿話」は、橘小夢、片腕の装丁家五人、おもしろ装丁家の名、畑中純水島爾保布ブログで探す装丁本など。よく見るブログやHPの中には「乱雑古本展示棚」や「すぺくり古本舎」など未知のものがあった。

なお、志村有弘編『吉川英治事典』(勉誠出版)の「一般項目篇」のうち、伊上凡骨岩田専太郎小村雪岱木村荘八、鴨下晁湖などの画家を盛氏が書いているとのこと。

吉川英治事典

吉川英治事典

2016-09-24

戦前も小林信子の静坐社に通っていた福田與

福田與が戦後静坐社に通っていたことは、「静坐社サロンのメンバーだった福田與先生」で言及したところである。戦前はどうだったのかなあと思っていたら、自伝『満天の星を仰ぎて』に出てきた。

私は昭和六年ごろ、ふと何心なく京大の掲示板を見たところ、仏教青年会の主催で同朋誌主催の足利浄円師を招いて◯◯教室でご法話を聴く会を催すと書いてありました。(略)その司会者は今にして思うと、西元宗助氏だったように思います。その帰り校門を出た所でひょっこり足利先生にお会いしたのでご挨拶をいたしました。先生は、

「これはこれは福田さんの奥さんですか、暇を見つけてせいぜい静坐をなさるがいいでしょう」

と、聖護院の小林信子さんの家を教えてくださいました。私は足利先生のこのお言葉を守って、三年ばかりみっちり静坐社に通ったのでした。

静坐社の創立は昭和2年なので、創立からさほど年数が経っていない頃に参加していたことになる。福田は静坐のおかげで長男の出産(昭和11年)はびっくりするほど安産だったと書いている。また、福田は昭和5年12月に雑誌『草の葉』を創刊しているが、昭和14年発行の6号に「静坐」の平野草明から寄稿されたという。

2016-09-23

[]勤労女学校や印刷学校も設立した希望社の後藤静香

長崎県立高等女学校田代善太郎と同僚だった後藤静香(ごとう・せいこう 1884-1969)。希望社という出版社を創立したということなので、調べたら面白そうな人物であった。『大正人名辞典供找軸(底本は『大衆人事録』昭和3年版)から要約すると、

後藤静香 勤労女学校主 希望社主 日本印刷学校主

東京府豊多摩郡大久保町西大久保町

明治17年8月 大分県人後藤成実の長男として生まれる。

39年 東京高等師範学校卒業

長崎県立高等女学校教諭、香川県立女子師範学校教諭を歴勤

大正7年 希望社を創立

教育教化を目的として雑誌『希望』『のぞみ』『泉の花』を発行。誌友四十万を越ゆと称する。

勤労教育を実際に行うため勤労女学校設立し、印刷業者養成のため印刷学校を興し、読書会を奨励して相互教育普及を計る等一般社会教育のため盡瘁する処少なからず。

『日本エスペラント運動人名事典』にも立項されているので、そこから補うと、

昭和4年 希望社にエスペラントを導入。石黒修らと全日本エスペラント連盟を結成。

8年 印刷部ストライキと後藤の個人醜聞のため、希望社は解散

高崎市に後藤静香記念館。

「勤労女学校」は『田代善太郎日記昭和篇』26頁の注によると、「希望社出版物の製本を手伝うなど働きながら学ぶ私立の女学校があった。生徒は誌友の子で全国各地から集まり寮生活をしていた」という。また、希望社の建物は後に新宿伊勢丹に使われたようだ。同書25頁の注によると、「『希望』『のぞみ』『かがやき』など個人誌ながら発行部数が創立以来10年間に飛躍的に伸び、社員もふえて新大久保の社屋では手狭になったので西大久保に新館(当時としては破格な鉄筋コンクリート3階、講堂つき)が建設されることとなった。このころからの経済的な無理が数年後に失脚の原因となり、のちに建物は新宿百貨店伊勢丹」にわたる」とある。雑誌は広告を取らなかったそうで、同書154頁の注には「大正7年『希望』創刊以来10数年、年少勤労者向けの『のぞみ』学生向けの『学徒』盲人向けの『かがやき』を出すまでに伸びてきた希望社であるが、教養をめざす後藤静香氏の個人誌で、広告をとらずしかも安い誌代で運営してきた」とある。

教育社の後藤はウィキペディアによると今も影響力のある人物のようだが、全然知らなかった。しかし、田代の日記の他にも福田與『満天の星を仰ぎて』にも出てきて、驚いた。福田の岡山県立倉敷高等女学校時代(大正7年-12年)のこととして、

私は後藤先生の講演があると聞こうものなら、かなり遠い所へでも平気で出かけていったものでした。とにかく後藤先生の話に耳を傾け『希望』を読むようになってから、たしかに私の生活態度は変わってまいりました。

印刷学校の経営や読書会の奨励の詳細については、今後の課題である。

日本エスペラント運動人名事典

日本エスペラント運動人名事典

2016-09-21

小笠原秀実の白塔歌会の会員だった福田與

福田與の自伝『満天の星を仰ぎて』(福田図書室、昭和61年10月)を読書中。

福田が京都府京都第一高等女学校国漢専攻科に通っていた時代(大正12年3月〜15年3月)の話に江馬務の風俗研究会や小笠原秀実の白塔歌会が出てくる。

風俗研究会は週に一度、柳馬場松原の江馬務先生のお宅の図書室を開放された様なお部屋で開かれました。(略)

江馬務先生が風俗史(服飾史)について、昔から今に至るまでの変遷をお話しくださるのを、私どもは丹念にノートしたものでした。風俗史だけでなく、時には仏専から学者の小笠原秀実先生を招いて美学の話を何回かお聞きしました。また時には、琴の名手、鈴木鼓村先生(那智俊宣)も来られて、和楽器邦楽のお話だけではなく、実習もしてみせてくださるのでした。

そして、「『白塔』創刊号(白塔社、昭和3年6月)と小笠原秀実」で紹介した『白塔』が出てくる。

さて、美学の講師の小笠原秀実先生は、ずっと聖護院西町にいらしたため、私が後年、銀閣寺の近くへ移ってからも、よく電車の中などでお会いしたものでした。(略)ある時、可愛らしい「白塔」という白色の歌集をとり出して示され、「次の日曜日、白塔歌会をやるからあなたも差し支えなかったら来てはどうか」というお招きを受けました。呑気者の私は、日曜になると早速先生のお宅へ寄せていただきました。(略)その後も白塔歌会には、二、三回寄せていただきました(略)

私は「白塔」が機縁になって短歌は岡本大無先生に師事したのです。

『白塔』創刊号には小原與の名前があり、福田の旧姓が小原(昭和4年11月福田武雄と結婚)だから、実際は創刊号から参加していたようだ。

ああ、シルヴァン書房(四天王寺)で買った『白塔』創刊号と丸万書店で買った『福田與先生回想録』*1がこれでつながった。三密堂書店(みやこめっせ)で買った福田武雄『断食日記*2とシルヴァン書房(大阪古書会館)で買った鳥居篤治郎編『永遠の黎明』*3もこれにつながっている。どこまでも古本は古本を呼ぶのであった。

なお、本書によると、福田武雄『断食日記』は昭和51年刊行であった。

2016-09-20

植物学者田代善太郎、霊動をなし得たり

牧野富太郎田代安定らと親しかった植物学者の日記『田代善太郎日記 大正篇』(創元社昭和47年10月)に大正期地方のインテリ層と霊術との関わりを示す記述が幾つかあったので記録しておこう。

まず、田代の大正期までの経歴だが、

明治5年 福島県東白河郡生まれ

30年 東京高等師範学校卒

大正元年 長崎県立高等女学校首席教諭辞職、鹿児島県立加治木中学校嘱託

10年 加治木中学校辞職

14年 京大嘱託

日記を引用すると、

(大正7年2月)

24(略)小林氏よりは令室病気治療のこと、大[ママ]霊道、疾病治療のことをきく。

や、太霊道ですな。「小林氏」は不詳。

(大正9年9月)

12.日. 松田(略)氏の採集品を整理す。

藤田氏<呼吸法>の話を妻と共にきく。

「藤田氏<呼吸法>」の注に「松田英二氏が藤田氏から教わり健康になったという息心調和の呼吸法。実演と指導があった」とある。「松田英二氏」は注によると「現在メキシコ在住(略)メキシコの植物分類学の第1人者」。

(大正9年11月)

20(略)3時40分にて人吉に向って立つ。同行者生徒11名、窪田(隆、英語教師)氏、志々目氏、他に小学校教員2。

7時43分着。(新宮邸にて)夜、曽木子[ママ](隆輝、のちのドイツ大使館書記官、加治木町長、当時は中学生)の<催眠術実験>を見る。

善太郎の二男に当たる編者田代晃二による見出しは、「修養団員らと人吉へ」。また、()は編者による注である。蓮沼門三が始めた修養団田代との関係は、大正12年1月23日の注に「植物研究とは直接のつながりはないが、教育者の家に生まれ教育者をめざした善太郎であり、また善太郎の紹介で修養団に入り幹事として活躍、のちに希望社を創始した(大正7年)後藤静香氏との縁もあって、善太郎は当然の義務のごとくこれら運動の普及に力を注いだ」とある。

(大正9年12月)

2(略)八代大将(六郎、第2次大隈内閣海相)、松元(稲穂修養団)幹事を迎へ、日野、藤崎、内田と共に同車して鹿児島に赴く。

<学校の修養団支部発会式に大将の臨席を請ふの件>成立。(略)

13.月. 前5時、倶楽部に集合。朝の行事<霊動>。黒川崎まで走り海水浴、精矛(くはしほこ)神社に至り美化作業。中学に至り国民体操。

9時より工業学校国民体操。(略)

16.木.晴。 朝5時より倶楽部にて土屋氏、霊動指導、我はかからず、晃二はよくかかる。のち国民体操。

霊動キター。「霊動」の注には「目をつぶり合掌静坐していると手が振動し、はげしい人は身体の振動にまで及び我を忘れて坐った姿であるいは立ちあがってはねた。これを感応と言っていたが、まったく感応しない人もあった」とある。また、「晃二はよくかかる」の注に本人である編者が「まわりの熱気におされてまねごとをしていた、ほんものではなかったという記憶がある」と書いている。

そして、息子が霊動に「よくかか」った日の翌日は、

(大正9年12月)

17.金.晴。 霊動をなし得たり。

12月4日に八代大将や修養団本部から来た松元の出席のもと修養団支部発会式が開かれた。修養団と霊動が組織として関係があったかは不明。大正12年2月18日の「鍛練会」の注には「修養団支部の鍛練会は早朝(5時のち5時半)に町の倶楽部に集って、黙想20分内外、「心の力」朗誦10分、国民体操10分、のちほうきをかついで神社などへ駈足し清掃奉仕して解散。正月には海岸まで駈足、夜光虫の光る海水で沐浴ということもあった」とある。「土屋氏」は霊術家ではなく、大正10年10月2日の注に「工業学校長」とあり、鹿児島県立工業学校長と思われる。

2016-09-18

大阪古書会館で古本が古本を呼んで鳥居篤治郎編『永遠への黎明』を

東京の趣味展へ行くのは止めて、大阪古書会館へ。そうしたら数日前に話題にした鳥居篤治郎編集の本を発見。発行者京都市の中原脩司、昭和11年6月発行、印刷者は金沢の高橋覚吉。246頁、非売品*1。本書は大正7年3月に鳥居の長男として生まれ、昭和10年3月亡くなった昭の追憶集である。「生立ち」によると、当時バハイホームと称していた東京市牛込区矢来町の鳥居の家で生まれた昭は、ホームに出入りしたオーガー夫妻、ロシヤの盲人の詩人エロシェンコら多くのバハイ諸友に愛されたという。

本書には、アグネスアレキサンダー「不死の薔薇園」やモダンガール望月百合*2「昭さんに光を!」なども収録されている。驚いたのは、「昭和十七年三月廿日福田先生に頂く 高木忠夫」と書き込みがあったことである。調べて見ると、高木は京都府盲学校の生徒で、福田與『草の花:歌集』(初音書房、昭和37年7月)の昭和18年の部には「高木忠夫」と題した歌も載っていた。「古本が古本を呼ぶ」とよく言われるが、ブログに福田や鳥居について書いた数日後にこんな本を見つけるとは出来すぎだ。

*1:『貝の風鈴:鳥居篤治郎先生追憶集』(京都府盲人協会結成二十五周年記念委員会昭和51年9月)によると、700部関係者に配付

*2:「元祖モダンガール望月百合子とアレキサンダー女史」参照