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神保町系オタオタ日記

2018-05-17

木山捷平内務省検閲官佐伯郁郎

平成16年5月発行の『月の輪書林古書目録』13号は特集「李奉昌不敬事件」予審訊問調書であった。装幀林哲夫氏。冒頭、木山捷平の『酔いざめ日記』からの引用で始まる。

一九三二(昭和七)年一月八日、金。

朝風呂にゆきひげをそる。午後三時すぎ、農林省営林局に倉橋を訪ね不在。内務省に佐伯を訪ねる。今日観兵式還幸の鹵簿に爆弾を投げし男あり。場所は警視庁前の由。内務省大さわぎなり。巡査が号外、新聞を没収しつつ街をあゆめり。犯人李奉昌

最初にこれを読んだ時は「佐伯」が誰かわからなかったが、講談社文芸文庫版の『酔いざめ日記』を読んでいて、「あっ、検閲官の佐伯郁郎かも」と気付いた。千代田区千代田図書館発行の村山龍「<文学のわかる>検閲官ーー佐伯慎一(郁郎)についてーー」(「内務省委託本」調査レポート第15号)によると、佐伯郁郎(本名・慎一)は、明治34年岩手県生、大正14年3月早稲田大学文学部仏文科卒、15年12月から内務省警保局図書課に勤務していた。

また、佐伯と木山に交流があったことは、林氏のブログdaily-sumus2」の平成26年2月21日分で紹介された『木山捷平資料集』(清音読書会)掲載の『メクラとチンバ』(天平書院、昭和6年6月)の出版記念会の出席者でわかる。出版記念会の参加者として、倉橋弥一、田中令三、宇野浩二らとともに佐伯の名前があがっている。佐伯と木山がどのように知り合ったかは、今後の研究課題だが、村山氏によると、佐伯の第一詩集『北の貌』(平凡社昭和6年5月)の出版記念会には、神原泰、村野四郎のほか、田中、宇野も出席していたというので、田中や宇野を通じて知り合ったという可能性はある。

なお、吉備文学館で7月29日(日)まで「没後50年木山捷平展」を開催中である。

酔いざめ日記 (講談社文芸文庫)

酔いざめ日記 (講談社文芸文庫)

2018-05-13

明治・大正カトリック著述家筆名考

どこで拾ったか、『望樓』4巻3号*1ソフィア書院、昭和24年3月)という雑誌がある。増田良二「明治・大正カトリック著述家筆名考」が載っているので購入したもの。同論考は、『公教雑誌』『天主の番兵』『通俗宗教談』『聲』『カトリック』等の諸雑誌から取捨した約340人の筆名について、本名や筆名の由来などを記載した一覧である。『聲』以前の雑誌は概してパリ外国宣教会士の筆になるものが多く、殆ど筆名は用いられていないし、『カトリック』は仰々しい筆名などが流行しなくなった大正期創刊で筆名は非常に少ないので、主として明治・大正期の『聲』に現れたものが大部分という。また、明治・大正・昭和三代にわたり同誌の編集者だった山口鹿三・藤井伯民両氏によると、筆名は殆ど全部が主筆工藤應之氏の命名で、両氏自らのものですらあまり記憶してないとの回答だったので、工藤氏在世中に照会し、大部分は解決し、その回答を基本に一覧を作成、多少増田自身の意見を加えたという。それでも、未詳とされるものも多く、40人以上が未詳とされている。「司書官山田珠樹」で言及した立花國三郎も単に「未詳」とあるだけである。カトリック系雑誌を読む機会がないので、他に私が知った名前もほとんどなく、兒玉花外、波留子・ふさ・ゆかり(木内錠子)ぐらいであった。この一覧は昭和24年段階の調査であるが、その後研究は進んでいるであろうか。

*1:編集後記によると、前号は辻野久憲特集で、殊に若い人達の間に予想以上の歓迎を受けたという。

2018-04-24

[]昭和17年8月シンガポールで交錯したジャワ派遣の大木惇夫と日米交換船の鶴見和子・俊輔

書砦・梁山泊京都店で掘り出した(つもり)の『井上照丸追憶録』(井上照丸追憶記刊行会、昭和44年4月)。昭和43年4月に亡くなった元満鉄の調査マン井上の追悼本。わしは饅頭本が好きで、古本市などで面白いものを見つけると安ければ買ってしまう。ただ、饅頭本なら何でもいいというわけでなく、

・戦前に活躍した人であること

・有名人ではなく、といってただの人では困るわけで、書物蔵さんが言うところの半有名人か。学歴は、旧制高校旧帝大早稲田大学、高等女学校などの卒業生が望ましい。

文学者、国家主義者、出版関係者、図書館関係者、満洲など大陸関係者、トンデモない人など、ちょっと毛色の変わった人であること

・私が関心のある人が故人についての回想文を書いていること

・年譜が付いていること

・日記や書簡が収録されていること

この条件をすべて満たす饅頭本にはなかなか出会えないが、今回はこのすべてを満たす上に、値段が1000円。買った時はよさげな本を見つけたぐらいの気分だったが、少し読んでみると、これは大変な本を見つけたという驚きがあった。

井上の経歴を年譜から要約すると、

明治40年6月 山口県徳山市

昭和3年3月 第三高等学校文科甲類卒

7年3月 東京帝国大学法学部政治学科卒

7年4月 南満洲鉄道株式会社入社、調査部(正しくは、経済調査会)勤務

14年11月 内閣企画院調査官

18年6月 南満洲鉄道株式会社復職東京支社勤務

21年3月 社団法人金属工業調査会及び財団法人国民経済研究協会常務理事兼任

30年1月 財団法人海外貿易振興会事務嘱託

43年4月 死去

井上の日記は、中学時代から昭和24、25年までの膨大な量が残っているとのことだが、本書には戦時中と終戦直後の日記が摘録されている。井上が、企画院から南方総軍の軍政総監部付として転属した昭和17年のある一日を引用してみよう。

(昭和十七年)

八月十日 月曜

午前十時半、総軍、参謀に会えず(浅間丸ーー撃沈のため)。十一時半、総軍報道部、キャセイ・ホテル、伊地知進氏に会う。

(略)

浅野晃、大木惇夫、大林清、小籔英一等とともに昼食、阿部知二武田麟太郎などの消息をきく。浅野氏の人柄に興味をもつ。富沢有為男の活躍(浅野、大木はジャバへ帰る)。午後、博物館にてーー交換船の連中の見学。邦人の群、家族連れに、子供たちのことを想う。前田多門、鶴見氏令息嬢の一行、外務省ブラジル帰りの連中。雇員を指揮し、案内する。

二五A宣伝班にて、中島健蔵、大久保班長に会う。

(略)

登場する人物の一部について補足してみよう。

・宮田毬栄『忘れられた詩人の伝記ーー父・大木惇夫の軌跡ーー』(中央公論新社平成25年4月)によると、大木らジャワ派遣された文士が乗った佐倉丸は、17年3月バンタム湾入口で撃沈され、海中に飛び込んだ大木らは漂流後救助された。この日記に登場する同年8月は、『海原にありて歌へる』の後書をバタビヤの宿舎で書き上げたという。翌9月下旬には現地除隊という形式で、新聞社用の極秘の特別機により帰国している。この日記は、短期間しかジャワにいなかった大木の動向がわかる貴重な記述である。

なお、ジャワ派遣されたメンバーは日記に挙がっている文士のほか、大宅壮一小野佐世男らがいる。また、「博物館」はわしも愛読した『思い出の昭南博物館ーー占領下シンガポールと徳川侯ーー』(中公新書昭和57年8月)で知られる昭南博物館である。

鶴見俊輔加藤典洋黒川創『日米交換船』(新潮社平成16年3月)によると、交換船でシンガポールに到着した翌日の17年8月10日前田と鶴見祐輔の子供である鶴見和子・俊輔姉弟らが陸軍の南方総軍軍政顧問だった永田秀次郎を訪問している。

いやはや、この一日の記述だけで十分1000円の価値がある饅頭本である。最後に、同じく元満鉄調査マンで戦後国会図書館に勤めた枝吉勇の「照丸君との因縁」から引用しておこう。

彼は一時シルバーという小型ラジオの会社に関係し、貿易関係の援助などしていたが、その会社が閉鎖してからは翻訳生活に入ったようである。(略)国会図書館から彼のためにこっそり持ち出してやった字引きを片手に、ポーランド語のランゲの大冊を訳し*1おおせもしたし、数々の大冊や短文を手がけていた。

日米交換船

日米交換船

*1オスカー・ランゲ、都留重人監修訳『社会主義体制における統計学入門』(岩波書店昭和29年12月)

2018-04-19

最初期の仏教唱歌集、西村義嶺編『仏教唱歌』(井上教山、明治23年9月)

三密堂の100円均一コーナーで何度か見かけて、どうしようと思っていたが、仏教唱歌集としては、古そうなので買ってみた。西村義嶺編『仏教唱歌』(井上教山、明治23年9月)。奥付を含めて11頁の小冊子。編輯者西村の住所は奈良県大和国式下郡都村で、肩書は「融通念仏宗観学林所化」。発行者井上の住所は、大阪府河内国渋川郡長瀬村で、肩書は西村と同じ。

「著言」には、

此ノ冊子ハ仏教法義ノ概略ヲ唱歌ニ記述シ偏ニ児女子ノ為ニスルモノニシテ其ノ深玄ナル理趣ニ至リテハ僅々数葉ノ盡ス所ニ非ズ志アル人ハ請フ広聖典ヲ閲覧セバ大ニ自心ニ得ル所アルベシ

とある。内容は、加藤恵証作の唱歌が4曲*1、西村作の唱歌が5曲*2、作詞者の記載のないのが1曲*3である。一つだけ「仏教徳育」という曲を紹介すると、

宗の教へも種々ありて 何れも勧善懲悪の 教へに違ひは無れども

耶蘇教などは実学の 規則に背くこと多し 仏教ばかりは学問の

実理に恊ふのみならず 千五百年以前より 国の教へと定まりて

(以下略)

さすがキリスト教の讃美歌に対抗してできた仏教唱歌にふさわしい内容である。楽譜はないので、実際どのように歌ったのかはわからない。

表紙には、「(非売品)」「仏教唱歌」「印施」と印刷のほか、「上□/八尾進々館*4」の印が押されている。裏表紙には、「大阪市東区平野町四丁目 日進堂 印行」と印刷のあるほか、墨で「明治廿四年」「代価代八厘」「山上安之進」などの書き込みがある。

飛鳥寛栗『それは仏教唱歌から始まった』(樹心社、平成11年12月)には、

明治22年浄土宗の岩井智海が、東京で「仏教唱歌会」を結成し、『仏教唱歌集・第一編』(法蔵館明治24年)などを発行

明治23年名古屋の法雨協会が『法雨玉滴』に発表した「法の深山」は大好評で全国に広がった。

組織的な出版の外に、明治17年東京五明社より曼陀羅居士が『通俗日本仏教軍歌』、明治25年広島熊谷智教が『仏教真理会唱歌集』を出版、同年下野仏教教和会(宇都宮町)が加藤精一郎『仏教唱歌集』を発行

などとある。明治23年発行の本書は言及されていないので、仏教唱歌集としては知られざる最初期の物であることがわかる。

*1:「徳育の必要」「宗教徳育」「仏教徳育」「国粋の保存」

*2:「仏教の紀[ママ]原」「説教の順序」「仏教の伝来」「仏教の利益」「四句之仏偈」

*3:「唯心所造」

*4明治19年から21年にかけて朝日新聞に、河内国八尾寺内表町の諸新聞雑誌大売捌所、官庁御用書籍大売捌などとして広告が掲載されている。

2018-04-17

戦時下に蔵書目録を自費出版しちゃう慶應出身の阿部貢

阿部貢『道楽巡礼』(阿部貢、昭和19年10月)。限定版100部の内の第45部。これもリーチアートで。ん千円もして、何度か見送ったのだが、どこの図書館にもなさそう、戦時中の自費出版愛書家の蔵書目録、うかうかしてると「ぬりえ屋」さんが買っちゃう、ということで買ってみました。和装本、64頁。「あとがき」によると、

(略)いろいろと考へた末に、和紙のみ使つた私家本を作つてみたくなつた。ところが、和紙統制下の今日では、やたらに入手出来ぬ。之れ亦一と工夫の末、越後小出産の楮百パーセントと云ふ、金や太鼓で探しても買えぬやうな立派な和紙が、短時日の間に漉いて貰えることになつた。(略)之れ一重に畏友青塚君のお蔭である。(略)

このような私家版については、出版社による発行ではないので、日本出版文化協会(昭和18年3月から日本出版会)による統制がなく、別の統制があるとは思っていなかったが、小林昌樹「古本社会主義!:戦時における本の価格表示(停)マルテイと(公)マルコウ 付論:奥付における著者略歴記載の制度的起源」『文献継承』32号によると、「非営利出版(自費出版)や、手帳、日記帳の類は、1941(昭和16)年10月27日に成立していた「日本印刷文化協会」(会長・増田義一)が用紙割当の審査をしていたらしい」とあって、驚いた。

本書の内容は、

道楽巡礼」・・・自らの道楽人生を振り返ったもの。昭和6年頃から最初の道楽としてレコード。次に写真。逗子の海岸で終日、海水着の女性群を百枚以上も撮影したことがあったという。『コンタツクスの上手な使ひ方』(盛林堂、昭和12年)を出版したこともある。次は昭和13年からのゴルフ。そして昭和15年頃からの書物道楽福澤諭吉徳富蘇峰著作が蒐集の中心。

「愛書の窓」・・・蔵書目録。冒頭に「愛書四喜」と題して、

一、蒐めて喜ぶ

一、眺めて喜ぶ

一、読んで喜ぶ

一、語つて喜ぶ

と書かれた紫色の小さな紙が貼付されていて、しゃれている。「福澤諭吉先生関係書目」60冊、「夏目漱石関係書目」17冊、「徳富蘇峰関係書目」約120冊、「評伝及回顧録」38冊、「史論及外交関係書目」70冊、「政治経済関係書目」54冊、「美術及光画関係」59冊、「随筆・評論・雑書」約180冊、「追補」15冊。

「あとがき」・・・前記のほか、印刷は学友の戸根木が、カットは村上秀隆が引き受けてくれたとある。

この阿部、福澤諭吉を先生と呼んでいるので、慶應出身だろうと思ったら、正解だった。『塾員名簿』(慶應義塾昭和17年12月)によると、原籍山梨昭和2年経済科卒で理研コランダム会社支配人。住所は世田谷区経堂で一致しているので同一人物である。

阿部は、「道楽巡礼」の最後に「現在の戦争下では、細々ながらも読書の道を歩むより外に、致し方がないかも知れない。凡ては戦争が終つてからと云ふことにならう」と書いている。まさか敗戦とは予想していなかったであろうが、戦後も書物道楽巡礼ができたようで、「ざっさくプラス」によると、『愛書趣味』復刊2号(青山督太郎、昭和24年2月)に「あの頃この頃(古本屋風景の今昔)」を執筆している。

jyunkujyunku 2018/04/20 06:24 そうでしたか。全然知りませんでした。
『日本古書通信』が置いてある頃は、ここか京阪書房で買っていたので、ちょくちょくのぞいていたのですが、置かなくなってからはあまり行ってませんでした。移転後入りやすくなり、紙物や絵葉書などで面白いものを見つけております。
コメントは念のため非公開にしておきます。

2018-04-15

[]青田寿美『蔵書印の話』を夢見る頃ーー小谷方明『蔵書印の話』を読んでーー

昨年移転した阪急古書のまちは、特にリーチアートが入りやすくなった。小谷方明『蔵書印の話』(和泉郷土文庫、昭和22年5月)はそこで見つけた一冊。国会図書館になし。

内容は、「日本の蔵書印」、「蔵書印の歴史」、「蔵書印の使ひ方」、「蔵書印文の種類」、「蔵書印の形態と書体」、「蔵書印の印材と印肉」、「白水石工房の蔵書印」と題した文章のほか、「和泉郷土館印」、「和泉郷土文庫」などの印影である。「蔵書印文の種類」では、堤朝風の「第一と第二のゆひもてひらくへし、よみたるさかひにをりめつけ又爪しるしする事ならぬ」や長澤伴雄の「我死ナハウリテ黄金ニカヘナヽムオヤノ物トテ虫ニハマスナ長澤伴雄蔵書記」などを紹介している。なんとも長い蔵書印である。和紙で10頁ほどの小冊子、印刷は松本市の石曽根民郎。

小谷の経歴は、『大阪春秋』20巻3号(大阪春秋社、平成3年10月)野堀正雄「追悼小谷方明*1先生ーー郷土史民俗研究から民具研究へーー」によると、

明治42年5月19日 現堺市豊田

昭和5年 立命館大学専門部中退。「和泉郷土文庫」を邸内に設ける。

6年5月 『郷土和泉』創刊

7年5月 『和泉古瓦譜』を和泉郷土文庫叢書第一輯として出版

8年 宮本常一和泉里談会結成

9年10月 柳田國男指導のもと大阪民俗談話会開催

14年 『大阪府民具図録』(和泉郷土文庫第二輯)出版

46年 小谷城郷土館設立

57年 『大阪の民具・民俗志』出版

また、編集部が『大阪春秋同人近畿民具学会会長の小谷が平成3年8月2日亡くなったことや戦前の雑誌『上方』の執筆者の数少ない生存者だったことを付記している。小谷城郷土館は現在も堺市で開館していて、民具、古瓦、須恵器のほか、川崎巨泉の版木・版画もあるようなので、一度行ってみたいものである。→ホームページ小谷城郷土館

なお、小谷は、板祐生の孔版蔵書票の会会員でもある。「日本の古本屋」で呂古書房が出品しているが、石曽根民郎『蔵書票の話』(白水石工房、昭和21年)には小谷作の木版蔵書票が貼り込まれている。

ところで、「蔵書印」を「国会図書館サーチ」で検索してみたが、蔵書印に関する一般向けの著作はないようだ。岩波新書あたりにあってもよさそうなもんだが。青田寿美先生に岩波新書(中公新書もよさげ)から『蔵書印の話』というような本を出してもらいたいものである。

*1:ルビは「こたにみちあきら」。

2018-04-12

[][]満洲唐木順三スメラ学の前波仲尾

古田晁臼井吉見とともに昭和15年筑摩書房創業した唐木順三の評伝である澤村修治『唐木順三ーーあめつちとともにーー』が、昨年ミネルヴァ書房から刊行された。読んでみると、トンデモネタがあって驚き。唐木は、昭和5年5月三木清の斡旋で満洲教育専門学校に教授として赴任。校長は前波仲尾(まえは*1・なかお)と言うが、本書には次のようにある。

満洲教育の校長は前波仲尾という老人だった。正規の学歴をふまず独学で勉強した努力家で、偏屈であるのと同時に反骨精神も旺盛。博識があり常に一家言を持っていた。ただしとにかく風変わりで、たとえば、古事記トルコ語による解釈をして唐木を驚かせている。日本語はスメール語の影響下にある、という前波独自の説からであった。(略)

いや、驚きました。そんな人が満洲にいましたか。この前波、皓星社の『日本人物情報大系』12巻収録の『満蒙日本人紳士録』(満洲日報社、昭和4年5月)で経歴がわかる。要約すると、

前波仲尾 満洲教育専門学校々長

慶応3年3月生、本籍地福井市

明治25年姫路師範学校長を振出しに教育者としてスタートを切る。

盛岡中学校長、鹿児島川内中学校長、佐賀県鹿島中学校長、神戸甲南高等学校教頭歴任

大正12年三省堂の切なる嘱望により編集顧問として赴任。

昭和4年1月渡満して満洲教育専門学校長に就任。

30年前最初の口語文法を出版。また、クラウン・リーダーは氏の案よりなり、我が国において最初にフオネティックサインを英語教授に適用。常に時代より一歩先を歩み、教育事業に深い造詣と高遠なる識見と真理のためには敢えて戦を辞せざる意気と熱とを有す。

知る人ぞ知る教育者だったようだ。なんと、くうざん先生も関心を持つ人である。→ブログ「くうざん本を見る」の「尾と子

スメラ学塾の小島威彦が唐木に接触したことは、「スメラ学塾より筑摩書房編集顧問を選んだ唐木順三」で言及したが、その前にこのような人にも出会っていたわけだ。前波の『復原された古事記:改装復刻版』(復原された古事記刊行会、昭和63年)は持ってないが、古書価は高いようだ。

*1:澤村著の167頁のルビによる。くうざん先生が入手した仲尾の息子仲子著の『改訂増補/女性寶鑑』(京北書房、昭和24年3月12刷)によると、「まえば」が正しいようだ。