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神保町系オタオタ日記

2017-02-17

北方人』26号(北方文学研究会)が届く

盛厚三氏より『北方人』26号(2017年2月)を御恵投いただきました。いつもありがとうございます。

目次は、

創作/「鏡」のおんつあま 通雅彦

創作/理想郷チルワツナイ() 哀神シュナイダー

随想/色紙について 池内規行

評論/釧路湿原文学史(7) 盛厚三

書誌/装丁挿話(2) かわじもとたか

編集後記 K

表紙画・カット ホイッスラー・川地ポン

「色紙について」には、青山光二・長篠康一郎・山下肇・山岸外史・出隆・野長瀬正夫・大木実・真壁仁・坂村真民・船山馨・黒岩重吾藤本義一今西祐行が登場。池内氏が好きな詩人は野長瀬正夫、大木実、杉山平一の順だという。

釧路湿原文学史」は、昭和40年代へ。早舟ちよ・倉橋由美子加藤秀俊・後藤紀一・木山捷平開高健・福田蘭童・小松左京・吉田仁麿らが登場。

装丁挿話」は、甲斐荘楠音、杉浦非水、佐藤敬横尾忠則村上春樹篠原勝之、櫻井忠温、三浦勝治、三橋節子、山高登、朝倉摂、吉田貫三郎らが登場。拙ブログの「口笛文庫で横尾忠則人生初の装幀本『近畿文学作品集」を確保」にも言及していただいた。かわじさんは、『続・装丁家で探す本』を執筆中で、本稿はその一部とのこと。完成を期待しております。なお、九濃文庫(たつの市)の吉田純一氏が数年後に生誕100年記念の小沼丹展を開催するべく準備中との情報も記されている。

お知らせとして、「三上於菟吉顕彰会へのご案内」が掲載されていた。平成33年に生誕130年を迎える三上について、生誕地である埼玉県春日部市三上於菟吉顕彰会が誕生したとのこと。

2017-02-16

科学者羽太鋭治を殺した宮武外骨

木本至*1『評伝宮武外骨』(社会思想社昭和59年10月)によると、外骨は二階堂招久『初夜権ーーJUS PRIMAE NOCTISの社会学的攻究』(無名出版、大正15年4月)の版権を南海書院(代表近藤久男)に売ったが、同社の出資者である羽太鋭治の「精力増進回春秘薬キング・オブ・キングス」の宣伝に利用されたと知り憤怒したという。そして、外骨は『書物展望』昭和9年2月の「抗議」に次のように書いたとある。

予は近世雨後の筍の如く簇出するデモ文士イカサマ原稿屋の多いのが癪に障り、何等の素養もなく、廉恥心もなくて、他人の著作物を無雑作に剽窃する不埒な奴を黙過せず、 懲を加へる目的で、近年来偽作者羽太鋭治、近藤久男(中略)等に制裁を加へ

木本氏は「どのような「制裁』を加えたのか」と書くだけで具体的な「制裁」については言及していない。ところが、三田村鳶魚の日記にそれに関する記述があった。

(昭和三年)

三月十二日(月)

藤沢清造氏の添書にて金沢啓助といふ人来訪、羽太某の名にて初夜なにとやらを書きたる本人也、艶道通鑑を孫引せしを、宮武外骨より版権訴訟を以て脅され、其書は如何なるものかといふ問案なり。

金沢啓助」は羽太鋭治と共著で『生殖器学全書』(大日本メイル株式会社出版部、大正8年2月)を書いた金沢と思われる。そこでの肩書きは「衛生世界主筆」である。『衛生世界』は明治新聞雑誌文庫が所蔵していて、大正3年10月創刊、発行は衛生世界社である。また、「日本の古本屋」に同誌3巻10号(大正5年)が出品されている情報によると羽太が同誌主幹である。なお、「ざっさくプラス」によると、金沢は『文藝市場』大正15年8月号に「思想史に現はれた精液」を執筆している。

日記中の「初夜なにとやら」は羽太の『性愛技巧と初夜の誘導 附.避妊の要領』(南海書院、昭和2年10月初版・同年11月5版)*2と思われるが、日記の記述によると金沢ゴーストライターだったようだ。この本は外国の事例・研究の紹介が中心だが、幾つか日本の状況についても言及されている。たとえば、

・「日本にも在つた初夜権の遺風」では、淡路島奥州大分県臼杵町、豊後国日出郡夜明村の事例が紹介されている。

・「女性の臀部に対する性的憧憬」では、元禄以前は一般に大きい臀が愛されたとして、西鶴を引用している。

・「貝原益軒の性愛衛生訓」では、貝原の『養生訓』を引用している。

木本氏によると、羽太は昭和3年12月末に「キング・オブ・キングス」で医師法違反に問われ、損害賠償問題まで発生し窮地に立ち4年8月に自殺、「外骨の「制裁」が、この死に至る経緯に多少の関りがありそうである」としている。『艶道通鑑』は正徳5年刊行のようで、そこから「孫引」したとしても「版権訴訟」が成立するのか疑問だが、多少は自殺へ追い込んだ一因になったかもしれない。

ところで、日記中の「藤沢清造」は昭和7年1月にのたれ死にする私小説家、劇作家藤沢と思われるが、金沢とはどういう関係だったのだろうか。西村賢太氏なら何か御存じかもしれない。

*1:昭和12年群馬県生まれ。『出版ニュース』に「ブック・ストリート 古書」を連載中。

*2:昭和2年11月7日付け5版は同月8日発禁となり、同月20日改題改訂版を『性愛研究と初夜の知識 附.避妊の要領』として出したようだ。

2017-02-10

「発禁本」三田村鳶魚瓦版のはやり唄』をめぐる謎

京都古書会館で図書週報編輯部編『明治大正発売禁止書目』(古典社、昭和7年7月)を拾う。52頁、1000円。ただし、金沢文圃閣の『図書週報ーー昭和前期書物趣味ネットワーク誌ーー』第10巻中に復刻されている。この中の大正15年8月の欄に「8*1三田村鳶魚 瓦版のはやりうた[ママ]」(初版)春陽堂」があがっている。「本書の見方」によると、「○」が「治安上の禁止」を、「初版」とあるのは「改訂版等が許可されて出版されてゐるもの」を示しているという。この三田村の『瓦版のはやり唄』について調べてみた。

まず、他の発禁本目録を見てみよう。赤間杜峯編『禁止本書目』(赤間耕文堂、昭和2年6月)には「風*2 瓦板[ママ]のはやりうた[ママ]初版」とあるが、斎藤昌三編『現代筆禍文献大年表』(粋古堂書店、昭和7年11月)には記載がない。結局、『禁止単行本目録 自明治二十一年至昭和九年』(内務省警保局、昭和10年)に記載がないことから、正式な発売頒布禁止処分は受けなかったと思われる。ところが、発禁になったと書いてる本が他にもあった。集古洞人編『奇書輯覧前編』(中野隆一、昭和12年3月)*3は「大一五・七(初版発禁)」とし、解説は、

昔からのはやり唄集である。

初版にも多少伏字あり又原文不明で欠字の箇所もあるが遂に発禁となり、不当の頁を切取って新らたに刷替へて此肩に貼付した改訂版が出てゐる。

奥附には大正十五年七月二十五日発行、同八月一日三版となってゐるのは初版のとき既に記された政策的の記載と思はれる。後の改訂版には前記の貼付及一〇一頁より一〇五頁三行迄欠除され頁取は其侭となってゐる。

奥付上の初版が存在せずに三版からスタートしたと読めるが、実際は初版は存在する。無削除版は未見だが、削除版の7月25日付け初版は101頁から104頁が欠で、105頁冒頭に「「女づくし見立十二ケ月世さ聲ぶし」此の項が其筋の注意により一〇一頁より一〇五頁三行目まで全部削除」とある。105・106頁は切り残った紙に張り付けられている。8月1日付け3版も同様だが、初版のように105・106頁を貼り付けた痕跡は明確ではない。

さて、三田村鳶魚全集には日記が収録されているので、この時期の状況を見てみよう。

(大正十五年)

七月十六日(金)

(略)◯春陽堂より瓦版のはやり唄二千部に調印を求む。(略)

七月二十二日(木)

(略)◯瓦版のはやり唄新刊五冊、島持参、坪内、山崎、高野、吉田[、]河竹、坂上、園池諸家へ発送を頼む。◯池田氏新刊一冊、鶴岡氏へ散歩ながら持参(略)◯当方より直に新刊を呈上せし分、池田、鶴岡、敬録諸氏。*4

七月二十八日(水)

(略)不在中、島来り、瓦版はやり唄発売禁止になりたりと申しおく。(略)

七月二十九日(木)

電話にて聞合せたるに、発売禁止に相違なし、一昨日池田氏の話に交渉中なれど禁止にはなるまじと聞きしに、さもなかりし也、自著中斯事になりたる是のみなり、其後当局へ懇談し一部分を刪除して売出すこと落着す、それ故印税百円だけ減少を求め来る*5、変な話なり、御苦労賃に半分も遺すべし(略)

七月三十日(金)

(略)◯春陽堂より新刊十冊所寄(略)

七月三十一日(土)

(略)◯山田氏より使价、内室所望により新刊一冊進呈。(略)

全集の編集後記には「発売禁止となったが、一部削除で落着した」とあり、日記の記述も発禁になったが、削除版の発行を認められたように読める。そもそも発禁+削除版の発行の場合と発禁になるべきところを削除処分で許してもらった場合でそんなに違いがあるのだろうか。

別の問題もある。三田村は7月22日春陽堂の島源四郎から本を受け取っているが、発行日である同月25日の3日前で、内務省への納本期限日であり、この日に納本されたのだろう。内務省には無削除版と削除版が納本され、削除版の副本は帝国図書館に交付(いわゆる内交本)されているはずなので、国会図書館所蔵本を見てみると・・・

私が見た削除版と同じく、101頁から104頁は欠で、105頁冒頭には同様の注意書きがある。デジタル画像のせいか、貼り付け跡は確認できない。そして、奥付を見ると驚いた。発行日が訂正されていることは予想していたが、予想していた初版と三版の間の日ではなく、8月7日印刷、8月10日発行となっているではないか。削除版初版の正式な発行日は大正15年8月10日ということになる。『奇書輯覧』が示唆するように、初版と日を置かずに3版を発行、3版も含めて貼り替えて、8月10日に発行したということか。そうすると、7日30日に春陽堂から来た「新刊」や同月31日に人に進呈した「新刊」は無削除版だということになってしまうが、そんなことがあるのだろうか。なお、この時期に三田村の新刊は『瓦版のはやり唄』だけと思われる。

私は無削除版は見ていないが、坪内逍遙らに無削除版が渡っているとすれば早稲田大学図書館や坪内博士記念演劇博物館所蔵本は無削除版かもしれない。城市郎はどうかなと別冊太陽『発禁本』(平凡社、平成11年7月)を見ると、これまた驚いた。無削除と伏字の両方の126・127頁の写真が出ていた*6。問題のある頁の切取り・注意書きで対応した箇所と伏字で対応した箇所があったということになる。研究者ではない私にはこの『瓦版のはやり唄』は中々難問で、そのうち誰かが論文を書いてくれることを期待しよう。

*1:「本書の見方」には「禁止年月順に排列したが発行年月に拠つた分もあ」るという。

*2:風俗壊乱だが、処分理由としてこちらの方が正しそうだ。

*3:これまた金沢文圃閣から『性・風俗・軟派文献書誌解題集成ーー近代編』第3巻として復刻されている。

*4:「坪内」以下は、坪内逍遙山崎楽堂、高野辰之、吉田吉五郎(吉田書店)、河竹繁俊、坂上道、園池公功、池田孝次郎、鶴岡春三郎、高野敬録(中央公論社)と思われる。

*5印税の減額に言及されていて貴重な資料である。なお、島源四郎「出版屋小僧思い出話(4)三田村鳶魚さんと江戸川乱歩さんのこと」『日本古書通信昭和59年10月号によると、三田村の『御殿女中』(春陽堂、昭和5年6月)の印税は2割だったという。

*6:城の『発禁本百年』(桃源社昭和44年2月)では、なぜか発行日が10月25日になっている。

2017-02-08

[]原始藝術品蒐集者にして幼年美術研究者だった宮武辰夫のもう一つの顔

ツイン21の古本市で見つけた『民族と郷土』陽春号(民族と郷土社、昭和22年4月)。28頁、500円。民族と郷土社は、大阪府箕面牧落に所在。所蔵する図書館は皆無か。表紙は雪原にうづくまる裸の女性の写真。キャプションには「春の流水に祈るアラスカの娘」とある。表紙には他に「FOLKS」、「郷土は民族の乳房であるーー」などと書かれている。カストリ雑誌の類いかと思いきや、中を見ると世界の「裸形民族」や賭博の王国モナコ、世界子守り百態、栃木石像など世界各地の民族、風俗を紹介する写真が満載で、真面目な雑誌であった。あまり面白そうな内容ではないが、表紙に「主幹宮武辰夫」とあって宮武外骨と関係があるかもと購入。

調べてみると、外骨とは無関係だったが、原始藝術や幼児美術教育の研究者としてその筋では割合著名な人であった。『日本新教育百年史』7巻(玉川大学出版部、昭和45年8月)と宮武の『保育のための美術』(文化書房博文社、昭和54年1月)から経歴をまとめてみると、

宮武辰夫(みやたけたつお)

明治25年 高松市

大正4年 高松中学を経て、東京美術学校(現東京藝術大学)洋画科卒業

大正5年から6年まで 函館高等女学校で美術科の教師

大正8年から10年まで 欧米に遊学して原始美術の研究を志し、特にアラスカ地方において、エスキモー民族の藝術を研究。

昭和8年から9年、17年から18年にかけて、現住民族の藝術探査と原始美術研究のため、世界各地を行脚して、直接原住民と生活を共にしながら研究を進めた*1

戦後 西宮に幼年美術研究所を開き、幼少年の絵画・造形美術の指導をするとともに、聖和女子大学などの講師として指導者の養成につくした。

昭和35年9月24日 没

コレクターとしても著名だったようで、伊達俊光『大大阪と文化』(金尾文淵堂、昭和17年6月)に関西の美術品コレクターの一人として紹介されている。それによると、「府下箕面、牧落の丘上に昭和十一年冬新屋を築き、その屋内にアラスカ以来の原始藝術品を収めてゐる」という。

宮武が集めた原始藝術品は昭和15年4月から『原始民藝図集』(世界原始民藝図集刊行会)として刊行され、不揃いではあるが国会図書館のデジタルコレクションで見られる。その別冊第1巻4頁が、本書の表紙に使われたアラスカの女性の写真である。ちなみに「日本の古本屋」では山崎書店が揃いを8万円強で出している。

さて、宮武と同じく香川県出身で画家の林哲夫氏に『喫茶店の時代』(編集工房ノア、平成12年2月)という本がある。版元品切れ中のようなので、ちくま文庫あたりで増補改訂版の刊行がまたれる。実はこの名著で宮武の知られざるもう一つの顔がうかがえる。東京市内のカフェー、バーの盛況の始まりとして、白木正光編『大東京うまいもの食べある記』(丸ノ内出版、昭和8年4月)が引用されている。

(略)昭和の初め頃、欧州を一周して歸つた、これも美校出の洋畫家宮武辰夫氏が、巴里の酒場の印象をその儘、東京人にもゆつくり落着いて酒の味を享楽させたいと云ふので、銀座松坂屋の横にユング・フラウと云ふ小い酒場を初めたのが、そも\/今日のカフェ、バーの最初です。(略)非常な評判になり、文壇人等も盛んに通ふやうになつて忽ちにして銀座の内外に、これに似たバーが雨後の筍よろしく現はれたのです。

という。宮武は日本カフェー史上も重要な人物であったようだ。この宮武のコレクションはどうなっているのかとググってみると、東南アジア民俗資料は豊雲記念館(神戸市)に寄贈されたが同館は閉館したようだ*2。どこかのミュージアムで宮武に関する展覧会を開催してほしいものである。

喫茶店の時代

喫茶店の時代

*1:この他、渡航時期については、『日本美術年鑑1931』(東京朝日新聞発行所、昭和5年12月)には「昭和元ー三外遊」とある。

*2:この他、鎌田共済会郷土博物館(坂出市)が台湾現住民族の生活用具を所蔵している。角南聡一郎「宮武辰夫の蒐集と台湾現住民族」『郷土博通信』6号(鎌田共済会郷土博物館、平成27年10月)参照。

2017-02-07

フランス文学志向だった今村新吉博士

加藤一雄京都画壇周辺』には、千里眼事件の今村新吉博士らしき人が出てくる。

因に言えば京大医学部は今村真吉博士の影響によって微かながらフランス趣味が漂っていた。今村さんは精神科の講義の時に、よく言ってたそうである。「おれの講義なんか聴くよりも、ゾラの小説を読みたまえ」と。後年私は寺町通りの古本屋ゴンクールの「十八世紀の婦人群像」を買い、この本に今村真吉文庫の印が捺してあるのを見て、感激した憶えがある。

「今村真吉」は今村新吉ではないか。今村はドイツオーストリアに留学しているが、ドイツ文学ではなくフランス文学が好きだったようだ。戦後サルトル全集が大当たりする人文書院の名付け親でもあった今村だが、同社二代目の渡邊睦久に影響を与えたというようなことはあるのかな。

2017-02-04

京都市立美術工芸学校教諭の平野久吉

ぞの感化で最近は葉書にも手を出している。と言っても、絵柄よりも発信人や受信人が面白そうな絵葉書官製葉書に関心がある。昨年入手したのは、京都市内に住んでいた平野久吉宛絵葉書を三枚。全然知らない人だが、一枚に「京都市立美術工芸学校平野先生」とあったので購入。今回紹介するのは、中島卯一郎から「市内八条通堀川東入ル」の平野久吉宛で、大正9年7月30日付けである。絵柄のキャプションには「(安房名勝)船形港の漁船生活」とある。文面は、暑中見舞。

この平野だが、てっきり画家だろうと思っていたが、調べてみると、国語の先生である。それも國學院出身であった。加藤一雄京都画壇周辺 加藤一雄著作集』(用美社、昭和59年10月)に次のようにある。

こんな有様の中で、私は国語科担当の老教員平野久吉さんとだけはかなり快活に話をしていた。ああ京都画壇のどんなに多数の画家達が、この小芋とアダ名のついた温和な老人を懐しく思い出すことだろう。(略)折口信夫さんの兄さんの古子さんはわが亡父の友達であって、信夫さんも時々兄さんと一緒に私の家に遊びにきていた。(略)殊に信夫さんは国学院の出身である。平野さんも亦この学校を出た。

加藤は同書の略歴によると、昭和9年から京都市立絵画専門学校助教授となり、京都市立美術工芸学校教諭を兼務していた。一方、平野は『百年史 京都市立芸術大学』(京都市立芸術大学、昭和56年3月)によると、明治44年4月18日*1から昭和20年4月31日まで「美工」の教諭であった。

発信人の中島だが、同書によると大正14年3月京都市立美術工芸学校絵画科卒、昭和8年3月「絵画専門学校、美術専門学校研究科」修了である。「ざっさくプラス」では、「<<展覧会出品写真版>><菊池塾第八回展>*2岡『塔影』8巻6号昭和7年6月」がヒットする。より詳しい経歴は、中島悠翠でググると出ているが、明治40年京都生、菊池契月の弟子で、没年不明らしい。絵葉書を出した大正9年当時は既に美術工芸学校の生徒だったのだろう。

現在京都新聞一面では、松尾芳樹「京都芸大 美を語る」の連載中である。京都芸大の前身の一つである美術工芸学校の様々な関係者が登場するが、平野や中島は登場しそうにもない。しかし、こういう無名の人というか半有名人こそ調べると色々わかって楽しいものである。

京都画壇周辺―加藤一雄著作集

京都画壇周辺―加藤一雄著作集

*1京都府立総合資料館の「京の記憶アーカイブ」で検索すると、明治44年4月18日付けの辞令がヒットする。

*2:『日本美術年鑑1931』(朝日新聞社、昭和8年1月)によると、菊池塾第八回展は昭和7年5月3日から5日まで京都御池美術倶楽部で開催。

2017-02-01

四千冊集めた古書目録コレクター呉峯とは?

『百年一趣』上・下(土俗趣味社、昭和21年)、五千円出した甲斐があったようだ。呉峯生「古本販売目録に就いて」というのが載っていた。所蔵の古書目録を分類していて、地域別古書店数調では355店、地域別冊数調では総数4104冊(3792冊+即売会案内等312冊)、年別分布図では明治26年発行の2冊など明治期が10冊、大正期が138冊、昭和期が3522冊、年号なしが110冊*1である。今なら場所さえあれば数年で四千冊の古書目録を集める人はいるだろうが、戦前にそれだけ目録を持っていた人はそれほど多くはないだろう。千代田図書館に寄贈された反町茂雄の目録は東京都古書籍商業協同組合の分も含めて約七千冊であった。

呉が目録を集め始めたのは、「元来日本書籍総覧とも云ふべき大望から出発したもの」で、「方法として第一次的には各地の官公立大学図書館と著名文庫の目録とを綜合し、以下第二第三段と実行して行くとすれば、それ程の困難もなさそうに見える」が、「人と金の面で行詰つて居る」という。呉は『国書総目録』のようなものを目指していたのであろうか。

呉が集めた四千冊のうち、自分に送付されたのは千冊で、残りは各地の同好者の好意により蒐集できたという。コレクター同士のネットワーク、恐るべしである。

さて、この呉の正体がわからない。

(略)本職の研究では趣味と縁遠いし「科学史」の研究には目鼻もついて居ない、「書誌学」に至つては大家名家が雲の如く集つて居られるから恥を書くだけに過ぎない。

として、本稿を寄稿したという。先行文献として、昭和9年中に古典社に寄贈された古書目録の月別発行数などを示した『古本年鑑』昭和十年版(古典社、昭和10年11月)を挙げているが、同社の『特選蒐集家名簿』(昭和10年3月)に名前はなかった。

なお、『こぼれ梅』(加藤駿、明治34年5月)に呉峰生「吾人か推薦すべき者」が載っている*2伊丹人士諸君に推薦するのは、社会の反射たる新聞紙であるというものである。同誌は伊丹高等小学校の同窓会誌のようなので、同一人物だとすると、伊丹出身かもしれない。

古書目録コレクターの呉さん、あなたは一体何者ですか?

*1:合計すると3780冊だが、総数3792冊と合わない。

*2:『こぼれ梅』1号(関西青年会、明治35年5月)には呉峯「重盛論」が載っている。

shomotsubugyoshomotsubugyo 2017/02/01 18:08 『こぼれ梅』巻末会員リストから次の人物が怪しいと調べたが、蒐書家リスト類にもざっさく類にも出ず(´・ω・`)
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東京通信社 加藤駿
大阪薬学校 八竹増造
東京帝国大学工科 前田復三
大阪医学校 有光豊馬
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jyunkujyunku 2017/02/01 18:31 ああそうか、会員名簿に名前がないのは変だなあと思ったが、筆名の可能性はあるなあ。あとは、『土の香』の方に何か出てるかもしれん。