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神保町系オタオタ日記

2017-03-21

藤澤清造根津権現裏』をめぐるテキスト・ヴァリアント

藤澤清造根津権現裏』(新潮文庫平成23年7月)の西村賢太氏による解説に気になる箇所があった。『根津権現裏』は日本図書出版*1から大正11年4月に刊行されたが、無削除本と検閲により2頁分が削除され、その旨が印刷明記した紙片が貼られた削除本があるという。更に、

そして無削除本の初手の寄贈本の中には、清造自身が赤ペン、乃至鉛筆を用い、伏せ字部分を起こしたものが数種現存している。で、これを合わせると都合三種と云うことになるのだが、更にはどう云うわけか、伏せ字箇所が本によって違っていたり、また伏せ字を示す““×ד“の数が異なっているものも数種確認済みである(略)。

という。これは、面白そうだということで、調べてみた。

まず、削除本だが国会図書館デジタルコレクションで見られる。たしかに101頁・102頁に当たる所は白紙に「此処二頁(第百一頁/第百二頁)削除」と書かれた紙片が貼られているようだ。奥付は大正11年4月1日印刷、大正11年4月5日発行。これは無削除本の発行日と思われるが、本来は削除本を内務省納本した時に訂正すべきものだが訂正されていない。また、「大正/11.4/内交」のスタンプが押されているので、内務省から帝国図書館に副本が大正11年4月中に交付されたことがわかる。

無削除本は京都府図書館が所蔵している。101頁・102頁は切り取られていない。ただし、伏字が6文字分ある。新潮文庫版90頁で「強姦のされ通しさ」と太字にされている部分で、注に「原文伏せ字」とある。府立図書館所蔵本と西村氏が校訂に使用した本とで伏字の文字数が異なるようだ。この他、府立図書館所蔵本(国会図書館所蔵本も)と新潮文庫版では、前者の98頁と後者の88頁に当たる部分で前者の伏字が後者では伏字になっていない箇所がある。牧義之『伏字の文化史ーー検閲・文学・出版ーー』(森話社平成26年12月)の「第八章誌面削除が生んだテキスト・ヴァリアントーー石川達三「生きてゐる兵隊」からーー」は、「生きてゐる兵隊」が掲載され、発売頒布禁止処分を受けた『中央公論』昭和13年3月号の異版を詳細に比較、流通の実態などを考察したものだが、石川の原稿の到着が印刷間際になり、発行日に間に合わせるため印刷途中で機械を止めては問題箇所の鉛版を削る作業を複数回行った結果異なる本文を持つ号が少なくとも4種類存在するという。『根津権現裏』の場合は、どういう経緯でヴァリアントが発生したのだろうか。

もう一つ面白い事実がある。府立図書館所蔵本には大正11年5月5日に購入されたことを示すスタンプが押されている。無削除本を大正11年5月の段階でも購入できたというのは、警察による押収を免れた本だったのだろうか。それにしても、当時の府立図書館は無削除本を閲覧させちゃったのか気になるところである。本書について、西村氏の解説は三上於莵吉の口利きで上梓の運びになり、発行直後に出版社は破産解散、清算事務の関係から清造が約70部の見本を貰い、その殆どを知友に配ったことは書いているが、検閲の経緯については書いていない。本書は『禁止単行本目録』やその他の発禁本目録に記載はないので発売頒布禁止処分はなく、削除処分だったと思われるが、異版の存在や削除処分に至る経緯などの研究が待たれるところである。

根津権現裏 (新潮文庫)

根津権現裏 (新潮文庫)

伏字の文化史―検閲・文学・出版

伏字の文化史―検閲・文学・出版

*1新潮文庫の「年譜」には、「日本図書出版株式会社(小西書店の別会社)」とある。

2017-03-16

静坐社の足利浄円と仏教児童博物館の中井玄道

先々週東京古書会館で『静坐 自八巻七号至十七巻九号』と背表紙に書かれてバインダーで編綴された雑誌を発見。京都市吉田本町にあった静坐社が発行していた『静坐』の8巻7号(昭和9年7月)から17巻9号(昭和18年9月)までのうち不揃い14冊で1000円、「かんたんむ」の出品である。同誌は吉永師匠らの尽力により国際日本文化研究センターにほぼ完全なコレクションが寄贈されたが、市場にはまず出ないだろうと思って購入。購入した号は国会図書館も所蔵していて、戦前の雑誌の内務省から帝国図書館への交付率は低い筈だが本誌はある程度所蔵していて、ちょっと残念。

パラパラと見ていて17巻9号(昭和18年9月)の「編輯後記」に次の記述を発見。

(略)夏の実習会には二日もつゞけて足利先生御出席、いつもながら尊いお話をあそばして頂き(略)三日目には午後平安神宮へ参拝御庭拝見してから東山をめぐり、最後に中井先生の仏教児童博物館を見学させて頂き先生のおもてなしを受けました。(略)

仏教児童博物館については、「『田代善太郎日記』に風俗研究会や仏教児童博物館、はたまた嵯峨断食道場」などで言及したところだが、へえー、静坐社と仏教児童博物館がつながったと思った。もっとも調べてみるとこれは当たり前。「足利先生」は『静坐』の発起人の一人*1である足利浄円で、「中井先生」は仏教児童博物館館長の中井玄道と思われるが、二人は親しい関係であった。柴田幹夫編『大谷光瑞ーー『国家の前途』を考える(アジア遊学156号)』(勉誠出版平成24年8月)所収の栗田英彦「大正初期浄土真宗本願寺派における教団改革と信仰運動」によると、足利は中井と同じく文学寮(本願寺派教育機関)から高輪仏教大学に進み、終生親交を結んだという。

仏教児童博物館が戦時中も少なくとも昭和18年夏まで開館していたことはこれで確認できた。空襲はほとんどなかった京都市だから戦争末期にも開館していたかもしれない。

(参考)「京阪書房で小林参三郎『生命の神秘』を買ったら『京都新聞』に「静坐社」の記事が

*1:ネットで読める栗田英彦「国際日本文化研究センター所蔵静坐社資料ーー解説と目録ーー」によると、他の発起人は、蜂屋賢喜代、田坂養吉、成瀬無極山辺習学、山口栞、二荒芳徳、清瀧智龍。

2017-03-14

『南木芳太郎日記』に宮武辰夫氏出版記念会

久しぶりに『南木芳太郎日記』を買ってきた。第3巻が平成26年8月に出ていたのであった。解題として、南木ドナルドヨシロウ「南木芳太郎の蔵書印」が付いている。読んでいると、「原始藝術品蒐集者にして幼年美術研究者だった宮武辰夫のもう一つの顔」で紹介した宮武辰夫が出てきた。

(昭和十三年)

一月二十二日

(略)

◯高しま屋孝橋氏より電話あり、宮武辰夫氏出版記念会案内。

(略)

高山辰三君へ来る廿一(ママ)日の宮武辰夫氏記念出版会欠席の返事出す。

(略)

一月二十八日

(略)

予記

午後五時、南海高しま屋にて宮武辰夫氏出版記念会。

(略)

宮武の出版とは、『東印度諸島の怪奇と藝術』(宮武辰夫、昭和12年12月)と思われる。1000部限定の自費出版で、古書価は多少する。同書によると、宮武は昭和11年初秋に日本を出て、東印度諸島を周り、12年7月に帰国している。年譜に現れていない海外渡航がまだありそうだ。

日記中の高山は、『近代日本社会運動史大事典』(日外アソシエーツ)によると、明治25年山形県南置賜郡上長井村生、昭和31年没の歌人新聞記者社会運動家。昭和11年大阪で美術評論誌『美術と趣味』を創刊編集とあるので、宮武とはその関係の知り合いなのだろう*1。ついでに高山の記者歴を調べると、『日本新聞年鑑』大正13年版には、前東京毎日社会部とあり、「新聞歴」は「やまと、大阪日日、報知、大正日日、読売」とあった。また、「思想」は「無政府共産主義」とある。前掲事典には、大正末年共産党員をかくまったため逮捕されたとあるので、確かに共産主義者だったようだ。戦後は、社会党に参加したという。

宮武は関西の趣味人にはよく知られた存在だったようなので、今後も目にする機会がありそうだ。

(参考)「南木芳太郎と『食道楽』の時代

*1:追記:宮武は、『美術と趣味』1巻2号(美術と趣味社、昭和11年12月)に「文展洋画部そゞろ歩き」を、2巻9号(同社、昭和12年9月)に「バリー島の怪奇土俗」を執筆している。

2017-03-12

探偵趣味の会にこぞって入会した春陽堂の関係者

浜田雄介編『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』(乱歩蔵びらき委員会平成16年10月)を読んでたら、大正14年4月に乱歩、春日野緑、西田政治、横溝正史らにより創立された探偵趣味の会に、春陽堂の島源四郎の紹介で斎藤龍太郎ら3名が入会していたことがわかった。乱歩の不木宛同年8月2日付け書簡に、

春陽堂の島氏の紹介で、斎藤龍太郎、池田孝次郎、細田源吉諸君が入会致しました。島氏も入会して居ります。

とある。同書の脚注(以下単に「脚注」という)には「島氏」は「編集者の島源四郎」としかないが、「島源四郎物語」を参照されたい。稲岡勝監修『出版文化人物事典』(日外アソシエーツ平成25年6月)にも立項されていて、より詳しく書かれている。

細田は、脚注によると早稲田大学文学部英文科卒業後、春陽堂入社し、『新小説』『中央文学』の編集に従事。細田も春陽堂社員だったことがわかる。『日本近代文学大事典』によれば、大正4年12月入社、6年辞職。

斎藤は、脚注によると大正10年早稲田大学西洋哲学科卒、12年『文藝春秋』編集同人、のち同社社員となり、昭和15年編集局長云々とある。春陽堂との関係は記されていない。ところが、三田村鳶魚の日記*1によると春陽堂の社員だった可能性がある。

(大正十三年)

七月五日(土)

(略)◯新小説の原稿十日までにと斎藤竜太郎氏より手紙あり、とても。(略)

十一月二十八日(金)

(略)◯斎藤竜太郎氏来り、春陽堂より拙著刊行の所望ありとの相談あり、追て店員来談云々(略)

第2次『新小説』は春陽堂明治29年7月に創刊した雑誌。これだけで春陽堂の社員だったと断定してよいかは疑問で、島が『日本古書通信昭和59年11月号に書いた「出版小僧思い出話(5)」には、

昔、春陽堂で「新小説」を出していた時分、菊池先生と芥川先生に一時編集をお願いしていたんです。その時分菊池先生の門下生というのか、斎藤龍太郎さんと、鈴木氏亨さんの二人が、ほとんど「新小説」の編集事務をやられて、菊池先生がいろいろ面倒を見て下すっていたんです。

とあって、社員という立場とは違うのかもしれない。

池田については、脚注に記載はない。おそらく同一人物と思われる人物が、『文章倶楽部』大正14年1月号の「現代文士録」に出ている。明治24年2月25日日本橋区坂本町生、京華中学中退。「数種の研究、小品、評論等がある」という。現住所は東中野上ノ原。同号の「私の初めて得た原稿料」というアンケートには、『サンエス』という雑誌に「永日」という小説を書いて20円もらったと回答している。また、素人社編『現代俳家人名辞書』(素人社書店、昭和5年12月)には、同じ生年月日で同じ坂本町に生まれた雅号を「痴鵠」という同名の人物が載っていて、「著述業。「土上」同人。砧吟社の世話役」とある。現住所は川崎市幸町。池田も三田村の日記によると、春陽堂の社員だった可能性がある。

(大正十四年)

九月十四日(月)

(略)◯島源四郎、池田孝次郎氏、新刊鳶魚劇談五冊持参。(略)

(大正十五年)

五月二十六日(水)

池田孝次郎氏、写本解題の計画、(略)

六月十二日(土)

(略)◯池田孝次郎氏、写本解題を口授、同氏の都合にて二十日より引継筆受の筈。(略)

七月十四日(水)

(略)◯池田孝次郎氏写し物持参、文章往来西村豊吉と挈へ来る、来月中五枚ほど寄稿の筈。(略)

『鳶魚劇談』は春陽堂から大正14年9月発行。『文章往来』は大正15年1月に春陽堂から創刊された雑誌。この他、池田と島はしばしばセットで名前が出てくる。また、「「発禁本」三田村鳶魚『瓦版のはやり唄』をめぐる謎」で紹介したように、池田は三田村が春陽堂から出す『瓦版のはやり唄』について内務省と発禁に関する交渉中という情報を知っている。ただ、島は『日本古書通信昭和59年10月号の「出版屋(ママ)小僧思い出話(4)」では、

(略)三田村先生のお仲間というのか、知り合いの学者ではなく在野の研究者達が集まりまして、西鶴研究者達が集まりまして、西鶴輪講を始めていただいたんですが、その編集や速記のまとめ役を、池田孝次郎さんと柴田宵曲さんがやって下すったんです。(略)

と池田に言及しているが、社員だったとは書いていない。

以上、明確に春陽堂の社員だったのは、島と細田だが、斎藤も池田も春陽堂とは深い関係があったということで、春陽堂の関係者4人が探偵趣味の会の会員だったということになる。

追記:『伝記』昭和11年4月号から9月号まで(7月号は休載)連載された「伝記研究家一覧」をまとめた『二級河川』15号(金腐川宴游会、平成28年5月)のトム・リバーフィールド「雑誌『伝記』と「伝記研究家一覧」」に、池田は「東京市史編纂員」とある旨御教示いただきました。

*1:『三田村鳶魚全集』26巻(中央公論社昭和52年5月)

2017-03-07

[]情報官内山鋳之吉と戦時下の出版社整備

千代田図書館で開催中の企画展示「検閲官ーー戦前の出版検閲を担った人々の仕事と横顔」を観て、併せて講演も聴いてきました。講演は、村山龍氏(慶應義塾大学非常勤講師)による検閲官佐伯慎一(筆名・郁郎)に関するものと安野一之氏(NPO法人インテリジェンス研究所事務局長)による検閲官内山鋳之吉に関するもので、どちらも刺激的で有意義なものでした。昭和13年の「児童読物改善ニ関スル指示要綱」をまとめた佐伯については私も「児童読物改善ニ関スル指示要綱」で名前だけ言及して経歴は未調査でしたが、本講演により詩人としての経歴も含めよく分かりました。内山についても劇団員としての経歴も含め検閲官としての横顔がよくうかがえるものでした。なお、後者には上森子鉄も出てきて誰ぞがビックラチョでした。

さて、内山の略年譜によると昭和16年1月に情報局情報官となり、また、日本出版文化協会文化委員に就任している。そういえば、内山という情報官は田村敬男『荊冠80年』(あすなろ、昭和62年7月)に出てきてたなと思い出した。田村が日本出版会の企業整備委員に任命されるに当たり、内閣情報局に「田村は無政府共産主義者である」など田村の悪口が書かれた投書が26通も届いたという。当時の京都の出版社が25社なのに26通も投書が来たので田村は失意のどん底に突き落とされた思いになり、自分を人選からはずすよう要請した。ここで内山情報官が出てくる。

しかし担当の内山情報官は、「当方は独自の調査で、あなたを適任者として任命する事にしました。どうか気を落とさずに、京都における日本の出版のために働いて下さい。参考のために一通の投書をお渡しします。気を悪くなさらず頑張って下さい」と述べられて一通の投書をもらって帰った。帰りの満員の車中、痛む足をさすりながら僕は男泣きに泣いた。

その後、企業整備は、

(一)まず無理をしないこと。(二)気の合った者同志の結合体とすること。(三)出版方針がほぼ似通っていること。(四)資産評価を正しく納得出来るものとすること。(五)まず委員自らが襟を正し無私公平であること。

を信条として、出版文化協会関西支部職員*1と協力して一応の整備を完了した。

昭和17年7月1日現在の『職員録』(内閣印刷局)では情報局の内山内山鋳之吉だけで、18年7月1日現在の『職員録』でも情報局の内山内山鋳之吉*2だけなので、ここでの内山情報官は内山鋳之吉と思われる。検閲官としての内山についての研究は進みつつあるが、情報官としての内山、特に戦時下の企業整備との関係についても研究が進展してほしいものである。

なお、企業整備による京都の出版社の統廃合については、「『二級河川』16号の「戦時の企業整備により誕生した出版社一覧(附.被統合出版社名索引)が超便利」と「昭和18年における出版社の自主的統合」を参照されたい。

*1:田村敬男編『或る生きざまの軌跡ーー人の綴りしわが自叙伝ーー』(田村敬男、昭和58年9月3版)に「出版会時代の田村さん」を執筆した東博志氏と思われる。それによると、東氏は昭和16年5月に日本出版文化協会に採用され、17年から関西支部に勤めていた。臼井書房の臼井喜之介に紹介され、同年初春初めて田村と会ったという。なお、同書の年譜によると、田村は、同年日本出版文化協会評議員、18年日本出版会査定委員・評議員・理事・企業整備委員である。

*2:ただし、内田鋳之吉と誤植されている。

2017-02-24

武林無想庵渡仏を助けた京都初の洋画商三角堂の薄田晴彦

『洛味』(洛味社)も総目次が待たれる雑誌だが、289集(昭和51年10月)に島岡剣石「武林無想庵京都」を発見。島岡は詩人で、京見峠に歌碑がある。『京の文学碑めぐり』(京都新聞社、昭和56年12月)によると、島岡は明治40年天理市生まれ。姫路高、京大文学にとりつかれたという。「武林無想庵京都」によれば、日の出新聞(京都新聞の前身)で社会面の整理を担当していた時、社会部記者から、比叡山で無想庵が自炊しながらゾラの翻訳に悩んでいるのを発見したと報告してきたという。文豪の落泊の姿に心を動かされた島岡は無想庵の激励会を開催。無想庵はしばらく島岡の家に奇寓*1、ある時和歌を書いてくれた。

のたれ死ぬ 父とも知らず

イヴオンヌは 学校へゆく

イヴオンヌ哀れ

この和歌を読んで島岡は無想庵をパリにいる娘のイヴォンヌに会わせてあげたいと考え、河原町三条にあった京都初の洋画商三角堂の店主薄田晴彦に相談。薄田が人肌脱いでやろうということになり、無想庵は渡仏大阪へ向かう無想庵を見送ったのは島岡と蓮田だけだったという。

島岡は時期を明記しておらず、また、無想庵は何度か渡仏帰国を繰り返しているので、時期は特定しがたい。しかし、

・『むさうあん物語』別冊(無想庵の会、昭和37年7月)の柴浅茅「余白片々草」には、昭和12年初夏頃満洲の新京にいた柴の所へ大阪川田順から無想庵が行くからよろしくと手紙が来て、無想庵をもてなした際にほぼ同様の和歌*2を書いてもらったとあること

・島岡はその頃の無想庵は妻の文子と離婚沙汰があり、娘をフランスに残したまま帰国と書いているが、無想庵が文子から離婚を申し込まれて承諾したのは昭和10年10月であること

・島岡は無想庵が平凡社依頼のゾラの翻訳を引き受けたものの片方の眼が極度に衰弱して一向に仕事が進まなかったと書いているが、無想庵は昭和8年6月右眼緑内障の手術を受けたが成功せず、右眼が全く見えなくなっていたこと*3

から、昭和9年から昭和12年までの滞日中の話と推定しておく。ただし、山本夏彦『無想庵物語』(文藝春秋、平成元年10月)には「旅費はまたしても川田順が出してくれた」とあるので、旅費の一部か旅費以外の支援だったのかもしれない。

さて、この京都初の洋画商三角堂だが、瀬木慎一・桂木紫穂編著『日本美術の社会史』(里文出版、平成15年6月)の大河内菊雄「関西の洋画商(戦前)」に出てくる。それによると、明治43年11月三角屋(みかどや)として三条河原町西入で開店。後に三角堂と改名、戦争末期まで続いたという。創業者は薄田長彦(おさひこ)で、文久3年岡山東中山下生、大正14年没。店は長男晴彦(明治18年生、昭和57年没)にうけつがれたとあるので、無想庵を見送った時は数え53歳だということになる。大河内は「わが国で最初の本格的な洋画商はこの京都三角堂であるといえよう」と書いているが、そのような人だからこそ無想庵の渡仏を支援してくれたのだろう。

長彦の三男についても判明したことを記録しておこう。『日本美術工芸』397号、昭和46年10月の「二つの話題」に「三十七年ぶりにひらかれた個展」と題して、画壇ぎらいの画家薄田芳彦が京都府立文化芸術会館で開いた個展を紹介している。芳彦は、明治31年岡山市生まれで、三角堂の三男。小学校一年の時から京都に来て育ち、京都一中を経て京都市立絵画専門学校日本画を学ぶが、洋画の魅力に引かれ中退。上野の美校洋画部に入学二科展に出品したりしたが、一年で中退。野間仁根、伊藤廉らと童顔社をつくり、三年ほどグループ展で活動、帝展*4にも出品したが、昭和9年頃の個展を最後に表に出なくなったという。ググると、一昨年文化芸術会館で「孤高の洋画家 薄田芳彦遺作展」が開催されたようだ。これは見たかった。

名前は覚えたので、三角堂や薄田親子にはまた出会う機会がありそうだ。と、書いたそばから見つかった。倉敷市編著『倉敷市薄田泣菫書簡集文化人篇』(八木書店古書出版部、平成28年3月)所収の大正7年1月26日付け満谷国四郎書簡がそれである。

(略)

あの時話した大阪でやる個人展覧のことをだまつて居ても悪いから長彦(薄田)氏に一寸話したら一人で飲み込んで居た 処へ方友会の売画が好景気なので先生あせり立つて来月十日頃ニ増田氏を利用して大に展覧会をやるつもりで其の時には小生の考を利用するらしい口ふんで言ふて来た

(略)

注には「薄田長彦(一八六三〜一九二五)は関西の洋画商。岡山生まれで、明治四三年に京都三角堂(当時は三角屋)を開業する」とある。

また、グーグルブックスで見つけたが『劉生絵日記』3巻の大正13年4月22日の条に三角堂の若主人が出てくる。

無想庵物語

無想庵物語

*1:無想庵も明治39年から1年間京都新聞(現在の京都新聞とは無関係)の社員だったので島岡とは話が合ったかもれない。なお、「無想庵」は京都新聞時代に初めて使った雅号。

*2:「のたれ死ぬ父とは知らずいそいそと/学校へ通ふイヴォンヌ哀れ」とあり、微妙に異なる。

*3:以上の無想庵に関する事項は『むさうあん物語』別冊の「武林無想庵略歴」を参考にした。

*4:『文展・帝展・新文展・日展全出品目録』(日展、平成2年3月)によると、昭和3年の第9回帝展に「花さす娘」を、昭和8年の第14回帝展に「桃子」を出品。

2017-02-17

北方人』26号(北方文学研究会)が届く

盛厚三氏より『北方人』26号(2017年2月)を御恵投いただきました。いつもありがとうございます。

目次は、

創作/「鏡」のおんつあま 通雅彦

創作/理想郷チルワツナイ() 哀神シュナイダー

随想/色紙について 池内規行

評論/釧路湿原文学史(7) 盛厚三

書誌/装丁挿話(2) かわじもとたか

編集後記 K

表紙画・カット ホイッスラー・川地ポン

「色紙について」には、青山光二・長篠康一郎・山下肇・山岸外史・出隆・野長瀬正夫・大木実・真壁仁・坂村真民・船山馨・黒岩重吾藤本義一今西祐行が登場。池内氏が好きな詩人は野長瀬正夫、大木実、杉山平一の順だという。

釧路湿原文学史」は、昭和40年代へ。早舟ちよ・倉橋由美子加藤秀俊・後藤紀一・木山捷平開高健・福田蘭童・小松左京・吉田仁麿らが登場。

装丁挿話」は、甲斐荘楠音、杉浦非水、佐藤敬横尾忠則村上春樹篠原勝之、櫻井忠温、三浦勝治、三橋節子、山高登、朝倉摂、吉田貫三郎らが登場。拙ブログの「口笛文庫で横尾忠則人生初の装幀本『近畿文学作品集」を確保」にも言及していただいた。かわじさんは、『続・装丁家で探す本』を執筆中で、本稿はその一部とのこと。完成を期待しております。なお、九濃文庫(たつの市)の吉田純一氏が数年後に生誕100年記念の小沼丹展を開催するべく準備中との情報も記されている。

お知らせとして、「三上於菟吉顕彰会へのご案内」が掲載されていた。平成33年に生誕130年を迎える三上について、生誕地である埼玉県春日部市三上於菟吉顕彰会が誕生したとのこと。