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神保町系オタオタ日記

2016-07-24

[]伊藤隆先生がスメラ学塾に言及していた

グーグルブックスで発見したのだが、伊藤隆『昭和十年代史断章』(東京大学出版会、1981年9月)でスメラ学塾に言及していた。『矢部貞治日記』銀杏の巻から昭和16年9月1日の条の次の一節を引用している。

末次大将は、この二三日中に東亜建設同志会の会長を辞し、更に又大政翼賛会協力会議議長をも辞して自由になった。それは先般天川勇君の言ったゐた自己清算の一過程であらう、今一つスメラ学塾を清算しなければ、完全な清算ではあるまい

そして、「スメラ学塾」に注を付して、『昭和十六年中に於ける社会運動の状況』を引用している。同書の記載内容については、私も「スメラ学塾の機関紙「スメラ文庫」」で言及したことがある。伊藤先生がスメラ学塾についてもっと研究されていたら、私の出る幕などなかったであろう。

昭和十年代史断章 (歴史学選書)

昭和十年代史断章 (歴史学選書)

2016-07-22

小説家浜野健三郎の甘粕正彦研究

昨日言及した浜野は、小説家浜野健三郎でした。石川達三『私の周囲・生活の内外』(大和書房、1971年12月)の「後記」に、

もともと私自身はこんな本を出そうとは考えていなかったが、旧友浜野健三郎君と大和書房主とが計画して、相談に来られたので、ついその気になった。

とありました。

浜野は、小説家で『日本近代文学大事典』にも立項されているが、浜野編著の『あゝ満洲』(秋元書房1970年)掲載の略歴によれば、

明治44年栃木県に生まる。

大正12年一家をあげて大連へ移住。大連第二中学校を経て、早稲田大学文学部に学ぶ。昭和13年から17年夏まで、天津奉天で勤務生活を送る。

比島戦線に従軍、戦後文筆生活に入り、著書に『私版スサノオ紀』、『最後の谷』などがある。

石川の日記にあるとおり、満洲育ちであった。「芥川賞のすべてのようなもの」の「予選候補作家の群像」によると、『日本文學者』創刊号、昭和19年4月に発表した「梅白し」が第19回上期芥川賞予選候補になったようだ。

『あゝ満洲』では、甘粕正彦について若干言及していて、

その甘粕に興味を持ち出したのは、満洲のことを改めて調べはじめた数年前からである。彼の伝記を読み、関係者の話を聞く度に、私の関心は急激に彼に対して傾斜して行った。(略)しかし終戦直後の混乱の中で、自殺した甘粕正彦の葬列に多くの満人が「泣きながら」加わったという事実は何人も否定出来ないのである。そしてこの事実を原点として、私は改めて甘粕正彦の生涯を再検討して見る必要があるように思っている。

浜野は1995(平成7)年没。亡くなるまでに「再検討」の結果を発表できただろうか。

あゝ満洲

あゝ満洲

2016-07-21

甘粕正彦の秘書伊藤すま子と編集者浜野

石川達三『流れゆく日々機(新潮社昭和50年4月8刷)に甘粕正彦の元秘書で銀座ベレーのママという女性が出てくる。

(昭和四十五年)

十一月十九日(木)雨

(略)

浜野君雨の中を来訪。満洲育ちは雨がきらいだと言う。(略)私の随筆集出版の相談。

彼は終戦のとき満洲で自決した甘粕正彦の事蹟を慎重に調べている。ずいぶん人にも会い資料もそろえているらしいが、一向に書こうとしない。それは彼の慎重さであるらしいが、結果的には非能率的で、怠惰とも見られる。あまりにも完璧な仕事をしようと心懸けていると、結局何もしないことになってしまう。(略)

(昭和四十六年)

三月一日(月)曇

(略)

午後浜野君来訪。私の随筆集を出すことについての相談。また彼が資料を集めている甘粕正彦について、甘粕の身辺に居た人を紹介する約束をとりきめる。

(略)

夜七時、再び浜野君に会い、銀座裏の(ベレー)という小さな酒場へ行く。居酒屋風の気楽な店。そこの女主人は十六七のころ満洲で、四五年も甘粕氏の身辺の世話をしていた人。(とても良い小父さま)だと思っていた由。最後の朝も、毎日の習慣に従って彼女が茶を持って行くと、その茶で甘粕は服毒した。気がついて最初に飛びこんで行ったのが彼女と内田吐夢であった。(略)浜野君は改めて彼女からなまの資料を聞かせてもらう打合せをして、今日の紹介を終る。(略)

この女性だが、佐野眞一甘粕正彦 乱心の曠野』(新潮文庫、2010年10月)によると、伊藤すま子さんで昭和21年8月に内地に引き揚げ、31年にベレーを開店。平成16年に閉店するまで、内田はじめ満映OBのたまり場だったいう。

ところで、編集者の浜野は甘粕について調べていたようだが、結局日の目は見なかったのかな。

甘粕正彦 乱心の曠野 (新潮文庫)

甘粕正彦 乱心の曠野 (新潮文庫)

2016-07-18

壽岳文章邸「向日庵」を設計した澤島英太郎の生没年

壽岳文章(じゅがく・ぶんしょう)の邸宅「向日庵」を設計した澤島英太郎。昨年の講演会「近代住宅史から見た壽岳文章邸」(京都市文化財保護課技師石川祐一)で生没年不詳と聞いたが、『満州紳士録』(満蒙資料協会、昭和18年12月第4版)で生年がわかった。同書*1から経歴を要約すると、

明治37年9月京都市生、嘉兵衛長男。本籍地同市中京区堀川通六角下

昭和6年京大建築科卒、同大学院了

文部省宗務局保存課勤務、16年5月満洲国建築局技佐に転任。総務処、住政処各企画科附を経て18年5月現職(建築局第二工務処技正兼文教部嘱託)に就く。

茶室等に関する著作あり。

趣味:読書、旅行、乗馬

家族:妻よ志、長男哲郎、外三男一女

住所:新京安民区洪熙街第七官舎

講演会では引揚げの途中に亡くなったと聞いたが、家族は日本に戻れただろうか。

*1:『日本人物情報大系』15で復刻。

2016-07-15

[]『国史研究室通信』26号(終刊号?)(京都帝国大学文学部国史研究室、昭和17年2月)に吉田三郎が

これまた、三密堂の100円均一台で拾った3冊の『国史研究室通信』のうちの1冊。非売品、35頁。さすがに南部や西部の古書会館でもこれは落ちてないだろう。

本誌は、昭和6年12月創刊で11年に休刊、15年7月に再興して24号を発行。京大文学研究科図書館が創刊号から26号までを所蔵。本号に記載はないが、おそらく最終号だろう。目次は、

世界史の転換 西田直二郎

宮中の御祭祀 高木正順

神都雑記 安斎二郎

台北だより 中村喜代三

恩師級友を迎ふるの記 鈴木譲

大阪国史学会の近況 有働賢造

随感断片 田中稔

亀井伸明氏の逝去を悼む

亀井君のことども 平山敏治郎

亀井伸明兄を憶ふ 千道雄

研究室通信

会員動静

昭和十六年卒業生氏名

昭和十七年度卒業論文題目

新入大学院学生研究題目

国史新専攻学生氏名

研究室職員移動

昭和十六年以降新上架書目

昭和十六年以降新上架古文書影写本目録

編輯後記

鈴木譲「恩師級友を迎ふるの記」には「国民精神文化研究所所員吉田三郎の謎」などで紹介したスメラ学塾の一員だった吉田三郎が出てくるので、引用すると、

(昭和十六年)

三月三十日(日)

朝井小太郎君と共に、同級生吉田三郎君を基隆に迎へる。吉田君は文部省国民精神文化研究所々員で、台北で西田先生と落ち合ひ、厦門の興亜院文化部の講習会に赴かれる予定である。

吉田朝井私三人とも昭和六年、史学科出身、吉田君と私は国史専攻だが、朝井君は地理専攻、更に三ヶ年を京都農学部に学び、文学農学士の篤学の士、昭和九年より十四年まで私と同様台北商業に奉職、目下台北農事試験場蔬菜部の主任をしてゐる。(略)それより三人で町端れの矢野先生宅を訪問。旧懐談に花を咲せつゝ、総督府台北大学よりの講演の依頼をも断つてゐられた先生に陥落を願つて、三人して意気揚々引き上げたのは正に真夜中の零時、バス既に無し。

「西田先生」は西田直二郎。「矢野先生」は矢野峰人だろう。昆野伸幸氏によると、吉田は18年南方に応召され戦死したという。

2016-07-14

『記念俚謡会宿題地巻:東京俚謡会創始三周年記念兼深澤銀扇先生謝恩』(東京俚謡会、昭和10年9月)

臨川書店のバーゲンで100円だったか。表紙に「左右先生選」、見返しには

宿題『三、週(周)、年、記、念、深、澤、銀、扇』

総数 七百七十七章

選抜章数 二十八章

天。地。人。五客。秀逸二十章

軸吟 一章

右に依り御選抜の程希上候

扱所 東京市麻布区飯倉片町七(名倉方)

「左右」は手書きで読めなかったのだが、twitterで話題にしたら御教示いただいた。本書は、選抜を依頼された左右先生が、選抜に使ったようで、選んだ作品に書き込みがあった。「東京俚謡会」とはナンダロウと思って買ってみたのだが、結局わからなかった。「俚謡」とは、ここでは都々逸のことのようで、左右先生が選んだ天地人の作品は、

天 戀の花櫛吉三の膝に落ちて深める寺の秋

銀杏返に結ひ戻されて秋を淋しく流し三味

人 男三十前や氣まぐれ砧力餘れど上調子

本書には「秋田大学附属図書館蔵書印」が押されている。秋田大学昭和24年設立なので、昭和10年の東京都々逸の本を収蔵するというのは、寄贈を受けたのか、図書館設置に当たり、古本屋に何でもいいから本を集めてくれと頼んだのかと想像している。

2016-07-13

[][]宮田昌明『西田天香』(ミネルヴァ書房)に日ユ同祖論

山科にある一燈園の西田天香については、『天華香洞録』に村井弦斎のタラコン湯が出てくることを紹介したことがある*1。しかし、西田そのものについては、真っ当すぎて面白くなさそうだと思って、伝記を読んだりはしてこなかった。今回、ミネルヴァ日本評伝選を読んで見たら、おっと驚く記述があった。

(大正三年)八月二十一日から翌二十二日にかけての天香の日記に、京都太秦と鹿ヶ谷とを対置し、太秦を「聖井保存」「世界大戦乱戦死者献水供養塔」として、鹿ヶ谷を「聖火保存」「世界大戦乱戦死者献火供養塔」として位置づける記述がある。聖井は、イスラエル井戸に通じると同時に、太秦の由来から聖徳太子にも通じ、俗諦門に当たるとされた。ここで太秦イスラエルに通ずるとされているのは、明治四十一年に発表された佐伯好郎「太秦(禹豆麻佐)を論ず」という論文に由来している。この論文は、その結末部分で、古代日本の渡来人たる秦氏ユダヤ人と比定し、秦氏の居住地太秦村に掘られた「いさら井」(伊佐良井)と称する井戸は「イスラエルの井」に由来すると主調していた。天香が佐伯の論文を直接参照したかどうかは不明であるが、天香としては、世の東西を結ぶこの学説に奇縁を感じたのであろう。

日記は公刊されていないので、原文の記述を確認できないのが残念だが、いさら井に言及しているのなら面白い。この他、西田の多彩な人脈の中に、足利浄円、今岡信一良、内山完造、江口定条、岡田虎二郎、尾崎放哉河井寛次郎木村毅倉田百三ヘレン・ケラーゴルドン夫人、谷口雅春綱島梁川村上華岳らが出てきて興味深い。ゴルドン夫人は、大正2年10月鹿ヶ谷に一燈園が落成した時の献堂式に参加したというので、西田に佐伯論文を教えたのはゴルドン夫人だったかもしれない。なお、大正10年8月に春秋社の木村が一燈園を訪問した時、一番奥の部屋に「お光」と仏陀基督マホメットを合わせて祭ってあったという。神智学が出てきても良さそうだが、本書には特に出てこなかった。

西田は戦後参議院議員に当選、国立国会図書館運営委員会委員長を務めたこともあったという。また、昭和29年11月、ハンガリーの宗教哲学者フェリック・ヴァーイーが国会図書館の徳沢龍潭とともに来訪している。徳沢とは何者だす( ・◇・)?と思って、ググったらヒットした。これまた、オモシロ図書館員ぢゃ。

ちこたんちこたん 2016/07/24 10:26  紀元前の日本には、イスラエルから古代アメリカに移住しマヤ文明などを築いていた民がアメリカから渡来して移住しました。
   
 その後、紀元前に秦からユダヤ教徒の徐福たちが集団で西日本に渡来してました。
 邪馬台国の文字は、当時の中国人が付けた文字で発音でいえば「ヤマト国」です。
 「ヤ」はヘブル語の「ヤハウェ(エホバ)」の短縮形で「ゥマット」は人民の意味があります。
 したがって「ヤマト」とは「ヤハウェの民」です。
 
 その後、紀元後の3世紀末、朝鮮半島を経由して、原始キリスト教徒集団が渡来しました。
 初代天皇陛下は、原始キリスト教徒集団の長です。
 日本には、契約の箱、十戒石板、マナの壺、アロンの杖、聖十字架、罪状板、荊の冠などの物証も持ち込まれ、ある目的のために極秘裏に保管されています。
  
 イエス・キリストは、仏教の観音菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩であり、神道の高御産巣日神、豊受大神、天照大神です。
  
 漢字は、中国から日本に渡来した徐福たちユダヤ教徒が作った文字で、後に日本に渡来したユダヤ教からキリスト教に移行したイスラエル10部族と、エルサレムから10部族に伝道するために東に移動した原始キリスト教徒たちが作りました。
 だからこそ、漢字に聖書の故事が含まれています。
  
 あなたの知らない驚きの極秘情報があります。
  
 日本人のルーツと神道、仏教の真実
 http://blog.livedoor.jp/hideki4612/archives/1025769358.html
    
 天照大神の正体
 http://blog.livedoor.jp/hideki4612/archives/1058533143.html