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神保町系オタオタ日記

2017-10-05

京都まちなか古本市で『ウスヰ書報』第3輯(ウスヰ書房)を発見

京都古書会館で開催された京都まちなか古本市では色々拾えたが、そのうちの一冊。『ウスヰ書報』第3輯(ウスヰ書房、昭和15年1月)、7頁非売品。吉岡書店出品千円。500円位で拾いたいところだが、二度と出会えない可能性が高いので確保。残しておいたら、林哲夫氏かゆずぽん氏が買ったかもしれない。奥付に8千部とあるので沢山残っていそうなものだが、必ずしも発行部数が多ければ保存される確率が高くなるわけではない。非売品の小冊子のPR誌なのでこれ単独で古書市場に出回るのは稀で、ウスヰ書房(後に臼井書房)の出版物に挟み込まれた物が残って出回るぐらいだろう。実際、ゆずぽん氏が同題の新刊案内(昭和17年1月)を所持しているが、詩集に挟み込まれていたものだという。

さて今回入手した『ウスヰ書報』の内容は新刊案内だけではなく、潁原退蔵「歌枕」のほか「学生層の読みもの」(ウスヰ書房調)、「ウスヰ書房へおくる言葉」が掲載されている。後者の執筆者は、佐成謙太郎(女子学習院教授)、斎藤清衛(文学博士)、伊東静雄(コギト)。ウスヰ書房の創業昭和13年10月だが、「後記」には「今や一週[ママ]年、漸く在庫品も、文藝・法経・理科・工科と各科充実す、加ふるに店舗としての体制もととのひました」とある。

『潁原退蔵著作集』別巻(中央公論社昭和59年3月)の「年譜」をみると、昭和13年12月の欄に「ウスヰ書房へ望む(ウスヰ書報)注:アンケート回答」とあるので、おそらく同月発行分が創刊号であろう。終刊号は不明。

面白いのは、表紙に「ウスヰ書報」とあり、裏表紙は「タシロ写報」のタイトルと子供の写真、「農大運動場裏 田代写真場」とあることである。本冊子は、「ウスヰ書報」と「タシロ写報」の合同のPR誌らしい。5頁までは専らウスヰ書房関係の記事だが、6頁の上段は「ウスヰ書房特別取扱書籍」、中・下段は「自讃他讃」として田代晃二「ウスヰ書房におくる」と臼井喜之助「田代写真場におくる」が掲載されている。7頁は田代の「素人写真・玄人写真」と奥付*1のほか、田代晃二写真場の営業種目が掲載されている。臼井の文章には田代について、「京大地球物理を学んでゐた田代君がいまでは、アトリエ帽をあみだに被つて、素人写真・玄人写真を云々し」とある。この田代、どうも見覚えがあると思ったら「植物学者田代善太郎、霊動をなし得たり」などで利用した『田代善太郎日記』の編者田代晃二と同一人物だった。同書の「編者略歴」によれば、

明治42年 長崎市生、善太郎二男

45年 善太郎の転任で鹿児島県加治木町

大正14年 善太郎の京都大学理学部嘱託就任で京都へ移り、京都府立第二中学校に転入学第三高等学校理科へ進学。

昭和6年 京都大学理学部物理学科へ入学したが、中途退学、東京女学校教師、雑誌編集、写真研究などに携わる。

昭和18年 NHKに入社

40年 定年退職

41年 華頂短期大学教授、甲南女子大学講師

京大中退後上京するまでに、田代写真場を経営し、臼井と合同冊子を発行していたことになる。植物学者田代善太郎の二男と臼井喜之助が繋がってくるとは想像を絶する事態だ。

*1:編輯兼発行者臼井喜之助、発行所ウスヰ書房

2017-10-03

近藤計三の詩誌『狙撃兵』をめぐる足立巻一のやちまた

ツイン21で大阪市の近藤計三方狙撃兵グループ宛足立健一の葉書を購入。高山文庫の出品。消印は昭和34年1月3日付け。文面は、

・『狙撃兵』送付のお礼

・旅行がちのため会に出席できないことへのお詫び

・森上の詩と近藤のエッセイへの感想

・自分の詩を書いていきたいという思い

『人の世やちまた』(編集工房ノア昭和60年10月)の「足立巻一略年譜」でこの前後の足立を見ると、

昭和21年

12月 新大阪新聞入社

22年 新大阪新聞「働く人の詩」欄の事務を担当、2月に詩誌『働く人の詩』(2号のみ)を編集。清水正一・中川信夫・森上多郎・中村泰・高島健一らを知る。

31

6月30日 新大阪新聞社退社。以後『週刊新潮』に関西関係の記事を送る。

11月 月刊誌『トラベルグラフ』(大阪駅構内鉄道弘報社)の嘱託記者となり、以後全国を旅行する機会を得、同誌に多数の紀行文を掲載(昭和41年まで)

32年

4月 日本宣伝株式会社企画嘱託となる(昭和44年12月まで)。月刊誌『ひらけゆく電気』(関西電力)の編集嘱託となり、翌月から毎月おもに近畿北陸の紀行地誌を連載(昭和54年3月まで)

33年

8月 きだみのる紀行『どぶねずみ漂流記』(15分番組、18回分)の構成を担当し、しばらくきだと行動を共にし、多大の影響を受ける。

10月 第一詩集『夕刊流星号』(六月社)刊。詩誌『天秤」(第二次)第一号出る。

34年

5月 母マサヨ死去

また、前掲書の「光陰抄」には、「旅行雑誌・PR雑誌の編集を引き受けてほぼ全国を取材旅行し、週刊誌に記事を送り、放送番組の構成を請け負い、宣伝会社の嘱託をし、まったく寸暇もなく働きとおした」とある時期である。葉書の文面にあるように、確かに「旅行がち」だったようだ。

『狙撃兵』という詩誌については、志賀英夫編『戦後詩誌の系譜』(詩画工房、平成20年12月)によると、

狙撃兵 大阪 (昭和31年)2月創刊

編集発行者 近藤計三

発行所 グループ狙撃兵

所蔵 井谷資料館

同人 藤本道男、森上多郎、近藤計三

葉書の文面中の「森上」は森上多郎と確認でき、年譜により足立新大阪新聞の「働く人の詩」欄を担当していた関係で森上と知り合ったことがわかる。この森上の経歴は、『新日本文学』52巻5号(平成9年6月)の芝充世「追悼森上多郎」で判明。

昭和21年京阪神急行電鉄(後に阪急電鉄)入社

1940年代後半から1950年代にかけて夕刊新大阪の「働く人の詩」欄に投稿を重ねた(選者は、梅木三郎(黒崎貞治郎)、足立、須藤和光小野十三郎竹中郁安西冬衛)。

阪急電鉄労組の専従者となり、昭和52年から55年まで本部執行委員長

退職後、阪急学園池田文庫で展示・企画を行い、59年寺島珠雄構成による「小野十三郎展」を開催

芝は近藤についても言及し、「新日大阪支部、<狙撃兵><叛><解氷期>を共有し、長い友情で結ばれた近藤計三」と書いていて、近藤と森上が特別に親しかったことがわかる。

肝心の近藤の経歴だが、よくわからない。太田登・近藤計三・玉井敬之・福地邦樹『現代詩 作品と資料』(桜楓社、平成元年1月)に、昭和5年大阪生れ、関西大学卒業、現在金蘭短期大学とあるぐらいである。金蘭短期大学の先生かと思って、当時の『全国短大高専職員録』を見ても記載されていない。非常勤講師だったのかもしれない。

なお、近藤の旧蔵書が文庫櫂に出たようで、そのうち小野の近藤宛署名入りの『定本小野十三郎詩集』は「ゆずぽん」氏の手に渡ったらしい。

戦後詩誌の系譜

戦後詩誌の系譜

現代詩―作品と資料

現代詩―作品と資料

2017-09-20

[]俳人野田別天楼宛多田莎平の葉書を拾う

天神さんで拾った野田別天楼(武庫郡御影報徳商業学校)宛の多田莎平(尼崎市営住宅)の絵葉書。野田が学校の先生らしいことと名前が面白いので買ってみた。報徳商業学校は西宮にある報徳学園高等学校の前身。消印は年不明だが、8月25日。「郵便はかき」で仕切線は2分の1、切手は田沢切手の1銭5厘。写真のキャプションは、「(赤穂三崎名所)社頭ノ奇岩ト唐船島ノ遠望 (不許複製)翠浦堂蔵版」。

野田は未知の人物だったが、『岡山県歴史人物事典』(山陽新聞社平成6年10月)によると、

野田別天楼 俳人・教育者

明治2年5月24日 岡山県邑久郡磯上村生、本名要吉

俳句明治22年頃から始め、子規は「明治29年俳句界」で別天楼の作品を秀整と評した。

大正9年 第一句集『雁来紅』上梓

大正11年 報徳商業学校*1校長

昭和5年俳人真蹟全集』「談林時代」を担当、俳文学者としての活躍も注目された。

昭和19年9月26日 六甲山麓の自宅で没、享年76

岡山県出身だが、兵庫県で活躍した俳人のようだ。また、『報徳学園五十年小史』(報徳学園昭和36年10月)の「学校沿革」によれば、

大正11年12月 三代目校長野田要吉(別天楼)就任

13年3月 私立報徳商業学校と改称

昭和7年3月 校長辞任

同年4月 学校は神戸市灘区青谷町に移転

これからいくと、この葉書は大正13年3月から昭和6年8月までに投函された葉書と推測できる。

一方、多田の方は住友陽文「知識人と娯楽ーー多田莎平と萱野三平顕彰運動ーー」『地域史研究』21巻2号(尼崎市立地域研究史料館、平成4年2月)によると、

明治22年 兵庫県揖保郡龍野町東本願寺派円光寺多田実了の長男として生まれる。

赤穂尋常小学校卒業後、龍野高等小学校龍野中学校へ進学。中学校を中退後、尾崎行雄を会長とする大日本国民中学校(通信教育)に入学

尋常小学校や実業補習学校の訓導を務め、一旦民間会社に就職するが、尼崎市で教壇に復帰。尼崎第二尋常小学校などで教鞭を執りながら、俳句創作に一層熱意を燃やす。昭和初期に『ちゝり』『コスモス』『二つの竹』の句誌を創刊。教壇を降りた後尼崎市図書館長。

尼崎市図書館長の件については、『50年のあゆみーー年表と統計ーー』(尼崎市図書館昭和46年3月)を見ると、本名の多田喜久二で昭和9年4月から12年2月まで館長事務取扱として出ていた。在任中の出来事としては、11年9月に館員の親睦機関として尚和会が設立されている。俳人実は図書館長だったわけだが、短期間地方の図書館長を務めたぐらいでは新刊の『図書館人物事典』(日外アソシエーツ)には出てこんだろうなあ。『初暦:多田莎平遺句集』(多田文子、平成4年)などを見れば、多田のより詳しい経歴がわかるかもしれない。

葉書の文面は、全部は判読できず、久方ぶりに赤穂を訪問したこと、江山社で野田の講話を聞いたこと、神戸の放光庵で野田の講話を聞こうと思って行ったが来会せず残念だったことなどが書かれているようだ。なお、野田宛葉書は他に4枚入手している。

俳人ということで、余りわし向きのネタは出て来なかったが、『南木芳太郎日記三ーー大阪郷土研究の先覚者ーー』(大阪市史料調査会、平成26年8月)を読んでると驚いた。

(昭和十二年)

一月十一日

(略)三時十五分前、多田莎平氏に遇ふ。別天楼・虚明・来布君等に逢ふ。多田氏と一緒にて車中にて、三平の原稿に就て語合ひ天下茶屋にて別かれる。(略)

(昭和十三年)

六月二十七日

(略)

野田別天楼氏及多田莎平氏にも手紙認める。

(略)

三平の原稿」とは、南木が編輯兼発行人を務めた『上方』75号(創元社昭和12年3月)に載った多田の「「萱野三平」を一読して」の原稿と思われる。わしが興味を持つ人物はみんな繋がって来るなあ。

*1:正しくは、当時は報徳実業学校

2017-09-09

希望社表誠館の写真

「希望社表誠館」とある葉書大の写真を頂きました。ありがとうございます。裏面には何の記載もないので、絵葉書ではなく、落成記念か何かに配った物だろうか。近代女性文化史研究会『大正期の女性雑誌』(大空社、平成8年8月)の村上雍子「大正期における社会教育の一形態ーー後藤静香と希望社ーー」によると、希望社は大正9年社屋を求めて東京府下西大久保へ引っ越し、10年表誠館落成、11年印刷部設立、12年本館落成、13年日本印刷学校、勤労女学校設立昭和5年大希望館落成。大正10年以降に配られた物ということになる。

希望社については、「勤労女学校や印刷学校も設立した希望社の後藤静香」や「後藤静香が創設した希望社の社会教化事業要目(大正14年1月現在)」で紹介したが、「版画堂」のホームページの「近代版画家名鑑(1900-1945)」の「16な行(後半)」中「中丸忠雄(なかまる・ただお)*1」で拙ブログが参照されていた。

大正期の女性雑誌

大正期の女性雑誌

*1:名鑑によると、『日本印刷学校創作版画作品集』2輯(日本印刷学校版画研究会、昭和7年3月)に<エキス・リブリス>を発表した人らしい。

2017-09-07

[]帝国図書館の癪に障る下足番

「「図書館文学」傑作撰」と帯にある日比嘉高編『図書館情調』(皎星社、平成29年6月)に菊池寛の「出世」『新潮』32巻1号、大正9年1月が収録されている。上野の図書館(帝国図書館のこと)を久し振りに訪問し、そこにいた二人の下足番を回想する小説である。

二人は恐ろしく無口であった。下足を預ける閲覧者に対しても、殆ど口を利かなかった。(略)

二人はまた極端に、利己的であるように、譲吉には思われた。二人は、入場者を一人隔きに引き受けて居るようであった。(略)彼等は、下足の仕事を正確に二等分して、各自の配分の外は、少しでも他人の仕事をすることを拒んだ。(略)毎日々々他人の下駄をいじると云う、単調な生活を繰り返して行ったならば、何んな人間でも、あの二人の爺のように、意地悪に無口に、利己的になるのは当然なことだと思った。何時まで、あんな仕事をして居るのだろう。恐らく死ぬまで続くに違いない。

上記の他、「出世」では、主人公の譲吉が汚い草履を履いて行くと、下足札をくれないので喧嘩をしたエピソードも書かれている。

菊池の「半自叙伝」を見ると、明治41年上京した翌日に上野図書館へ行ったとか、明治大学を退学してから、昼間は上野図書館大橋図書館へ毎日通ったことが書かれている。だから、菊池が「出世」に書いた下足番はある程度事実に即したものだろうと思っていた。それが、荻原井泉水『井泉水日記青春篇』下巻(筑摩書房平成15年12月)を読んでいたらある程度裏付けられた。

(明治三六年)五月二一日 木 雨

(略)帝国図書館ニ逃ゲ行キテ読ミ且ツ調ベタリ。下足ノ老爺ハイツモイツモ癪ニサハル奴ニテ出納係ノ河合トイフ男トハ一寸喧嘩ヲシタリ。小人等ハ困ツタモノナリ[。]図書館ニ傭ハレテ勅任官ニデモナツタツモリデ牛耳ルノガアキレカヘル到リナリ。(略)

下足の爺さんはいつも癪に障る奴だったらしい。ただ、菊池の小説では、「譲吉が高等学校に居た頃から、あの暗い地下室に頑張って居る爺」とあり、菊池の第一高等学校入学明治43年なので、必ずしも同一人物とは限らない。しかし、井泉水の日記により、帝国図書館の下足番の横柄な態度が裏付けられるようだ。

菊池の「出世」では、閲覧券売場の係員に「出世」した元下足番と再会して、物語は終わる。この下足番という仕事だが、「帝国図書館に土足で入館できるようになった年」で紹介したように、昭和7年には土足で入館できるようになったので、その頃も閲覧者の癪に障っていたかもしれない下足番もお役御免になったわけである。

図書館情調 (シリーズ紙礫9)

図書館情調 (シリーズ紙礫9)

2017-09-05

[][]日本喫茶店史の重要史料『井泉水日記青春篇』(筑摩書房)

グーグルブックスで「帝国図書館 満員」を検索して見つけた『井泉水日記青春篇』上下巻(筑摩書房平成15年11・12月)。まだ上巻しか読んでいないが、久しぶりにゾクゾクするような日記だった。次のような点が色々使えそうな日記である。

・話には聞いていた戦前のインテリ青年の美少年志向が赤裸々に記録されている。

個人の書棚や本箱に関する記述がある。これについては、書物蔵氏が『文献継承』(金沢文圃閣)で本日記も使って日本の近代本棚史を書くらしい。

・書店で雑誌の新刊を買っているので、発売日(又はそれに近い日)が確認できる。

明治34年9月数え18歳で第一高等学校に入る前から、新橋駅前のコーヒー店や銀座の竹川ビアホールなどに出入りしていたが、一高入学後頻繁にコーヒー店やミルクホールに出入りし、店名や飲食物について記載している。女給を置いた本格的なカフェー登場以前の明治30年代の喫茶店については、あまり記録がないと思われるので、貴重な史料である。斎藤光先生や林哲夫氏も時間があれば読んでみてほしい。幾つか引用しておこう。

(明治三五年)一〇月二二日 水 晴

(略)七時半遂ニ門ヲ出デ本郷カフヱーニ到リ、ビステキ、紅茶、コヒー、ケーキ二三ヲ食ヒテ八時余カヘレリ。(略)

やあ、日本で初めてカフェーを名乗った*1本郷カフェーが出てきましたね。寺田寅彦もここを使った*2が、寺田と同時期に井泉水も使っていたことになる。もう一つ別のカフェーが出てきたのにはたまげた。

(明治三五年)一〇月二四日 金 曇

(略)寮ヲ出ヅ。新設新井コヒー店ニ到リ、カフェートヲムレツケーキトヲ食フ。ヲムレツケーキナルモノヽ獰猛ナルニハ驚キタリ。(略)

一一月一七日 月 晴

(略)新井カフヱーニヨリ、チョコレートニ菓子ナド食ヒテカヘル。(略)

正式名称が「新井コヒー店」か「新井カフヱー」かはっきりしないが、本郷カフェーと同時期にカフェーを名乗っている店があったとすれば驚くべき事実だ。本郷カフェーを真似したものか、はたまた本郷カフェーより先行してカフェーを名乗っていたか。

もう一つ。

(明治三五年)一一月一日 土 雨

(略)四時半ヨリ寮ヲ出デ淀見軒ヲ訪フ。今夜ハ該店ガ開店一周年ノ祝タル開業式ナリトテ、内ニ菊花ナド飾付ケ景気ヲ添ヘタリ。ビステキ、タルガキ、コヒー、ケーキナド食ヒコゝヲ出ヅ。景品ヲクレタリ。

淀見軒は、林氏の『喫茶店の時代』(編集工房ノア平成14年2月)に明治34年相馬愛蔵東大前コーヒー店を計画した時、青木堂が既に存在した上に、淀見軒が出店したため、代わりにパン屋を開店したとして出てくるミルクホール。これにより、確かに34年創業と確認できる。

井泉水が最もよく利用したのが長仙堂*3で、次に梅月。その他、新規開店の「戸上コヒー店」(明治34年10月23日)、同じく新規開店の「コヒー店ヲーアシス」(同年12月7日)、「パラダイス」(同日)、青木堂(35年2月4日)、店名と思われるが「obst(ヲブスト)」(同年6月2日など)、「セコンドパラダイス」(同年11月18日)も出てくる。『第二回東京市統計年表』(東京市役所庶務課、明治37年10月)によると、35年12月31日現在の本郷区内の「喫茶店」は2軒のみ。井泉水が行った本郷の一高周辺のコーヒー店がすべて本郷区内とは限らないが、どうも斎藤先生が論文「ジャンル「カフェー」の成立と普及(1)」『京都精華大学研究紀要』39号で推測していたように同年表の「喫茶店」は遊楽地での茶屋・茶店的なものに限定されていたことがうかがわれる。

なお、井泉水は日記の35年11月11日の条によれば、岡野知十の『半面』2巻1号に「コーヒー店」を寄稿したり、同月29日の条によれば、寮の部屋の『漫録』に「近キコヒー店ノ類十余種ノ評判記」を書いているようだ。

戦前の喫茶店・カフェーを調べる場合、林氏の前掲書の店名索引を参考にさせていただくが、網羅的なものではない。誰か『日本喫茶店大事典』を作らないかね。

*1:「カフェー発祥の地としての本郷(その2)」参照

*2:「寺田寅彦と謎の本郷カフエー」参照。

*3コーヒーの他牛乳を飲んだり、新聞・雑誌を読んだりしているのでミルクホールか。

2017-09-01

日蓮上人研究会旧蔵の『妙宗』7編7号(師子王文庫、明治37年9月)

最近行ってないが、去年尚学堂で上記を掘り出した。500円。明治期発行の雑誌で、主筆が田中智學、蔵書印も面白そうなので買ってみた。肝心の蔵書印だが、「日蓮□□研究會之印」としか読めなかったが、twitterで御教示を得て、「日蓮上人研究會之印」と判明。答えを聞くと、「なーんだ」ということになるが、自力で印文を解読するのは難しいものである。ありがとうございました。なお、この印のほか、「田中」「□書」という印も押されている。

日蓮上人研究会」は、グーグルブックスで、大谷栄一『近代日本の日蓮主義運動』(法蔵館平成13年2月)がヒット。これによると、明治34年田中により創唱された「日蓮主義」は、42年の本多日生の天晴会(1月)と立正安国会機関誌日蓮主義』の創刊(5月)を契機として、1910年代(明治末年)以降普及していった。そして、山川智応は『日蓮主義』創刊号の「日蓮主義研究の現況一班(一)」で、村上浪六の小説『日蓮』(明治41年)などの著作京都府医学専門学校日蓮上人研究会、京都府商業高校日蓮上人研究会、岡山高等学校日蓮上人研究会、早稲田大学内日蓮主義研究会、松山養生会、天晴会などの諸団体の活動を紹介しているという。『妙宗』の旧蔵者である日蓮上人研究会が、京都府医学専門学校内の研究会か*1京都府商業高校の研究会か、はたまた全然別の研究会か特定するのは困難だ。しかし、面白いのは研究会の蔵書印という点だ。印影数3万2千を誇る「蔵書印データベース」で検索しても、印文に「研究会」を含むものは皆無のようで、今後同種の蔵書印に出会う機会があるかどうか。

近代日本の日蓮主義運動

近代日本の日蓮主義運動

*1:本号の「安心通話」に京都医学専門学校の楽外生の「如何に致候はゞ日蓮上人門下の學生としての本領を盡され可申哉」との質問に対する担当記者の回答が掲載されている。